カトリック教会の教えと在り方 - 1 - 1) カトリック教義の基本、信仰宣言 カトリックの教えの基本はミサの時に唱える使徒信条の中に見られる。 使徒信条(クレド CREDO =わたしは信じます): 天地の創造主、 全能の父である神を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に つけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父であ る神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。 聖書の神は唯一である。神はおよそ 4000 年前にヘブライ人の先祖たちであるアブラハム、イサク、ヤコブ に語りかけた。また 3200 年前にはモーセを召し出し、名を尋ねられた時に(「わたしはある、わたしはある という者だ」=存在の根源)とお答えになり、ヘブライ人をエジプトでの奴隷状態から解放した。 神が人にご自分を現わしても、神秘的で奥深く私たちには見ることも触れることもできないが、いつくしみ とあわれみに満ち、真実そのもの、愛そのものであると理解できよう。 教会は旧約聖書の言葉とイエス・キリストの教えに基づいて、神を三位一体(さんみいったい)として理解し た。神は唯一でありながら、三つの位格(主体)をもっているということである。第一に宇宙万物を創造さ れたおん父、第二に人類の救い主であるおん子イエス・キリスト、第三に信者の心を照らし、慰め、力づけ る聖霊、この三位が愛の交わりの中に神秘的なかたちで本質と存在を一体にしている。 おん父は天地万物を創造されたが、すべてのものに与えられた神のみことば(ロゴス LOGOS=ことば、原理) はイエス・キリストご自身である。イエス・キリストは真の人でありながら真の神であるという二つの本質 の持ち主で、聖霊は神の息吹でありイエス・キリストの霊でもある。 天地の創造主、 全能の父である神を信じます。 神は創造主である。天と地、見えるものと見えないもの、すべては神から形づくられている。 神は全能である。世界の苦しみや災害による犠牲を思うと矛盾と思えるも、神のみ旨の中で深い意味を持 っている。 神は父である。すべてのものにいのちを与え、そのいのちを大切に養い育む。聖書は物語の形で天地創造 を記すが、その過程がどのようなものであっても神の働きにほかならない。自然の諸々のいのちの進化にし ても、神が造られた被造物の在り様(ありよう)である。 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。 2 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇っ て、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 子どもが親の姿であるように、イエス・キリストはおん父の姿である。しかもひとり子であるから、彼だ けがおん父のすべてを私たちに表した。別の言い方をするならば、おん父が私たちのようなからだを受けて (受肉)世界を救うために人となったのである。 イエスの誕生は神秘的で、おとめマリアから聖霊の働きによって生まれた。三十年余りの短い人生の最後 の三年は、知恵に満ちたことばと不思議なしるし(奇跡)によって神の国とおん父の愛を説いた。その教え は当時のユダヤ教に対する批判となり、ローマ人ポンティオ・ピラトがパレスチナの総督だった時に憎まれ 逮捕されて、十字架に磔られて殺された。イエスは神の子であるにもかかわらず、人の憎しみや殺意にも勝 る神の愛を証明するために、殺されるに任せた。力ではなく、愛だけが人の心にふれ、改心させ、人を救う のである。 イエスは死んでから三日の後、神によって復活し永遠のいのちを与えられた。人類の未来の姿である、傷 まない、腐らない、時間と空間に制限されない栄光のからだを受けた。ヘブライ人は人が亡くなるとみな例 外なく陰府(よみ)に下ると思っていた。イエスも同じように陰府に下ったが、それはイエスより以前に亡く なった善き人を救うためであった。 しばらくしてから天に昇って、おん父と聖霊の交わりの中、宇宙万物を支配している。そして世の終わり に再臨し、生きている人も、すでに亡くなった人も最後の審判で愛を基準に裁かれる。 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じ ます。 アーメン。 すべてのものにいのちを与える神の息吹、イエス・キリストの霊である聖霊は、イエスが昇天した後、使 徒たちの上に降り(聖霊降臨)初代教会を誕生させた。恐れてなにもできなかった使徒たちはこの体験で力 と勇気、熱意に満ち溢れる宣教師になった。現代においても聖霊は洗礼を受ける人に信仰と新しいいのちを 与え、また堅信の時に聖霊の恵みとたまものが与えられキリストの証人となる。『霊の結ぶ実は愛であり、 喜び、平和、寛容、親切、善良、誠実、柔和、節制である。』(ガラテヤ5・22) 教会はイエス・キリストを信じて、イエスに従う信者の共同体で、「神の民」「キリストの神秘的なから だ」「聖霊の神殿」と言われている。神が一つであるように、信仰も一つ、教会も一つ。歴史の中では分裂 が起こったが、全教派は同じキリストの教会であり、違いを乗り越えて完全な一致を目指している(エキュ メニズム Ecumenism =キリスト教一致運動)。 教会は「聖なるもの(神からのもの)」である。参加している人は罪によって教会を汚し、堕落させるこ とがあるが、教会そのものはキリストのからだとして完全無欠である。また教会は「普遍(カトリカ Catholica ) 」である。ある民族、個々の価値観や時代に影響される事なく、全世界にあまねく行き渡り、 時間や空間を超えて例外なくあてはまる本質である。(カトリックという言葉は、ギリシャ語のカトリケー 3 (καθολική )が語源で普遍的、国際的という意味を持つ)。 教会は「使徒伝承」である。使徒(イエスの十二人の弟子)から伝わってきたもので、現代に至るまで使 徒の後継者であるローマの司教(教皇)を中心に 2000 年の時を超え脈々と受け継がれている。 聖徒の交わり: ミサの時に受ける聖体(キリストのからだ)を通してすべての信者は一つに結ばれて、 常に交わり、交流している。この世に生きている信者も、亡くなって罪の償いの清めを受けている死者も、 天国で神とともにいる聖人も、キリストのからだのうちに交わっている。聖人は、生きている人も、清めら れている死者をも助ける。この世に生きる私たちは聖人の守護を受けており、祈り・ミサ・犠牲を捧げるこ となどによって聖人と共に死者の霊魂を助けることができる。 罪のゆるし: 人間の弱さのため、神に背いて罪を犯すことがしばしばある。しかし信者が深く反省し、 立ち直る努力をすればゆるされる。まずは洗礼の時に表す信仰によって、そしてその後はゆるしの秘跡を司 祭から受けることでゆるされる。キリストが弟子たちへ罪をゆるす権限を与え、その権限は教会の中で司祭 に与えられている。小罪は深い反省とミサ祭儀でご聖体に与ることによってゆるされるが、大罪はゆるしの 秘跡を受けることが求められる。大罪の状態では聖体拝領ができない。 ・小罪:思い、ことば、行い、怠りに見られる日常の「自覚のない」罪。愛が弱められる。 ・大罪:神のおきてに反する重大な事柄で自覚があり意図的であるもの。神や教会を汚し愛を破壊する。 からだの復活: 人が亡くなると原罪のあるからだは腐敗するが、霊魂は永遠に生き続ける。世の完成に イエス・キリストが再臨するとき、救われた人はキリストと同じ栄光のからだを受ける。 パウロは次のように教えている。『もし、イエスを死者の中から復活させたかたの霊が、あなたがたの内に 宿っているなら、キリストを死者の中から復活させたかたは、あなたがたの内に宿っているその霊によって、 あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。』(ローマ8・1) 復活の具体的な様子は誰も分かっていないが、聖霊を受けていることは復活の保証と考えられている。 永遠のいのち: 人の死は滅びではなく新しいいのちへの門出である。死の直後は神によって個人の私審 判があり、全く罪のない完全な者は天で聖人の集いに迎えられ(天国)、小罪があり償いの必要な者は天に 入る前に清めを果たし(煉獄)、神に背き、神と和解せずに亡くなる人は大罪を帯びたままで、永遠に苦し む罰を受ける(地獄)。永遠のいのちは人がこの世でどのように生きたかによって決まるが、特に臨終前の 神との和解が大切である。 アーメン: ヘブライ語で「本当に」「まことにそうです」「然り」の意。 4
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