福音の喜び

福音の喜び
四旬節第 2 週
「福音の喜びは心を満たし、イ
エスと出会うすべての人の命を
満たします。」(1 項)
「福音宣教の務めが、言語やさ
まざまな状況の限界の中で動い
ているのがわかります。宣教す
る使命感にあふれる心は、この
限界について知っており、『弱
い人と共に弱いものに、…すべ
ての人のためにすべてに』(1
コリ 9:22)なるのです。決し
て自分のうちに閉じこもらず、
自分の安全なところに引きこも
ることなく、決して自己防衛に
満ちた頑なさを選びません。自
らが福音の理解と聖霊のさまざ
まな道の識別において成長しな
ければならないことを知ってお
り、そうして泥まみれの道を歩
んだとしても、いつも可能な限
り善を行うのです。」
(45 項)
四旬節第 1 週
「私はすべてのキリスト者を招
きます。どこにいても、まさに
今、イエス・キリストとの個人
的な出会いを新たにするように、
または少なくともイエスに見出
してもらうために心を開くよう
にと。私は皆さんすべてに、毎
日、確実にこれを行うようにと
お勧めします。」(3 項)
今日、どこで私はイエス・キリ
ストと出会ったでしょうか?何
が私をイエスとの出会いへと解
放したでしょう?また何が出会
いの妨げとなったでしょうか?
私は、人生のどのような場で呼
ばれているでしょうか。福音の
新しい理解へ向かって、信仰の
うちに、自分の安全なところか
ら出ていくこと、自己防衛に満
ちた頑なさから出ることを。
四旬節第 3 週
現代、奉献生活者の男女を含み、
司牧活動に携わる人々の多くが、
個人的な自由と余暇について行
き過ぎた関心を持っているのを
目にします。そのため彼らは自
分の仕事を人生の中のほんの添
え物にすぎないように捉えてい
ます。霊的な生活は、ある種の
慰めを与えることができる少し
ばかりの宗教的活動に過ぎない
ものと理解され、他者との出会
い、世界への貢献、または福音
宣教への情熱を促すものとは捉
えていません。その結果、福音
を宣教する人々がたとえ祈って
いたとしても、人は彼らの多く
が個人主義に囚われ、宣教者と
しての自己を見失い、情熱が冷
めているのをよく見ているので
す。(78 項)
四旬節第 4 週
「すべてのキリスト信者は、今、
ここで、福音宣教に積極的に参
加するようチャレンジを受けて
い ます 。も はや 私た ちは 『弟
子』でも『宣教師』でもありま
せん。むしろ私たちは常に『宣
教する弟子』なのです。」
(120 項)
今日、私はどのように「宣教す
る弟子」である経験をしました
か?今日、「宣教する弟子」と
して、どのような喜びを経験し
ましたか?「宣教する弟子」と
してどのようなチャレンジがあ
りますか?
自分の自由や個人主義を優先し
たいという思いは、どのように
福音の喜びを経験する生き方の
妨げとなっているでしょうか?
1
四旬節第5週
「キリスト者各個人またすべて
の共同体は、貧しい人々を解放
し助ける神の道具となるように
呼ばれています。」(187項)
今日、私は、どこで・どのよう
にこの神の呼びかけを聞きます
か?
「私たちは福音の素晴らしさを
いつも十分に示すことができな
いかもしれませんが、失っては
ならない一つのしるしがありま
す。それは、社会から見捨てら
れた小さな人々を選ぶというこ
とです。」(195項)
今日、私はどこで・どのように
小さな人々を選びましたか?
聖週間
「個人的な経験に基づく確信を
持たずに、福音宣教に熱心に取
り組むことは不可能です。イエ
スを知っていることと知らない
こと、イエスと共に歩くことと
分からずに歩くこと、イエスの
言葉を聴くことと知らずにいる
こと、イエスを観想し・礼拝
し・イエスの内に平和を見出す
こととそうしないことは違うか
らです。イエスの福音に従って
世界を築こうとすることと、自
分たちの知恵で築こうとするこ
とは同じではありません。イエ
スと共にいるならば人生は豊か
になり、すべてに意味を見出す
ことはもっと容易だと私たちは
承知しています。これが、私た
ちが福音宣教を行う理由です。
確信し、熱心で、確固としてい
て愛のうちにある人でなければ、
説得力はありません。」
(266項)
復活節第5週
復活節第6週
「争いを解決する最もよい方法
は…争いと正面から向き合い、
解決し、新たな進歩につながる
ものとしようとする意欲です。
平和のために働く人は幸い!
(マタイ5:9)」(227項)
「イエスは、福音のよき知らせ
を告げる者たちに、言葉だけで
なく神の現存によって変えられ
た人生を通して知らせることを
望んでおられます。」
(259項)
「マリアは、奉仕と実りの豊か
な運命へと向かう信仰の旅を聖
霊の導きに任せました。」
(287項)
今日、私はどんな争いの場面に
出会っているでしょうか?どの
ように私は応えているでしょう
か?私は直面することができる
またはするつもりですか?そう
でないなら、なぜでしょう?ど
うやって解決したいと思います
か?
私の信仰の旅はどのように私を
「奉仕と実りの豊かな運命へ」
と呼ぶのでしょうか?
イエスを知ることで、私の人生
はどのように変容したでしょう
か?
2
復活節第1週
「命は与え続けることによって
成長し、孤立と心地よさの中で
力を失います。岸辺の安全を離
れ、他者に命を伝えるという使
命に心をおどらせている人々こ
そ、命を深く味わうのです。」
(10項)
岸辺の安全を離れて他者に命を
伝えるという努力を重ねること
で、今日、私はどうやって解放
されまた束縛されたのでしょう
か?
復活節第 2 週
「教会全体がこの宣教のダイナ
ミズムを引き受けるなら、教会
は例外なくすべての人にたどり
つかねばなりません。しかし、
誰をまず優先するべきでしょう
か?とりわけ貧しい人々、病気
の人々、いつも軽蔑されている
人々、見過ごされている人々で
す。私たちの信仰と貧しい人々
との間には分かち難いきずなが
あります。私たちが彼らを見捨
てることが決してありませんよ
うに。」(48項)
私はどのようにして貧しい人々
や病む人々に近づくよう、呼ば
れているでしょうか?CNDの共
同体の中で?使徒職の中で?近
隣の人々の中で?より広い世界
の中で?
復活節第3週
復活節第4週
「神の子の受肉の真の信仰は自
己を与えること、共同体の一員
であること、奉仕、他者との和
解と切り離せないものです。神
の子は肉となられることで、私
たちを優しさの革命へと呼び集
められたのです。」(88項)
「教義はほとんど知らないけれ
ど、ロザリオを手放さず、つつ
ましい家でろうそくを灯し、マ
リアに助けを願って祈り、十字
架につけられたキリストに優し
いまなざしをむけて病気の子ど
もを世話する母親に、私は揺る
がぬ信仰を見出します。神の聖
なる人々を愛する人は、こうし
た行為を単に神聖なものに対す
る人間の探求の表われとは考え
ません。これは私たちの心に注
がれた聖霊によって培われた神
学的な生活の表れなのです。」
(125項)
今日、私は「受肉された神の子
への真の信仰」を分かち合うた
めに何をしたでしょうか?
私はどのようにして他者の生活
の中に信仰の宝を見出し、また
彼らが自分で見出すのを助けて
きたでしょうか?私はどのよう
にして他者を神の聖なる人々で
あるとの自覚へ導いてきたでし
ょうか?彼らが生活の中で希望
と喜びを味わうように、どうや
って助けるでしょうか?
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