国連の危機?――イラク戦争を考える 香川大学法学部 湯山智之 国際

国連の危機?――イラク戦争を考える
香川大学法学部 湯山智之
国際社会は各国の国内社会に比べて大きな特徴を持っている。それは、法を制定し執行
する集権的機関が存在しないことである。国内社会においては政府がその役割を果たす。
国内社会においては、誰かが権利を侵害された場合、裁判所においてその救済が図られ、
法の解釈について相違があったしても裁判所によって統一される。国際社会において、例
えば北方領土問題は未解決のままであるし、イラク戦争が正当かそうでないかについての
各国の見解は分かれたままである。また、国内社会においては、政府(警察・軍隊)が暴
力を独占しており、それによって社会における暴力は抑止され秩序が保たれている。それ
に対して国際社会では、軍事力を独占した、国家を超える機関は存在しない。例えば国際
連合があるが、自前の軍事力はなく、平和維持活動(PKO)を実施する際にも各国から
派遣された軍隊に依存しているのが実情である。各国が軍事力を保持していて、その行使
を実力で制止することはできない。ではそのような国際社会は無秩序であるかというとそ
うではなく、各国が合意して作った国際法があって、不完全だが秩序が保たれている。
国際法は二度の世界大戦を経て、国家が戦争を行うことを禁止するルールを作った。こ
れを武力不行使原則という。国際連合憲章2条4項では、各国が武力の行使または武力に
よる威嚇をしてはならないと規定している。しかし、第二次大戦後もこのルールを破って
戦争を起こす国は跡を絶たず、国際法の実効性に疑問を投げかける見解も少なくない。
国際法は武力不行使原則に対する二つの例外を認めている。一つは自衛権である。国連
憲章 51 条によると、ある国が他の国から武力攻撃を受けた場合、武力で反撃することが
できる。
直接攻撃を受けていない国が攻撃を受けた国を軍事的に支援することも認められ、
日本に米軍が駐留しているのは、その集団的自衛権を根拠にしている。
もう一つの例外は国連による軍事行動である。国連は、ルールを破って他国に戦争をし
かけた国に対して経済制裁を実施できるだけでなく、軍事力でこれを阻止することができ
る。これを決めるのが国連の安全保障理事会である。安保理は 15 か国で構成され、10 か
国は非常任理事国といって国連総会で選挙で選ばれるが、第二次大戦で連合国の中心であ
った米・英・仏・中・ロ(ソ連)の5か国は常任理事国として安保理で常に議席を持つだ
けでなく、拒否権といって、5か国のうち1か国でも反対すれば決定を阻止することがで
きる。米ソの冷戦があったときは、お互いに拒否権を行使して満足に決定することができ
なかった。国連が実施した最初の軍事行動は、イラクがクウェートに侵略した 1990 年の
湾岸危機である。安保理は決議 678 を採択し、米国軍を中心とした 28 か国からなる多国
籍軍にイラク軍を攻撃する許可を与え、クウェートを回復することに成功した(湾岸戦争)
。
この方式は、自国の軍隊を拠出しようという国がいなければ派遣されない点(例えば 1994
年のルワンダの大虐殺ではどの国も軍隊を派遣しようとしなかった)や軍隊の指揮権は各
国にあって国連が十分にコントロールできない点(例えば湾岸戦争の際、米英軍はクウェ
ートを奪回しただけでなくイラク南部まで占領した)などの問題がある。
ここでイラク問題の概略について説明する。イラクは以前から核不拡散条約(NPT)
に違反して核兵器の開発を進めていたとされ、またイラン・イラク戦争や国内の少数民族・
クルド人の弾圧に化学兵器(毒ガス)を使用した。湾岸戦争中もサウジアラビアやイスラ
エルに向けてスカッドミサイルを発射し、大きな脅威を与えた。湾岸戦争の結果イラクは
事実上降伏したが、その際安保理が採択した決議 687 では、大量破壊兵器(核兵器・化学
兵器・細菌兵器)
・ミサイルの廃棄と国際機関による廃棄の検証、クウェートへの賠償金の
支払などの停戦条件が示され、イラクはそれを受諾して停戦が成立した。査察によって、
イラクの大規模な核開発計画が明るみになり、また主力化学兵器工場の解体が進められた。
しかし、1996 年頃からイラクによる査察妨害が行われるようになった。その背景には、
イラクへの軍事的圧力を強化するなどの封じ込め政策を続け、イラクの大量破壊兵器廃棄
が不十分であるとして経済制裁解除に反対する米国と、早期の制裁解除を主張するロシ
ア・フランスらとの対立が解消せず、制裁解除への見通しが立たない状況(制裁解除にも
安保理の決議が必要で、拒否権を持つ米国の同意なしに制裁を解除できない)へのイラク
の不満があった。1998 年にはイラクは査察の拒否を宣言し、一度はアナン国連事務総長と
フセイン大統領との会談で査察再開が合意されたが、再びイラクは査察を拒否し、米英軍
がイラクを爆撃したため、査察の再開は望めない状態となった。
事態が展開を見せるのは、2002 年9月、対テロ報復戦争でアフガニスタンのタリバーン
政権を崩壊させた米国のブッシュ政権が次の標的としてイラク攻撃を表明したことである。
攻撃を主張する米英両国と他の安保理理事国との間で妥協が成立し、決議 1441 が採択さ
れた。それはイラクに査察再開を迫るとともに、大量破壊兵器の廃棄が実行されないので
あれば武力を行使することを警告するものであった。イラクはこの決議を受け入れ、査察
が再開された。
イラク攻撃に踏み切ろうとする米英らはさらに 2003 年3月 17 日までに大量破壊兵器を
廃棄しなければ武力行使を認めるという決議案を提出、査察継続を主張するフランス・ド
イツ・ロシアらとの対立が深まった。結局、安保理での多数を獲得できないと判断した米
英両国は安保理での決議採択を断念、単独でのイラク攻撃に踏み切った。4月にはフセイ
ン政権が崩壊してイラク軍の組織的抵抗は終了したが、その後も米軍や国際機関を狙った
テロが続いていることは周知のとおりである。
さて、イラク攻撃の国際法上の合法性はどのように考えるべきであろうか。国際法上、
武力を行使できるのは前述したように、自衛の場合と国連の許可がある場合の二つだけで
ある。自衛については、イラクが米国を攻撃したという事実はないから、自衛によって正
当化することはできない。なお、ブッシュ政権が 2002 年9月に発表した「国家安全保障
戦略」では「ならず者国家」による核兵器開発やテロの脅威には先制攻撃を行うとしてお
り、国際法を無視するも甚だしい。
国連による許可は米英両国自身がイラク攻撃の根拠として主張しているものである。そ
の主張によれば、90 年の湾岸危機の際多国籍軍による武力行使を許可した決議 678 は現
在でも有効であり、イラクが停戦決議 687 を受け入れることを条件に武力行使を停止した
のであって、イラクが決議 687 に違反して大量破壊兵器を保有するのであれば、元の決議
678 の効力が復活するというものである。しかし、このような解釈には無理がある。決議
678 はクウェートからイラク軍を撃退するための軍事行動を許可したものに過ぎない。ま
た、決議 1441 の内容や採択の際の議論でも、安保理はイラクが査察に協力しない場合は
武力を行使することを認めていたが、そのためには武力行使を許可する第二の決議が必要
だということになっていた。だからこそ、米英両国が武力行使を認める第二の決議案を提
案したのであり、米英両国の主張は矛盾していると言わざるをえない。また、米国のイラ
ク攻撃の根拠は二転三転し、テロ組織アルカイダとの関係を持ち出したりしたが証拠がな
く、最後はフセイン大統領らのイラク退去を要求した。これは他国の政治体制に干渉する
内政干渉にほかならない。
このような国連や国際法を無視して行われた米国などのイラク攻撃によって国連の権威
は失墜したのだろうか。そもそも国連は国家の上に立って国家を規制するような集権的機
関ではない。国益を主張する各国の綱引きによって決定が行われる機関であり、各国の協
力なしには行動できない機関である。そして、それでもなお、あの段階でのイラク攻撃に
は正当性がないと考えた国際世論に押されて安保理理事国の大多数がイラク攻撃に反対し
続けた事実こそ評価すべきではないだろうか。さらに、2003 年5月 22 日に国連安保理が
採択したイラク復興決議 1483 は、米英両国らの占領軍暫定行政当局(CPA)の主導的
役割を認めつつ、CPAと国連の協力の下でイラク再建を図ることを決めた。これは、コ
ソボ紛争に対するNATO軍のユーゴ空爆(1999)や米英軍の対テロ報復戦争(2001)と
同じように、国連から離れたところで行われた戦争であっても、戦後処理では国連の正統
性と復興支援のノウハウに頼らざるをえないことを示している。この傾向は米英軍に対す
るテロ攻撃が激化して、CPAが国連を頼るようになったことでさらに強まったといえる。
また、国際法についても同様のことがいえる。たしかに国際法は実力で各国の違法な行
動を抑制する力はなく、その点では不十分である。特に米国のような超大国には対抗する
勢力もなく、その単独行動への歯止めがかからなくなっていることも事実である。
しかし、
まったくルールなしで国際社会がなりたつとは考えられない。米国もまたイラク攻撃にあ
たって国際法の枠内で正当化しようとしたことに注意すべきである。違法な戦争に対して、
国際世論がはっきり「ノー」と声を上げることが重要なのではないだろうか。
参考文献・松井芳郎「国連安保理の活動と国際世論」法学セミナー582 号(2002 年)