国際理解教育研修会 平成 28 年度 在外教育施設派遣教員帰国報告会 (2016 年度) 主 催 兵庫県海外子女教育・国際理解教育研究会 共 催 兵庫OV教員研究会 青年海外協力隊兵庫県OB会 後 援 兵庫県教育委員会 神戸市教育委員会 期日: 平成 28(2016)年 6 月 11 日(土) 会場: JICA関西(神戸市中央区) JICA関西 は じ め に 兵庫県海外子女教育・国際理解教育研究会 会 長 丸 山 一 則 「日本人学校と協力隊をつなぐもの」 今年の帰国報告会も日本人学校からの帰国者、青年海外協力隊からの帰国者、 両 方のお話を聞くことができること、本当にうれしく思います。教員という身分か ら 世界に飛び出し、日本ではない外国で教育に関わってきた者が、再度、兵庫の地で子 どもたちを前にしていること。そこには、様々な、だからこそできる実践が渦巻 い ているものと想像しています。 世界のどこであっても、日本の学習指導要領に添って、日本人としての教育に 携 わらねばならない日本人学校教師。そこには「誇り高き日本人を創る」という高 い 理念が育まれています。その上で、世界のその地でしか学ぶことのできないグロ ー バルな視点を加味した年間学習計画の中で日々の教育がおこなわれています。 そして、青年海外協力隊。教育分野というくくりはありますが、世界の途上国で、 その国の人たちと同じ生活をしながら、日本の教育をまったく離れて、その国の国づ くり人づくりに邁進する2年間。言葉も生活も教育システムもまったく違うとこ ろ で、これまで自分が身に付けてきた力をどう活かしていくか考え、つたない現地語で 協力者を見つけ、行動に移し、結果を出していく。しかも、ひと月の手当は数万円。 日本の教育そのものを持って世界に出て行く日本人学校と途上国の中にどっぷ り 浸かってから自分にできることを探していく協力隊。全然違うのですが、今、目 の 前にいる子どもたちの目線から見たとき、それは「世界を知っている先生が僕た ち の前に立っている」ということ。ワクワクしながら教室で待っている子どもたち 。 この帰国報告会は、そんな子どもたちと同じ気持ちになれる一日です。楽しみです。 この春に帰国された方々の報告は世界の今を教えていただけます。そして、世 界 を知ってしまったこの心はこれからの長い教員人生の支えとなります。教育は一 人 ではできません。ぜひ仲間と共にこの経験を目の前の子どもたちのために末永く 活 かしていきましょう。 終わりになりましたが、本年度の帰国報告会を開催するにあたり、JICA 関西を は じめ、兵庫県教育委員会、神戸市教育委員会、そして、兵庫OV教員研究会、JOC V兵庫OB会など、たくさんの方々のご支援・ご協力をいただいておりますこと心よ り感謝申し上げます。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。 国際理解教育研修会 -平成 28 年度在外教育施設派遣教員 1 日 時 平成 28 年 6 月 11 日(土) 2 場 所 JICA 関西 (神戸市中央区脇浜海岸通 1-5-2 3 日 程 9:30 受付 9:50 開会行事 ① 開会あいさつ 帰国報告会- 午前 9 時 50 分~午後 5 時 15 分 ℡078-261-0341) 兵庫県海外子女教育・国際理解教育研究会会長 豊岡市立八代小学校長 校長 丸山 一則 青年海外協力隊兵庫県OB会 会長 阪井 園子 ② 来賓あいさつ ③ 事務局より 10:20 帰国報告Ⅰ(1人30分) ① クアラルンプール日本人学校 10:20~10:50 ② 上海日本人学校(浦東校) 10:50~11:20 ③ 青年海外協力隊(モロッコ) 11:20~11:50 ④ デュッセルドルフ日本人学校 11:50~12:20 12:30 レン 直子 神戸市立大沢中学校 小畑 幸一 神戸市立西落合中学校 西川 緑 シニア派遣・赤穂市 司波 伸作 神戸市立池田小学校 平田 典子 明石市立高丘東小学校 水田 良 姫路市立安室小学校 福島 ひとみ 丹波市立青垣中学校 渡辺 克己 神戸大学附属小学校 橋本 哲志 神戸市立伊川谷小学校 青山 香代 兵庫OV教員研究会 会長 三田市立母子小学校 山崎 丈 昼食(1時間) 13:30 帰国報告Ⅱ(1人30分) ⑤ ジャカルタ日本人学校 13:30~14:00 ⑥ コロンボ日本人学校 14:00~14:30 ⑦ 青年海外協力隊(ボリビア) 14:30~15:00 <休 三田市立ゆりのき台中学校 憩(15 分間)> ⑧ シンガポール日本人学校(中等部) 15:15~15:45 ⑨ ジッダ日本人学校 15:45~16:15 ⑩ ロンドン日本人学校 16:15~16:45 17:00 閉会行事 ① 閉会あいさつ ② 事務局より ※時間はおおよその目安です。また、都合により発表の順序を入れかえることがあります。 帰 国 報 告 書 目 次 (当日発表) 1 クアラルンプール日本人学校 三田市立ゆりのき台中学校 レン 直子 ・・・・ 1 2 上海日本人学校(浦東校) 小畑 幸一 ・・・・ 3 3 青年海外協力隊(モロッコ) 神戸市立西落合中学校 西川 緑 ・・・・ 5 4 デュッセルドルフ日本人学校 シニア派遣・赤穂市 司波 伸作 ・・・・ 7 5 ジャカルタ日本人学校 神戸市立池田小学校 平田 典子 ・・・・ 9 6 コロンボ日本人学校 明石市立高丘東小学校 水田 良 ・・・・ 11 神戸市立大沢中学校 7 青年海外協力隊(ボリビア) 姫路市立安室小学校 福島 ひとみ ・・・・ 13 8 シンガポール日本人学校(中等部) 丹波市立青垣中学校 渡辺 克己 ・・・・ 15 9 ジッダ日本人学校 神戸大学附属小学校 橋本 哲志 ・・・・ 17 10 ロンドン日本人学校 神戸市立伊川谷小学校 青山 香代 ・・・・ 19 11 香港日本人学校 明石市立魚住中学校 今村 美紀 ・・・・ 21 12 バンコク日本人学校 尼崎市立立花西小学校 西村 純 ・・・・ 23 13 ハノイ日本人学校 尼崎市立武庫東中学校 松下 千里 ・・・・ 25 14 ロンドン日本人学校 たつの市立小宅小学校 森田 郁子 ・・・・ 27 15 ブラッセル日本人学校 県立芦屋国際中等教育学校 貞松千佳子 ・・・・ 29 16 ウィーン日本人学校 宍粟市立山崎東中学校 杉山 建一 ・・・・ 31 17 青年海外協力隊(セネガル) 神戸市立港島学園 石動 徳子 ・・・・ 33 18 青年海外協力隊(ベナン) 仙波 里枝子 ・・・・ 35 (紙面発表のみ) 川西市立北陵小学校 クアラルンプール日本人学校に赴任して 三田市立ゆりのき台中学校 レン 直子 1 マレーシアの概観 マレーシアは、アジア大陸の最南端マレー 半島の南部を占める半島マレーシアと南シナ海 をへだてたボルネオ島(カリマンタン島)の北 西部を占める東マレーシアからなる熱帯の国で ある。半島マレーシアには11の州と東マレー シア2州の13州で構成される連邦国家であり、 首都クアラルンプールとプトラジャやヤと東マ レーシアのラブアン島は連邦特別区になってい る。 半島マレーシアは南シナ海とインド洋、東マ レーシアは南シナ海に面しているため、アジア 季節風の影響を受けて高温多湿で、降水量も多く、四季の変化は認められないが、季節風によって、 「北東モンスーン期」(雨期)10月~2月、「微風期」(高温多湿)3月~4月、「南西モンスー ン期」(乾期)5月~9月、の3つの時期に分けられる。熱帯特有の「スコール」4月から6月に多 く、青く澄みきった南国の空が、風のざわめきとともに急にかきくもり、雷を伴う大粒の雨が激しく 地面をたたきつける。 国土面積は約33万平方キロメートルで、そのうち70%は熱帯性のジャングルで覆われている。 人口は約3000万人で、その人種構成はマレー系、中国系、インド系住民および少数民族から成り 立っている。人口の内訳は、マレー系住民が約67%、中華系住民が約25%、インド系住民が約7 %となっている。 多民族国家であるマレーシアではマレー語、英語、中国語、タミール語に加え、先住民たちの使う 言語など様々な言葉が使われている。それら多くの言語の中で、英語は各民族間の共通語を担ってお り、クアラルンプールの日常生活では広く使用されている。イスラム教が国教であり、マレー系を中 心に信仰されており、中国系は仏教、インド系はヒンドゥ教徒が多い。また、イギリス植民地時代の 影響でキリスト教徒もいる。それぞれの民族が独自の文化、言語、宗教、生活様式を保ちつつ、互い を尊重して生活している。 マレーシアの人々は概して親日的である。その背景には1981年、当時の首相モハメド・マハテ ィールが「東方政策(Look East Policy)」を提唱し、推し進めたことが大きく影響している。198 2年から始まったこの政策で2006年までに日本に留学、研修に約8000人が派遣され、マレー シアに帰国後は政府機関や企業のリーダーとして活躍している。2010年マレーシアに進出してい る日系企業は1407社、2013年在留邦人の数は21385人と日本とマレーシアの親密さを物 語っている。また長期滞在者数の増加もみられる。 2 クアラルンプール日本人学校の概要 学校の名称:在マレーシア日本国大使館付属・ クアラルンプール日本人会日本人学校 The Japanese School of Kuala Lumpur 所在地:Saujana Resort Seksyen U2, 40150 Shah Alam, Selangor Darul Ehsan, Malaysia 学校教育目標:たくましいからだ、ゆたかな心、 優れた知性と国際性を備えた児童生徒の育成 生徒数:幼稚部児童数 89名 小学部児童数 584名 中学部生徒数 166名 -1- 学校沿革:1966年11月22日小学部、1970年幼稚部、1971年中学部開設。2度の舎移 転を行い、現在のスバン校は1993年から使用。今年創立50周年を迎える。 3 特色ある教育活動 (1)EC(English Communication) 小学部・中学部で週2回、英会話の授業を行っている。現地のネイティブの英語教員による コミュニケーションを重視した英語活動である。8名程度の少人数クラスで、授業はすべて 英語で進められる。クアラルンプールでは街中で日常的に英語が使われているため、学んだ 英会話を実践できる機会も多くあると言える。 (2)イマージョンスイミング(Immersion Swimming) 常夏のマレーシアでは、1年中プールでの活動が可能である。そのため、週1回の水泳の授 業を行っている。2名のマレーシア人の水泳コーチと体育教員の計3名で指導を行う。指示 や指導は英語で行われる。Immersion とは、未修得言語を身につける学習方法のひとつで、英 語の Immerse(浸す)が語源である。 (3)国際交流会(International Cultural Exchange) 小学部1年生から中学部3年生まで、現地の学校との交流会を行っている。中学1年生は現 地校を訪問する。事前学習としてマレー語学習をしたり、日本の歌や遊びを紹介する準備を 行う。中学2年生では現地校を招待する。日本のかるたをしたり、書道をしたり、調理実習 を現地校生徒と行う。中学3年生では現地校を招き、盆踊りの練習を行う。そしてクアラル ンプールで開催される世界最大の盆踊り大会といわれる盆踊り大会の櫓の上で日本人学校の 男子は太鼓を叩き、女子と現地校生徒は踊りを踊る。毎年3万5千人ほどの人たちが訪れる 大きな行事である。 (4)サークル活動 クアラルンプールでは、気候や治安の問題から、子どもたちが自由に体を動かす時間と場 所の確保が難しい。放課後の時間を活用し、運動量の確保と仲間づくりを目的として週3 回のサークル活動を行っている。小学校5年生から中学校3年生の希望者が、サッカー、 吹奏楽、バスケットボール、バドミントン、バレーボールなどのサークルに入り、活動し ている。民族学校間の公式戦やインター校、現地校との交流試合にも参加している。 (5)カンポンホームステイ 小学5年生から中学3年生を対象とした、都会から離れたのどかなマレーシアの田舎で2 泊3日マレーシアの家庭へホームステイさせてもらうプログラムである。マレー系の家庭 に滞在させてもらい、寝食を共にする中で昔ながらのマレーシアの人たちの生活様式を学 ぶことができる。 (6)墓地清掃 年に3回、クアラルンプールにある日本人墓地の清掃を行っている。日本とマレーシアの 架け橋として活躍し、現在の日本人会の礎を築いた先人に思いを馳せながら清掃作業をす る。 4 成果 海外で生活すると言うことは想像以上に過酷であるということを実感した。その中でも子どもた ちは生き生きと学び、成長し続ける。日本と外国との架け橋となるべく、また世界で活躍するであろ う子どもたちの教育に関わることができたことをありがたく思った。また異なった宗教や生活様式を もつ子どもたちと接することにより、個々のアイデンティティを大切にすることを意識させられた。 季節感を感じることのできない日々の生活の中で、日本の文化を教えることにより、自国の文化を更 に深く理解する機会でもあった。何よりも日本全国から集まった仲間たちと共につくりあげる一年は 得るものも多く、新しいことへの挑戦も多く、教師としての可能性を広げることのできた三年間だっ た。ここでの貴重な経験を日本にいる子どもたちに伝え、地球人としての子どもたちの育成に寄与し ていきたい。 -2- 上海日本人学校浦東校に赴任して 上海日本人学校浦東校(神戸市立大沢中学校)小畑 幸一 1 中華人民共和国上海市の概要 中華人民共和国は,日本の国土の約 25 倍,人口は約 13 倍もある。古くから日本は中国に学び,日本 の伝統や文化に大きな影響を与えてきた。 上海は数百年前までは小さな漁村の1つであったが,長江の支流(人工運河)である黄埔江に沿って 旧租界(米英仏日)が形成され,外圧によって急速に近代化が進められた。アヘン戦争の舞台となるな ど,負の歴史もかかえる。近年,国際的な都市へと急成長し,今では中国で一番活気のある,魅力あふ れる国際都市へと発展を遂げてきた。上海市(直轄市,面積約 6000 万㎡,常住人口約 2400 万人) 上海市はアジア経済の牽引都市であり,世界の金融・運輸・製造・商業・サービス業などの物流の拠 点として,日本とも大きなつながりをもつ。そのため在留邦人も多く,約 5 万人が生活している。ただ し,様々な事情により現在はやや減少傾向にある。 上海市の緯度は鹿児島とほぼ同じである。南東貿易風帯に属しているため,夏は太平洋高気圧の影響で 南東風が強く,高温多湿。冬はシベリア・モンゴル方面にある高気圧の影響で北西風が強く,低温乾燥。 日本の関西地方と比べると夏冬が比較的長く,初秋が短いという印象がある。 2 上海日本人学校浦東校の概要 上海日本人学校虹橋校の児童生徒数が増大し,受け入れが困難になったため,新しく上海の浦東区に 設置された上海第二の日本人学校で,開校して 11 年目になる。 2015 年度 4 月,小学部児童 652 名,中学部生徒 510 名,計 1162 名,小中併せて 47 学級の大規模校 である。教員は 73 名で現地スタッフも含めると 120 名を超える。 1975 年,上海補習授業校が上海総領事館の一室を借りてスタート 1987 年,総領事館付属上海日本人学校が開校 1996 年,現在の虹橋校に移転 2005 年,設置者が総領事館から上海日本商工クラブへ変更 2006 年,浦東校を開設(全中学部と小学部の一部が移転) 2010 年,中華人民共和国教育部より外籍人員子女学校の認可 2011 年,高等部の設置(浦東校の校舎の一部を使用) 本校は,文部科学省学習指導要領に準拠した初等中等教育を実施することを目的としている。校訓は 「独歩・博愛」であり,知育・体育・徳育のバランスのとれた児童生徒の育成はもちろんのこと,上海 ならではの教育活動の展開により国際性豊かな児童生徒の育成に努めている。 開校以来,登下校は保護者の責任のもとに行うということから,バスで通学する場合のバスの手配等 に学校は関知していなかったが,2014 年度 12 月に上海市当局より学校に対して,保護者手配によるバ スは認めないとの指導があった。2015 年よりバスの契約はバス会社・学校・保護者の三者で行い,運 営は保護者で行うということになった。 3 特色ある教育実践 (1) 中学生中国語日本語スピーチ大会 「将来,中日の架け橋になる子どもが育ってほしい」という願いを込めて,1997 年,中日国 交正常化 25 周年を記念してはじめられ,昨年で 19 回行われている。 「友好親善に関すること」,「同世代に訴えたいこと」,「未来への展望」をスピーチの題材と して, 「上海市甘泉外国語中学校」, 「上海外国語大学付属外国語学校」, 「上海中学国際部」など, 上海市の中学の生徒が日本語で,本校の代表生徒が中国語でスピーチを行い交流する。互いの 考えを知り,広く国際理解を深める機会となっている。 (2) 現地校交流 学年別で交流校を決定している。隔年で交互に,訪問と招待で計画することを理想としてい る。歌やダンス(踊り)の披露など文化の紹介と,個人やグループでの直接交流を組み合わせ ている学年が多い。児童生徒の発達段階に応じて,交流内容を工夫している。 小学校低学年の折り紙などの遊びでは,簡単な中国語と身振り手振りでコミュニケーション をとっている。中学生では中国語だけでなく英語でコミュニケーションをとる場面も見られた。 中学生の合唱は中国の生徒にとって驚きがあるようである。 (3) 英会話・中国語の授業 全学年で,ネイティブの講師による授業を,それぞれ週 1 時間実施している。クラスは児童 生徒の発達段階に応じて編成している。小学校高学年以上では習熟度別少人数のクラス編成を 行っている。 中国語の教科書については,小学部は虹橋校が作成に携わったものを使用している。一昨年 度,本校の講師の派遣元に依頼して,オーダーメイドの中学部用中国語教科書を作成し,昨年 度より使用している。 (4) 特別支援学級の設置 約 10 年前に開設したようであるが,開設に至るいきさつや事前の準備に関することがはっき りしていない。在外施設であるため,国の制度による裏付けがないため,本校としての対応の 限界を説明の上,受け入れている。昨年度より受け入れ手順を整理し,申込期限を設けて年一 度の受け入れとした。小学部のみの在籍となっている。 (5) 大気汚染に対する対応 2012 年度途中より,PM2.5 についての対応が話題に上るようになり,学校として対応策を検 討した。2013 年 1 月より,基準を示し,情報収集しながら試験的な運用を行った。上海市の HP の数値と対応の判断基準よりやや厳しめの対応となった。北京日本人学校の対応と比較した が,上海の基準の方が厳しい対応となった。2013 年度は屋外での活動を禁止する日が数日あっ たが,2014 年度以降は年ごとに数値の状況は改善されている。 4 成果(派遣教員としてえたもの) 私の上海への派遣は二度目である。10 年前に知り合いのメーカーの方から, 「中国での物づくりはう まみがなくなった。」のような,人件費高騰の話題を聞いたことがある。あわせて「これからは中国を マーケットとして考える時代だ。」ということも聞いていた。しかし,まわりのようすを見る限り, 「高 価な日本の製品を買うことのできる中国人がどれだけいるのだろう」と,率直に思った。ところが,こ の 10 年の間に上海の状況は大きく変貌を遂げ,上海市民の生活レベルは明らかに向上したと思われる。 それに伴い,日本人の上海での生活は大変便利になり,駐在されている方や,派遣教員の意識に変化が 表れてきたように思う。昔は不便だったが,みんなが自分のことは自分でやらなければと思っていたと 感じる。たった 10 年だが,そう感じてしまった。さらに昔の先輩や他の都市で危険や不便の中で暮ら している方はもっと感じるのではないだろうか。 一度目の派遣は,2003 年からの 3 年間であった。初の小 6 の担任を皮切りに,中 2 まで同じ学年を 持ち上がった。小 6 の担任の時は初任者のような気持ちで,となりのクラスをよく偵察に行ったもので ある。中学では専門の理科だけでなく,技術の授業も受け持った。それなりに自信をもって赴任したの で,切磋琢磨と言いたいところだが,周りに教えられることの方が多かったように思う。そして,少し だけ広い世界を見て,自分はひとまわり成長したと思っていた。 今回の派遣は,教頭職として管理する立場で任務を遂行することになった。まず,よく知っているは ずの上海のことを実は全然わかっていなかったことに気づいた。日本と同等の教育活動を上海で実施す るために,どれだけ地均ししないといけないか,甘く見ていた自分に気がついた。自分の後ろには校長 しかいないと思ったら,全部自分で止めなければいけない。大変骨の折れる仕事が自分を待っていた。 これまでの自分は面倒なことを他人に任せることが苦手だった。しかし,面倒なことも他人に任せなけ れば組織は回っていかないことに気づいた。私の周りには多くの優秀な派遣教員がいて,本当に助けて もらった。感謝の気持ちでいっぱいである。 上海日本人学校浦東校では,学校採用の教員を選ぶ際,経歴や経験より,その人の伸び代を期待して 採用した。必然的に若い人が多くなった。ゆとり世代の若者の才能はすごいと素直に認めたい。 モロッコ王国の中学校に赴任して 神戸市立西落合中学校 1 西川 緑 モロッコ王国の概要 面積 44.6 万平方キロメートル(日本の約 1.2 倍,西サハラ除く) 人口 3,392 万人(2015 年 首都 ラバト 民族 アラブ人(65%),ベルベル人(30%) 言語 アラビア語(公用語) ,ベルベル語(公用語),フランス語 宗教 イスラム教(国教)スンニ派がほとんど 世銀) ※外務省 HP より モロッコは、アフリカの北西に位置している。1956 年に独立し、日本とも同年に認証している。フランスと は歴史的な関わりとともに,モロッコにとって最大の貿易相手国であり,経済・技術協力,人的交流等極めて緊 密な関係にある。また、同じアラブ・イスラム諸国との関係に加え,アフリカ,地中海諸国の一員として,これ らの国との密接な関係を有している。地理的に隣接する欧州や歴史的に関係の深い米国とも良好な関係を有する など,柔軟で多角的な外交を行っている。 首都ラバトや、経済都市カサブランカにおける人々の生活の様子は、一見近代的かつ西洋風で、JICA の支援 を要する途上国とは思えない。しかし、一歩郊外に出ると、生活状況の不安定さから治安が問題視される地区が みられることもある。また、農村部では、インフラやライフラインの整備が未発達のままの生活も多く、明らか な都市と地方との生活格差がみられる。 任地のタハナウトは、モロッコ第3の都市マラケシュからバスで 1 時間の町である。農業と少々の観光業が町 の産業であるが、町人の多くはマラケシュへ働きに行ったり、隣町で鉱物掘削のために働いていたり、町内で商 店を経営して生計を立てていたりしている。 2 赴任校の概要 モロッコの中等理科教育は、物理化学分野の PC と、生物地学分野の SVT とに分かれており、どちらも週 1 回 2 時間続きの授業が行われている。PC と SVT は別の教師が担当しており、学習内容が交流されることも全く ない。また、授業や試験はアラビア語で行われるが、重要理科用語は、アラビア語とフランス語と両方を学ぶ。 また、高校では、アラビア語とフランス語での理科授業を希望により選択できる学校もある。そして、大学以降 は、全ての理科授業はフランス語か英語で行われると聞いている。 アルハウズ県タハナウト市内には、2つの公立中学校がある。 ベアランザラン中学校は、各学年9クラス、各クラス 50 人程度の生徒が学んでいる。理科の先生は同じ敷地 内に高等学校も併設されているため、実験器具や教室は共同で使用している。SVT で使える理科室は2つあるが、 同時に3~4人の先生が授業を行うため、一年間理科室を使えない学級もある。1年目は理科助手が在籍してお り、道具や試薬の管理等が行われていたが、2年目はおらず、実験や観察の実施や実験室の管理に支障をきたし ていた。教科書は学校からの貸与式で、練習問題には以前の生徒が書き込みをしてしまっているものの多くあっ た。 アルマジット中学校は、各学年6~7クラス、クラスには 50 人程度在籍しているが、そのうち2~3年生は 少人数指導をしており、1グループは30人程度で学習を行っている。理科助手はいないが、先生方が毎年教科 主任を決めており、実験道具や試薬の管理を丁寧に行っている。先生達も授業改善に大変意欲的であった。 このように、同じ地域においても、学習環境の差が大変大きく、教育活動も様々な要因により大きな学校間格 差が生まれているのが現状である。 3 活動内容 (1) モロッコの理科授業の理解 市内 2 つの中学校において、モロッコの理科の先生が行う授業に参加し、授業内容ややり方を理解することに 努めた。 生徒たちの日常会話は、モロッコアラビア語やベルベル語で話されている中で、アラビア語やフランス語を用 いて行われる授業は、生徒たちにとっては大変難しいものになっており、理科を学ぶというより、アラビア語を 学んでいるのではないかと感じられる場面も、授業中や定期テスト内で見られた。また、「理科用語や科学的事 象の暗唱」に重きを置いているモロッコの学び方において、「課題解決型の理科学習」は全く新しい未知なる学 習の方法であり、現状とはかなり隔たりがあると感じられた。また、理科の単元構成についても、子どもたちの 既習事項や発達段階に応じて構成されたものに完全にはなっておらず、子どもたちが「学びにくさ」を感じる要 因の一つになっていると感じた。 (2) モロッコの理科授業への助言と改善 毎日の授業に参加する中で、モロッコの先生が行う授業の賞賛や改善のアドバイスを行った。また、先生の希 望や要望に応じて、または比較的容易に組み込めそうな提案を自ら行い、実験や観察が授業内に取り入れられる ように促した。結果、私が赴任する以前には行われなかった実験や観察教材を、先生方と共に準備しながら、そ のよさを議論したり、先生のニーズに合った教材を作ったりもし、共に実施することもできた。任期中に、約 20 程度の自作教材を、アラビア語またはフランス語で作成・データ化し、先生方や視察官と共有することができた。 また、以前は講義型の理科授業が主流であり、先生がプロジェクタに映った画像をもとにして説明をすること のみで授業が進むことが多かった。しかし、授業改善を行う中で、授業中に生徒が活動する場面も多くなり、グ ループで話し合うことも増えた。その際、生徒の考えを把握し助言するような「机間指導」の方法について、私 自身ができるだけ具体例を示したことで、先生も同じように指導をしてくれることが増えた。生徒が主体的に学 習するきっかけを作るとともに、「課題解決型授業」の基盤を作ることができたと捉える。 さらに、公開授業や研究授業をモロッコ先生とともに行い、生徒の活動を重視した理科授業を広めるとともに、 研究授業後に行う「授業研究会」というものを、モロッコの先生方や視察官に体感していただきながら、教員研 修会の方法のひとつとして紹介した。先生が互いに授業を見合い、意見交換することは、授業を向上させるため に有効な手段の一つであることを伝えられたと捉える。 (3) 日本の理科授業のよさの紹介 教員研修会や実験講習会では、日本の理科教育について紹介したり、日本式の実験観察授業を先生方に体験し ていただいたりした。視察官も先生方も、大変興味をもって日本の理科教育の様子を聞き入ってくださった。ま た、実験講習会では、先生方がまるで生徒のように顕微鏡で細胞を観察し、休憩も忘れてスケッチをする姿が忘 れられない。私が準備していた発表や実験講習会を実施した後に、モロッコの先生が、打ち合わせもなく突然に、 私とともに開発した自作教材の紹介を自主的に行うといった場面が出てきたときは、大変驚くとともに、今後モ ロッコの先生方だけで研修会が行われていくのではないかという期待を感じることができ、手ごたえを感じた。 4 成果と課題 ○ 「先生や視察官との理科授業に対する意見交換」「お互いの考え方の理解」「理解の上での取捨選択」「相 互の理科教育や教材についての学び合い」「モロッコの理科授業改善」などを行えたこと ● 「生徒に対しての十分な直接指導」が行えなかったこと ● 活動の成果の「客観的な指標による評価」ができなかったこと ☆ 日本にはないモロッコのよさを知るとともに、私自身が日本のよさを再認識できたこと ☆ 理科の面白さと理科教育の素晴らしさを再確認できたこと ☆ イスラム世界への理解の深められたこと 「デュッセルドルフ日本人学校に赴任して」 ~とにかく体力・気力が最大重要事項のシニア~ 赤穂在住(ポレポレおじさん) 司波 伸作 1 赴任地の概要 デュッセルドルフは、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン =ヴェストファーレン州の州都。ライン川河畔に位置し、ライン ・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にあ る。人口は約 60 万人。金融やファッション、世界的な見本市の中 心都市の一つである。また西ヨーロッパの中でもブルーバナナと 呼ばれる、経済的にも人口的にもとくに発展した地域内に位置し、 市内にはフォーチュン・グローバル 500 に含まれる 5 社や、いく つかの DAX に含まれている企業が本社を置いている。日本企業 の進出も盛んで、デュッセルドルフ市内には約 6,000 人の日本人 の駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈 している。1971 年にはデュッセルドルフ日本人学校も開校し、1990 年前後には生徒数 1000 名近くに まで達した。2011 年に行われたマーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティングによる世界で最 も居住に適した都市の調査では世界では 5 位、ドイツ国内では 2 位につけている。 2 赴任校の概要 (1)校舎の移り変わり 本校は 1971 年 4 月 21 日、デュッセルドルフ市オー バーカッセル区教会付属建物カニージウスハウスを仮 校舎として、小学部 5 年生から中学部 3 年生までの 43 名で開校した。小学部 1 年生から 4 年生までの 90 名は、 1972 年 5 月 3 日、同オーバーカッセル区にあるドン・ ボスコ・シューレの校舎を借りて、午後だけの授業で スタートした。 1973 年 3 月 9 日、現在の地に校舎を建設し、小学部・中学部が一つの校舎で学び始めた。1974 年 5 月の児童・生徒数は 324 名だったが、1982 年 5 月には 783 名を数えた。そこで、1983 年 8 月、 児童・生徒数増加に伴い、中学部 6 学級 175 名がランカー通りにあるドイツ人学校を借用し、授業 を始めた。1987 年 5 月には児童・生徒数が 900 名を超え、1992 年には 998 名となる。1993 年 5 月 25 日、待望の新校舎が完成し、旧校舎と合わせて 25 教室、1000 名の児童・生徒が学べる体制が整 った。しかし、児童・生徒数は年々減少傾向にあった。2001 年 7 月に中学部が愛着をもったレンガ 造りのランカー校舎を引き上げ、これまで小学部だけだった校舎に再び小学部・中学部の児童・生 徒が一緒に通うようになり、朝、同じ校門をくぐり、挨拶を交わす姿や、小学部の縦割り活動、中 学部が指導する運動会や学校祭は、本校の生き生きとした雰囲気の基となっている。 (2)子どもたちの生活の様子 子どもたちにとって、ここデュッセルドルフは大変生活がしやすい街である。登下校は子どもた ちの 6 割が徒歩、3 割が電車かバス利用、残り 1 割が自家用車で通学している。通学時間も 30 分以 内が 97%で、ほとんどの子どもたちが学校の近くに住んでいる。住居環境にもゆとりがあり、芝だ けの公園や原っぱが随所にあったり、鬼ごっこやサッカー。ドッジボールなどで楽しく遊んだりし ている姿を見かる。また、子どもたちが興味・関心・意欲さえあれば、自分の力を伸ばすことがで きるスポーツクラブや、音楽学校、バレエ教室など様々な施設がある。本校の子どもたちも放課後 を利用して、現地の子どもたちに混じって通っている。また、地域のスポーツクラブに所属して、 サッカーを楽しんでいる子どもたちもたくさんいる。日本の情報も瞬時に入手することもできるが、 ドイツ社会全体が大人の雰囲気があるせいか、あまり流行に左右されることなく落ち着いた雰囲気 の中で生活をしる。家庭と学校の役割について責任が明確になっている当地の風土の上に本校はあ るので、学校生活と、家庭を含めた校外での生活についての役割・責任がはっきりしているのが特 徴である。 (3)当校の現地校からの評判 本校はインターナショナルスクールや現地校ではできない教育活動を提供しる。現地校の先生方 と本校の授業参観や教育制度・教育内容などについて意見を交換する機会がたびたびあったが、そ の時の感想として、「教師と子どもたちが醸し出している学習の雰囲気が、非常に真剣で明るさが あり、信頼・尊敬に満ちている。また子どもたちが、教師や発表している友だちの考えをしっかり 聞いて、自分の考えも言っている。考えをより広げ、より練り上げていこうとする姿勢がある。日 本の教育は画一的・教師主導型と考えていたが、全くそんな風には感じられない、私たちの学校に も取り入れたい」という言葉が多くあった。現地校やインターから来た子どもたちの声にも「授業 の始まりやはっきりしている」「授業の展開がよくわかる」など、おおむね好印象である。 3 シニアへの道 ここ数年、シニアでの在外派遣施設への希望が多くなっていると聞く。私が経験した 2012 年の受 験の流れを参考にしていただければ幸いである。 (1)4 月 21 日~22 日 全海研主催のシニア研修に参加する。 この研修は全海研に推薦していただくための研修であり、それまでにシニアとして派遣された先 生方の貴重な経験をうかがうよい機会となった。特に、失敗談は参考になった。 (2)5 月中に健康診断を受ける。 シニアとして派遣された方の中で、やむを得ない中途帰国をされた人の大部分が体の不調 である。体の不調は仕事をする上での気力にも関係してくる。ぜひ万全の体調で受験される ことをお願いしたい。 (3)応募用紙を全海研に提出する。 ①全海研へは、各地方ブロックの会長からの推薦文も同時に提出することになるので、それ には各地方での貢献度、全海研への貢献度が必要になってくる。詳しくは兵海研に。 ②文科省に直接ではなく、全海研の推薦として、提出して いただく。 (4)7 月 22 日 文科省の締め切り (5)8 月 12 日 第一次合格発表 郵送で各自宅に連絡が来る。 (6)8 月 23 日 第二次選考(文科省で面接) 【質問事項】 ア 動機、自己アピール イ 保護者への対応(教育への関心が高い在外の保 護者へどう対応するかなど) ウ セミリンガルに陥っている子どもへの対応 エ 派遣 1 年目、2 年目、3 年目の確執について(狭い日本の考えで対応しないこと、常 に流動的な在外の教育の中で、当の子どもにとって何が一番なのかを考える必要があ る。派遣先の経験値も必要だが、シニアとしての存在がそこに問われる) (7)12 月 6 日 即派遣者発表・2 月 13 日 来年度派遣者(登録者)発表 ※ 管理職でシニアを希望する場合、そのまま管理職として、応募される方がいいかもしれな い。子どもたちはたいへんエネルギッシュである。その子どもたちと対峙する体力と気力は 相当必要である。生半可な気持ちだと日本人社会から総スカンを受けることになる。 4 成果 シニアとしてデュッセルドルフ日本人学校のような大規模校に派遣されるということに、当初は大 いに戸惑いがあった。「これは文科省のミスに違いない」「小さな学校でこそ自分が生かされるのだ」 とか、この思いは帰国した今でも同じである。振り返ってみると、校長以下現地採用の教師も含める と 40 名の大所帯の中で、自分の役割はすべての人間関係(管理職と教諭、ベテランと若い教師、派遣 時の違い、文科省派遣と現地採用教諭など)の潤滑油であったのかと思う。自分に与えられた役割の 少しはできたかと自負している。 ジャカルタ日本人学校に赴任して 神戸市立池田小学校 平田 典子 1 赴任地の外観 インドネシア共和国は、1万数千もの島々によって構成され、赤道にまたがって東西5110㎞に のびている。公用語は、インドネシア語である。民族は、大多数がジャワ人・スンダ人など約300 種のマレー系住民で構成されている。イスラム教徒が約87% を占めるイスラム教国家であり、一日5回街中にコーランが鳴 り響く。気候は、赤道直下の熱帯性気候のため、乾季(5~1 0月)雨季(11~4月)に分かれている。 首都は、ジャカルタ市で、人口は、約1017万人/2億5 500万人(2015年政府統計)である。日系企業が多く進 出し、日本人の数は、約11000人(2014年)である。 2020年の地下鉄開通に向けて総力を挙げているが、その工 事のせいかインフラ不備のせいか、渋滞がひどく、一種の社会 問題となっている。また、雨季になると、洪水も頻繁に起き、 ジャカルタ 更に移動を困難とさせている。 日本では、バリ島が観光地としてその名を知られているが、インドネシアでは、歴史的な背景から 日本人に対して大変好意的であり、そういう意味では、 私たちにとって住みやすい所であったと思う。 2 赴任校の概要 ジャカルタ日本人学校は、1968年(昭和43年)に補習校として開校し、翌年には、 『在インド ネシア共和国日本国大使館付属ジャカルタ日本人学校(Jakarta Japanese School 通称名:JJS)』 として設立(在籍数11名)。その後一度校舎を移転し、現在は、ジャカルタ市郊外のビンタロ地区に 建っている。 児童生徒数は、現在では小学部・中学部合わせて約1250名 が在籍する、世界第3位の大規模校となっている。その数は、開 校以来、1992年に初めて千人を超えるが、1998年のイン ドネシア暴動後に一旦激減する。その後、2006年の鳥インフ ルエンザ流行や2008年の世界金融危機の際には再び減少する が、社会情勢が落ち着き、インドネシアの経済が上昇するにつれ て増加の一途をたどり、現在に至っている。尚、敷地内には、幼 稚部も併設している。 また、校舎は小学部・中学部が職員室を中心にはさんで左右に配置されており、各階でつながって おり、実質小中一貫教育のような形態をとっている。小中合同で行う行事や交流学習を多く実施して おり、その企画立案のための職員会議は、毎月一回合同で行われている。 登下校については、児童生徒の約8割がスクールバスを利用しており、小学部中学部共にほとんど 毎日、同時刻に登下校している。朝は、遅くとも現地時刻7:20には、到着している。また、下校 は、14:50の定刻バス発車となっている。これらの早めの時間設定は、渋滞を避け、児童生徒が 安全に通学できるようにとの配慮である。 3 特色ある教育活動 (1)JJS体育祭 全校生が、小学部グラウンドにて同一プログラムで行う行事である。児童生徒数が多い上に、保 護者や来賓、日本人会のメンバーも多数来校することから、何千もの人々が集まる大行事となってい る。地元フリーペーパー『南極星』でも特集を組まれるほどの、日本人社会の中での一大イベントと なっている。この行事のプログラムでは、日本の運動会で見かける種目はもちろんのこと、日本の踊 りやインドネシアの民舞を取り入れた表現種目など、見所満載である。 また、全校生が五色の色グループに分かれ、熱気あふれる応援合戦や 色別リレーなどの種目もあり、中学生が中心となって小学生をまとめ たり一緒に練習したりと小中の交流が活きる行事となっている。 (2)JJSフェスティバル 二日間に渡って行われる行事である。内容は、小学部が「学習発 表会」、中学部が「音楽コンクール」をメインに開催し、「小中交流(各クラスや保護者会がお店を出 し合って交流し合う) 」や日本人会とコラボして行う「お神輿担ぎ」や得意分野を披露する「有志発表」 で構成され、盛りだくさんで日本人会を巻き込んで行う2大行事の一つとなっている。 (3)国際交流(インドネシア理解) 日本文化を大切にしつつも、在インドネシアである限り、その文化や習慣は大切にしなければな らない。そこで、以下の活動を大切にしている。 ① 現地校交流 小学部1年生から中学部3年生までの全学年で実施している。現地の学校とそれぞれがアポ イントを取り、発達段階に応じて交流を行っている。相手校が来校したり、こちらが訪問した りと頻繁に行き来している。JJSフェスティバルの合唱コンに招待してインドネシア舞踊を 披露してもらうなど、積極的に現地校交流を行っている。 ② インドネシアの文化、伝統、自然などについての学習活動を大切に行っている。インドネシアの諸民 族の衣装を着てみる体験。博物館などの見学。珍しい植物や動物、昆虫についての学習、インドネ シア楽器の演奏など、様々な方面の学習活動を行い、インドネシアならではの学習に力を入れてい る。 また、有志の保護者を中心にインドネシアについて学習をしている団体、 「ヘリティジ」の皆さん を招いて、インドネシアの特性を多岐に渡って知るために楽しく学習を行っている。 (4)水泳学習 熱帯地帯の恩恵に預かり、週一時間、通年で水泳学習を行っている。また、近年は、中学部の 水泳専門の体育教師がいたために、出前授業の形態を取り、指導にあたってくれた。また、各パー トには、プールが設置されており、子供たちにとって、とても身近な遊び場なっていることから、 水泳学習に対する関心が高いと言える。インドネシア社会の特性や気候により、運動量が極端に少 ない中、貴重な体力アップの場となっている。 4 成果 常に安全を意識した3年間であった。洪水が起これば、重度の渋滞が起き、子供たちが帰宅でき なくなる恐れがあったり、帰任を目前にテロ事件が発生したりし、「外国で、子供たちを守りつつ、 日本の教育を大切にする」ことの重要性を肌で感じることができた。これは、平和な日本の中では、 感じることのできない経験であった。 また、本校が抱える課題として、学習の二極化を感じざるをおえなかった。つまり、インドネシ ア家庭の抱える問題である。日本語を母語としない母親がいる家庭と日本人家庭での、習慣や教育 方針の違いによる温度差を感じずにはいられなかったが、そのギャップをどう解消していくか。日 本語教室というサポート体制もあるが、まだまだ本格的に機能するには課題がある。そして、イン ドネシア家庭の割合が増加している現状は、本校にとって大きな課題であると言える。 日本人学校の抱える課題の二つ目である、転出入の多さである。日本全国から企業の事情に応じ て人事異動がなされる中、自身のクラスでは、転出8名、転入12名の総勢20名の入れ替わりで ある現状があった。それを受け入られる学級経営を迫られていることに気がついたことは、大きな 収穫と言えよう。 ただ、保護者は、非常に協力的であり、何よりも良いことは、インドネシアを好きでいてくれた ことである。大人がそういう意識でいる限り、子供たちもそうであると感じた。日本とインドネシ アの架け橋を担っていく重要な役割に携われて、心からよかったと思う。
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