シリーズ・手づくり、田づくり、里づくりvol.13 「目標は、稲作からの脱却」-農事組合法人・いなぎ (社)JA総合研究所・基礎研究部客員研究員 黒川愼司 1.はじめに 今回の取材先は、世界遺産・石見銀山のある大田市の「農事組合法人・いな ぎ」。法人名の“いなぎ”を漢字では、稲置と書くのだと、最初に教えてもらっ た。続いて、この地は、紀元500年代には古代国家が管理する農園(屯倉) が置かれ、これを管理する稲置(役職名)がいたことから、稲置本郷と呼ばれ ていた。これにちなんで、法人の名前に「いなぎ」とつけたとのこと。この説 明をしてくれたのは、法人の代表理事、坂根謙二さん(62歳)。坂根さんの話 を聞いていると、この法人が目指すのは、現代の「稲置(いなぎ)=水田管理 人」と思えてくる。 取材には、大田市農業担い手支援センターの岩谷幸子さんに同行してもらっ た。岩谷さんは、JA石見銀山の職員で、営農指導員として活躍していたが、 現在は、行政とJAが共同して設置した「支援センター」で、担い手育成の仕 事に当たっている。 「自分のところは視察を受け入れするほどの実績はまだない と、いつも断られるのだが、何とかお願いして受け入れてもらっています」と 法人に向かう車中で岩谷さんが話してくれた。その話のように、坂根組合長の 口からも、 「まだまだ、人様にお話出来るような実績はありません」との言葉が 出る。その取り組みを聞いてみると、確かに発展途上であることは間違いない。 しかし、目標である「稲作からの脱却」に向けて着実に歩んでいることは事実 だ。 写真1 「農事組合法人いなぎ」の坂根謙二代表理事 2.任意組合から法人へ 農事組合法人・いなぎの住所は、 島根県大田市長久町稲用(いなも ち)121番地で、地域は、稲用上・ 中・下の3自治会からなる純農村地 域。総世帯数は110戸で、75戸 が農家で非農家が35戸の構成だ が、この75戸の農家の中で主業農 家は2戸という兼業地帯だ。耕地面 積は、50ha で、その内訳は、水 田43ha、畑1ha、樹園地6ha と なっている。 写真2 事務所の壁に貼られた作付図 この地区で営農組合の組織化が話題に上った契機は、圃場整備。何度となく 基盤整備の話がありながら、農家負担が3割になるなどがネックとなり、話が 立ち消えとなっていた。圃場整備が実現したのは、受益者負担が12.5%の事 業があったからだ。この事業は、当初隣の地区とあわせた80ha で計画された が、その地区がまとまらず、稲用地区(43ha)単独での取り組みとなった。 事業は、2000(平成12)年から 2003(平成15)年が「面工事」で、平成 15年から17年に暗渠排水工事が施行され、17年3月にすべての工事が完 了した。 このように基盤たる農地整備の進行にあわせて、その農地をどう活用するか についての協議が始まった。最初は、個人に農地集積して、その個人を軸とし た営農計画を構想した。しかし、個人では、農業機械の設備投資負担に耐えら れないと、想定した担い手が営農を断念した。個人での対応が無理なら、と、 地区の若手が提案したのが「集落営農組合」方式での営農構想。 平成14年10月に構想検討のプロジェクトが立ち上がった。そのプロジェ クトは2班に分かれ、1班が「組織形成(9名)」、もう1班が「合意形成(5 名)」について検討した。この検討会議では、まず、次の5項目を確認して取り 組んだ。 ① どんなことでも、思ったことは口に出そう ② 会議内容は、外部に漏 らさない ③決定した事項は、再議論しない ④ 議事録を作成する ⑤ 次回開催日と、討議内 容を決めて終わる この素晴らしいルールに基づいた検討結果は、地区民に受け入れられ、営農 組合設立の機運が高まった。また、県下各地で個人から集落へと新しい経営主 体への転換が図られる事例が増えていることも、プロジェクトへの理解を得や すい風となった。 平成15年の3月に営農組合を「仮」立ち上げし、プロジェクトの検討をさ らに深化するために、規約、組織形態、将来ビジョン等について1年間検討し た。実に丁寧だ。実に着実な取り組みだ。ここでも、5つのルールが役割を果 たした。なかでも議事録の作成は、参加メンバーの責任感と真剣な議論の確認、 共有に寄与した。 このような軌跡で、営農組合が「ルーラルいなもち営農組合」として「正式」 発足したのが、平成16年2月。この営農組合の目指したものが、下記の7項 目。 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ 水稲依存からの脱却をはかる(キャベツ、ダイズなどで) 新規作物の導入(千両、西条柿、ナシ) 就業の場の創出 地域とのかかわりを大切に 法人化を目指せる組織作り 後継者の育成 他組織との連携(生産組合、集落営農組織) この7項目の実践のために、県単独事業「がんばる島根農林整備事業(平成 15~16年度) 」により、畑作用作業機械を導入し、千両ハウスを11棟設置 した。 写真3 支援センターの岩谷さんと坂根代表 3.法人・いなぎ、立ち上げ (1)新規作目出揃う 法人化への助走を終え、農事組合法人・いなぎが走り始めるのは、平成18 年の2月。この年から3年間、 「立ち上がる産地育成支援事業」を導入し、ナシ と西条柿の植栽や防風、防虫ネットなどを設置した。 これにより、 「水稲からの脱却」を目指す、作目が勢ぞろいした。平成20年 の作物別面積は、水稲が9ha、ダイズ5ha、キャベツ1ha、千両30a、西条 柿が2ha、ナシ1ha、その他50a だ。平成15年は、水稲以外の作目がキャ ベツの50a とその他が50a だったことからすれば、大きな変化だ。 (2)部門担当制で対応 この作目への対応は、理事の担当制を採用している。千両の担当は、代表理 事の坂根さん。ナシは、副代表理事の石田國雄さん(65歳)、西条柿は専務理 事で総務政策室担当の岩崎耕次さん(61歳)、水稲とキャベツは、営農生産部 担当の森山博幸さん(61歳)と熊谷忍さん(66歳)の2人の理事が努める。 この5人の理事は、職場を退職してからの専業農家で、専務の岩崎さん以外は 担当作目を手掛けるのは、初めての経験だ。地域開発室担当の川上弘さん(5 5歳)だけが勤めを持っていて、組合情報の発行や組織内研修など営農以外の 事業を担当する。 さて、こうした新規作目の取り組みは、いまだ発展途上であることに間違い ない。19年度の損益計算書によれば、ナシの売り上げは0円で、西条柿も法 人の手で植栽した園での売り上げは0円だ。このため営業利益段階での赤字は 避けられない。当然のことだ、初期投資の段階で、それを回収する売り上げが ないのだから。 坂根代表理事は「法人・いなぎは、走り出したという段階で、まだ成果を手 にしていません。しかし、 『水稲からの脱却』という方向性は間違っていないこ とは、構成員の皆で確認していますので、躊躇なく前進するだけです」と話す。 写真4 白い花をつけたナシ園で (3)女性の参画、促す しかし、 「就業の場の創出」という目標は、新規作目の導入で果たされつつあ る。取材した4月の15日に20年度の作物別労務費明細集計表ができあがっ た。それによると、総労働時間は 8,270 時間で、男性が56%、女性が44% の比率となっている。この労働時間を作物別にみると、千両では、総労働時間 が 1,653 時間で男女比は、男27%、女73%と圧倒的に女性の比率が高い。 西条柿は、全体の4分の1近い 2,070 時間あまりで、ここでの男女比も54% と46%と拮抗している。この傾向はナシでも同様で56%と44%となって いる。このように水稲からの脱却を目指した新規作目の導入は、女性の参画を 強く促す結果をもたらした。ちなみに時間給は一律で 800 円に設定している、 男女差もなく、オペレーターと一般作業の差もなく。 写真5 千両ハウスでの作業。 すべて女性 写真6 ナシ園の管理作業。ここでも 女性が。 4.今後の目標 「生きがいと活気あふれる地域を目指して」の法人・いなぎの活動は、構成 員の理解のもとで、一歩ずつ着実に前進していることは間違いない。しかし、 前途に課題が待ち受けていることは事実だ。その1つが、新規作目の生育を支 える技術の確保と収量の安定だ。代表理事が担当する「千両」は、石見銀山千 両として大阪市場でも高い評価を得ている。先人のその評価を維持するために も、法人経営を確立するためにも頑張らねばならない。病気に打ち克つ土づく りと苗の安定的な生育確保に努めねばならない。 西条柿は、高齢化で廃業する地区外の成園を借り受け、収穫を行いながら、 新規植栽園の実証圃場として活用している。この園で収穫した柿を「あんぽ柿」 として加工し、販売先の開拓にも当たっている。 ナシの品種は、幸水、豊水、愛甘水の3種類。一部は、オーナー制で販売し ていくこととしている。販売のターゲットは、地元の子供のいる家庭。さらに 学校給食をはじめとする地産地消、石見銀山、国立公園三瓶山への観光客を対 象とした観光農園など多様な販路開拓を目指している。このためホームページ を立ち上げる準備も進めている。 このように思い切った水稲からの作目転換を永年性作物で図り、それを集落 営農方式で実践しようという農事組合法人は、あまり例がないと思う。 坂根代表理事を先頭に、現代の“稲置”として、伝統の上に新しい夢を描く、 農事組合法人・いなぎの実践を、今後とも見守りたい。 (取材日・平成21年4月15日) 連絡先 交通手段 島根県大田市長久町稲用121 農事組合法人・いなぎ 代表理事 坂根謙二 JR山陰本線大田市駅から車で10分
© Copyright 2024 Paperzz