[1] 開祭 2014 年 3 月○○日、四旬節第三主日の礼拝を始めます。 しばらく間をおいてから入祭唱を唱(とな)えます。†の印があるところで十字を切ります。 入祭唱(エゼキエル 36:23-26) 神は仰せになる、あなたがたがわたしを神としてあがめるとき、わたしはあなたがた をあらゆる所から集める。清い水をあなたがたの上に注ぐとき、あなたがたはすべて の汚れから清められ、新しい霊を与えられる。 †主イエス・キリストよ、おいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現され たように、わたしたちのうちにもお臨みください。 懺悔と赦しの祈り しばらく自らを省みた後で唱えます。 全能の神に告白します。わたしは、思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび 罪 を犯しました。全能の神がわたしたちを憐れみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いて くださいますように。アーメン あわれみの賛歌 ♪(キリエ) ひとりで礼拝しているときは、先唱だけを歌います。 先唱 キリエ・エレイソン 後唱 キリエ・エレイソン 先唱 クリステ・エレイソン 後唱 クリステ・エレイソン 先唱 キリエ・エレイソン 後唱 キリエ・エレイソン 集会祈願 救いの源である神よ、あなたは飢え渇くすべての人をいやすためにひとり子イエスを 遣わしてくださいました。わたしたちが疲れ、渇き、喜びと信頼を見失うとき、いの ちの水でわたしたちを潤し、立ち上がらせてください。 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に行き、支配しておられるみ子、わ たしたちの主†イエス・キリストによって。アーメン [2] みことばの典礼 最初に第一朗読 ○○記 ○章○節からといって読み始めます。本文の( )は聖書の接続詞、代名詞を補うための ことばですので、音読します。本文の冒頭の数字○○:○○は文章番号ですので読みません。 第一朗読 出エジプト記 17:3-7 17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「な ぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺 すためなのか。」 17:4 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わ たしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 17:5 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、 ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そ こから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の 前でそのとおりにした。 17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々 が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主 を試したからである。 朗読の終わりは次のように唱える。 第一朗読を終わります。 第二朗読 ○○○ ○章○節からといって読み始める。 第二朗読 ローマの信徒の手紙 5:1-2,5-8 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエ ス・キリストによって神との間に平和を得ており、 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずか る希望を誇りにしています。 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者の ために死んでくださった。 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者な らいるかもしれません。 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死ん でくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 朗読の終わりは次のように唱える。 第二朗読を終わります。 福音朗読 ヨハネによる福音4章 5 節以下に記された主イエス・キリストの福音。 朗読者はここで十字をきる。利き腕の指を額・くちびる・左肩・右肩の順番におく。 †主に栄光。主に栄光がありますように。 4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリア の町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っ ておられた。正午ごろのことである。 4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうし て水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際し ないからである。 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水 を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から その人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。ど こからその生きた水を手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわた したちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその 人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもい いように、その水をください。」 4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫 はいません』とは、まさにそのとおりだ。 4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、あ りのままを言ったわけだ。」 4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所は エルサレムにあると言っています。」 4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼 拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければな らない。」 4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知ってい ます。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられる のに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるので すか」と言う者はいなかった。 4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいま す。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて 言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところに とどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたから ではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった からです。」 朗読の終わりは次のように唱える。 主に感謝。主に感謝します。 説教 説教は黙読でもかまいません。何人かで礼拝していれば、一人が音読する。 四旬節第三主日 2014.3.23 サマリアの女 ヨハネ福音書 4 章 5‐30、39-42 節 サマリアの女として知られるヨハネ 4 章 1-42 節がきょうの福音朗読箇所です。洗礼志 願者教育のための四旬節の古典的朗読配分を踏まえ、今年は今日が「水」来週が 「光」再来週が「復活」これら水・光・復活をテーマにして洗礼の意味を説き明かす という流れにもなっています。 <いのちの水> 4:14 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 イエスがサマリアの女に水をくださいという場面から始まり、話が進んでいくうちに イエスが女に水を与えるという話になります。女がその水をくださいといったら意地 悪をいって女を困らせる。くじけることなく女は礼拝とはなにかという論議をふっか ける。イエスは霊と真理をもって礼拝するのだと答える。女はさらにキリスト・メシ ア論でいいかえすが「それは、あなたと話をしているこのわたしである」というイエ スのキリスト宣言で二人の会話は閉じる。そしてサマリアの町中の人がイエスを信じ た。きょうのテキストはざっとこのような内容です。 <井戸の水を汲みに来る女> イエスが井戸端にすわっていた。旅に疲れてイエスはへとへとだった。イエスが疲れ たと書いてあるのは福音書ではめずらしいことです。ここをとりあげて疲れていても サマリアの女に個人伝道をした、疲れていても頑張ろう、イエスを手本にしようとい う説教を聴いたことがあります。まあそれもありなんでしょうけれど「サマリアの 女」の話はなかなか手が込んでいるというか単純ではない。まず、イエスと女を一対 一にするために人払いします。弟子たちは買い物にいったと。どこに行ったとは書い ていないのでわからないけれど、イエスをひとりにして買い物にいった。水筒ぐらい おいていけばいいのに、暑いんだから。でも水筒がないおかげで話は始ります。 <ヤコブの水とイエスの水> 二人の対話は井戸端でおこなわれます。井戸の持つ深淵のイメージはこの対話の内容 のもつ深さに通じています。そのうえ井戸の水といってもただの井戸水ではなくてヤ コブの井戸の水、すごい水なんだと。だから、あなたはヤコブより偉いのかなんてセ リフもでてくる。二人の間にある井戸をはさんで「ヤコブの水 vs イエスの水」という 構図にもなっています。 問答の中でイエスのいっているいのちの水というのはたとえの話で、実際の水じゃな いことがあきらかになってくる。女はそのことに気づかないでそのイエスの水を欲し がった、とする解釈もあります。 4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、そ の水をください。」 毎日水汲みにこなくてもいい、だからその水をください、という解釈です。でもね、 水は飲むだけじゃなくて料理にも使うし、洗濯にも使います。いのちの水が手に入っ ても水汲みは毎日やんなきゃいけないでしょ、女はよっぽど水汲みが嫌いなんでしょ うか。それはお昼に水汲み来るようなみじめな境遇にあるからだとされます。(水汲 みは朝か夕、暑い日中はやらないのが普通)伝統的には女はふしだら女、身持ちの悪 い女、男運のない女などなどと言い方は違えど性悪な女として解釈されています。そ れは結婚を 5 回もして、いまは同棲しているという理由からです。しかし、歴史的解 釈もあります。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、異邦の五つの町の住人が サマリアに移住して来て、地元のイスラエル人と結婚し、自分たちの神々を拝むよう になった(列王記下 17:24-34)。五つの町のたとえとして「五人の夫」といっている、 五回の結婚をアッシリアによるサマリアの人種的・宗教的混乱、蹂躙の象徴とする解 釈です。六人目、いまの同棲相手はローマ帝国と解釈することもできますし、宗教的 観点からはサマリア教(ユダヤ教からすれば異端)いわば未公認宗教を信仰している、 それをたとえて正式な結婚ではなく同棲しているとする解釈です。1 回 2 回ならとも かく 5 回も結婚・離婚をくりかえすことは現代でもそうあるもんではありません。こ の件についてはたとえとしたほうが解りやすし、女は不貞であったとする伝統的な解 釈は強引なかんじがします。 <イエスとの対話> 女は「夫をつれて来い」といわれて、サマリア人の礼拝場所とユダヤ人の礼拝場所が 違うことについての礼拝論をふっかけます。それに対しイエスは場所なんか問題にな らない、「霊と真理」がまことの礼拝だと諭します。 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 19-24 節の礼拝論議はとても奥深い内容をはらんでいます。にもかかわらず女は難し い内容をただちに理解したかのように続く 25 節で更にキリスト論でイエスに反駁する。 そこでイエスがキリスト宣言をする、なにいってんの私がそのキリストだよってこと ですね、それで二人の会話はおわる。 <ちょっと横道> 「霊と真理の礼拝」はわたしたちせかんどチャーチの「ひとり礼拝」の根拠です。ハ コはいらない(教会堂はいらない)からだは神殿。だからどこでも礼拝。いつでもど こでもできる。そのうえ、礼拝しているときにはイエスさまもいっしょ、出席なさっ ている、だからひとりでも「まことの礼拝」はできるということです。 <二日間のサマリア滞在> 女は会話が終わると水がめをおきっぱなしにして戻り、町中にキリストがきたぞーっ てつげ回る。すると町の人はみな信じた。 この話にもしかけがあります。ひとつ前の三章のエルサレムでの話(議員ニコデモと の会話が中心です)洗礼をきっかけにファリサイ派の追求がはじまりイエスはガリラ ヤに退いた。そのガリラヤへの旅の途中に二日間サマリアに滞在した。このサマリア 滞在の日数は三日目の復活の暗示となっています。 死んで黄泉にくだり三日目目に死人のうちから蘇り・・・(使徒信条) エルサレムを追われてサマリアにくだり二日とどまり、三日目にガリラヤにいくとい う行程をイエス復活になぞっています。使徒信条では「黄泉にくだり」というのは伝 統的には十字架の金曜日から復活の日曜日の朝まではイエスは黄泉で死人に福音を説 いていたとします。(ただ、この伝統的解釈は現代のカトリック、プロテスタントと もに受け入れない傾向にあります)信条の解釈はひとまずわきにおいておいて、イエ スのサマリア伝道はこの黄泉下りの期間に相当します。 <さいごに> サマリアの女との対話は深い真理を含んでいます。ヨハネ福音書はテキストの背後に いろいろな意味が隠されているとりわけ神秘的な福音書という特徴があります。 4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。 しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかっ た。 先週は変容したイエスを見たペトロは小屋を建てましょうといったのですが、きょう のテキストで弟子たちはなにも言わなかった、とわざわざ用例まであげて記されてい ます。弟子たちはイエスが女性としゃべっているので、驚いて何もいえなかったと説 明します。当時のユダヤ社会では女性と二人きりでしゃべるということは不道徳(性 的というより女性差別にもとずく)とされていて、ましてラビ(宗教指導者)が・・・ という感覚があったと注釈にはあります。これに基づいて、弟子たちはまず驚いたけ れどよほどの事情があるのだろうと察して無言だったのだという解釈です。 いろいろ調べていたらウルトラ解釈・とんでも解釈がありました。このサマリアの女 は霊体だというのです。弟子たちには声はすれども姿は見えない状態だったつまり女 は霊のからだだったという解釈です。先週登場したモーセとエリアもいってみればみ れば霊体です。わたしたちの朗読の日課でいけばペトロたちは先週は霊は見えていた けれど、今週は見えなかった。 まあ、井戸には幽霊がつきものです。わたしはこのサマリアの女=霊のからだという 解釈がとても気になります。サマリアの女が霊であるとしての記事を読み返してみる とごちゃごちゃした背景やら難しそうな神学論争もすーっとわかる。サマリアの女が 霊体だったとするとイエスが語る霊のレベルの話(わたしが与える水⇒聖霊⇒永遠の いのち)が理屈ではなくわかってくるように思います。どうぞ皆さんもあとで「女= 霊体・幽霊」という視点でもう一度きょうのテキストを読み返し聖書の神秘にふれ、 味わってみてください。 主に感謝、そしてみなさまの上に主の平和がありますように。 使徒信条 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。 また、その独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ(ここで礼をする)ポンテオ・ピラトのも とで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人の うちからよみがえり、天に昇られました。 そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから主は生きている人と死ん だ人とを審くために来られます。 また、聖霊を信じます。聖なる共同の公会、†聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえ り、永遠の命を信じます アーメン 共同祈願 限りない神の恵みに感謝して祈りましょう。 ・わたしたちが洗礼志願者とともに、新たな気持ちで福音を受けとめ、神への 信仰に生きる喜びを力強くあかしすることができますように。 ・現代の人々の心の渇きをいやし、いのちの息吹で満たしてください。神の呼 びかけに感謝をもってこたえる者となれますように。 ・人生の岐路にある人々が、さまざまな困難を受け入れ、神の導きに感謝して 歩んでいくことができますように。 ・(いまあなたに必要な祈りがあれば追加して祈りましょう) 憐れみ深い神よ、あなたはすべての罪びとに救いの手をさしのべ、サマリアの婦人を 導いてくださいました。いつも平和と喜びのうちにあなたに仕え、賛美と感謝をささ げることができますように。 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン [3] 感謝の典礼(にうつります) ・聖餐をおこなわない場合は以下を省略して[4]の「主の祈り」をおこなう。 ・聖餐のパンとぶどう酒、献金は、ここでテーブルのうえにおく。 叙唱 黙読する。二人以上で礼拝している時は一人が音読する。 聖なる父 全能 永遠の神、いつどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげる ことは、まことにとうといたいせつな務めです。 四旬節にあたり、罪深い わたしたちは節制によって思いあがりを正し、あなたのいつ くしみにこたえて貧しい人を助け、悔い改めのわざを通して感謝をささげるよう招か れています。天使の群れの賛美の声に合わせ、わたしたちもあなたをたたえて歌いま す。 感謝の賛歌 ♪(サンクトゥス) 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神 主の栄光は天地に満つ いと高きところにホサナ ほめたたえよ 主のみ名によって こられる方を いと高きところにホサナ 奉献文 黙読する。二人以上で礼拝している時は一人が音読する。 天の父よ、救い主、み子イエス・キリストによってわたしたちの感謝・賛美をお受け ください。わたしたちはみ子の模範にならい、そのみ定めに従ってこの式典を行いま す。どうかみ言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンとぶどう酒を祝し、聖とし て、わたしたちのために主イエス・キリストの † 尊い体と血にしてください。 主は渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて仰せになりま した。「取って食べなさい。これはあなたがたのために与えるわたしの体です。わた しを記念するためにこのように行いなさい」☆合掌して深く礼をする。 また食事ののち、杯を取り、感謝して彼らに与えて仰せになりました。 「皆、この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよ び多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。飲むたびにわたしの記念とし てこのように行いなさい」☆合掌して深く礼をする。 ♪ キリストは死に /キリストはよみがえり /キリストは再び来られます 記念唱 以下は途中まで黙読し、黒文字の部分から音読する。二人以上で礼拝している時は一人がグレーの部分も音読す る。 わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できるこ とを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます。キリストの体と血にともにあず かるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。世界に広がるあなたの教 会を思い起こし、全教会を愛の完成に導いてください。 復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め、あな たの光の中に受け入れてください。なお、わたしたちをあわれみ、永遠のいのちにあ ずからせてください。み子イエス・キリストを通してあなたをほめたたえることがで きますように。 キリストによって キリストとともに†キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能 の神、父であるあなたに。 (ここから音読) わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、は るかに超えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・イエ スによって、栄光が世々に限りなくありますように。アーメン [4] 交わりの儀式 主の祈り 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。 みこころが天に行なわれるとおり地にも行なわれますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。 † 国と力と栄光は、限りなくあなたのものです。アーメン 聖餐を行わない時は以下を省略して〔感謝祈願〕の II の祈りを唱え閉祭へと進む。 ☆ここでパンを裂くときは次のようにいう。 わたしたちがパンを裂くとき キリストの体にあずかります。 パンが一つであるから わたしたちは多くいてもひとつの体です。 拝領唱(ヨハネ 4:13-14) 黙読する。二人以上で礼拝している時は一人が音読する。 わたしが与える水を飲む人は永遠に渇くことがない。わたしが与える水はその人の中 で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る。 平和の賛歌 ♪(アニュス・デイ) 世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください 世の罪を除く神の小羊よ、主の平安をお与えください 拝領 テーブルまたは祭壇に近づき、ひざまづく。 (沈黙のまま祈る)「キリストの体が永遠のいのちの糧になりますように。」 十字を切り、アーメンと唱えてパンを頂く。 (沈黙のまま祈る)「キリストの血が永遠のいのちの糧になりますように。」 十字を切り、アーメンと唱えてぶどう酒を頂く。 拝領後は着席し、沈黙のうちにしばらく祈る。 拝領祈願 〔I〕いつくしみ深い神よ。主イエスはご自分からサマリアの女性に話しかけ、ここ ろの渇きをいやしてくださいました。キリストに結ばれたわたしたちが人として隔て る壁を乗り越え、あなたの豊かな愛のうちに生きることができますように。わたした ちの主 イエス・キリストによって。アーメン 〔II〕主なる神よ。わたしたちに限りない恵みをあたえてくださることを感謝します。 どうか、あなたのみ言葉の光でわたしたちの心を照らし導いてください。わたしたち があなたを賛美し、み言葉に従い、ともに主の愛のうちに生活することができますよ うに。わたしたちの主 イエス・キリストによって。アーメン [5] 閉祭 祝祷 父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常にわたしたちとともにありますように。 † アーメン 派遣の唱和 主の日の礼拝を終わります。行きましょう、主の平和のうちに。 (間をおいて)主の平和がありますように。†アーメン これで礼拝は終わり。しばらく黙想したのち、礼拝のために準備したものを片付ける。
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