物語レポート

 はじめまして、戸嶋といいます。
私は現在、 ネットビジネスという手段を使って事業をやるため、
マーケティングやビジネスの原理原則を学びながら情報
発信をしています。
また、ネットビジネスする過程で企業している経営者さ
んの思考から学んだこと、
体験談などをブログまたはYouTubeで話しています。
自信がなかった私が、
一つ一つ形にしていく過程で、 どんどん自信を獲得できました。 例えば、 メンタルコントロールができるようになったり、 怖くてできないではなく、必要であれば、 やるという選択肢を次々ととれるようになりました。 また私がこの世界を知ったのもある師のおかげなのです
が、
もし師に出会っていなかったらこの物語は書くことはな
かったと思います。
私が知っている経営者さん達は、
好きな時にスポーツをしたり、
美味しいご飯を食べ歩いたり、
映画見放題な生活を送ったりと自由気ままな方が多いで
す。
それなのに、月収500万円以上をたたき出す強者もいるの
ですが、
私もそこに到達するまでは可能なことなんだなと思える
ようになりました。
以前の私は、何をやってもすぐに諦める人間でした。
絵を書くことが大好きな私ですが、 途中で描くことを止めてしまいます。
こんなことしてていいのかな?と妄想が始まり、 結局形に成らないまま放置。
仕事はもちろん、めちゃくちゃ転職を繰り返しました。
根底にあるのは、
自分に対する弱さでした。
弱さ故、自分自信に甘いのです。
他人依存的甘えというのは恐ろしいです。
振り返ってみると私はもっと自分の人生に責任を持つ必
要がありました。
あぁ、自分は本当に弱かった・・・
・小学校の入学式で名前を呼ばれても返事ができな
いほどシャイだった小学1年生。
・施設の社会閉鎖的環境が影響して
「周りは優れていて私は劣っている」と常に劣等感
しかなかった中高生時代。
・無知ゆえに、「私は何でも知っている」と優越感
に浸り自己防衛を繰り返す24歳。
・「自分のほうが正しい!」と他人の意見を受け入
れる器がないほどプライドが高くて、
承認欲求が異常に高く、相手の目をまともに見て会
話ができないほどコミュ障に変身。
・「やるなら完璧にしたいのでまとめて完璧にでき
るまで後回しだ!」
と完璧主義で結局何一つ成し遂げられなかった27年
間。
ネットビジネスに触れていなければ、 自分の欠点すら盲点になっていました。
私がどれほど無能だったのか、 物語を書いてみました。
やはり出会いがあっての今です。
人は出会いによってダイヤモンドのように磨かれていく
と、私は心からそう思います。
1、気がついたら児童養
護施設にいた5歳の記憶
「すぐにお父さん戻ってくるから
ね。」
そう言ってしばらくの間、
父は姿を見せることはなかった。
次の日も次の日も、
ついに父は迎えに来ない。
長い、長い施設生活が始まったのである。
そこは秋田県の山奥にある緑に囲まれた児童養護施設。
隣には知的障害者施設がある、特殊な施設だ。
私(当時5歳)と1歳下の妹と一緒に、
児童養護施設に預けられたということだ。
1つの寮には2歳くらいの赤ちゃんから、
18歳のお姉さんが、合わせて20人くらい一緒に生活して
いる。
男子寮が2カ所、女子寮1カ所、計60人ほどの規模。
どの子にも両親の姿はなく、
私が彼らと同じ境遇にいるということは何となく分かっ
た。
児童養護施設には、
育児放棄
虐待
酷使
家庭内暴力
経済的理由
親が精神疾患を抱えている
などといった理由で子供達が施設に預けられる場所だ。
心に傷を負っている子ども達が、 家族のように生活していた。
そこは、とても不思議な空間だった。
どのくらいの間だっただろうか。
あれから私は夜になると、
両親がいないことがとても辛くて毎晩のように泣いた。
寂しくて、寂しくてどうしようも
ない。 ただ誰にも気付かれないように布団の中で静かに泣いて
いた。
いつも、ここがどこかも分からず、
なぜここにいるかも分からない。
誰も説明してくれなかったし、
私もあえて聞かなかった。
私は病的なほどの人見知りだった。
数ヶ月間、新しい保育園に入園したが、
あまりに激しく環境が変わったため、
毎日、頭の中が真っ白。
唯一、記憶にあるのは、
ある女の子が自分の眉毛をむしってしまう癖があって、
先生にいつも注意されていたということぐらいだ。
2、普通の家庭に憧れ、
団体生活に適応する小
学生時代
時は流れるように過ぎる。
数ヶ月経つと、
私は
小学校 へ行かなければいけない年齢になる。
今でも忘れない。
入学式では、全校生徒の前で名前を呼ばれたら、
「はい!」と返事をしなければならないが、
私はその「返事」ができなかった。
人前に出る事がマジで嫌で嫌でしょうがない。
わっ、もう少しで私の番だ!
・・・。 次だっ!
声がでなかった。
返事ができなかったのだ。
身体がガチガチに緊張している。
また名前を呼ばれたが、
もう声を出す勇気はない。
恥ずかしくって今すぐ逃げ出したかった。
学校生活が始まってからは、
幸いなことにイジメに遭うことはなく 小学校には毎日通うことができた。
しかし、病的な人見知りという怪物は、
後にどんどん成長していくのであった。
こんなことがあった。
毎朝の健康観察でのこと。
生徒が順番に元気かどうかを言う場面で、
私はどうしても声を出す勇気がでなくて、
クラス中が問題になった。
どうにかして私に声を出してもらおうと、
担任の先生は悩んだんだと思う。
最終的に先生は、 クラスのみんなを机の下に隠れさせて、
私の視界から生徒を見えなくさせることによって、
声を出してもらおうじゃないか、と考えた。
「さあ、みなさん!戸嶋さんが恥ずかしいようだから、
机の下に隠れてください!」
と先生は指示し、
クラスのみんなは一斉に机の下に潜り込んだ。
そして数秒後、私はやっと虫のような声で、
「はい、元気です・・・」と言うことができた。
先生の編み出した手法は効果を発揮したが、
今、こうして思い出すだけでも、 自分にドン引きする笑
声問題は、頻繁に勃発した。
特に私が嫌いだったのは、国語の時間だ。
一人一文ずつ音読するのだけど、
私の番になっても、 私は文章を音読する事ができなかった。
やはり声が出せない。
ついに、先生はキレた。
「戸嶋さん、どうして読まないの?!どうして?!」
うる覚えだけど先生は、
ちょっと涙目だった気がする。
あの大きな眼、あの眼力。
今でも忘れられない。
どうして恥ずかしくて読めないのか、
私が一番知りたかった。
私のシャイのせいでクラスに迷惑をかけていたというの
に、
私に対してイジメはなかった。(気がする)
もしかしたら、無視とかあったのかもしれないけれど、
私は無視されたような感覚がなかったので、
たぶん何もなかったはずだ笑
学校以外での施設生活は、
やんちゃで
甘えん坊だったが、
やはり、寂しさでいっぱいだった。
常に心の中は「寂しさ」に奪われ、
子供ながら社会に対する好奇心と
いうのは二の次なのだ。
また、将来に夢はなく、
私なんかが周りの大人みたいな立派な大人になれるのか
と常に不安だった。
そしていつの間にか自分のことでも、
他人事に考えるようになってしまう。
自分なんてどうにでもなっていい
や!
嫌な記憶は抹消するようになった。
寂しさは、いつの日か潜在意識に押し込まれたようだ。
休みの日は、外で遊ぶことが楽しみであった。
外には犬や、のら猫、うさぎ、豚、にわとりがいるので、
癒されによく会いに行った。
虫も好きだった。
夏から秋にかけて虫とは遊び放題。
とんぼを捕まえて、
オス?メス?と見極めるのが楽しかった記憶がある。
虫ネタは豊富なほうだ笑
夏はカブトムシがよく出る。
メスのカブトムシを捕まえて施設の友達と名前をつけて
可愛がったりした。
そのカブトムシは「ジッ・・・ジッ!」と鳴きながら、
指にギュッとしがみついてくる虫だったので愛着が湧き
まくった。
そしてその友達と私は、
そのメスのカブトムシと一晩一緒に寝ることになる笑
翌朝、手の中からいなくなっていて、
超ハラハラしたが、
カーテンの裏にいたというオチは良い思い出となった。
またある時は、
捕まえたコオロギを4、5匹虫かごに入れて、
就寝前にBGMにしてみたりした。
(翌朝、ほとんど死んでいて悲しかったけど。)
トラウマが一つある。
ある日、エメラルドグリーン色に輝く虫を見つけて喜ん
でいたのだが、
実はその輝く虫はまぎれも無く「カメムシ」だった。
コリアンダーの臭いを1000倍以上凝縮したかの酷いにお
いはショッキングだった笑
その晩は、カメムシの臭いが臭すぎて泣いた記憶がある。
だが、生き物が大好きだった。
ちなみに、
ファーストキスは殿様バッタ。
緑色の体長6センチ程あるバッタだ。 手にした時は大変誇らしかった。
10歳くらいの私は、自然が大好きだった。
それ以外の楽しみと言えば3食の食事だった。
楽しみは、それくらい。
食べては寝るような家畜のような
日々。
朝5:30AMに起きて、6:00AMに朝食を食べる。
(休日は、6:30AMに起きて、7:00AMに朝食)
夕食は6:00PMにとり、夜は8:00PMには就寝という感じで
1日はマニュアル通りに繰り返えされる。
そんな私は心のどこかではいつか、
大人になればミラクルが起きるは
ずなんだ!
と本気で信じていた。
だから、何の変哲もない毎日なんて早く過ぎればいいと
思っていた。
弱い自分が嫌で、早く大人になりたかった。
唯一、施設のあるY先生には半端ない愛情を注いでもらっ
たのを覚えている。
本当に可愛がってくれた。
怒ると怖いけど、
その裏には優しさがあるんだと
子供ながらにして感じられた。
厳しさは、愛なのだ。
私は、甘えん坊でY先生の言うことは何でもきいた。
例えば、
お茶の入れ方を教えてもらい
Y先生にお茶を入れてあげると
「貴方の入れたお茶がおいしいんだよ。」
とほめてくれる。
必要とされるのが嬉しくてたまら
なかった。
一緒に薬草を摘みに行って、
乾燥の仕方、煎り方など、 お茶の作り方を教わったりもした。
私は、世界で一番幸せな人間だなぁと思った。
この愛情がなかったら、
捻くれまくってたと断言できるほど
彼女には、面倒をみてもらった。
他人である私を我が子のように可愛がってくれて、
今では、本当に感謝している。
私にとって、大イベントが年に4回ある。
一時帰省だ。
施設の子供たちは、春・夏・秋・冬休みは
可能なら親の元へ2週間ほど帰られるのだ。
生きていて、これほど楽しみにしていることはない。
家に帰られる前日は楽しみ過ぎて、眠れないほどだ。
私は全てを忘れ、実家で父と数日間過ごす。
当時は特に施設に置いてかれたことも気にしてなかった。
(母は、私が施設に入る前に父と離婚している。)
父のだらしなさは、
親戚の間ではとても有名だった。
実家に帰るたび親戚の誰一人として会いたくなかった。
必ず、父に対して激しい罵声が鳴り響くからだ。
フォークを武器に、
大声をだす親戚のおばさんの姿は見るに耐えない。
私は、父の隣でビクビクしていた。
確かに父はだらしなくて、私達を育てなかったが、
いつも優しくて、可愛がってくれた。
今となって父は、社会不適合者なんだと理解できるが。
父は、私と妹に本当のことを話すことはなかった。
例えば、
「お父さんは今何歳なの?」
と訊いても、常に「35歳だよ
」と、
なぜか設定が若めで、
んなわけないだろと、子供の私でも分かる嘘をかます。
ある時は、 工場の煙突から出ている煙が気になって質問してみた。
「煙突から出でいる白い煙は何?」
「あれはね、雲だよ。雲になるんだ。」
「へぇー。」
そのとき私は、そうなんだと信じて疑わなかった。
(父は、嘘つきなのだ!)
私は、家族のことなど本当に何も
知らない。
両親の誕生日も、年齢も、父が考えていることも。
あっと言う間に別れの時は来る。
なぜ、両親と離ればなれにならなければいけないの
か・・・
悲しくて仕方ない。
それから、 またしばらくの間は寂しくて泣く日々を送った。
3、東京タワーって何?
「寂しさ」「劣等感」に支配された脳は、
勉強することを拒んだ。
何らかの「挑戦意欲」もない。
全ての可能性が
「寂しさ」「劣等感」に奪われて
いる気がした。
まるで拍車をかけるかのように施設では、
子供達には、ほとんど社会的接触をさせることはタブー
とされていた。
将来、権力者に言われた事だけをやるようなロボット人
材になってもらいたい。
変に賢くなってもらっては困るということだ。
(これはあくまで個人的主観です。)
施設が設けたイベント以外は、
コミュニケーションが取りにくかったと思う。
基本的にTVが観られるのも朝のニュースと、
7:00PM~8:00PMの時間帯。
休日は、自由にほとんど外出ができず、
もし、学校の友達と出かけるような場合、
申請書のような書類を提出しなければならなかった。
書いた書類には、
施設の園長先生の捺印がなければ
外出の許可は下りない。
何かあった時に子供を守るためとは言え、
かなり厳しいルールだ。
せっかくできた友達の家に遊びに行ってはならない。
友達を施設にも呼べず。
時々、学校帰りに内緒で行ったことはあったが、
バレたらお説教。
万が一バレてお説教話を聞きたくなかったので、
遊びに行くと決めていたその日の授業中は、
消しゴムのカスを集めて、 ねり消し耳栓を作ったりした笑
友達との楽しい記憶はほとんどない。
ゆえに、外出は悪い事なのかな?と思っていた。
私は外の世界をほとんど知らなかったし、
たいして気にもならなかった。
施設と学校の往復は容易にできたが、
当時11歳の私は一人でコンビニに入ることさえできなか
ったほど、人の視線や、新しい環境が怖かった。
何度も言うが、
まじで外の世界(社会)のことを
知らなかった。
あの東京タワー。
車で通るたび、お目にかかる
あの「電波棟」が東京タワーだとずっと思っていた笑
東京タワーってこんなにたくさん
あるの?
あっちにもあるし、こっちにもある!
えーっと、たしか赤い色をしていたっけ。
どれだ
!
修学旅行で、東京都内を回ろう!のグループ計画の際も、
会話について行けない。
シブヤ?
ヤマノテセン?
何じゃそれ。
私は、異世界にいた。
みんなは、遠くの人。
私は、みんなより劣ってるんだ・・・
本気で自分は頭が悪いんだと思い込んでいた。
中学生 になって、 思春期を迎えようとしているさなか
劣等感の積み重ねで
学校内では常におどおどしていた。
「みんなは優れていて、 私は劣っている・・・」 「みんなは優れていて、私は劣っている・・・」 「みんなは優れていて、私は劣っている・・・」
脳内にこだました。
スクールカーストというのがあるらしい。
私は、下の階級にいた。
間接的にイジメはなかったけど、
注目されると、コソコソ言われていた気がする。
もちろん優しいクラスメイトもいて
良くしてもらったけど、いつも緊張していて
輪の中に入るのがなかなか難しい。
休み時間は極力目立たないように、
小説を読んで席でじっとしていることが多かった。
学校生活なんてさっさと過ぎ去ればいいのに・・・
大人になれば、なんとかなるんだ!といつも思っていた。
勉強する意味など考えることなく
毎日、毎日、カレンダーを眺めていた。
周りが恋愛をするようになった。
青春なんてマンガだけの世界なの
かなと思った。
ある日、友達の家に遊びに行った時、
私は友達に嫉妬した。
友達の部屋はかわいく装飾され、
たくさんの雑誌が置いてあって、
かわいい洋服もある。
初めて見るメイク道具は、心が躍った。
友達が、うらやましい。
当時の私は、
モテたい!という願望がそんなになかった。
けど、おしゃれな人になりたいと思った。
おしゃれをすることで劣等感から抜け出せるのかもしれ
ないと希望が持てたのだ。
それから春が来て、私は偏差値30の
この高校を選んだ理由は、
高 校 に入った。
市の税金でU.S.A.海外研修に数日間行けるからだ。
私の好奇心はこの研修期間に爆発した。
実は、私にとってアメリカは憧れの地だ。
幼い頃から映画を通じて、
私と正反対の彼らの堂々とした態度に憧れた。
ロサンゼルス空港に着いた瞬間の事は
今でも忘れない。
外は香水の甘い匂いがして、わくわくした。
私達は、制服を着ていたので
移動するたびに現地の人達は手を振ってくれた。
制服を着る習慣があまり無いから珍しかったのだろう。
彼らに注目されるのがちょっと嬉しかった。
また、私は驚いた。
ビーチ沿いで、 大人の男の人が楽しそうにバスケットボールを楽しんで
る。
えっ!大人もこんなに楽しそうに遊ぶんだ!?
結構な衝撃だった。
こんな大人は見たことがない。
私が知っている大人は、 ルールに忠実な真面目な人ばかりだ。
次の観光地へ移動中、バスの中で添乗員さんが、
「現地では声を掛けられても、無視するように!」 と注意を促した。
そのルールに違和感を感じながらも
ぶらぶら歩いていた私は、 黒人の女の子達と記念写真を撮ることになった。
この時は楽しくコミュニケーションが取れたことが、
何より嬉しかった。
よっしゃ!ヴェニスビーチという
この地でノリノリの黒人の女の子
と写真撮ったぜぇぇえ!
と舞い上がっていたが、その喜びは一瞬で散った。
私は、 ルールを守らなかったので注意されてしまったのだ。
悲しかった。
みんなが、みんな悪い人じゃないよ・・・
またその夜、 友人と同じ部屋で私はカルチャーショックを受けた。
友人は「彼氏と離れて寂しい・・・」と泣いていたのだ。
彼氏って、おい!なーに、泣いてるんだよ!
アメリカを堪能しようよ!
・・・ということは本人には言えず、
何もしてあげられなかった。 一緒に楽しみたかったのに、 文句ばっかりでイライラした。
ついに私はその場が息苦しくて、
外に繋がる廊下へ飛び出す。
そして非常口から見える外の景色に1人酔いふけた。
つまらない毎日。でもここは、自由だ。
このまま、逃亡すれば・・・
そんな妄想をして、わくわくしていた。
途中、何度か銃の発砲音が聞こえて、
ロサンゼルスの現実を噛み締めた。
日本での日常に戻る。
授業はマジメに聴くが
相変わらず、私は勉強しなかった。
だが、余裕をこいている場合ではない。
自分の進路について考えて行かなければならない。
この頃の私といえば、
自分で人生を切り開くという概念
は存在しなった。
なんとなく、流れに身を任せるように生きているだけで
施設の職員も進学をすすめてくることもなかった気がす
る。
とにかく上の者に従えば、 仕事は務まるのだと言った感じだ。
(嘘じゃねーかよ笑)
ちなみに私は高校の3年間、
男女共学であったにも関わらず、
一言も男子と会話をすることはなかった笑
ほんの少し異性を気にするようになったけど
劣等感と人見知りが度を超していた。
4、信頼とリストカット
と名言
一方、施設での生活は
うまくやってけたと思う。
私は熱血的で、マジメでいい子だったので、
施設の職員から厚い信頼を獲得し
ていた。
私は、寮長として
リーダーシップを努めることになる。
一つ屋根の下で暮らす、
2歳から17歳、計20ほどを一致団結させる役。
おもしろい事に、立場が変わると視点が急に変わり、
寮全体の問題ばかり目に留まることが多くなった。
特に、思春期を迎えたての子は
めちゃくちゃグレるので頻繁に問題が起こる。
夜中に施設から、こっそり逃げる人もいた。
施設の職員との喧嘩が勃発するのも珍しくない。
リーダーとしての任務は割と大変だったが、
同時に学びにもたくさんあった。
私は、嫌われる勇気をここで学んだ。 全ての人に好かれるより、
一人に響くほうが私にとって重要だった。
おかげで、寮長としての任務に気楽さえ覚えた。
こんな事があった。
「これ!よく切れそうなガラス、道で見つけたの!」
そう言ってリストカットが止まらない女の子が、
ニコニコしながら、抱きついてきた。
「いやいやいや、止めなってば。」
そんなことしか言えなかったが。
(そのガラスは即刻、窓から放り投げたw)
寂しいんだよな、この子・・・
できるだけ一緒の時間を作った。
もちろん、私は完璧じゃなかったけど
出来ることはやってやろうと思った。
問題を起こした子には、
何が正しいか伝えていかなければならない。
叱りっぱなしじゃよくないし、
まず話を聞いてあげなきゃいけないんだと
心から感じていた。
だから私は、相手が心を開いて話すまで
徹底的に向き合った。
正確には、相手が泣くまで問いつめた。
人は弱さを見せることで仲を深めていく。
おまけに涙を流せば、スッキリするのだ。
もちろん、最後はぎゅっと抱きしめてあげる。
自分流の「型」は結構、効果があった。
ある日、PCが1台、施設にやってきた。
この時、私はなぜか「名言」を検索しまくるようになる。 今だから分かるけど、
人を動かすための手段の一つとして
名言を使って下の子達を励まそうと必死だった。
調べた名言は紙に書き留めていて、
読み返すことで、己のモチベーションも保っていた。
5、初めての外の世界
私は18歳になった。 大学が無理でも、とりあえず専門学校には行きたい!
父にお願いしたが、資金がない理由で却下された。
それは、当たり前だ。
私が父と暮らせなかったのも、
父のだらしなさと、
お金の管理不足によるものだった。
もう、 外の世界に出なければならない。
外の世界のことは何も知らない。
怖いし、不安で胸がつぶれそうだった。
いよいよ、
もう誰にも頼れなくなるんだと孤独が襲う。
ついに私は、仙台の山奥に宿を構える
100人ほどの正社員やパートを抱える老舗旅館で、
中居さんとして働くことが決まった。
毎日、着物を着て、
お客をおもてなしする華やかな仕事だ。
私は、本当に人前の出るのが苦手だったけれど
あえて接客業を職場に選んだ。
これを機に人見知りを克服したい。
動き出せば、進むしかないだろうというノリでしかなか
った。
しかし、やってみると意外とたい
したことなかった。
辛いのは最初の数ヶ月。
お客が、 良い思い出を作って帰ってくれれば私も文句はない。
体力仕事で拘束時間も長い。
しかし、私はこの世界しか知らないので何の不満もなか
った。
当時は給与がもらえて生きていけるだけで、満足だった。
私は、とてもマジメだったので
よく働いて、たくさん貯金をした。
貯めたお金で、好きな場所に行った。
例えば、広島に住む友達とメールで「会いたいね
いう展開になり
」と
翌日、広島までひとっ飛びすることもある。
また、東京にいる友達に会いに行くため、
しばしば東京にも遊びに行った。
フットワークの軽さが実を結んで、
本当にたくさんの人から愛されていった。
4年も働くと、副主任になることができた。
厳しい仕事ではあったが、
ここまで来られたのは同期の子達の存在があったからだ。
寮生活だったので、
同期とは一緒に温泉に浸かったり、
ご飯を食べたり、
同期の部屋でゲームしたり楽しい毎日。
本当に心の優しい人達に恵まれたと思う。
おかげで、4年間ほとんどは人間関係に悩むことがなかっ
た。
人が、なぜ人間関係で悩むのか不思議でしょうがなかっ
た。
私は有頂天だった。
なんでも出来る気がした。
そうして、仕事にも飽きてきた私は、
新しいつながりを求め、東京に住もうと決意する。
当時22歳。
私は怖いもの知らずだった。
経験積めるんだったら、
何でもやってやろう!と張り切っていた。
初めての一人暮らし。
初めてのアルバイト。
時の流れに身を任せて生きていた私にとって、
初めて自分の意志で切り開く世界。
私は、成長していく自分の姿を思い描くたびに、
エネルギーが溢れ出て来るのを実感した。
初めて経験することばかりで、始めは毎日楽しかった。 お金を溜めるために、 3ヶ月間休むことなくアルバイトをしていたこともあった。
カレー屋でアルバイト
居酒屋で店長
日雇いで工場の仕事
飛び込み営業
バー
大手旅行会社で事務
ジェラートチェーン店の本部で事務
コンサル会社の手伝い
カレー屋で店長
6年間、刹那的にいろんな仕事をやってみた。
だが、現実は容赦しなかった。
いつも共通なのは、
働いても、働いても金銭的余裕はほとんどないというこ
とだ。
いつも、お金を軸に仕事を選んでいた。
おまけに歳を重ねるごとに仕事を通じて高くなるプライ
ド。 そのため、 人間関係で悩む回数が激増した。
結果、上司からの無視。
八つ当たり
悪口を言われるなど
会社に出勤するのが苦痛になった。
あれ?
なんで前みたいに、
人間関係がうまくいかなくなった
んだ?
かつては、プライドが必要なかった私は
人間関係で悩むなんてあり得な
い!
と本気で思っていた。
「悩めないのが悩み」とまわりの人に言っていた自分は
気がついたらコミュニケーションが激苦手になって
人間が嫌いになっていった。
私は、24歳頃から異様にプライドが高くなった。
転職しても5ヶ月ほど経つと、
上司への不信感が募りはじめ、
次第にリスペクト対象外になってしまうというのが
お決まりのコース、というか法則化してしまったのだ。
心から尊敬できるリーダーに出会
うことができれば
変われるかもしれない。
私は、転職する度にそう思った。
あぁ、そう思い始めてから既に5年も経ってしまったの
か・・・
もし、仮に影響力をもたらす人に会ったとしても、 変われる保証はない。 もはや、良きリーダーを求めている事は現実からの逃げ
に過ぎないかもしれない。
私は、無意味な思考を重ね、 ネガティブ人間になっていった。
もう無理だ。
この現実が耐えられなかった。
いつも強がっていたけどメンタルは、ボロボロ。
スライドガラス級の心が、崩壊しそうだった。
6、生まれて初めて、何
が何でも頑張ろうと思
わせてくれたNさんと
の出会い
限界だ・・・
転職する力さえ無かった。
そう思って友人に悩みを打ち明けてみた。
すると、話していくうちに
「どこへ行っても、いつも人間関
係で悩むんだったら私の間違った
思考が原因だ」
ということに気がついたのだ。
私は、自分を客観的に見ることができていなかった。
プライドが高くて、常に相手を反発していた。
自分は間違っていないんだと、
自我を保つために正当化して逃げてばかりだった。
挙げたら切りがない。
と同時に
まわりは私の為には変わらない。
なら自分が変われば今の悩みは解
決する!
と心から思えるようになった。
幼いころ「大人になったらミラクルが起こるんだ!」 と本気で信じていた。
でも、今ならそれは幻想だったとはっきり分かる。
今まで私は、 木から落ちたリンゴを拾っては文句を言いながら食べて
いた。 でも何としてでも大きな木から、
私が欲しいリンゴを掴みとれるようになるんだ。
しかしどうやって・・・?
私はまだ、自身の未来については不安を抱いていた。
それは、社会に自分を打ち出していくための「強み」が
なかったからだ。
ゴールのない日々を生きるのはとても辛い。
不安で打ち飲まれそうになるのだ。
あれは、夏の暑い日。
私は、精神安定のごとくネットサーフィンをしていた時
のこと。
そういやこの前、一緒にご飯行った友達が確か・・・
ブログの広告収入で数千円お小遣い稼ぎしているよ!と
言ってたな・・・
ふと思い、ネットビジネスについて調べた。
でもほとんどの情報は、
あぁ…私には無理だろうなぁ。
と思うブログばかりだった。
自分がブログを書く姿など浮かびやしない。
もともと私は23歳頃からネットビジネスは興味があった
が、現状維持で必死だった。
しかし、この時ばかりは、
以前から何度か名前を見たことがある人のメルマガに登
録してみることにしたのだ。
無料だし、とりあえず登録して読んでみよっかな。
それからメルマガは毎日届いた。
そして、読むたびに思うのだ。
私も、稼ぎたい…
依存が怖かった。
会社に嫌われたら理不尽な扱いを受けるだとか
経営者の感情一つで、 他人の人生がねじ伏せられる現実に恐怖した。
それは、ビジネスとは言わないはずだ。
そんな人間の時間を一生懸命生きる自分が嫌でたまらな
い。 本来あるべきビジネススタイルを学んで、 自分で稼げる力さえつけられれば最強だと思った。
ある日、対談動画が添付してあるメルマガが届いた。
メルマガ発信者と、インターネットビジネスで稼いでい
る人との対談動画。
ゲストは、 後に私にとってはネットビジネスの師となるNさんだ。
彼の過去とネットビジネスを始める経緯について語られ
る内容なのだが、
時間を忘れるほどおもしろくて、1時間以上もある動画を
あっさり聞き入ってしまった。
彼の思考は、かなりぶっ飛んでる。
情報持ちは金持ち?
学びに投資する?
なんじゃ、その概念。
ん!?
大学生がネットビジネスで 月収500万円・・・?
てか、就職活動の現場でビジネスモデルについて尋ねる
とかもう、意味わからんわ。
要は、アフィリエイトとか超怪しいと思ってたけど実際
やってみたら稼げちゃったんだよね、 というお話なのだが、彼のしゃべりスキルが優秀過ぎた
のと本音トークがおもしろすぎる。
私は対談ゲストのNさんの話を聴いていくうちに、 ファンになったようだ。
(必然的に私は彼のメルマガに登録しました。)
この対談1本で、 私のネットビジネスのイメージはひっくり返った。
その後、 私は彼の動画をYouTubeでたくさん観ることになる。
観れば観るほど、 私が持っていた価値観は、見事に崩れ落ちていった。 私が目指すべき人物像を発見したような感覚。
さらに度肝を抜かれたのは、 扱うジャンルの手広さ。 ビジネスの話はもちろん、 勉強法、映画レビュー、世界史、教育、健康法、医療系、
思考法、恋愛のお話など・・・
勉強になるし、聴いていて飽きない。
むしろ、何遍でも聞き返すと深く理解できる。
どうして専門家みたいに何でもペ
ラペラしゃべれるんだ・・・
私はNさんに憧れた。
なぜなら、過去を乗り越えて、 己を成長させている姿勢がかっこよかったからだ。
私も変われるかもしれない!
動画を聴けば聴くほど、 心からそう思えるようになった。
ある日、Nさんのメルマガで 「懇親会を開きます。」と通知が来た。 まさかの、 Nさんに会えるチャンス到来!
興奮して心臓がバクバク言った。
ここでNさんに会えなかったら、絶対嫌だ。
当然、参加したいとすぐにメールした。
けれども、参加できる人数は十数名。
参加希望者数は数十いや、百数人いるだろう・・・
私なんぞ到底、選ばれやしない。
翌日、結果の通知が来た。
たっ・・・頼むっ!
心の叫びが、口から漏れた。
結果は・・・
なんと、私は参加者に選ばれた。
よっしゃぁあああ!!!
職場の休憩室の片隅で思わずガッツポーズを取った。
私は、Nさんに会えるチャンスを獲得したのである。
さて、待ちに待った懇親会当日、 参加者は15人ほど。
この日はカレー屋の仕事を終えてからの参加になる。
そして、 会場もインドカレー屋という奇遇な展開に身を任せ、
いくらカレー好きとは言え、 ここまでカレーまみれになってしまうとはなぁ・・・ と謎の突っ込みをいれながら会場に向かう。
あぁ、緊張しすぎて武者震いがする。
お店に着くと参加者さんは、ほとんど席に着いていて Nさんの到着を待っていた。
すると、
「お疲れさまでーす。」と彼がやってきた。
聞いたことのある声だ。
Nさん登場である。
まんまだ、 YouTubeの動画で何度も聴いた、あの声そのままだわ笑
初めてNさんと会ったはずなのに、 彼の動画を聴きまくったせいか親近感すら覚える。
何ですか、この感覚は笑
やはりNさんは、思考力がずば抜けていた。
一つのテーマから派生して、 話を展開する様は感心する他ないものだった。
刺さった言葉がある。
「頑張ることが当たり前ですよ」
彼は、会話の中でさらっと言い放った。
もはや、 彼の中には「不可能」という言葉は存在していない。
今日は、疲れているから・・・
仕事が忙しいから・・・
今、余裕が無いから・・・
時間がないから・・・
私は、 いつの間にか頑張らないことが当たり前になっていた。
この言葉で、私は奮い立った。
私は、インターネットビジネスで
「雇われない生き方」をするんだ
と本気で自分に誓うこととなった。
7、私はもう「できない」
などと言わない
私は、無意識に自分は苦労してきた人間だなぁとずーと
考えてきた。 いつも、自分はできないからと逃げてきた。
そうやって過去のせいにして、 自分の無力を認められなかった。 過去の環境のせいにすれば、 私が無能なのは許された。
楽する為に苦労するだけの27年間。 例えば、支払いを面倒くさがって、 後に延滞金発生するパターン勃発するだとか
結果的に楽をしようと逃げれば逃げるほど、 問題は大きくなって辛かった。
でも今回は違う。
時間など解決してくれないことも分かった。
私は毎日、毎日、動画を通して学ぶようにした。
最初は、逃げ癖のついた自分にはキツかったが
「今日は少しでもいいからやろ
う!」 を繰り返した。
今では、学ばないと恐怖すら覚えるほどになった。
ここまで続けて来られたのは、実は人生初めてで、 それでいて大きな自信を獲得した。
ところで、時間には3種類ある。
過去、現在、未来、この3つ。
このどれか一つでも、 欠陥があれば人は全ての時間に不満を持つらしいが
過去はもう存在していないし、 未来はまだ存在していない。
今、何を選択して何を行動していくか?
結局、私が将来に絶望していたのは、 どこへ向かって生きて行きたいのか分からず、
自分を表現できていなかったからだ。
もう過去の自分には戻りたくない。
それを原動力に今度は、 学んだことを完璧じゃなくていいから形にしていった。
そしたら、ポストに入っているチラシや、 飲食店の看板を見ては、 「こうしたほうが、お客さん来るんじゃないかな。」 とか改善点を見つけられたり、 新しい学びを得られる思考ができるようになった。
目立つのが苦手だったけれどもYouTubeを使って、 動画をあげたりもしてみた。
最初は500回くらい撮り直したと思う。
やると決めたからには、 どんなに下手でも構わない。
時には、行動してないといつも頭の中で 「やらなきゃ」と無駄に考えては、疲れる日があった。
「考える」とういうことは、 今日着る服を選ぶことさえ大変なエネルギーを使う。
結局、少し我慢して行動した方が一番楽ということだ。
やろうと思えば大抵のことはできると私は考えている。
人間、知らないことは恐怖するし拒絶もする。
けど、無知でメンタルの弱い私でさえできる事があるの
だと言いたい。
自身の成長の為には
私はもう「自分にはできない」などと決して言わないと
決めている。
私が知っている経営者さん達からは、 マイナスな発言を聞いたことがない。 そんなことを言って意味あるのか?ということだ。
彼らはどんなにインターネットビジネスで稼いでいよう
と、どんな分野であっても学んで次の世界を目指してい
る。
常に全力で生きている。
できるか、できないかの世界ではなく
やるか、やらないかの世界まで思考を持っていく。
やると決めたら、 何が何でもやり通す姿勢は崩さない。
例えば、今日は本2冊、 人に話せるまで頭に入れるまで寝ないという。
正直、ここまでやるの!?と驚愕した記憶がある。
私はどれほど自分の限界を狭めているのだろうと反省し
た。 プライドなど必要ない。
自分より年齢が若かろうが、 いいところはどんどん真似て形にしていくのだ。
実は、私にとって同じ目標に向かって走っていく仲間の
存在は大きい。
生き物は、人間は決して一人では生きては行けない。 私は、施設で育った。
両親は私のことを育てる選択はしなかったけれど、 他人の愛情でここまで来られた。
もっと言えば、国の税金で生かされた。
感謝する他ないだろう。
「日本はディズニーランドのようだ」
海外の友達はそう言っている。
自動販売機が外にあるのは、安全の象徴である。
どういうことか?
日本は安全で、食べ物が豊富で、制度も充実していて、 数えきれないほどのチャンスが転がっているのだ。
忘れてならないのは、日本は資本主義社会。
お金が一番大事とされている国だ。
お金を稼ぐ力を身につけなければ、 盲点がどんどん増えていき、 自分が生きている価値さえ見失ってしまう。
自分を不幸だなんて思っちゃい
けない。 自分の隣にいる人は、たいてい、
自分よりも苦労している。
私はそう思うようにしている。
だからこそ、私はこの場を借りて力になりたい。
何の強みもない、 実力もない私だが、 ブログやYouTubeで日々学んだことや体験を話している。
その中で、 ほんの一言でも相手の心に響いてくれれば、 私はうれしい。
その一言をきっかけに、 また一歩進めるなら、 これほど幸せなことはない。
最後に。
「人が喜ぶことをしたい。」
これは、私が中学3年の頃に見た 唯一の「将来なりたい夢」だ。
このレポートを最後まで読んでいただきありがとうござ
います。
戸嶋 えりか
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