ヴィルヘルム・ブッシュのブラック・ユーモア

ヴィルヘルム・ブッシュのブラック・ユーモア
2012 年 10 月 20 日 朝日カルチャーセンター立川
岡部由紀子
Wilhelm Busch
1835 年、ハノーファー近郊にある小村に生まれ、1908 年、ハルツ地
方の小村で 75 年の生涯を閉じた。故郷や幼少期を過ごした北部低地
ドイツの地で半隠遁の生活を送り、諷刺絵物語や詩、随想を多く発
表した。ドイツ語文化圏で、もっとも有名な文化人の一人。
軽快なタッチで、人間の営みをほろ苦く、かつユーモラスに描き出
した風刺漫画は、現代のコミックの源流とみなされている。
「かくれんぼを得意とする人」の異名をとったブッシュは、本心を
明かすことを避け、鋭い感受性で捉えた人間観をブラック・ユーモ
アに包んで、軽やかな言葉と風刺画で表現した。
画業こそ自分の真の仕事だと考えていたブッシュは、彼が暮らした
地の風景や庶民の姿などを描き続けた。多くの絵はできばえに満足
できなかった作者によって廃棄されたが、
作品の一部は甥が保管し、
ブッシュが亡くなった年に公表された。
ブッシュは何を諷刺したのか
鋭い観察眼で眺めた自分の周りの人間の日常と、生き物の営み
大人の目を盗んで、いたずらをする子供や動物
偽善的な思い上がった大人
愚かで救いようのない人間
→ 現代にも通用する普遍的なテーマ
当時の政治状況、経済問題は、諷刺の対象外
いち、にい、さん、急ぎ足で時が行く
無常観に苦しんだブッシュ
一緒に行くよ 我々も
ブッシュの心につきささった、幼少時の死との接点
溺れかかった妹
自殺した教師の幽霊
貧しい者達の寂しい最後
→ 死に行く人間の無念さを共有
→ 風刺画の中で、死をユーモラスに笑い飛ばした。
諦念がつきまとう
画家としての自己否定(16,17 世紀のフランドルの巨匠は超えられない)
→
描いた絵を秘匿しつづけた。
愛する人々との別れ、喪失感
→
晩年の絵画は、広大な自然に抱かれている点景としての男
→
風刺物語には、
「生き物とはこんなものさ」という皮肉がこめられている。
1895 年 63 才頃の自画像
ブッシュの絵物語は教訓的ではない
いたずらをする子供には、最後に罰が待っているという結末は一見教訓的
子供や大人の心理描写や、滑稽さに力点がおかれている。
登場人物が礼儀作法を口にすると、愚弄される。
主人公たちは、自分本位で、恩知らず、情け容赦が無く、他人の不幸を喜ぶ。
善悪の判断は曖昧、ハッピーエンドはない。
→
同時代の作品、グリム童話や「もじゃもじゃペーター」とは、一線を画す。
ブッシュは残酷か
風刺画の登場人物は、生身ではなく実体のない線からなる幻影だとブッシュは述べている。
彼らは重力から解放されて、軽やかに動き、ときにはへんてこりんな形になって「死ぬ」
。
→
登場人物は、おもちゃがその役目を終えて捨てられるように最後を迎える。
乳母が 1860 年に子ども達にした話
昔、二匹の子供を持っている母ネズミがいました。ある晩、母
ネズミは子供たちを連れて散歩に出かけました。突然そこへ猫
があらわれ、三匹のネズミをぱくりと食べてしまいました。お
母さんは、子ども達を叱りました。
「お前たち、急いで逃げれば
よかったのに!」二匹の子ネズミは泣きながら、
「だってお母さ
ん、今からじゃ間に合わないよ!」と言いましたとさ。
赤いジャケット
千枚の油絵のうち約 180 枚に、赤い上着を着た人物が登場する。
そのうちおよそ 70 枚の絵は、風景の中の点景として描かれている
赤は、忘れられない思い出?
21 才のときアントワープでチフスにかかったブッシュを、下宿の夫婦
が献身的に看病してくれた。病が癒えたブッシュが療養のため故郷へ
帰るとき、下宿の夫婦が彼に贈った暖かい赤いジャケットの思い出に
繋がっているのかもしれない。
赤は画竜点睛?
ブッシュの絵の風景の中に登場する人物は、具象的な表現から色を纏う図形へと変化していった。彼の 1890
年頃からの画作では、荒いタッチのさまざまな色で空間や大気を表現している。かつての絵で描かれた赤い
ジャケットは、赤い色の点へと抽象化されていく。そしてこの赤い点は絵全体の多彩な色彩に焦点を与え、
画家や絵を見る者がそこに照準を合わせる効果を生み出している。
ルーベンスの絵に学んだ?
20 才のとき絵の勉強のため訪れたアントワープで、16~17 世紀のフランドルの巨匠の作品に接し、衝撃を
受けた。巨匠の一人であるルーベンスの「夕べの景色」の中に荷車を引く馬に乗る赤い上着を着た農夫の後
ろ姿が描かれている。この絵に感銘したブッシュが、同じモチーフを発展させたのかもしれない。