ピカソの陶器と日本陶磁 ―陶器芸術における伝統と近代1― 田口知洋 「要旨」 戦後まもなくピカソは陶器の作品を発表し、パリっ子たちはその革新的陶器の出現に驚き ながらも戦争からの開放感を味わった。それからまもなく当時の現代日本陶磁がフランスに 渡り、ピカソの陶器と合同で展示され評判を呼んだ。一方ピカソの陶器が日本で紹介される とその評価は二分した。画家達は概ねピカソの陶器の出現を喜んだが、製陶の伝統が長い日 本ではピカソの革新的なやり方に拒絶反応を示す者も出た。もともと西洋と東洋では陶磁器 発展の背景が異なる。日本では近代化の過程で西洋の近代窯業の技術を取り入れそれを器用 に咀嚼したが、それはまさに「技術」の咀嚼であって、「思想」の咀嚼とは言い難かった。ピカ ソの陶器には西欧文明の伝統である人間中心主義の思想が、「人間疎外の近代」をかい潜って 蘇生している。一方日本の陶磁は「個の確立」の近代を通過してもなお、自然に従属して生き る事をこの上なしとする人間観が投影されている。 【キーワード】伝統と近代、ピカソ、加藤唐九郎、ヴァロリス、愛知万博 1.はじめに 『変容』の画家パブロ・ピカソ(1881−1973)は 60 代半ばに陶器の制作を始めた。その作風 は 20 世紀絵画を変革した第一人者らしく極めて前衛的なもので、それらは、戦後間もないヨー ロッパの美術界に驚きをもって迎え入れられた。そしてこの一報は、敗戦後の貧困と混乱に喘 ぐ日本にも直ちに伝えられ、国際社会への復帰を模索する日本の美術界や陶芸界に大きな衝撃 を与えた。そこに突然、フランスから日仏美術交換展開催の話が持ち込まれ、戦争で寸断され た日本とフランスの美術交流が復活することとなった。フランスからは終戦の年に新しく始ま ったサロン・ド・メイの絵画が日本で公開され、日本からは『現代日本陶磁展』と銘打ち、当 時の現代陶磁器が戦後始めてパリのチェルヌスキー美術館で披露され人気を呼んだ。その後、 『現代日本陶磁展』は、ピカソが陶器制作に手を染めた南仏の小さな製陶の町ヴァロリスにも 巡回し、ピカソの陶器と合同で展示された。 ピカソの陶器には、地中海やイベリア半島の文明を原点としながら、世界各地の陶磁器の伝 統が巧みに取り込まれている。一方、戦後間もない日本では、あらゆる分野で伝統の継承とそ の革新が問われ、明治以降近代化を模索してきた陶器芸術においても、新たな変革の息吹が胎 動しつつあった。このような時期に、当時の日本を代表する『現代日本陶磁展』がフランスで 開催され、しかも、ピカソの陶器芸術と直接関わりあった事は、その後の日本陶磁の国際化― つまりは、日本陶磁への国際的な評価の高まりと、国際的視野の広がり―という点から見ても 大変意義深い事であった。また、創造のための豊かな源泉として伝統の取り込みを常に意識し たピカソにとっても、日本陶磁の新しい息吹と根強い伝統に直接接した事の意義は大きいと言 える。 この小論では、西洋と東洋という異なった土壌の上に結実したピカソと日本の陶器芸術の出 会いの経緯とその波紋を詳述し、陶器芸術にとっての伝統と近代2の意味について考察する。 2. 日仏交換美術展 フランスと日本の交換美術展の開催は、フランス文化使節として日本を訪れた東洋学者ル ネ・グラッセの仲介で実現した。当初フランス側の予定では、日本の現代絵画を展覧する予定 であったが、その対象を陶磁器に変更し、当時の代表的な陶磁器作家の作品を一堂に会し、 『現 代日本陶磁展』と銘打ってフランスを皮切りに巡回する事になった。また、その一方日本側で は戦後パリで結成され、若い前衛画家を集めた、サロン・ド・メイの代表作品を並べて展覧さ れることになったのである3。こうして日本陶磁は 1950 年に、戦後初めてフランスに渡ること になるが、その開催は評判を呼び、 『現代日本陶磁展』はその後、陶器の制作に熱中していたピ カソが待つ陶器の町ヴァロリスに巡回する事になった。 以下に、その経緯の概略を記述する。 a. 東洋学者ルネ・グラッセ博士の来日 日仏交換美術展開催の話を持ち込んだルネ・グルッセ博士(1885‑1952)は、東洋美術の収集で 知られるチェルヌスキー美術館の館長で、一行はフランス文化使節として 1949 年の日本を訪れ た。ルネ・グルッセ博士は東洋学者であり、日本の美術にも造詣が深く、戦後のフランス美術 と日本美術の交流を図るための来日であった。 言うまでもなく、太平洋戦争の敗戦国日本は、連合国の占領下に置かれ、多くの人々が公職 から追放された。このような事態の中で全ての敗戦処理は GHQ(連合国軍最高司令官総指令部) の指揮と指導の元に行われ、日本自らが再び国際社会に独立国として復帰する道筋をつけるこ とは、想像以上に困難だった。しかし、そのような占領政策が続く中で日本独立の方策が模索 され、やがては講和条約が締結されて日本は再び独立国家としてその歩みを始めるのであるが、 このような模索の最中、戦勝国のフランスから美術交換展の話が持ち込まれたのだった。これ は国際社会への復帰を希求する日本の美術界に取っては暗闇に差し込んだ一条の光であり、欧 州における日本の芸術的存在感を取り戻す一つの好機であった。 b. 現代絵画を凌いだ日本陶磁の存在感 ルネ・グルッセ博士は、日本の絵画を中心に現代美術の動向を精査した結果、当初の予定を 変更し、日本の陶磁器に焦点を絞る事になった。調査の過程で、何故絵画から陶磁器へと変更 したかという点に関しては、詳細な記録が残されておらず不明な点が多い。しかし、当時世界 の芸術の中心国として君臨したフランスから見ると、当時の日本の絵画芸術はまだ見劣りがす るとの判断が下されたと考える事が一番妥当であるように思える4。そしてこの判断には、19 世紀の後半にヨーロッパやアメリカを席巻したジャポニズムの余波がいまだ、フランス人の心 を捕らえていたという事実も関与しているようにも見える。 殊更に言うまでもないが、ヨーロッパではジャポニズムが人々の心を魅了する一方で、当事 国の日本ではヨーロッパ美術を導入し絵画の近代化を図るという熾烈な命題が画家たちを駆り 立て、多くの画家が西洋絵画の習得を目指してフランスやイタリアなどの絵画先進国に赴いた。 そして、このような努力は明治・大正・昭和と一貫して続けられてきたのだが、第二次大戦後 間もない日本絵画の水準は未だ西洋絵画の模倣やその試行といった域にあった。したがって、 日本絵画はジャポニズムの中心をなした浮世絵などが発揮したような、絵画的独自性に到達し ていないと見なされたと言える5。 一方の陶磁器はというと、この産業はもともと東洋優位の伝統産業であるため、その中核に ある規範を変えることなく近代化を達成できたという強みがある。これが敗戦後の美術界で、 陶磁器が絵画をしのぐ存在感を示していると看做された大きな要因であると考えられる。 次項では日本陶磁の近代の流れをごくおおまかに概説し、陶磁器優位と見なされた歴史的な 背景を明らかにする6。 c. 日本陶磁の伝統と近代化 もともとヨーロッパでは磁器の生産が行われず、東洋の磁器は憧れの対象であった。17、18 世紀には、シノワズリーと呼ばれる中国磁器の狂信的な流行があり、ヨーロッパ諸国の王侯貴 族は競って、中国の磁器を収集し、その陳列で埋められた特別な部屋は「磁器の部屋」と名づ けられた。そしてこのような中国磁器の中には実のところ伊万里などの日本産の陶磁器もかな り含まれていたのだが、当時はあまり区別が付けられておらず、一括して中国磁器として扱わ れていたのである。 次の 19 世紀には、パリやウイーンで開かれた万国博覧会をきっかけにジャポニズムが流行し、 浮世絵や美術工芸品がヨーロッパの人々を魅了した。その中には、瀬戸焼、薩摩焼といった日 本を代表する陶磁器が多数含まれていた。このため、明治新政府は陶磁器を殖産興業を担う重 要な品目と見なし、その輸出量は徐々に増加して、その結果日本陶磁は広くヨーロッパに浸透 して行くことになる。 だがしかし、日本の陶磁器産業はそうなる以前に一度大きな打撃を受けている。それは、明 治維新の進行に伴い徳川幕藩体制という後ろ盾を失ったことによる打撃であった。それまでは 日本の陶磁器は代表的な伝統産業として、江戸幕府や各地の藩から保護を受けて、安定した生 産体制を維持していた。しかし、徳川幕藩体制が崩壊すると各地のやきものは存続の危機に瀕 した。このあたりの事情は幕府の式楽として演じられて来た能楽などとも共通している。能楽 もやはり幕府や藩の保護を失って、能楽師たちは日本各地に離散したという。しかし、いみじ くも両者はこの危機を潜り抜けた。能楽の場合は、明治新政府が外国の要人を招いた公式行事 などで披露され、その要人達が示した能楽擁護の反響などを足がかりに復活の契機を掴んだ7。 一方の陶磁器は、万国博覧会への出品やジャポニズムの流行に促されて、明治新政府が行った 陶磁器産業の振興策に救われ、欧化政策の一翼を担う新しい産業へと大きく方向を転換するこ ととなったのである。 こうして日本陶磁は、ペリーの来訪を見た幕末期から始まり明治維新を経て、明治・大正・ 昭和前期に至る近代化の長い道のりを辿る事になる。そして、この過程で日本陶磁は伝統的窯 業体制から近代窯業へと大きく脱皮を遂げた。 もともと日本の陶磁器は、茶道や華道或いは生活の中で使われる機能と美しさをあわせ持っ た道具としてのやきものとして発達した。しかし、一世紀弱に及ぶこの激変の時代に、博覧会 や美術展で公に鑑賞される美術品としての陶器芸術への転換が強く求められるようになったの である。それは無名の職人たちの分業による共同作業から、近代的自我と明確な作家意識を持 った陶芸家の独立した営みへの転換をもたらした。 そしてこの過程で、日本の陶器は近代化学の手法をヨーロッパの近代窯業から取り入れ、釉 薬、成形、焼成といった製陶の工程が改革された。例えば、青色に発色する天然の呉須の代わ りに化学精製した酸化コバルトの使用法を学ぶなど、原料の量産化・安定化などが実現してい る。一方成形においては轆轤や型おこしといった伝統技法に加えて、さらに複雑な成形を可能 にする石膏鋳込み法がヨーロッパから導入され、成形の幅が大きく広がった。また、焼成にお いても、焼成効率の良い石炭窯が導入され、焼成温度を正確に知ることができる科学的管理法 を取り入れるなどして近代化が進んだ。このような生産技術に加えて、西洋において自然科学 の発達とともに極められてきた合理主義的な意匠や装飾技法などの習得にも力が注がれた。更 には、アール・ヌーボーといった新しい流行なども積極的に取り入れ、使う器から公の場で見 せる美術としての陶器芸術への転進は一層充実していった8。 またこの一方で、中国・朝鮮の古陶磁や桃山陶器などの学術的、体系的研究が進み、開明的 な作家意識を持った作陶家によってそれらの再興が盛んに試みられた。その結果、奥深い伝統 の力が日本の陶磁に甦り、瀬戸、美濃、備前、唐津といった伝統的な窯場に力強く存在感のあ るやきものが出現するようになった。あげくに、太平洋戦争の敗戦後は、若い作家集団が現れ、 戦争で生じた精神的な飢餓感を埋めるかのように、新しい志向を持った造形活動が京都を中心 に活発になりつつあった。 こうして戦後間もない日本の陶芸界では、伝統への回帰を求めんとする熱い意欲と、新しい 思潮の元で斬新な陶器芸術を生み出そうとする若々しい息吹が拮抗し、異彩を放つ多数の陶芸 作家達が全国の窯場で活躍を始めていたのである。このような時期に日本を訪れた東洋学者の ルネ・ラリック博士には、日本の現代美術の中で陶器芸術が最も強烈に独自の輝きを発揮して いるように見えたに違いない。 以上のような事情から、日本を代表する美術として日本の陶磁が選ばれたわけであるが、次 項では『現代日本陶磁展』の概要とその反響について考察する。 d. 好評を博した『現代日本陶磁展』 上述したように戦後間もない日本陶芸界では、伝統的なものから前衛的なものまで、さまざ まな傾向の作品が作られていたが、その中から 49 名 71 点の作品が選別された。この選定はル ネ・グルッセ博士に代わって来日したチェルヌスキー美術館の副館長のヴァデム・エリセーエ フ(1918‑2002)が同博士の人選に基づいて行った。 日本側は、国立博物館の小山冨士夫(1900‑1975)、東京芸術大学の吉川逸治(1908‑2002)、京都 博物館の藤岡了一(1909‑1991)が協力した。このうち吉川逸治が、作品とともに 1950 年の 8 月に 横浜から出港し、以後すべての行程を取り仕切った。 チェルヌスキー美術館では、1950 年 11 月から現代日本の陶磁作品とともに、浮世絵もあわ せて展示し日本美術展を開いた。それは大変好評で、予定会期が 2 ヶ月も延期されたという。 この時に日本陶磁が受けた評判について、小山冨士夫は関係者の情報に基づき、新聞や雑誌に 報告しているが、それは次の 3 点に要約できる9。 ・ 戦後初めての日本の美術展だったため好評を博し、大きな刺激をフランス陶芸界に与 えた。 ・ 日本の各派の作品を一堂に集めた展示会なので、日本全体の作風を展望できた。 ・ 一般に技術が非常に複雑で、優れており、作風が変化に富んでいることが高く買われた。 この他、評判を取った作家の名前として、北大路魯山人(1883‑1959)、河井寛次郎(1890‑1966)、 富本憲吉(1886‑1963)らの名前を挙げている。 中でも富本憲吉の作品は、セーブル製陶所の意匠部長ジャンソリ氏から、絶賛されたという。 彼は因習や偏見と戦いながら、独創的な近代陶芸の道を切り開き、日本でも評価の高い作家であ る 10。 『現代日本陶磁展』には陶筥や花瓶など 3 点を出品している。これらを見たジャンソリ 氏は「これほど技巧的完璧とともに、近代的個性を出しているのはまったくすばらしい。フラン スの名工デュクール 11 も及ばない」といったという。 e. ピカソとの遭遇 かくしてチュエルヌスキー美術館で行われた『現代日本陶磁展』は、予想を上回る評判を呼 び、フランス各地から巡回の要請を受けたという。そのため『現代日本陶磁展』はこの後、ベ ルギーなどに巡回する予定を急遽変更してフランスに留まる事になり、最終的には南フランス のヴァロリスに巡回することとなった。これはこの展覧会を企画した当事者が当初想像もしな いような出来事だったが、他国への巡回を見合わせ、再びフランス国内のヴァロリスに巡回す る事になったのは、他ならぬパブロ・ピカソの影響であった 12。 ピカソは土地の陶芸家に勧められるままに陶器の作品を作り、その魅力の虜になっていた。 そして、1948 年 11 月から 1949 年の初頭にかけて、まだ手を染めて間もない陶磁器の展覧会を パリで開き、多くの好事家の目を楽しませ、戦後のフランス美術界の大きな話題となっていた のである。こうして、この小さな陶器の町ヴァロリスの名はパリっ子たちの知るところとなっ た。ちょうどこの時期に『現代日本陶磁展』がパリで開催され、この偶然のタイミングが『現 代日本陶磁展』の運命を変えたのである。 f. ヴァロリスでの巡回展 当時ヴァロリスは、人口が 1 万人程の小さな村で、古代ローマの昔から、陶器を焼いてきた 伝統的な陶産地だった。しかし、近代化の波に押されて村の主要産業である陶器産業は衰亡に 瀕していたらしい 13。 ピカソは避暑に訪れたこの町で、1947 年にこの町の陶芸家のジョルジュ・ラミエとスザン ヌ・ラミエ夫妻と出会い、彼らが主宰するマドゥーラ窯で陶器制作を始めた。そして翌年の 1948 年 11 月から翌年の初頭にかけて、初めての陶器展をパリのメゾン・ド・パンセ(思想館)で開い た。これが大評判を呼ぶと、その余波でヴァロリスを訪れる観光客があふれて、この町は息を 吹き返したという。 ここで、 『現代日本陶磁展』はパリに引き続き、1951 年の 7 月から 9 月まで開催された。こ の展覧会の様子を、日本陶磁協会の機関誌は次のように伝えている。 「現代日本陶磁展にはピカソの作品が 40 点と、地元の作家の作品も並べられた。この展覧会 も大変好評で、周辺地域から夏の避暑客が 2000 人から 3000 人訪れる日もあり、小さな陶芸の 町が車でいっぱいになった。ピカソもしばしば会場に現れ、終始ご満悦だったという。そして 早速地元では、日本の陶芸の写しを作り始めたというのも面白い話である 14。」 そして、この 記事は、ヴァロリスは国際映画祭が開かれるカンヌにも近く、映画祭の訪問客が、そのままヴ ァロリスにもやってきたことを伝えている。 更に、この記事はマドゥーラ窯のジョルジュ・ラミエ氏を批評家として紹介し、様々な出展作 家について氏の寸評を載せている。それによれば、ジョルジュ・ラミエ氏は「非常に優れている と思うのは、(北大路)魯山人、濱田(庄司)、河井(寛次郎)、石黒(宗麿)で、魯山人の鉄絵の志 野の皿と黄瀬戸のドラ鉢はすばらしい。志野の皿は場内随一の名作だろう」と絶賛したという。 北大路魯山人は、日本料理の名手として知られ、料理を盛るための食器づくりに卓越した技 量を発揮した。彼は、桃山時代をはじめ、東洋陶磁の伝統の中で確立された美の基準に適った やきものを数多く作り、たくさんの支持者を得た作家である。その魯山人の作品がマドゥーラ 窯のジョルジュ・ラミエ氏の目をも捉えたわけである。 さて、この報告記事によれば、出展した作品の購入希望者は非常にたくさんいたが、当時日 仏間では、まだ商取引ができなかったという。そのかわり出品された作品のいくつかは、チェ ルヌスキー美術館、セーブル美術館、ヴァロリスの美術館や関係者などに贈呈された。そして ヴァロリスの美術館には 8 人の作家の作品が贈られたという 15。 これらの作家の作品を、チェルヌスキー美術館発行の『現代日本陶磁展』のカタログ 16 から 拾うと、加藤菁山の織部様式の葉飾りの付いた皿(No6)、船木道忠の彫り模様のある黄釉の楕円 形坏(No59)、山田光の葉群模様が彫り込まれた黒釉花瓶(No66)、中島清の貫入の入った青白色 の花瓶(No32)、叶光夫の植物模様の浮き彫りのある白釉の花瓶(No26)、山本正年の鼠色の象嵌 壺(No63)、八木一艸の鈞窯様式の蓋付きの磁器の花瓶(No31)、加藤唐九郎の織部様式の長方形 の食器(向付)(No48)である。 (括弧内の番号は同カタログによる) そして、この返礼にピカソの作品が 3 点と、地元のヴァロリスの窯で焼かれた作品や、ジョ ルジュ・ラミエ氏のマドゥーラ窯の作品が日本に寄贈された。こうして、 『現代日本陶磁展』は 当初の予定を大幅に変更し、返礼にもらったピカソらの作品とともに帰国の途についた。かく して、1950 年の 8 月に横浜と神戸からすべての作品が船積みされて以来、1 年半近い「日本陶磁」 の長旅が終わった。 その後日本では、1952 年の 2 月と 3 月に神奈川県立近代美術館で『フランスから帰った日本 陶磁展』が開かれて、これにはピカソが日本に贈ったやきもの 3 点も展示されたという 17。そ してこのうちの一点『走る男』と題された水差しは『現代日本陶磁展』出展者の一人加藤唐九 郎の作品織部の向付と交換されたもので、東京芸術大学の吉川逸治の仲介で加藤唐九郎に届け られ、後にそれは瀬戸市に寄贈され現在では瀬戸市美術館の館蔵品となっている。 (他の 2 点は ) その後の行方が不明である 18。 以上が『現代日本陶磁展』のあらましであるが、これからこの興味深い事象の波紋をピカソ 陶器との関連の中で論じて行くこととする。 3.ピカソの陶器芸術 ピカソほどその生涯で画風を変化させた画家はいないとは良く言われることで、ピカソの変 容は常に周囲から刺激を受けて、そこから得た新たな発見によりもたらされた。そしてその陶 器芸術もやはり、発見と驚きの連続から生み出されている。この章ではヴァロリスにおける陶 磁器の制作の様子を記述し、ピカソの画業と作陶との関連を明らかにしたい。 a. 変容するピカソ ピカソは陶器を始める前にたまたまヴァロリスを訪れて、町の古風な佇まいに強い印象を抱 いた。その後当地を再訪し、マドゥーラ製陶所を経営するジョルジュ・ラミエとシュザンヌ夫 妻と知り合い、彼らから陶器制作の誘いを受けて、やがて土と火の魅力にとり憑かれるように なった。 ヴァロリスの土は赤土で石灰分が多く、昔からのやり方では雨にさらして余計な石灰分を水 に流してから成型したという 19。装飾のためには白い土を泥漿 20 にして器の表面を白く覆って から絵付けをした。ヴァロリスでは白土が産出しなかったので、南フランスのプロヴァンスから 取り寄せていたらしい。これはやはり、赤土の上に白化粧を施してから、その上に絵をつけたり、 印花模様を押し付ける朝鮮半島の粉青沙器 21 などと同じ技法である。但し土の耐火温度が低い ので、東洋の焼き物よりかなり低い温度で酸化焔で焼成されている。その代わり、低火度焼成 のため色釉や色絵の具がよく発色するので、多色の装飾技法が発達した。 この時ピカソが生活をともにしていた女性は画家のフランソワーズ・ジローである。生涯にわ たって『変容』を繰り返したピカソの芸術活動は、その都度彼が関係した女性と関連付けて論 じられる事が多い。こと陶器に関して言えば、1940 年代から 50 年代にかけて約 10 年間人生を ともにした画家のフランソワーズ・ジローとの生活の中からその『変容』は始まったということ ができる。 ジローとの生活はクロードとパロマという二人の子供にも恵まれ、ピカソの生涯で一番幸福 な時期だったといわれる。ピカソはクロードが生まれた年に、ジョルジュ・ラミエとシュザン ヌ夫妻との出会いを通して本格的に陶器に挑み、その悦びと幸福を陶器に込めた。そしてピカ ソの芸術の根幹をなす『変容』に対する強い意志は、陶器においても存分に発揮される事とな った。 陶器を始めるにあたってピカソにとって一番の問題は、色だった。ピカソは夫妻から誘いを 受けた翌日には、近所の化学工場を訪ね酸化金属と色の関係など、色絵の具についていろいろ と教わっている 22。ところが彼は出来合いの色絵の具では満足できず、油絵の具と同じように 絵の具を混ぜ合わせたりして自分の色の発色を試みたが当然それはうまくいかなかった。その ため化学工場に何度も要望し、それまでにはなかった色が作り上げられたという。 次に彼が問題にしたのは陶器の成形である。ピカソは自分の望む多くの形をデッサンに描い た。それを携えて、職人たちが轆轤の上に挽き上げる陶器の形に注文をつけた。なかなか思う 形にならないと、ピカソは挽きあげられたばかりの形を自ら変形させた。マドゥーラ製陶所に はジュール・アガールという名の轆轤の名手がいて、彼がピカソの要求に応じて轆轤を挽いた。 このようにして、ピカソの試行錯誤が始まったわけであるが、彼は短期間に陶器を自分の思 い通りにする方法を探し出し、独自の創作を発表するに至る。次項でその様子を更に明らかに する。 b. 色鮮やかで伸びやかな造形 陶器芸術は、その制作工程が非常に複雑なため、他の分野からの芸術家の参入を容易には許し て来なかった。実際のところ画家たちの多くは、陶芸家の作品に絵付けを行うという程度の共同 制作に長く留まっていた。例えば、1900 年代の初め、陶工の大家と称されたアンドレ・メテー (1871−1920)の窯場では画商のアンブロワーズ・ヴォラールの呼びかけで、メアリー・カサ ット、ピエール=オーギュスト・ルノワールなどの印象派の画家達や、ナビ派のモーリス・ド ニ、そしてブラマンクなどのフォービズムの画家達が、メテーが轆轤で成型した花器や皿、タ イルなどに絵付けや装飾を施した。そして、1906 年から 1908 年の間にオートゥイユの窯から は約 100 点の作品が作り出されたという 23。 しかしピカソは陶工と画家の共同作業の限界をきわめて貪欲に打ち砕き、ジョルジュ・ラミ エとシュザンヌ夫妻やマドゥーラ工房の職人たちに助けられて、造形や施釉、新しい色絵の具 の開発といった陶工の専門分野にまで踏み込んで制作を行った。 ピカソの傍らで陶器への挑戦に直接立ち会ったフランソワーズ・ジローは、後の回想に「こ の時のピカソは発見の時期で、様々なインスピレーションに掻き立てられて陶器を制作してお り、この時期の作品は他のあらゆる陶器のうちで最も発明的で最高のものだ」と記している 24。 一方、ピカソを支援したジョルジュ・ラミエは、より一層間近な視線でピカソの挑戦を書き とめているが、それによるとピカソは陶技において習慣的にタブー視されている事に直感で挑 み、間違いなく大失敗に終わると思うような無謀な提案を行ったという 25。 事実、最初の数ヶ月間、色や形や造形などへのピカソの試みの多くは失敗に終わった。色は 思ったように発色せず、形は乾燥や焼成の過程でひび割れ変形した。こうして失敗作の山が出 来上がったが、ピカソはこれにめげず見る見るうちに陶器制作の技術とコツを習得していった のである。 広い作業場、大きな窯、たくさん用意された薪、有り余るほどの赤土、大きな桶によく溶か しこまれた白土、そして傍らには透明釉や色釉がたっぷりと用意され、絵付け場には様々な色 絵の具が並んでいた。この恵まれた環境の中でピカソは思う存分陶器の制作に熱中した。そし て僅か一年あまりの間に約 2000 点の陶器を制作し、そのうちの 149 点が、1948 年からその翌 年の初めにかけて、パリの共産党の施設・思想館(メゾン・ド・パンセ)で展示され大きな話題 を呼んだのである 26。 かくしてピカソの陶器は戦後の美術界に華やかに登場し、ピカソが陶器に与えた様々な変革 は驚嘆と衝撃を持って迎えられた。永くて暗い悲惨な戦争が終結し、特にその色彩が世界に与 えた印象は大変強烈であった。ナチスによる無差別爆撃に抗議して描いた『ゲルニカ』の暗い 色調に比べると、その鮮やかさは一層際立って人々の目に映ったに違いない。誰しもがピカソ の色鮮やかで伸びやかな陶器の造形に触れ、戦争からの解放の息吹を瑞々しく感じたことだろ う。 次項では初期に制作されたいくつかの作品の創作方法を検討し、その特徴を明らかにしたい。 c 初期の作品 掲載した写真は色刷りでないのが残念だが、ヴァロリスで制作された作品である。実際のと ころピカソは陶器の作品を制作する上において、職人たちが様々な手わざを駆使して制作した 壷や水差しに、ピカソならではの神業的な変化を与えてまったく別の生き生きとした造形物に 変えた。 例えば、 「鳥」(写真 1)は、工房の轆轤職人が、瞬く間に成型したふくよかで均整の取れた壷 の一部を切り分け、それらを再構成して、ピカソが新しい命を与えた作品である。 (写真1)ピカソ作 「鳥」 1947 年〜48 年 彫刻の森美術館蔵 「首飾りをつけたヴィーナス」(写真2)は筒型で首の長い花瓶をまだ柔らかいうちに変形させ て、白土を塗りこんでから線を掻き落としたものである。 (写真2)ピカソ作 「首飾りをつけたヴィーナス」 1947 年〜48 年 彫刻の森美術館蔵 「ファウヌスの頭部」(写真3)は壺を逆さまにし、顔に見立てて目鼻を線彫りし白土を塗りこ んだものである。 (写真3)ピカソ作 「ファウヌスの頭部」 1948 年 個人蔵 また、「魚」(写真4)のように楕円の皿をキャンバスにして、ピカソは鳥や魚や牧神の顔やら を色鮮やかに描いている。 (写真4)ピカソ作 「魚」 1947 年−1948 年 個人蔵 「走る人」 (写真5)は、先にも記述したように、加藤唐九郎がピカソと交換したといわれて いる作品で、走る四人の男女が絵付けされ、赤茶と青を使った大胆な筆のタッチが印象的な 作品である。因みにこの作品は、2005 年に愛知万博で開催された「ピカソ陶器展」の企画の ために、2003 年に日本を訪れたピカソ陶器の研究者マリリン・マッカリー博士が、筆者の仲 介で鑑定を行い、ピカソが手がけたマドゥーラの水差しの作品中最も質の高い作品のひとつ との評価を受けている。 (写真 5)ピカソ作 「走る人」 1948 年−1949 年 瀬戸市美術館蔵 以上、ここで検討したのはピカソがマドゥーラで制作した内の数点に過ぎないが、これらの 作品は、前項で言及したピカソ以前に陶器に関与した画家達のものとは明らかに異なっている。 ピカソにはもっと切実な動機があり、その収穫も大きかった。 次項では、東と西の二人の関係者の評論を通して、そのことを検証する。 d. 彫刻と絵画の融合 ピカソと作品を交換した加藤唐九郎は日本の多くの陶芸家の中で、唯一人ピカソの陶器につ いて論評を書き残している。その文中で唐九郎は、陶器における「機能主義」を最初に破壊した のはピカソであるとし、ピカソが少しずつ変化していく油絵の不安定さを嘆いていたことに触 れて、「ピカソは陶器に 時の永さ の保証を見出した」と述べている 27。 この論評はピカソの画商の中でも最も功績の大きかったダニエル=ヘンリー・カーンワイラ ーの『ピカソ・陶器』という小論を参照して書かれたものである。この文中でカーンワイラーは、 画家としてのピカソが何故陶器に魅せられたのかを考察する過程で、「陶器の皿やタイルが下塗 りの済んだカンバスに取って代わった。絵画は 100 年も経てば描かれた当時のままを保つ事が できないが、やきものの色彩は一度焼き付けられると変化しない。」と述べ「ピカソは求めていた 永続する安定性を捜し出した」と記している 28。 ここで重要なのは、カーンワイラーがこの小論で繰り返し述べているように、ピカソは既存の 陶器に単なる装飾として絵を描いたのではなく、ピカソが真に成し遂げたものは「既存の陶器を 下地に使い、極めて彫塑的な手業と絵画の技法がうまく溶け合ったもの」で、ピカソが長年望ん でいた「彫刻と絵画の融合」なのである。 今やピカソは、立体と平面という二つの媒体の間を行き来する自由を獲得した。こうして陶 器の制作はピカソの後半生の芸術生活になくてはならないものになり、その最晩年までピカソ の創作に彩りを添える事になったのである。 ピカソはしかし、晩年になっても変容した。その中で陶器の創造は更にピカソの日常生活と 親密に結びついていった。次項では晩年のピカソの陶器制作を検証する。 g. 静謐の中の多産 1954 年に入るとピカソの陶器制作は一つの空白期を迎える。これはフランソワーズ・ジロー がピカソのもとを去った落胆の時期と一致している。しかし、間もなくしてピカソは変容を遂 げ、その陶器制作は再びその勢いを盛り返した。その変容を促したのはある一人の献身的な女 性の存在だった。その名はジャクリーヌ・ロック。彼女はピカソの晩年に寄り添い、ピカソにと って最後の女性となった。 ジャクリーヌはフランソワーズ・ジローのような記録は残さなかったが、その代り、写真家 のデヴィット・ダグラス・ダンカンが数多くの写真を残している。それにはピカソの陶器の制 作風景や、アトリエに並べられた数多くの作品、そしてピカソとジャクリーヌとの密度の高い 生活の様子が身近に写し取られている。ダンカンはそれらの写真を組み合わせ短いキャプショ ンをつけて出版した。彼は、ジャクリーヌがピカソに与えたものは献身的な愛情に加えて、 静 謐 だと書いている 29。ピカソはその静謐な暮らしの中で陶器の制作に再び打ち込んだ。 その中の数葉の写真は、例の舌平目のシリーズである。ジャクリーヌが用意したムニエルを 骨だけきれいに食べ残したピカソ。それをテーブルクロスの上に広げられた、まだ柔らかそう なタタラ(薄くスライスした粘土板)の上で構えるピカソ。次に、粘土板に重ねた白い骨の上に スケッチ用紙をかぶせて上から手でしごき骨の形を写し取っている。ピカソがこの作業をする テーブルの片隅には、ジャクリーヌの横顔がサイズいっぱいに絵付けされたタイルの板がある。 続いてピカソは、平目の細長い骨がきれいに押し型されたタタラ板を、少し余裕を残して切り 取る。そして、手元の丸椅子には大きな丸皿が裏側を見せて置かれている。そこには子供の顔 や牧神の顔が単純な線で刻まれている。ピカソはこの皿を表にし、白い泥漿を塗った。そして この大皿のつばの部分に、横広の舌平目の骨の押し跡がくっきりと残った先ほどのタタラ板を 貼り付けた。 この一連の写真は、土が如何にピカソの生の衝動―つまりそれは創造の衝動であるが―を日 常的に受け止める好都合な素材であったかを良く示している。そして、ダンカンはある時期の ピカソの集中振りを「陶芸作品が別荘中に溢れていた。ピカソのもっとも多作の時期で、彼は一 月がまるで一時間であるかのような密度で数ヶ月間ぶっ通しで制作に打ち込んだ。」と、記して いる 30。ピカソは興が乗ると手近なものに絵を描いた。ある時は、喫茶店で友人の顔をナプキ ンに描いたという。ピカソはそれと同じ感覚で、日常の中の衝動をまるで紙に鉛筆で描くかの ように、陶器に定着させる創造の熟練者になっていた。ダンカンが写したピカソの分厚い手は、 まさしく心の衝動を思考の回路を飛び越えて素早く形にする熟練者のものなのである。 こうしてジャクリーヌとの静謐な暮らしはピカソを幸福な多産に導いたのだった。そして仕 事場や生活の空間は、陶器や彫刻そして絵画などでたちまち一杯になった。ピカソは自宅に作 品が溢れ出すと引越しをした。幾度となくそれを繰り返したあげく、ノートルダム・ド・ヴィー という城が生涯で最後の住処となった。ここでピカソはジャクリーヌとの約 18 年にわたる静謐 な生活を終えて、静かに旅立つことになる。この時広大な邸宅に残されたピカソのオリジナル 陶器は、一説によると 2880 点を数えたと言われ、マドゥーラでの制作からの総点数は 4000 点 にのぼった 31。 以上、ピカソ陶器の概略を大まかに考察したが、次章では日本陶磁との関連において更にそ の核心に迫って行きたい。 4. 日本の反響 先にも見たように、敗戦後間もない次期に日本陶磁はフランスで展示され、ピカソとも遭遇 してその旅は大成功に終わったが、一方ピカソの陶器も、戦後いち早く日本に紹介され、1951 年には東京のデパートでその展覧会が開かれている。そして主にピカソびいきの画家や美術関 係者には好感と賞賛を持って受け止められた。しかし、伝統色の強い陶磁器産業やその愛好者 からは否定的な反応も示された。 また、 『現代日本陶磁展』の帰国に伴ってもたらされたピカソの「走る男」は、吉川逸治によ って 1952 年に加藤唐九郎の手元に届き、その後瀬戸市に寄贈され、市民に公開された。しかし、 この長い伝統を誇る陶産地ではピカソの作品はあまり人々に快く受け止められなかった。曰く、 焼成温度が低い、轆轤の技術が稚拙であるなど、その批判は、ヨーロッパと日本のやきものの 本質的な違いに起因するものであったが、戦後間もない日本ではこのような認識は薄く、中に はこの作品を絵描きのお遊びと断じる者まで現れた。しかし最終的には、加藤唐九郎がピカソ 陶器の芸術性を理論的に論証し、このような賛否両論の議論には一応の終止符が打たれた。こ の項ではこうした一連の流れを記述する。 a.新時代の始まり 戦前からパリに移住し、ロマン・ロランや宮沢賢治など、多分野にわたる文化人や著名人の 塑像を得意とした彫刻家の高田博厚(1900‑1987)は、第二次世界大戦がはじまると同時に、パリ 在住の日本人は美術家だけでも 100 人あまりが大挙して帰国したと、書いている 32。 以後、フ ランスと日本の関係は長い空白期を迎えた。 戦後、いち早く再渡仏を果たしたのは、パリの下町を描いた画家の荻須高徳(1901‑1986)であ る。彼は 1927 年にフランスに渡り大戦の開始とともに、日本への一時帰国を余儀なくされたが、 第二次世界大戦の終了後、再渡仏の機会を待ち望んでいた。そして、1948 年の末に再度ヨーロ ッパにわたり、再びフランスで画業に励み、1956 年にその絵画の実績により、フランス政府か らレジオン・ドヌール勲章を授与された。その後、彼は残りの生涯の殆どをパリに捧げた 33。 荻須のパリ画壇への復帰は実に8年振りだった。この時、ピカソが初めての陶器展をパリの メゾン・ド・パンセ(思想館)で開いていた。荻須はパリに着いて最初に見たのが、この展覧 会だったという。荻須は早速、日本の新聞に通信記事を送り、画家らしい観察眼でピカソの陶 器展の様子を細やかに描写し、この記事を「この展覧会が陶器の世界にどのような影響を与える かは知らないが、ともかく一つの革命であるに違いない。」と締めくくった 34。 このパリ新着のニュースは、フランスと日本の関係がいよいよ本格的に回復した事を告げる ものであった。そしてピカソの新しい趣向に満ちた陶器制作の一報は、長い空白に晒されてい た日本の美術界に大きな波紋をもたらした。 更にこの直後、ピカソの陶器作品は日本の美術雑誌に写真入りで紹介された。ここには数人 の美術家や評論家がコメントを寄せているが、詩人の滝口修造(1903‑1979)は、ピカソがアンテ ィーヴで描いた牧歌的な絵画に現れた色の変化と、火をくぐった陶器の色が類似していること を指摘し、「工場で助手を顧みながら、次から次へ焼きあがる色彩のみずみずしさを眺めて、悦 にいっている姿が浮かんでくる。」と書き、ピカソの陶器の出現を称えた 35。 また、1951 年には、日本で初めてピカソの陶器展が東京のデパートで開催され、当時の美術 雑誌や新聞は、ピカソの陶器が美術家や美術愛好者たちの間に、大きな反響と議論を巻き起こ した様子を伝えている 36。これによると、中国や日本の伝統的な陶磁の美を信奉している評論 家や愛好者の目には、ピカソの陶器はあまりにも意外なものと映ったようだ。そしてその反応 は賛否に分かれた。同じ一つの物事といえども、それを観察する人それぞれの拠って立つ立場 が違えば、まったく異なって見える。ましてピカソの作品は東洋のやきものの常識に沿って作 られているわけではない。しかしそれは不思議な躍動感に溢れている。それだけに一層人々の 反応の振幅は大きかったのである。 次項ではピカソの作品に対峙し率直に反応した人々の様子を、賛同と否定の両面から詳しく 検証する。 b. 芸術か遊びか 伝統的な陶磁の美を奉じる人々は、否定的な反応を示した。その背景には日本陶磁の長い歴 史と敗戦という事情があった。東アジアで中国を中心に発達したやきものは、周知のように高 火度で焼かれ、釉薬の優雅な光沢と均整の取れた造形が特徴である。それに日本のやきものは 従った。その後日本では、世界の大航海時代の波紋が到達した「桃山時代」に、ようやく日本的 な美意識を反映したやきものが焼かれるようになった。それらは「志野」 「黄瀬戸」 「織部」な どの釉薬陶器であり、あるいは信楽や備前などの焼き〆陶器である。このようなやきものの伝 統を背景に、第二次世界大戦をはさんだ昭和の時代は、 「桃山陶器」の復興が人々の注目を集め ていた。 人々は敗戦で多くのものを失い、その多くが新しい価値観への転換を迫られていたが、それ でも伝統的な陶器の美の規範は容易には崩れなかった。敗戦国日本では、そんな陶器の伝統美 は生活の美を構成する重要な要素であり、同時にそれは戦後の復興期を生き抜く人々の精神的 な拠り所でもあった。 このような背景から、中国や朝鮮の古陶磁や桃山時代に作られた陶器の美に心酔していた 人々の多くは、ピカソの陶器を目の当たりにして戸惑い、中にはピカソの陶器は単なる有名な 絵描きのお遊びに過ぎないと断じるものも現れたのだった。 ところがその一方で、ピカソが始めた新しい陶器の芸術は,多くの人々に擁護され礼賛され た。その中心となったのは、ピカソの絵画を戦前から高く評価し、それに大きな影響を受けて いた画家たちだった。彼らは、「確かにピカソのやきものは東洋の陶器に比べると、焼成温度も 低く、技術的には東洋のもののほうが勝るが、ピカソは陶芸の素材と技法を使って、絵画で追 求した内容をさらに単純化して力強く表現した」と、直感した 37。 そのような画家の一人佐藤敬(1906‑1978)は、ピカソの陶器を冷静に分析し、その方法論や技 法、およびピカソの絵画理論との共通性などを美術雑誌で論じ、その直感の正しさを論証して いる 38。 佐藤は、自己の絵画の技法にマチエールを強調するために陶技を取り入れるなどしているが、 自身も陶器に興味を持ち世界の陶器にも目を向けていた。そしてこの文中で「技術的に発達し きっている、我が国の陶業界は、一番忘れられている生まれたての焼物のみがもっていた、人 間の心の不思議さについて、逆にピカソに教えられる事が多いのではあるまいか」と述べてピ カソの不完全な(もちろん東洋的に見ての意味であるが)陶器のみずみずしい表現を率直に認 めている。これは画家が書いたピカソの陶器論として、記憶にとどめるべき内容を持っている。 このように、日本に紹介されたばかりのピカソの陶器に対する人々の反応は賛否両論に分かれ た。これに拍車を掛けたのが、当時公開された美術映画であった。ピカソを描いたドキュメンタ リー作品が日本でも数本公開されたが、中でも『ピカソ−天才の秘密 39』は人々に強い衝撃を与え た。この映画では、ピカソの瞬間的な描画の様子を映画的に印象強く撮影する工夫が施されてい た。例えば、カメラはスクリーンのような大きなサイズのガラス板を挟んでピカソと対峙し、ピ カソがその板をカンバスに見立てて素早い筆捌きで描画する。この装置によって、カメラは画家 ピカソの全身と、筆先から生まれる画像を同時に写し取ることができた。当時の美術雑誌の座談 を読むと、このように撮影されたピカソのすばやい天才的な描画に、人々は圧倒されたようであ る 40。 そして、もちろんこれらの映像は一部の人々や画家や評論家を、より深くピカソの理解へと 導いた。しかしその反面、多くの人々に、ある類型的なピカソ像を植え付けたことも否めない。 つまり、映画を見た多くの人々は「ピカソは天才であるから、なんの修練も経ずに瞬時に筆を動 かせば、苦も無く芸術作品を容易く生み出すことができる。」と。さらにこのイメージはピカソ の陶器の上にも覆い被さり、 「ピカソは思いつきで、まだやわらかい陶器をいじり変形させ、そ の上に絵の具を塗り楽しんでいる。ピカソは絵が本業であっても、陶器は素人で遊びである」 と。 この映画を見たこのような反応には、ピカソが60代半ばでこの新しい分野に挑戦したこと への、単純な賞賛の気持ちもこめられているかもしれない。しかし、伝統技法を伝承しそれを 発展させようと真剣に取り組んでいる陶器職人や陶芸家たちには、ピカソの陶器は度の過ぎた 遊びに過ぎないと映ったようだ。 その彼らの考えは、日本陶磁は高火度で焼かれ、ピカソが焼いている陶器はヨーロッパで広 く普及している低火度のものなので、思いつきで簡単に扱っても、色が発色しそれなりの効果 を出すことができる。従ってピカソの陶器は日本のものに比べて技法的には劣るので、これを 本物の陶器とは認められない、というものであった。そしてこのような議論は、日本有数の陶 産地として知られる愛知県瀬戸市でも活発に交わされたという。 この論考で冒頭に紹介した『現代日本陶磁展』の帰国の後、瀬戸市に寄贈されたピカソの作 品『走る人』は早速市民に展示された。その時の表向きの反応は、おおむね好評と言われてい るが、日々製陶業に従事する一般の口さがのない人々は、轆轤も下手だし、焼きも甘いし、ピ カソといってもやきものはたいしたことがないと、口々に言い合ったと伝えられている 41。そ してこのような見方は、ピカソの陶器に心惹かれる人々の中にも存在したのである。 ピカソの陶器が日本に公開された直後に巻き起こった、こうしたさまざまな議論は、その後 しばらく放置されたかのように見える。確かにいくつか交わされた議論はかみ合わずに、いつ のまにか風化してしまった。ところが 1960 年代に入って、このような議論に加藤唐九郎が、終止 符を打つことになるのである。 広辞苑によると加藤唐九郎は、「桃山時代の陶芸の研究・再現に努め、卓抜した技量を示した」 と記されている。 彼はこれに加え中国、中近東、インド、ヨーロッパなどにも足を伸ばし、 陶磁器を研究調査した。このような経歴から世界の陶磁器に精通し、ピカソ陶器に対してもそ の本質に触れるような見解を示している。もちろんピカソにも興味を持ち直接訪ねたこともあ ったが果たせなかった。もし、ピカソのとの会見が実現していれば次章で紹介する、北大路魯 山人や岡本太郎とはまた異なったピカソの興味深い言動を引き出したに違いない。しかし、彼 はピカソの作品をアンティーブの美術館でじっくりと観察し、その後で日本で発刊されたピカ ソの作品集に付属した論評で、はっきりとピカソ陶器の芸術性を論証した。 この論証の一部を第 3 章で短く紹介したが、次項でその論旨を更に詳しく検証しよう。 c. 加藤唐九郎による評価 加藤唐九郎は 1897 年に、愛知県の歴史の古い窯業地の瀬戸に生まれた。子供のころから轆轤 を挽き、野山に分け入っては、古い窯跡に散らばる陶片を拾い集めて成長した。十代の半ばに、 彼はキリスト教の牧師と出会って、キリスト教思想の影響を強く受けた。これが彼を東洋に限 らず、世界の陶磁史にも広く目を向けさせるきっかけとなった。 幼少のころ熱中した陶片の収集は、やがて古窯趾の集中的な発掘へとつながった。この経験 が唐九郎に実証的陶磁研究の資質を与えた。その成果は日本で初めての陶器大辞典の編纂とな って現れた。これは全六巻からなる陶器辞典であるが、その内容は東アジアだけに留まらず、 中近東や西洋の陶磁なども視野に入れたもので、ルネッサンス期に活躍し、フランスの陶磁器 史上最も有名なベルナール・パリッシー(1510−1590)などにも言及している 42。 実作者としての彼は、茶道における桃山陶器の復興の使命を自らに課した。そして茶碗をは じめとする数多くの茶道具の名品を残している。彼は、一方で陶による規模の大きな分野の創 造にも成果を残した。これは建物の壁面を、釉を施して焼き〆めた、大きく厚い土の断片で装 飾するもので、彼自ら「陶壁」と名づけた。これは日本の城の周囲にめぐらされた石垣から着 想を得たものであるという 43。 加藤唐九郎は、日本や世界の陶磁を論じ多くの文章を書き残した。それらは常に実作者と研 究者との両方の視点で書かれている。その中には、フランスで行われた『現代日本陶磁展』に 関するものもいくつか含まれているが、その中から興味深い話題を紹介しよう。 彼は『現代日本陶磁展』に出品してから 5 年後の 1956 年に、日本アジア連帯委員会の文化使 節団の一員として、インド、中国、ソ連、ギリシャなどを歴訪した後、フランスにも立ち寄っ た。その時、セーブル製陶所を訪ね、技師長に窯場を案内してもらった。その技師長は、唐九 郎が『現代日本陶磁展』に出品した織部の作品のことをよく覚えており、その緑色の釉薬の製 法を尋ねられたので、それを教える代わりに、唐九郎もその頃疑問に思っていた、セーブル・ ブルーの発色の方法を教わった。それを実際に日本で試したところ、本当にセーブル・ブルー の発色が得られたと書いている 44。 このとき彼は、ピカソにも会いたいと考えたが、残念なこ とにそれはかなわなかったらしい。 この後、彼は 1960 年にもヨーロッパ各地を歴訪し、このとき初めてアンティーヴの美術館を 訪ねてピカソの陶器を鑑賞した。しかしこのときもピカソには会うことができなかったという。 そして、その翌年の 1961 年に、唐九郎は「ピカソは陶器を芸術の一分野として確立した」 という論旨で『ピカソの陶器』という文章を発表した 45。彼は、ピカソの陶器について「機能 主義的考えの破壊、油絵の具では出せないマジョリカ系 46 陶器の鮮やかな釉色、絵画と彫刻の 融合」などという観点から論じ、「ヴァロリスの陶土は耐火度も低く、陶器としての材質が示す 力感が足りない。また轆轤の技術は東洋のもののほうが優れている。だが、こうしたいくつかの 悪条件にもかかわらず、ピカソが手を触れたものはみな芸術品と化している。」と断じている。 彼は先にも述べたように、ピカソの画商であり、ピカソの芸術を論じた著者でもあるダニエル −ヘンリー・カーンワイラーの書いた「ピカソ・陶器」からいくつかの文章を引用し、それを手 がかりに、実際に自分が見たピカソの陶器の印象や、イタリアやスペインに広がるマジョリカ 陶器の調査研究などから、上記のような結論を導いた。この幅広い見地から論じた唐九郎に異 論を挟む者は誰も現れず、彼の論証はピカソの陶器が日本に紹介されて巻き起こった議論に、 一つの決着をつける形となったのである。 加藤唐九郎は常日頃、日本の歴史はその始まりにおいてやきものがメルクマールになってい る、従ってやきものは日本の歴史の根幹を作っていると主張していた 47。そして、陶器は工芸 であるよりも、絵画芸術などと同等の芸術であらねばならないとし、それは近代建築と協働す ることによって可能になると考えていた。そして、この考えが「ピカソの陶器」論の上にも反映 し、またその自らの論証が唐九郎を更にその方向に更に強く牽引したと言える。この論証から 2 年後の 1963 年、その成果は縦 3 メートル、横 12 メートルの巨大な陶壁となって実現した 48。 「ピカソの陶器」論は単にピカソの陶器判定の議論にかたをつけたばかりでなく、陶壁という まだ新しかった日本陶磁の分野にも刺激を与えたといえる。 このように様々な議論を呼んだピカソの陶器であるが、1960 年にはその複製が愛知県瀬戸市 に工場を持つ陶磁器メーカーによって作られ、愛好者に頒布されている。これは加藤唐九郎の 仲介で実現したもので、平和と題した鳩の絵を描いた額皿である。関係者の証言によると、唐 九郎自らが何度かピカソに国際電話をかけて交渉し、その焼成サンプルを送るとピカソから直 接了承の手紙が届いたという 49。 以上、ピカソの陶芸に関して日本側の反応を考察したが、一方のピカソは『現代日本陶磁展』 にどのような反応を示したのだろうか。次の章ではこの点に着目しながら、更にピカソ陶器の 核心に迫って行きたい。 5. 伝統に依拠したピカソ 第 2 章でも述べたように、ピカソはヴァロリスでの日本陶磁との遭遇を大いに楽しんだ。 そして日本の陶磁と自分の作品 3 つとを交換している。先に触れたピカソ陶器の研究者マリリ ン・マッカリー博士によると、ピカソは、自ら自分の作品を人に手渡すことは殆どなかったと いう。たとえそれがあったとしても、それはごく一部の友人たちが受けた栄誉だった。そして これは前にも触れた事だが、ピカソが日本側に贈呈した「走る人」を描いた水差しは、ピカソ が手がけた一連の水差しの作品の中でも大変出来のよいものであるとのことである。この指摘 からも、ピカソが日本陶磁に並々ならぬ関心を寄せていたことがわかる 50。 そこで筆者はピカソが日本の陶磁に対してどのような関心を持っていたのかを知るため『現 代日本陶磁展』を取り仕切った吉川逸治やその周辺の人々の証言を採集したのであるが、残念 ながら日本陶磁に関するピカソの直接の言葉は見出せなかった。そこで、フランスに赴きピカ ソ側に残された資料をあたる必要があるのだが、それはまだ果たせていない。ところが、ピカ ソと交流のあった画家の岡本太郎の会見記や、2005 年の愛知万博の際に開催された「ピカソ陶 器展」から、ピカソの関心の有りようが垣間見えてきたのである。しかしそれは端的に言って、 「ピカソの日本陶磁への関心」といった単眼的な見方ではなく、ピカソ芸術全体を見通す複眼 的視野の中から浮き上がってくるものである。 従って我々は「ピカソの日本陶磁への関心」であるよりは「ピカソの陶磁全体への関心」に目 を向けなければならない。こうして見えてくるものは、ピカソの芸術全体に横溢しているのは、 身近にあるものの破壊を通して、個別的なものから普遍的なイメージを引き出す創造の力であ るということである。そして、ピカソの創造的立ち位置には、ピカソが破壊して突き進んだ伝 統が力強く蘇生していることを知るのである。 この章では、このいささか紆余曲折した道筋を辿りながら、ピカソが貪欲に見据え依拠して いた伝統について考察したい。 a. 吉川逸治と北大路魯山人 『現代日本陶磁展』を取り仕切った東京芸術大学の吉川逸治教授は、1956 年に行われた美術 雑誌の紙上座談会で、評論家の小林秀雄から「ピカソは日本の陶器を面白がっていたでしょう」 と問われて、 「ピカソにはヴァロリスで陶器展をやったときに直接会ったが、興味は示しても積 極的には日本の陶器に対して意見を言わなかった」と答えている 51 。 2 章で引用した日本陶 磁協会の機関誌の記事には、ピカソは会場で冗談をいって周囲を笑わせていた、とあるからこ れとは非常に対照的である。 また、出展者の一人である北大路魯山人(1983−1959)も 1954 年に、ヴァロリスにピカソを 訪ねて、同じようなことを書き残している。魯山人は、帰国してまもなく発表したピカソとの会 見記で、「僕が日本からきた陶器を焼く人間だということは知っているのに、ピカソは(自分の 作品については多くを語るが)自分のほうから、陶器の話を聞き出すということはしない」と記 している。 これはヴァロリスの『現代日本陶磁展』の 3 年後のことである。この時、魯山人はアメリカ からヨーロッパを旅し更にエジプトまで足を延ばしているが、わざわざヴァロリスを訪ねたの は、 『現代日本陶磁展』で自分の作品が評判を得たことがあってのことだろう。 その後、彼は、すぐ近くに住みやはり陶器に手を染めていたシャガールにも面会した。シャ ガールは魯山人に「東方の陶器には、いろいろ秘密があるのでしょう。土のこととか、釉のこと とか、そうした秘密がこちらにはいってくると、こちらの物も、本当の芸術品になるのだが」 と語ったという。 これに対して魯山人は「シャガールは謙虚に、東洋の陶器に対する尊敬をこめて(この言葉を) 言ってくれた」と記している 52。 しかし、一方のピカソは、それほど簡単には日本の関係者に、日本の陶磁について口を開か なかったようだ。ピカソが始めた陶器に、日本の美術ジャーナリズムは強い興味を示し、画家 や評論家たちのピカソ訪問記をいく度となく載せているが、その殆どが印象記に終始し、直接 ピカソの陶器観を聞き取った文章は見当たらない。 その中で、ピカソとかなり突っ込んだ話をした、日本の前衛画家の岡本太郎(1911‑1996)の会 見記は異色である。岡本太郎は直接『現代日本陶磁展』と関わりを持たなかったが、重要と思 われるピカソの言葉を書き残しているので、次の項でそれを取り上げてみたい 53。 b. 岡本太郎のピカソ会見記 岡本太郎は戦前のフランスにほぼ 10 年間滞在し、ソルボンヌ大学で民族学を学んだが、シュ ールレアリストのアンドレ・ブルトンなどと親しく交わり、前衛画家となる事を決意する。 1940 年パリ陥落により帰国すると、日本の新石器時代に隆盛した縄文土器の美を見出し、日本 における原始美術の概念の変革に大きな影響を及ぼした。彼はピカソの芸術を超えることが、 芸術家に与えられた使命であると宣言し、前衛絵画のほか鉄の彫刻なども含め、陶による作品 も多く残している。さらに戦後の日本美術界にフランス美術の動向を紹介し、その橋渡しをす る役目も果たした。 岡本はヨーロッパで行われる個展のために、1952 年にヨーロッパを再訪し、翌年南仏のヴァ ロリスに立ち寄り、ピカソの案内でアトリエを訪れている。これはヴァロリスで行われた『現 代日本陶磁展』の約 1 年半後のことである。 岡本の著述によると会見は 3 時間に及んだが、ピカソよりはるかに年下の彼は、ピカソの言 葉に淡々と受け答えしながら、岡本らしい率直さで時に議論を挑み、ピカソからいくつかの興 味深い見解を引き出した。 「色は赤で、手で塗っ この中で、ピカソが日本の初期の版画の墨線を誉める件が出てくる 54。 てある」とあるから、おそらく丹絵か紅絵 55 のことである。これが好きでピカソは沢山持って おり、「日本芸術のあの墨の線は大したもんだ。」という。 そしてピカソは墨絵を描いている と言って、アトリエから絵皿を二三枚もって来て、それを岡本太郎に見せた。 「それは枝に止ま る鳥の絵だった。日本画の中の鳥とは似ても似つかなかったが、まちがいなくピカソの鳥だっ た」という。また、ピカソはこちらは、日本の文字だといって別の皿を見せた。そこにはなに やら漢字のような線が描かれており、岡本太郎が、かろうじてその文字は「楽」と読めるという と、「チャンと意味があるんだね」と応えたという。この会見は、ピカソが日本の墨絵の線描や 漢字の形に興味を抱き、それを作品に取り入れていたことを、ピカソ自身が語ったものとして とても興味深い。 だが、この1年半前に行われた『現代日本陶磁展』に関しては、ピカソは寡黙だった。最も これは、岡本太郎が直接『現代日本陶磁展』にかかわりを持たなかったこととも関係している かもしれない。 それにしても岡本は、ピカソに会見した数多い日本人の中でも異色である。ともすれば饒舌 なピカソの聞き役に回る人が多い中で、岡本は自分の考えを年嵩のあるピカソにぶつけ議論を 挑んだ。そして、まだ若い岡本は老練なピカソに殆どはぐらかされてしまうのだが、その意気 込みはピカソに伝わった。後日サロン・ド・メイで再会すると、ピカソは「君の絵は?」と尋ね、 周りの取りまきをそのままにして岡本の絵の前に立ち「あゝいいな。独特だし、色がいい。 」と ぶっきらぼうに、しかし低い声で言ったという。 こうしてピカソが『現代日本陶磁展』をどのように解釈したのかをピカソの言葉から知る手 がかりは見出せなかった。しかし、岡本の記述から、ピカソが日本の書や絵画作品からも気に 入った要素を自作の陶器に取り入れて楽しんでいた様子が手に取るように伝わってくる。 こうして見ると、視る人ピカソの視線は『現代日本陶磁展』の出品作にも鋭く注がれ、彼が 日本陶磁から掴み取った印象は、その作品に取り込まれていることは間違いない。体験から得 たものが言語化されずに直接作品に投影する。ピカソには言葉があまり必要ではなかった。作 品そのものが自分が見た対象への解釈なのである。これはピカソならずとも誰もが創造行為の 中で経験している事だろう。実際、同じ陶芸に携わる筆者も同様の経験を持つ。しかしピカソ の場合、その投影の幅が尋常ではない。 2005 年に愛知県で開催された万国博覧会における「ピカソの陶器展」はそのことを知るよい 機会であった。 c. 2005 年愛知万国博覧会で明かされたピカソ陶器の原点 2005 年 4 月から 11 月まで、スペイン万博公社の主催で、愛知県陶磁資料館の南館でピカソ の陶器展が開かれた。この陶器展にはピカソの作品が多数展示されたが、そこにはヨーロッパ や日本の美術館が収蔵している日本の陶磁器やギリシャの古代陶器なども運び込まれて、ピカ ソ作品を挟み込むようにして展示され、これは一般の来場者には少し意外な印象を与えた展示 方法だった。この展示の企画者で、ピカソ陶器の研究者のマリリン・マッカリー博士は、この ような展示の意図するところは、ピカソが鋭く観察した陶磁器の伝統をどのように自己の作品 に取り込んだかということを、来場者に具体的に感じて貰うことにあると筆者のインタビュー に答えている 56。 この展示を通して明確になった事は、ピカソは日本の陶磁器もさることながら、母国スペイ ンや終の住処となったフランスなど世界各地の陶磁器に強い関心を示し、そこから多くを吸収 し、それらが何らかの形でピカソの陶器に表されているという事実である。ピカソは日本陶磁 ばかりでなく、世界の陶磁に付いて幅広く関心を示し、その関心を直接作品で示している。つ まりピカソの陶器の背後には世界各地の陶器的伝統が存在している。この展示を通して、ピカ ソが如何に伝統に依拠し、それを自己の創造の糧とした作家であるかが一層鮮明になったので ある。 次項でピカソが依拠した伝統に付いて更に詳しく考証してみる。 d. 伝統の蘇生 ピカソは眼前に見たものから得た着想を、いとも容易く独自の形や構図や色彩などに発展さ せ得る能力の持ち主であった。 「なんでも盗むものがあれば、私は盗む」と公言するピカソは、 同時代の芸術家から恐れられていた。そして彼らはピカソを自分のアトリエに招く事を大変嫌 った。もしピカソが彼らが苦労して得た着想や発見を一瞥すると、それらを彼ら以上に発展さ せて自分の絵に取り込んでしまったからである。 ピカソは歴史上の多くの名画からもその構図や主題を盗み取っていた。高階秀爾著『ピカソ −剽窃の論理』によれば、スペインのゴヤを始めフランスのドラクロワやマネなど、その「剽窃」 は枚挙に暇がないという 57。そしてそのもとは、原画でなくポストカードであってもよかったと いう。このことは、ピカソが歴史の中で作り上げられてきた絵画を含むあらゆるイメージの伝 統的な遺産に、如何に多く依拠した作家であったか、ということを示している。 そしてこれは、ピカソの陶器についても一貫していた。 「人は、昔から、女性のヒップは花瓶 のような形をしている、といってきた。しかしこれは古臭い決り文句であり、わしは花瓶を持っ てきて、それで女性を作る。わしは古い比喩を使って、反対の方向に効果をあげ、それに新しい生 命を与える。 」とピカソは言う 58。 実際ピカソは陶工たちが挽いた陶器の曲面をうまく利用して、女性のヒップや胸のふくらみ を立体的に表現している。これは日本の文化の脈絡の中で考えれば「見立て」のようなもので、 ピカソは首の長い壺や、胴の張った壺などを鳥や人体、人の頭部などに見立てて、ニンフや鳩 や牧神の頭部などに作り変えた。また彼は、職人が轆轤で挽き上げる実用的な容器の一部を切 り取り、それらを再構成して想像上の生き物を作った。切り取られた容器の各部はそれぞれ、 細長い口になったり、鳥の鶏冠の一部に作り変えられたりしたが、これも一種の見立てである。 そしてこれらの事実が示すように、ピカソの作品の原型となる形は殆ど職人たちが造形した伝 統の中で鍛え上げられた器の形に依拠しているといえるのだ。 更にそのピカソが依拠したものは、陶器の形態ばかりではなかった。古典的なヨーロッパの やきものはおろか、東洋の陶器や南米のアステカなどを含む、世界の陶器がその伝統のうちに 持つ装飾や図像、そして材質の持つ表情までもがピカソの陶器には投影された。 ピカソは地中海文明を構成しているギリシャ・ローマの伝統や、ピカソの出自であるイベリヤ 半島の文化を基調としながら、古の昔から陶工たちがごく自然に陶器に表現してきた動物・鳥・ 魚・牡牛などを、ピカソ的な色や形に仕立て直して、自作に散りばめているのである。 従ってこれらの作品群は、ピカソが如何に伝統的な事象に依拠して陶器を制作していたかを 指し示すと同時に、陶器の伝統を如何にしてピカソ的な方法で二十世紀に蘇らせたかというこ との証しであり、ピカソが創作した鳩やフクロウ、山羊や牡牛のなどの造形や絵柄は、その事を 我々に強く訴えかけているのである。 次章では、この小論の最終的なテーマである陶器芸術における伝統と近代という問題に的を 絞って考察したい。 6. 陶器芸術における伝統と近代 尋常ならざる妖しい光を放つ天才の眼を、先にも取り上げたジョルジュ・クルーゾー監督の 「ピカソ−天才の秘密」は感動的に記録した。映画評論の双葉十三郎は「とくに心をうたれるのは 眼である。芸術家の精神の結晶ともいうべき眼である。その厳しい眼光は対象を凝視するため のものではない。画布に生みだそうとするイメージを見つめる眼なのである。」と書き綴った 59。 しかしこれは、ギリシャローマ以来ヨーロッパ美術が対象に注ぎ続けて来た凝視という行為を 否定している訳ではなく、むしろ対象を凝視し客観的に観察するという伝統を踏まえながら、 その先に突き抜けてあるものを見通し、それを近代の芸術に止揚したピカソの創造の力を、あ の鋭い眼から読み取ろうとしているのである。 一方で東洋の美術が強調してきたのは、肉体の眼ではなく、心の目であった。心の目を通し て自然と人間が一体になるという東洋の伝統は、近代にどのように対処したのであろうか。肉 体の眼と心の目の対照を通して伝統と近代について考察する a. 抑圧された人間性の開放と再生 生存のための大いなる原点である性にはタブーが付きまとうが、近代社会において覆い隠 され押しつぶされそうになっている性が、ピカソの芸術においてはあらわに表現されている。 筆者は、戦後間もなくの生まれだが、子供の頃にはまだ牛や馬などの大型の動物が身近に存在 していた。発情した大型動物に強い衝撃を受けながら、仲間の少年たちと呆然と見とれた記憶 が鮮明に残っている。当然のことながら少年たちにはタブーと戦う術はなく、時とともにその 衝撃は抑圧されていった。 フランソワーズ・ジローによると、ピカソは自分が作り出した動物の体から性的な部分を見 過ごす事は絶対に嫌ったという 60。ピカソの陶器に描かれた牡牛たちにもこの付属物はかなり 雄雄しく、しかしピカソ特有の省略の効いたタッチで描かれている。それは人間においても同 じことで、ピカソの陶器には単純な線描で描かれた男女が、官能的にありのままの姿で登場す る。大きな丸皿に描かれた牡牛や、建築物の装飾に使われてきたタイルに描かれた遠慮のない 人間の営みの描写は、私たちにはかなり衝撃的である。言うまでもないことだが、皿は食べ物 を美しく盛るためにあり、また西洋の習慣に従えば、そこに美しい絵模様を描いて壁や棚に飾 ることが本来の目的であり、建築を装飾するタイルもまた然りである。 しかしこのような節度のある美意識はピカソの芸術とは無縁である。ピカソにとって、人間 も含めた動物たちの営みは、原初からひきつがれた生命の原点である。ピカソがこよなく愛し た闘牛は、その原初へと至る祭祀であった。呪術によって豊穣を祈り、洞窟の奥深くに動物画 を描き残した原始時代の呪術師たちと同様に、ピカソの内にある溢れんばかりのイメージは、 現実社会の抑圧を振り払って噴出し、ピカソの芸術となって結実しているのである。 ピカソが生涯に制作した作品は 6 万点とも 8 万点とも言われるが、そのうち陶器の作品は 4000 点を数える。ピカソの陶器に現れた多産は、近代の技術革新が生み出した量産とは異って、 生命が内にかかえている原始的な衝動としての多産なのであり、それがピカソにおいて陶器に 具現化された。ために私たちはピカソの陶器に言い知れぬ懐かしさと生への共感、そして絶対 的な衝動の解放を感じるのである。 東洋の理想を「自然の摂理に従い、無に生き無に死すること」と捉えれば、ピカソの生きた西 洋は、「再生」が大きな文化的テーマである。そしてピカソは 20 世紀において、その再生を司る 天才呪術師であった。 b. 東洋と西洋における人間観の相違 それにしても日本の近代陶磁と、ピカソの陶器を比べるとピカソ陶器の異質さが際立ってい る。日本の陶磁器から見ると、4章で記述したようにピカソの陶器には欠けたものがいくつか 指摘できるのだが、その殆どは素材や技術に関するものである。一方ピカソの陶器に存在して、 日本の陶磁に含まれないものは、素材や技術に囚われない表現の自由さ幅広さであろう。ピカ ソの陶器に表わされたギリシャ神話や闘牛といった民俗文化史的世界、そしてフクロウやヤギ などに象徴されるような原始性、そして瀬戸市に寄贈された水差しに描かれたような人間への 賛美は、人間中心、生命中心の世界観である。 一方このような大らかさは日本の陶磁には存在し得ない。むしろ日本の陶磁には、素材に対 する生真面目さ、真摯さが目立つ。そこにはピカソのような人間賛歌はないが、土という素材 を常に世界の中心に据えようとする信念のようなものが垣間見える。 ピカソにあっては多くの絵画的試練を切り抜け、それらが昇華されて陶器という大いなる遊 びにたどり着いた。そして日本の近代陶磁には自然との関わりを断ち切ることなく近代的な人 間観を模索してきた、近代日本文化の生真面目さが体現されているように見える。それは近代 的な自我の確立に挑み、最終的には東洋思想に回帰したといわれる夏目漱石の姿とどこか重な るのである。そしてその後の日本陶磁の展開を見ると、ここでは詳述はしないが、その傾向は 現代陶芸にまで受け継がれているように見える。 一方のピカソにあっては、土は生命力の発露であり動物の繁殖に等しく、その作品は近代の 科学技術文明が生み出した人間疎外から人間性を回復させるエネルギーを内に抱え発散する。 自然との共生の中で培われてきた東洋の陶磁には、近代を体験してもなお自然に従属して生き る事を理想とする人間観が投影されている。 7. 土への訪問者―結語に替えて 土と火が産み出すやきものは、人間の内なる創造性と生存の衝動を呼び覚ます原点である。 土に働きかけた自己の営為が、火によって浄化され不変のものへと生まれ変わる。古代から変 わらぬこの魔力はピカソならずとも多くの人々を魅了した。 フランスのルネッサンス時代を代表するベルナール・パリッシーは、窯を焚きあげるための薪 が尽きると家中の家具や床材を窯に投入した。フランソワーズ・ジローによるとピカソは、パ リッシーの話を好んでしていたが、自分なら妻や自分さえも窯の中に放り込んでしまうかもし れないと冗談ながらに語ったという。ピカソは後に出演した映画でも、陳列された自作を前に アンドレ・ジッドの質問に答えて陶器芸術の神秘について語りかけたという 61。 近代においては、タヒチの画家ゴ−ギャンも陶器に魅せられた一人である。彼は木彫なども手 がけているが、陶器による女の胸像や人物の顔を模した花瓶などを造っている。ピカソはこれ らのゴーギャンの作品に霊感を得て、素描を 1900 年代の初頭に数点描き残している。そして この当時、ピカソは友人の窯で数点の胸像を焼いており、これはゴーギャンの陶器に触発され たと考えられる。 それから 40 年以上の後、ピカソがヴァロリスで陶器を始めるとシャガールやミロまでがヴァ ロリスにやって来た。ピカソの親密な友人だったシャガールは皿や壺や陶板に、あの独特な色 使いによる愛に満ちた夢の世界を描いた。信仰心の厚かった彼は聖書の中の物語を陶板に描き、 それをいつも身近に置いて撫でるように鑑賞していたという 62。 また、色彩の魔術師と呼ばれたマティスもステンドグラスや陶器の作品を残した。彼は、ジ ョルジュ・ラミエの助けを借りて陶画なども制作している。ピカソは生涯マティスと交友を結 んだが、当然ながら年長のマティスは先に旅立った。彼の訃報に接したピカソは、これで色彩 の事がわかる画家はシャガールしかいなくなってしまったと嘆いたという。 19 世紀のゴーギャンに続き、陶器芸術に携わった画家や彫刻家たちは「土への訪問者」と呼ば れている。ピカソはその系譜の頂点に君臨した。この事実を前にピカソの作品群を見渡した時、 我々は、ピカソが如何に優れて文明と伝統を忠実に反映した芸術家であったかという事に思い 至るのである。燃え盛る火と土によって 時の長さの保証 を与えられたその作品群は、命の 輝きを放ち続けながら『伝統の弛まぬ再生』という課題を我々に差し出しているのである。 このピカソの陶器芸術を通して伝統と近代の意味を考察することは、彼がその近代をリード した芸術家であるだけに、同時代を近代化に向けて一途に歩んできた日本の陶器芸術の有りよ うをも鮮明に浮かびあがらせて来る。長い間、愛玩の対象とされて来たいささか愚直なこの芸 術は、加藤唐九郎の指摘にもあるように人類史と重って歩んできた長い歴史があるだけに、侮 りがたい持続力と時代の変化に対応する親和力をもち続けている。詰まるところ、陶器芸術は 時代の先端にはなりにくいが、その効力があとで我々の思考や肉体にじわじわと効いてくると いう訳である。 従って陶器芸術は、伝統と近代との結び付きを明らめる、一つの有効な手がかりとしてこれ からも力強く生き続けることだろう。 (注) 1. この小論文は筆者が 2005 年に執筆した二つの論文(2005 年 3 月 21 日‑9 月 25 日 愛知万博スペイン パビリオン特別記念企画展「ピカソの陶器」展覧会図録『ピカソと 20 世紀の日本陶芸―その出会い が描いた軌跡を追う―』 、2005 年6月 陶説第 627 号 『大いなる遊び―ピカソの陶器』)を土台に して書きあげたものです。当時、執筆にあたり多くの方から引用の御同意をいただきました。また、 今回加筆・再構成するにあたり、別記の<文献>を参照させて頂きました。深くお礼を述べさせてい ただきます。また、調査研究にご協力いただいた、フランス国立ピカソ美術館のドミニク・ラピス学 芸員、イギリス在住のピカソ研究家マリリン・マッカリー、マイケル・レイバーン夫妻、スペイン万 博局及び文化担当官カルメン・サシャー様、 仏語翻訳家の垂水洋子様、 地域ジャーナリストの鶴勲様、 瀬戸の陶芸家の岩田和雄様、写真家の堀正雄様、パリ日本文化会館、 (財)翠松園陶芸記念館、彫刻 の森美術館、川崎市岡本太郎美術館、日本陶磁協会機関紙『陶説』編集部、愛知県陶磁資料館、瀬戸 市美術館、(株)新東通信他、関係者の皆様に深く感謝申し上げます。 2. 「伝統」と「近代」はともに頻繁に使われる用語であるが、その厳密な定義は容易くない。ましてこの小 論が扱う日本とフランスでは歴史的・文化的脈絡が異なり一層煩雑さが増す。従って、中途半端な規 定は反って言葉のしなやかな働きを疎外すると考え、通常の範囲で使用することとした。 3. 1950 年 8 月 25 日毎日新聞 『東西美術を結ぶ日仏交換美術展』―今秋東京、パリで同時に― 4. (1) 加藤唐九郎は「ヨーロッパでは日本の絵画や彫刻は受け付けず、 やきもの となると日本人に 敬意を払う」と述べている。(1971 年刊 加藤唐九郎 『やきもの随筆』徳間書店 44 頁) (2)日本の現代画家が世界的に認知されるような画業を発表し始めるのには、その時から、更に数 年を要した。例えば戦前から戦後にかけて、版画の技法により、独自の世界を打ち立てた青森県出身 の版画家棟方志功が、ヴェニスのビエンナーレで国際版画大賞を受けて世界的に注目されたのは 1956 年の 7 月の事であった。 5. 実際のところ、チェルヌスキー美術館では『現代日本陶磁展』とともに『日本の浮世絵展』を同時開 催し、ジャポニズムファンの観客を動員することに成功している。 6. 但し本来は、日本陶磁の近代史は産業史的な視点と美術史的な視点の両方を明確に区別して論ずべき であるが、実際は陶磁器産業と美術家及び作陶家たちは微妙に絡み合い関係し合いながら近代史を歩 んできた。そのため両者を切り分けて論ずると大変煩雑になり長くなるので、ここではこの小論の論 旨に見合う点に焦点を絞った。そのためいささか大まかな記述となっている。 7. この辺の事情は、「1993 年 藤城繼夫『 能楽今昔ものがたり』 第三章 139 頁〜148 頁」に詳しい。 8. 1997 年刊 中ノ堂一信 『近代日本の陶芸家』 河原書店 80 頁 9. 1952 年 3 月 11 日 小山冨士夫 『フランスから帰った日本の陶磁器展』 毎日新聞、 1952 年 4 月号 小山富士夫 『フランスへ出陳された現代日本陶芸展』 日本美術工芸 162 号、 尚本稿で扱 っている『現代日本陶磁展』の用語は当時の新聞、雑誌により表記が異なるため、本稿では全て『現 代日本陶磁展』と統一して表記した。 10. 1987 年刊 乾由明 「富本憲吉の陶芸」 図録『特別展・富本憲吉』 府中市郷土の森博物館 11. 筆者はまだ,「フランスの名工デュクール」を特定できていない。 12. 小山富士夫は前掲(注 8)の記事の中で、ヴァロリスへの巡回は「パリ在住の萩原在外事務所長の尽力 で」実現したと記している。 13. 1986 年刊 大島博光 『ピカソ』 新日本出版社 14. 1952 年 4 月号 『フランスへ出陳された現代日本陶芸展』 日本美術工芸 162 号 15. チェルヌスキー美術館の正式な記録によると、日本側から同美術館に寄贈されたのは、カタログ番号 11、14、17、25、36、38 である。一方セーブル国立美術館には、29 番と 47 番が寄贈された。 16. 1950 年刊 現代日本陶磁展カタログ チェルヌスキー美術館 パリ (写真は掲載されていない) 17. 1952 年 3 月 11 日 小山冨士夫 『フランスから帰った日本の陶磁器展』 毎日新聞 18. (1)戦後間もないこととて、神奈川県近代美術館では展覧会カタログを制作しておらず、一葉の展 覧会案内が残されているのみで、出展作品名などは記録されていない。 (2)前掲(注8)小山富士夫 『フランスへ出陳された現代日本陶芸展』によると『現代日本陶磁 展』出品者と所属は次の通り。 〔日展〕板谷波山、淸水六和、淸水六兵衛、河村蜻山、楠部彌弌、加藤土師萌、北出塔次郎、河村喜 太郎、安原喜明、宮之原謙、河合栄之助、浅見隆三、堀岡道仙、米沢蘇峰、加藤菁山、鈴木靑々、加 藤瀧川、加藤幸兵衛、宮川三重喜 〔國展〕河井寛次郎、濱田庄司、舟木道忠 〔新匠工芸〕富本憲吉、近藤悠三、山田喆、鈴木淸、 〔白土會〕日根野作三、辻晋六、瀧一夫、叶光夫 〔前衛派〕(四耕會) 宇野三吾、林康夫、大西金之助 (走泥社) 八木一夫、鈴木治、山田光 (その他) イサム野口、木内克、中島淸、山本正年 〔無所属〕北大路魯山人、石黑宗磨、荒川豊藏、加藤唐九郎、川喜田半泥子、金重陶陽、中川泰藏、 宇野宗甕、八木一艸 一方、フランス側に送られた陶磁は次の通り。 〔チェルヌスキー美術館〕淸水六兵衛、北大路魯山人、河村喜太郎、加藤瀧川、鈴木淸 〔ヴァロリス美術館〕八木一艸、山本正年、舟木道忠、叶光夫、中島淸、加藤菁山、加藤唐九郎、山 田光 〔セーブル美術館〕石黑宗磨、宇野宗甕 〔その他の関係者〕米沢蘇峰、山田喆、鈴木治、鈴木靑々、宇野三吾、木内克、大西金之助 19. 石灰は主に釉薬の成分として使われる重要な原料で、焼成によって他の原料を熔け易くする働きがあ る。そのため胎土中に多く含まれると、胎土の耐火温度が下がるなど様々な問題が発生する。 20. 少量の解膠剤を入れて土と水をドロドロにしたもの。解膠剤の作用により最小限の水分量で土を流動 化させ得る。 21. 14 世紀末ごろから朝鮮半島で焼かれた陶器で、鉄分の多い土を白土で覆い、そこに刷毛目・象嵌・ 印花・鉄絵などの装飾を施したもの。釉が幾分青みを帯びているのでこの名がある。日本では三島手 などと呼ばれ写しも作られた。 22. 1965 年刊 フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク 『ピカソとの生活』 新潮社 23. 2003 年刊 千足伸行監修『パリー1900|ベル・エポックの輝き』展覧会カタログ 178 頁 24. 1965 年刊 フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク 『ピカソとの生活』 新潮社 190 頁 25. 1975 年刊 ジョルジュ・ラミエ 「ピカソの陶器」 平凡社 42 頁 26. 1986 年刊 大島博光 『ピカソ』 新日本出版社 133 頁 27. 1971 年刊 加藤唐九郎 『やきもの随筆』徳間書店 140 頁 28. 1957 Daniel‑Henry Kanweiler; Picasso. Keramik/Ceramic/Ceramique, Hanover, 17 頁 29. 1988 年刊 デイヴィッド・ダグラス・ダンカン 『ピカソとジャクリーヌ』 造形社ジャパン 50 頁 30. 同 59 頁 31. 陶器の作品点数については定説がないので概数を記した。 32. 2000 年刊(復刻版)高田博厚 『分水嶺』 岩波書店 246 頁 33. 2001 年刊 荻須高徳展図録 朝日新聞社文化事業部・目黒区美術館 年表より 34. 1949 年 2 月 4 日 荻須高徳 『パリ画信=ピカソ陶器展をみて』 毎日新聞 35. 1949 年4月号 滝口修造 『ピカソの陶器』 美術手帳6号 美術出版社 36. 1951 年 10 月号 『座談会 ピカソ展』芸術新潮 新潮社 45 頁〜49 頁 37. 当時、画家や美術家たちが芸術雑誌に投稿した記事は印象記が多く、学術論文のような論理的記述で はないので、その印象記から論旨をまとめると、このような内容となる。 38. 1951 年 5 月号 佐藤敬 『ピカソの陶器』 みづゑ 美術出版社 39. 1956 年制作『ピカソ−天才の秘密』 監督:アンリ・ジョルジュ・クルーゾ カンヌ国際映画祭審 査委員特別賞受賞 40. 1956 年 9 月号 小林秀雄、吉川逸治『映画「ピカソ・天才の秘密」対談』 芸術新潮 新潮社 41. 窯業地瀬戸を中心とした日刊紙の元記者で、加藤唐九郎の『やきもの随筆』執筆に協力した、地域ジ ャーナリストの鶴勲氏の証言による。 (2005 年 12 月 4 日インタビュー実施) 42. 1934 年〜1936 年刊 陶器大辞典 陶器全集刊行会編 43. 1979 年刊 加藤唐九郎 『陶芸口伝』 (財)翠松園陶芸記念館 215 頁 44. 1971 年刊 加藤唐九郎 『やきもの随筆』徳間書店 58 頁〜59 頁 45. 1961 年刊 加藤唐九郎 『ピカソの陶器』 (世界名画全集『ピカソ』の月報) 平凡社 46. 素地に白色不透明の錫釉を掛け、その上に彩画を施した陶器。15 世紀末からイタリアで製出され、 ルネサンス期にはイタリア陶器の代名詞までになった。華美な色彩と精巧な描画に特徴がある。 (1976 年刊 「やきもの辞典」 光芸出版) 47. 前掲(41)の地域ジャーナリストの鶴勲氏の証言による。 (2005 年 12 月 4 日インタビュー実施) 48. 1967 年 9 月第五回朝日陶芸展出品作 49. 1966 年刊 加藤鎮雄、斉藤正治、野田順一 鶴勲共著 『やきものの本』瀬栄陶器会社 241 頁 及 び、前掲(41)の地域ジャーナリストの鶴勲氏の証言による。 (2005 年 12 月 4 日インタビュー実施) 50. 2003 年 12 月 5 日マリリン・マッカリー、マイケル・レイビーン夫妻とのインタビュー記録より(聞 き手:筆者、鶴勲) 51. 前掲(40) 1956 年 9 月号 小林秀雄、吉川逸治『映画「ピカソ・天才の秘密」対談』 芸術新潮 新 潮社 97 頁〜98 頁 52. 1954 年 9 月号 北大路魯山人『ピカソ会見記』芸術新潮 新潮社 53. 1959 年刊 岡本太郎 『黒い太陽』 美術出版社 54. 同 150 頁〜152 頁 55. 墨一色を使った初期木版画は墨摺絵と呼ばれるが、まもなくそれに丹(鉱物質染料でオレンジ色に近 い赤)を主に緑、黄を筆で塗りこむようになる。これを丹絵と呼ぶが、やがて植物性の染料を使って より透明感のある赤色を施した紅絵に移行する。 (1997 年刊 「日本美術館」小学館による) 56. 2003 年 12 月 5 日マリリン・マッカリー、マイケル・レイビーン夫妻とのインタビュー記録より(聞 き手:筆者、鶴勲) 57. 高階秀爾 『ピカソ―剽窃の論理』美術公論社 第一章 58. 1965 年刊 フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク 『ピカソとの生活』 新潮社 283 頁 59. 1956 年制作 双葉十三郎解説 アンリ・ジョルズ・クルーゾー監督 『ピカソ−天才の秘密』 レー ザーデスク(株) 60. 1965 年刊 フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク 『ピカソとの生活』 新潮社 280 頁 61. 同 221 頁 62. 1992 年刊 シルヴィー・フォレスティエ、メレ・イエ 『マルク・シャガール 陶芸の世界』 同朋 社出版 <参考文献> 1956 年 アンリ・ジョルズ・クルーゾー監督 『ピカソ−天才の秘密』 双葉十三郎解説 レーザーデス ク(株) 1986 年 大島博光 『ピカソ』 新日本出版社 1959 年 岡本太郎 『黒い太陽』 美術出版社 1997 年 加藤重高 『土よ炎よ』 風媒社 1966 年 加藤鎮雄、斉藤正治、野田順一 鶴勲共著 『やきものの本』 瀬栄陶器会社 1962 年 加藤唐九郎 『やきもの随筆』 徳間書店 1992 年 加藤唐九郎 『自伝 土と炎の迷路』 講談社 2001 年 カーステン・ペータ・ヴァルンケ/インゴ・F・ヴァルター 「パブロ・ピカソ」 タッシン・ジャパ ン 2007 年 川崎市岡本太郎美術館 『青山時代の岡本太郎 1954‑1970−現代芸術研究所から太陽の塔まで』 展覧会図録 1985 年 神吉敬三他 『現代世界の美術・ピカソ』 集英社 1975 年 ジョルジュ・ラミエ 『ピカソの陶器』 平凡社 1992 年 シルヴィー・フォレスティエ、メレ・イエ 『マルク・シャガール 陶芸の世界』 同朋社出版 2005 年 スペイン万博公社『ピカソ−伝統と創造展』図録 1983 年 高階秀爾 『ピカソ−剽窃の論理』 美術公論社 2000 年 復刻版 高田博厚 『分水嶺』 岩波書店 1988 年 デイヴィッド・ダグラス・ダンカン 『ピカソとジャクリーヌ』 造形社ジャパン 1997 年 中ノ堂一信 『近代日本の陶芸家』 河原書店 1965 年 フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク 『ピカソとの生活』 新潮社 1993 年 フランソワーズ・ジロー 『マティスとピカソ』 河出書房新社 1891 年 マイケル・ブラックウッド監督 『ピカソ:天才の遺産』 1981 年 三浦小春 『中部のやきもの』 中日新聞本社 2000 Christine Biederman; Feet of Clay, Dallas Obserber 2000 c2005 New Times, Inc 1957 Daniel‑Henry Kanweiler; Picasso. Keramik/Ceramic/Ceramique, Hanover, 1998 Janet Koplos; From Picasso to Penk: Playing With Clay, Het Kruithuis, Museum of Contemporary Art 2004 Musee du Quebec ; Picasso and ceramics 2004 Picasso’s Ceramics and Japanese Potteries Tradition and Modernism of Ceramic Art Tomohiro TAGUCHI Abstract Picasso’s reformative ceramic work emerged soon after the war, bringing to Paris a deep sense of postwar mollification. Shortly afterwards, Japanese contemporary ceramics were introduced to France and exhibited together with Picasso's ceramic works, thereby receiving a good reputation. As Japan had continued to maintain its long tradition of pottery manufacture, Picasso's ceramics were evaluated with mixed feelings when introduced to the Japanese. The Japanese painters generally rejoiced at the fresh emergence, but there were some who rejected Picasso’s reformative way. The background of pottery development differs between the West and East. In Japan, the modern ceramic industrial technology of the West was adopted and digested through the process of modernization. Hence, it could be said that it was a digestion of "Technology", but not a digestion of "Thought". The use of anthropocentrism, a tradition of Western civilization often utilized in art, revives in Picasso's ceramic works, finding its way through " Alienation of the Modern Man ". Moreover, the view of humanity that assumes lifestyle is dependent upon nature is projected on Japanese modern ceramic works, even if they have been subject to modern "Confirmation of Identity". Keywords:tradition and modernism, Picasso, Kato Tokuro, Vallauris, Expo’ Aichi
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