シュメールの心 その 13 シュメールの盛衰に関わったエラム王国 イランへ

シュメールの心
その 13
シュメールの盛衰に関わったエラム王国
イランへ
栁 幸夫
①シュメール・アッカド時代のエラム(イラン)
◆イランへ
いう事情でイランは断念せざるをえなかった。
イランへ行こうと思ったのはまだ若い頃、し
80年7月、エジプト政府観光局主催のモニ
かし間が悪くイラン革命が起きていた。見たい
ターツアーに飛びついてエジプトに行った。そ
と思っていたのはペルシア文明の遺跡とその
のエジプトに亡命していたパフラヴィー国王
遺物である。その頃はまだシュメールとかエラ
はその年の7月27日に亡くなった。
ムとかは眼中になく未知の世界であった。ただ
エジプトの遺跡から強烈な印象を受けた私
NHK番組によってもたらされたシルクロー
からイランはやや遠のいて、「奈良の正倉院か
ドブームや正倉院展、松本清張さんの著書など
らローマまで」シルクロードの主な古代遺跡を
によって、アケメネス朝やササン朝のペルシア
見てやろうというおもいが強まった。このあた
文明への憧憬が大きくふくらんでいた。
りに、どうもひとつのことに集中できないで、
78年、筑紫古代文化研究会の韓国研修旅行
「雑学的にウロウロする」自分の性格があらわ
で、慶州の古墳群を見学した。新羅時代の古墳
れてくる。それまで、邪馬台国問題を中心に日
の中に、例えば西アジアからの伝来を感じさせ
本各地の弥生・古墳時代の遺跡と博物館巡りに
るようなガラス器などを見ていよいよペルシ
参加していた。怠け者の私は「記」「紀」等は
アへの想いは募るばかりであった。
(※だがペル
熟読せず、ただ遺跡見学だけには参加して下手
シアと新羅の関わりにはまだ議論が続いている)
な写真を撮るだけに終始していた。そういう定
しかし、78年9月にホメイニ師が登場する
点が定まらない中で、どういうわけか東アジア
イスラム革命が起こり王政は打倒されパフラ
から西アジアの世界へと誘惑する「そぞろ神」
ヴィー(パーレビ)国王は国外に脱出した。と
にとりつかれてしまったようである。
結局、中国・インド、中近東諸国をウロウロ
⑤テヘランより南下、暑いアフワズへ飛ぶ
していた。イラン15日間の旅行が実現できた
のは、退職後の大きな病を癒えて 2005 年 3 月。
旅立つ直前に大地震があったが、日本の4倍以
上の広さの国である。まあ大事無かろうと。
◆行けばやはり世界遺産のペルセポリスに象
徴されるアケメネス朝やササン朝ペルシアの
広大な遺跡、そして「世界の半分」とうたわれ
たイスファハンの壮麗なモスクなどが圧巻で
あった。しかし、本稿はシュメール・アッカド
を主題とする以上多くを語ることはできない。
◆さてシュメール都市国家の消長の歴史の中
で、エラム王国とかその首都であったスーサが
登場する。そして、シュメール王朝がザグロス
首都テヘランでの見聞はカットする。
山脈の方の「蛮族」(?)から絶えず脅かされ
まだ雪山が見られた3月はじめいっきに南下
ていたことも明らかにされている。地図をチラ
してフーゼスタン州のアフワズへ飛んだ。
リと見ながら、イラク側からメソポタミアの河
を 越 えた 東側 の世 界はど ん な世 界で あろ う
⑥アフワズ郊外の風景、イラク国境が近い
か?というおもいはしばしば去来していた。
◆旅はテヘランの国立考古博物館の見学から。
ここでイラン古代の遺産の数々を見ながら、歴
史の概要を把握しなければならないのである
が、展示品の撮影に息を切らして追われるだけ
である。お目当ての円形切子ガラス碗はケース
が邪魔して焦点を合わせるのに苦労した。
②イラン国立考古博物館正面入口
アフワズはナツメヤシの木が茂り蒸し暑い
処である。真夏には気温50度をはるかに越す
こともありこの地域へのツアーはこの時期に
限定されている。イラクとの国境が近いので、
かつて見たイラクのバスラあたりの風景と同
じである。云うなればこのあたりはペルシアで
なく、メソポタミアなのである。イラク側のバ
スラは 58.8 度の世界最高気温の記録がある。
③円形切子ガラス碗(風化している)
イラン・イラク戦争のさいはバスラ側とシャト
④隣のイスラム博物館にも展示されていた
ル・アラブ川(イランではアルヴァンド川と呼
ばないと首を切られる!?)を境に砲弾が飛び
交う激戦地になった。街角の至る所に戦死者の
肖像画が英雄的に飾られていた。戦争博物館に
は破壊された街の状況と、イラク軍が残した戦
車や砲弾、地雷などが展示されていた。
◆チョガザンビル遺跡(世界遺産)
アフワズから1時間半くらい車を走らせる
と世界遺産のチョガザンビル遺跡に着く。
⑦ジッグラト(南東面より入り一周する)
が、現状は下から3段のテラスまででその高さ
は25mである。このジッグラトの建築方法は
ウルのジッグラトなどのようにテラスを下か
ら順次積み上げていくのではない。
「まず最下段の方形のテラスを築いた後、その
四辺に沿って幅数十mの建物を構築し、恰も内
庭を有するメソポタミアの伝統的宮殿のよう
な方形建物を建設した。この建物の内部の空間
はアーチを利用した筒型天井となっていたが、
⑧ジッグラト(真南の角から南西面を望む)
この回廊のような建物群が実際には第二段目
のテラスとなったのである。その後、内庭の部
分に第三、第四、第五のテラスに相当する部分
を同時進行の状態で建てていったのである。つ
まり、この三つのテラスは上のテラスが下のテ
ラスに乗っているのではなく、全て最下段のテ
ラスに並んで立っている建物なのである」
。
「更に、形式・外観においてもメソポタミアの
ジッグラトとも異なっている。例えば(この)
チョガザンビルには前13世紀中頃のエラム
ジッグラトには四つの門が施され、その門から
王ウンタシュ・ガルが建設したジッグラト(聖
上方へと各々、階段が設けられている。更にこ
塔)がある。現存するジッグラトの中では最も
の階段の一部に架構された天井はアーチで支
大きいものである。それまではウルのジッグラ
えられている。この他、神殿をはじめ、ジッグ
トが最大だと私は思っていたのだが。
ラトの主要部分は、彩釉タイルなどで荘厳され
⑨ジッグラトの模型 メソポタミアの建て方
とは違っている(
『ペルシア美術史』より)
ていたと推定される。また、四つの門には、雄
牛とかグリフィンなどの彩釉テラコッタ製の
動物像が、僻邪獣として安置されていた。特に
グリフィンは、前四千年紀のスタンプ印章(ス
ーサ出土)から判明する如く、エラムの地で創
造された怪獣である点を付言しておこう」
。
(
『ペルシア美術史』深井晋司・田辺勝美著
吉川弘文館 83 年刊)
⑩アーチの門
⑪三千数百年前のレンガ
に青い彩釉が残る
日乾レンガを積み重ね、表面を焼成レンガで
補強している。5段の大きなテラスをもち、最
上段には神殿があった、と推定されている。最
下段のテラスは一辺約105mで、5段のテラ
スの高さは、53mに及んだと推定されている
◆南東面の入口の門址から閂(かんぬき)が出
◆エラムの歴史の説明は後まわしにしてジッ
土した。国立考古博物館に展示されていた。
グラト周辺をもっと見てみよう。
⑫此処の門に閂があった
⑲ジッグラトの西角から振り返る。中央に日時計、
⑬博物館展示の閂
その右側に「ガルの神殿」址、その奥に水道址。
◆ジッグラトを時計回りに一周しながら見学。
⑭
ジッグラトの立体模型(ジオラマ)
⑮
日時計址
⑯
日時計の煉瓦に刻まれたエラム文字
⑲
南西門
⑳
北東門はこの時修復工事中
21
ジッグラトから王族地下墓群の遠望
22
王族地下墓への入口(中は未見学)
⑰世界最古とも云う水道跡(陶器製の水道管)
◆結局、このドゥール・ウンタシュと呼ばれる
町は、エラム中王国時代のもの。町は二重の城
壁によって守られている。外壁は約 1200×800
mの四辺形で、内壁は 400×200mほどの四辺形
⑱浄水施設だと
である。後者はテメノス(聖域)を形成するも
いうが、見落とし
ので、中央に大きなジッグラトがそびえ、その
た。
(ネットより)
周囲に神殿がある。ということになる。
(続く)