ますが、中世(鎌倉時代~戦国時代) の史跡が多く残されていることも大 変貴重で、その代表的なものが「鎌 倉街道」ですと答えています。 鎌倉街道の成立 鎌倉街道は、鎌倉から関東諸国へ 少ない芳賀軍が破れ、宇都宮へ退い ていきました。今はその様子をうか じゅっしゃ がい知ることはできませんが、大類 かないしんざえもん 地区の十社神社はこのとき戦死した 金井新左衛門ほか9士の霊が祭神と 年(1813)にはこの合 伝えられています。また、江戸時代 ぶんか 通じる主要道で、鎌倉幕府が御家人 いたと思われます。そこでは多くの る人びとの宿泊など、需要に応えて の間、激しい合戦について語り継が 碑も建てられています。500年も 戦の戦死者を供養する千手観音の石 の文化 たちを鎌倉へ参集させる軍事的かつ 人が集まることから物品の流通も盛 ご け に ん 政治的道路として整備したもので 年 れていたことがうかがわれます。 とこなめ えいきょう 苦林野合戦の後にも永享 ひょうごのすけ す。当時は河川 わかっていま があったことが い ま し た が、 毛 呂 山 に も「 苦 林 宿 」 鎌倉街道の要所には宿が存在して 郡域を支配していた豪族で、同じ下 芳 賀 氏 は 栃 木 県真 岡 市 を 中 心 に 芳 賀 『 太 平 記 』 で も 語 ら れ て い ま す が、 げ ま し た。 南 北 朝 時 代 の 戦 史 物 語 と足利基氏の軍勢が合戦を繰り広 ( 1 3 6 3)、 下 野 の 豪 族 芳 賀 禅 可 部一帯で南北朝時代の貞治2年 が良好に残されているところはあり していますが、毛呂山ほど鎌倉街道 歴史ある場所は何かその面影を残 た。 周辺は合戦の舞台とされてきまし 宿に陣を張るなど毛呂山の鎌倉街道 越 城 攻 略 の た め 矢 野兵 庫 助 ら が 苦 林 ごえ 性 順 が、 文 明 9 年( 1 4 7 7)、 河 かわ (1440)、結城合戦の際には上杉 んだったようで、遠く愛知県常滑産 にがばやしの 合戦の地となった苦林野 現在の大類グラウンドの北東 に橋がかけられ ません。この貴重な歴史ある遺産を ていなかったた 野 出 身 の 室 町 幕 府 初 代 将 軍 足 利尊 氏 町の宝としてこれからも守っていき 街道沿いに宿があった かみつみち す。 毛 呂 山 町 を 通 る 鎌 倉 街 道 は 群 おっ ぺ が わ め、川を越える に付き従いました。しかし、2代将 たいものです。 じょうじ のに何日も足止 軍義詮の弟である基氏が突然、尊氏 い めされることも の反勢力であった上杉憲顕を登用 たいへいき よしあきら もおか たかうじ え ち ご のくに のりあき が ぜんか あり、そのため し、 芳 賀 氏 の 官 職 で あ る 越 後 国 守 か から大軍を率いて北上し、苦林野で と は 越 辺 川 の渡 河 地 護職までをも与えてしまいます。そ しもつけ そして出雲伊波比神社のやぶさめ祭 点 に「 苦 林 宿 」 のため芳賀氏は、鎌倉へ向う憲顕の 木漏れ日の鎌倉街道 にがばやしじゅく りなど、様ざまな文化財があげられ が 成 立( 現 在 知った基氏が芳賀氏討伐のため鎌倉 襲 撃 を た く ら み ま し た が、 こ れ を 特別支援学校辺 合戦となったのです。結局、軍勢の 文化10年(1813)の供養塔 あしかが もとうじ の大類グラウン わ 12 ド・県立毛呂山 いずも い や 越 辺 川 沿 い に 古 墳 群 が あ る こ と、 文時代の遺跡が見つかっていること 毛呂山町の歴史的な特徴にはどん 10 の陶器なども発掘されました。 おおがめ 馬 県 藤 岡 方 面 に 向 う 道 で、 当 時 は た常滑産の大甕 なものがあるかよくきかれます。そ 鎌倉街道とその歴史 「上道」と呼ばれていました。 中世の歴史薫る町 毛呂山 のようなときは、町内から多くの縄 堂山下遺跡から出土し り)し、通行す 9 文化財シリーズ 200 回記念
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