2014年5月

(2014 年 5 月 4 日礼拝説教)
キリストに捕まえられて
詩編 116:1-4
ルカによる福音書 24:13-35
藤井 和弘 牧師
ルカによる福音書は、四つある福音書の中でも、特に「旅」をモチーフにした
作品となっています。もう 20 年近くになりますが、『福音書のイエス・キリスト』
というシリーズが四巻本で出版されました。それは、四人の日本人の手によるも
のですが、それぞれの福音書についての解説をはじめ、そこに特徴的なイエス像
というものを紹介した本です。その中で、ルカによる福音書を担当したカトリッ
ク出身の著者は、本の副題に「旅空に歩むイエス」というタイトルを付けており
ました。もしかすると、この福音書を手がけました人物は、旅というものに特に
強い思い入れを抱いていたのかもしれません。ルカによる福音書は、十字架に向
かわれる主イエスの歩みを、特に「エルサレムへの旅」として読者に意識づけよ
うとしていますし、また、同じ人が書いたと言われています使徒言行録にも、キ
リストの福音を携えて旅空に歩む使徒たちの姿が描かれています。
この朝私たちに与えられています、復活の主イエスがエマオ途上で二人の弟子
と出会われるという箇所も、まさしく旅そのものが舞台でした。60 スタディオン
という、およそ南浦和の駅から東十条の駅までの距離に相当しますこの旅は、大
変ユーモアにあふれるところとなっています。それは、ルカがこのところを面白
おかしく書いているからではありません。たいていのユーモアというものがそう
であるように、そこで起こっているのは至極真面目な事がらなのです。そこに登
場してくる人々も、とても真剣であるのです。けれども、そこにおもしろおかし
さが広がる、凝り固まっていた心が、そこでほっとほぐれる瞬間が訪れるのです。
ユーモアは貧しい人々の中で見られる場合が多いと、以前何かの本で読んだこ
とがあります。もしかすると、ユーモアに満ちた人というのは、どんなに厳しい
状況であっても、そこで自分以外の目をもって自分自身を見ることに長けた人の
ことかも知れません。つまり、自分で自分を見るのではなくて、神が見ておられ
るように!自分自身を見るという恵みを、その人は多く与えられているのではな
いでしょうか。
エマオへと向かっていた二人の弟子たちにとりまして、そのような恵みに気づ
くまでにはもう少し時間を要しました。旅の道すがら二人がやりとりするその議
論は、まじめで真剣そのものでした。二人は、ナザレのイエスという方の生涯と
その最期について、そして、つい最近耳にした、空っぽの墓と「イエスは生きて
おられる」という知らせについて、一切を把握していました。
にもかかわらず、彼らはこのとき、暗い気持ちで肩を落とし、逃げるようにし
てエルサレムを去ろうとしていました。その途中、自分たちに近づいてきた一人
の旅人に、二人は自分たちが失意の中にあることを語ります。「わたしたちは、あ
の方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21 節)。期待
と希望を奪い取られた彼らの語る言葉は、まじめで真剣そのものです。しかし、
何ということでしょうか。イスラエルを解放してくださるそのお方が自分たちの
前に立っておられるというのに、そして、そのお方に自分たちが今語りかけてい
るというのに、二人には主イエスが分かりませんでした。
不思議なことは、それだけではありません。御自分の前に立ちながら、それが
イエスだとは分からないでいる二人の弟子に対して、主イエス御自身はどうなさ
ったのでしょうか。興味深いことに、主イエスはみずから御自分であることを二
人に向かって名乗ろうとはしておられません。まばゆい復活の光で彼らを照らさ
れるのでもありません。そして、主イエスは二人をお叱りになるのですけれども、
その理由は、目の前にいる御自分のことに彼らが気づかないでいることではない
のです。むしろ、彼らが預言者たちの語ったことを信じられないでいるがゆえに
お叱りになるのです。そして、驚くことに、主イエスは旅の道すがら二人の弟子
たちを相手に‘聖書研究’をお始めになったのです。彼らの前に復活の御自分を
お示しになることよりも、イスラエルの聖書全体を忍耐強く説き明かすことに、
主イエスは集中なさったのです。
そのところで、ユーモアを語ることは、熱を帯びた授業に子どもが悪ふざけを
して水を差すようなものなのかもしれません。けれども、これはルカ自身が語っ
ていることなのですが、主イエスみずからが行われた権威ある聖書研究でさえ―
たとえそれがどんなにすばらしく刺激的なものであったにせよ!―二人の弟子に
彼らの目の前にいる主イエスを認めさせることはできませんでした。むしろ、二
人がイエスだと分かる瞬間は、もう少し後のこと、つまり、彼らが食卓につき、
そこで主イエスがパンを裂かれた時に初めて訪れたのです。それまで遮られてい
た二人の目は、そこでやっと開かれるに至ったのです。
ルカだけが伝えています今日の物語は、物分かりが悪く、心の鈍い二人の弟子
たちのようでなく、私たちが信仰の優等生になることを求めているのでしょうか。
それはまじめで大切なことかもしれませんが、ユーモアがありません。むしろ、
ルカは、私たちの信仰の歩みはつねにキリストが私たちを捕まえてくださるとこ
ろに起こると言いたいのです。それも、私たちが期待もしなかったところで、キ
リストは私たちのことを捕まえてくださるのです。
キリストは、エマオに向かうクレオパと無名の弟子たちの旅に入り込んでおい
でになられました。落ち込んで、暗い気持ちに沈んでいた彼らに寄り添って歩き、
問いかけ、嘆き、懇々と聖書を説き明かしになりました。そして、
「共に泊まって
ください」という弟子たちの不躾な頼みを聞き入れ、みずから食卓を導きパンを
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裂かれたのです。
そのところで、二人の弟子たちの目が開かれます。彼らは、それが主イエスだ
と分かったのです。主イエスが復活して生きておられることを彼らは知ったので
す。しかし、ここでもルカは、またもやユーモアのセンスを発揮します。何と、
二人の弟子の目が開け、主イエスだと分かったその時に、その主イエスの姿は見
えなくなったと言うのです。それまで目を遮られていた時には、それがイエスだ
とは分からなかったとしても、彼らはその姿をはっきりと見ていたはずでありま
した。しかし今度は、遮られていた目が開かれ、自分たちと共におられたのが主
イエスだと分かった瞬間に、主イエスの姿は見えなくなったというのです。最初
は、見えていたのに、イエスだとは分からなかった。しかし、今や分かるように
なって、今度はイエスの姿が見えなくなったとルカは言うのです。
そのようにユーモアをもって、ある意味ちぐはぐした書き方をしますルカにと
って、このとき直面していた問題がありました。それは、復活の主イエスに直接
出会いました使徒たちよりも後の時代に属するルカの信者たちが、どうやって生
きておられる主イエスと出会うことができるのか、という問題でした。このとき
には、復活の主は天に昇り、その姿を見ることはできなかったからです。今日の
物語に、クレオパという名の、11 使徒とは関係のない弟子と名前の分からない弟
子を登場させることで、ルカはそのことを暗に示そうとしたのかもしれません。
そして、二人の目が遮られていたことや、暗い顔で彼らがエルサレムを去らねば
ならなかったことも、復活の主と出会った使徒たちとは異なる状況の中で信仰に
生きることの難しさというものが背景にあったのかもしれません。
ルカはそのような中で、エマオの旅の物語を著しました。ユーモアのセンスを
もって、すなわち、神がご覧になるその目でもって、エマオの旅を、そして、自
分たちの信仰の歩みを描いたのです。そして、自分たちを取り巻く状況がたとえ
どのようなものであったとしても、神は自分たちを手離されることはないという
こと、もはや自分たちが期待もしていなかったところで神は自分たちを驚かすこ
とを御旨となさるということを、ルカはこの物語を通して教会に語りたかったの
です。
ルカがそこで、キリストに捕まえられるということについて思いめぐらしてお
りましたのは、単に個人的で、かつ神秘的にキリストと出会うという経験以上の
ものでした。むしろ、ルカにとりまして、キリストに捕まえられるとは神の歴史
に捕まえられるということ、今ここにいる私たち自身が神の救いの歴史の一部分
になるということでした。
「メシアは、こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」
(26 節)。ついこの間エルサレムで起きた出来事が神の約束のもとにあったことを、
主イエスは二人の弟子たちに想い起こさせようとなさいます。そして、彼らが十
分に知っておりました御自身の生涯を、気の遠くなるようなはるか昔に神がお始
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めになられた救いの歴史のパノラマに置いてみせられるのです。それが、「モー
セとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(27 節)説明なさったことの
意味です。その大きな救いの歴史全体が、今自分たちの前におられる方へと流れ
込んでいるのです。そのようなお方が自分たちの傍らにおられたことに弟子たち
は気づくのです。
ルカによれば、食卓の席で主イエスがパンを裂いてくださったときに、二人の
弟子たちの目が開かれたと言います。それは、私たちが言うところの聖餐である
と言ってよいでしょう。けれども、ルカが告げている主がパンを裂かれたときに
開かれた二人の弟子たちの目というのは、いわば今ここに臨んでおられるキリス
トを見るためのものではないようです。というのは、キリストの姿はすぐに見え
なくなったと言われているからです。むしろ、そこで弟子たちが開かれた目で見
たのは、自分たちの旅にキリストが共におられたということ、聖書が説き明かさ
れるところにキリストが確かにおられたということでした。それは、自分たちの
歩みにキリストが共にいてくださるということ、いいえ、そこにいたのはキリス
トに捕まえられている自分たちであったということを、弟子たちに理解させたの
です。
それは、この世にキリストをお遣わしになることを約束し、事実、この世にお
遣わしになられたキリストを十字架の死の苦しみを通して復活させられた神の救
いの歴史の一部分に、二人の弟子たちはなったということです。それは、まこと
に小さな部分であるかもしれませんけれども、確かにそれは救いの歴史の中を歩
ませられている一部分なのです。そのことを、神は時至って彼らにお示しになり
ました。それは、神みずからがそうすることをお望みになられたからにほかなり
ません。
今や二人の弟子たちは、旅の向きを変えてエルサレムへと戻ります。そこで二
人は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに主イエスだと分かっ
た次第を説明します。それは、キリストが自分たちを捕まえてくださったことの
報告でもあるのです。そのことを、二人は十一人の使徒とその仲間がいるとこと
で報告するのです。すなわち、主の復活について語る使徒たちの声に、エマオの
弟子たちは自分たちの声を重ね合わせるのです。それは、どんなに誇らしく、喜
びに満ちたものであったでしょうか。
エマオの旅は、また私たちの旅です。そこには主からお叱りを受けなければな
らない私たちの短所があります。しかし、そのような私たちの旅を、キリストは
ユーモアのセンスをもって御自身の栄光のもとにおいてくださるように願いたい
と思います。そして、今を生きる私たちが、神がお始めになられた救いの歴史の
一部分とされていることを、驚きをもって見つめる者でありたいと思います。こ
ののち、聖餐に与かります。私たちの生涯が、キリストに捕まえられたものであ
ることを想い起こし、主を喜びほめたたえたいと思います。
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