一茶堂摂心会 むもんかん 無門 関 へい じ よ う ぜ どう 「第 十 九 則 【本 則 】 平 常 是道 」 南 泉 、因 に 趙 州問 う 、 如何 な るか 是 れ 道。 泉云わく、平常心是れ道。州云わく、還って趣向すべきや否 や。泉云わく、向かわんと擬すれば、卽ち乖く。州云わく、 擬せずんば、争でか是れ道なることを知らん。泉云わく、道 は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是 れ無記。若し眞に不疑の道に達せば、猶太虚の廓然として洞 豁なるが如し。豈強いて是非すべけんや。州、言下に於いて 頓 悟 す。 ◇語 義 ①南 泉 ・ ・・ 南 泉普 願 禅 師。748 年 ~ 795 年 。第 14 則「 南 泉 斬猫 」の 人。 馬 祖 道一 禅 師 の法 嗣 の 一 人 。 西 堂 知 蔵 禅 師 、 百 丈 懐 海 禅 師 は 、馬 祖 禅 師の 兄 弟 弟子 。 ②趙 州 ・ ・・ 趙 州従 諗 禅 師。778 年 ~ 897 年 。第 1 則「 趙 州 無字 」の人 。 南 泉普 願 禅 師の 法 嗣 。中 国 北部 の 趙 州観 音 院に 住 し た。 18 才 の 時 既 に 見 性 。 そ の 後 、 30 年 は 南 泉 禅 師 の 元 で 修 行 を 続 け て い た 。 こ の 則 は 50 代 の 時 の も の と い わ れ る 。 一 通 りの 禅 道 仏法 は 分 かっ て いる 上 で の問 答 であ る 。 -1- みち ③道 ・ ・ ・ど こ にも あ る (空 間)、 い つで も ある も の (時 間)、 それ が 道 である。死もまた道である。死は生るるため、新にするため の大活動とみてよい、また救いとみてよい。是故に佛祖の生 死を見るは春の百花に於けるが如し、とある。又云く、生死 は 佛 の御 い の ちな り と 。道 な くん ば 人 なし 、 世な し 。 (飯 田註 ) 義 价 曰 く 、 如 何 な る か 是 れ 平 常 心 是 道 。( 平 常 心 が 道 だ 、 と 言 う真 意 は どこ に ある か 。) 瑩 山 曰 く 、 黒 漆 の 崑 崙 夜 裏 に 走 る 。( 崑 崙 国 の 人 は 黒 い 肌 を してます。その真っ黒な黒人が闇夜を走り去るよ う なも の で す。) ※ 思 慮 分別 の 入 る隙 間 が な い 。 分 別 が あ れ ば 平 常 底 と は 言 え ない。顔を洗うからといって、洗っているわけではない。 日常の営みは自己を忘れて行われていることに気づけ、と い うこ と 。 義 价 曰 く 、 未 在 。 更 に 道 え と 。 (ま だ 充 分 と は 言 え 無 い な 。 言 い分 が あ れば 、 更に 言 っ てみ な さい 。) 瑩 山 曰 く、 茶 に 遇う て は 茶 を 喫 し 、 飯 に 遇 う て は 飯 を 喫 す 。 ( お 茶 が出 れ ば お 茶 を 飲 み ま す 、 ご 飯 が 出 れ ば ご 飯 を い た だ き ま す 。) 以 上 の 問 答 、 (飯 田 註 )。 ②泉云わく、平常心是れ道・・・道は近きにあるも、それを反って、遠 き に 求め よ うと す る 。 元 禅 師云 く 、「 夫 れ 仏道 は 人人 の 脚 根下 。 道に 礙 ( サ マ タ)げ られ て 當 處に 明 了。悟 に礙 げ ら れて 當 人 圓成 。」 礙 げ られ て 、と は “ なり 切 っ てい る ”こ と 。 南 泉 は、宇 宙 を全 自 己と し て、それ を 道と 言 い 切っ た 。 平生(ヘイゼイ)の他に道はないから、求心が止むの である。身心は元々、一つものであることに気づかね ば な ら な い 。 心 は 、 コ ロコ ロ の こ と で 、 平常 ( ヘ イゼ イ ) の動 静 が 自 由 自 在 に働 い て いる こ と をい う 。 平常 の あ りよ う こそ が 道 では な い か、 と いう の で ある 。 -2- こ の 一句 は 南泉 三 十 年来 の 血 滴滴 の 成果 で あ る。 (飯 田 註) 「 朝か ら 晩 まで 、 毎 日 や っ て い る こ と が 全 部 そ の ま ま 道 で は な いか 」【安 谷 師 説】 へい じ よ う し ん ③州云わく、還って趣向すべきや否や・・・お尋ねした道は、平 常 心 の ま ま で 良 い と 仰 せ で すが 、 分 か り か ね ます 。 ど う心 を 向 けた ら 、平常 心 にな れ る ので す か、と 言 う 意が「 趣 向 」 であ る 。ひ と 言 で意 を 介 せば 、「修 行 すべ き か 、 ど う か」 と 言っ て い るの で あ る。 還 っ て→ 「 それ で も なお 、、や は り 」[秋月 師 註 ] 「 ど う し た ら 平 常 心 に 叶 う こ と が 出 来 ま す か 」、 o r 「 この ま ま で良 い ( 平 常 心 が 道 だ ) と 言 わ れ て も 、 や は り 修 行 すべ き で はな い です か 」 ※趙州和尚でも分からない時があった。道の中に居ながら道を尋ねてい る。愚かなことである。されど、分からぬ時は何処までも分からない ものである。ただ、そう言う時にあっても、菩提心を駆り立てていか ね ば な らな い 。あ き ら めて は い けな い 。(飯 田註 ) ④泉云わく、向かわんと擬すれば、卽ち乖く・・・擬する→あてつくら べ つ 推 し量 る こ と。 また 、擬~ →「 ~し よ うと す る 」 助 動 詞 。(「欲 ~ 」 と同 じ ) [秋 月師 註 ] 卽 ち 乖 く→ 卽 ⇨「 ~ し よう と する と 、 すぐ に 」 乖 ⇨乖 離 、 背き 離 れる 。 道は そ こ にあ る の に 、 外 に 心 を 向 け れ ば 向 け る ほ ど 、 それだけ道から離れていく(しかしそういう時があっ て い い のだ )。 「平常心に叶おうとすると却って不自然に陥って、道 に 背い て しま う 」 ※指 導 者 (南 泉和 尚 )が こ のま ま で 良い (平 常 心 が道 だ)と 言っ て る のに 、 人 の 言 う こ と を 聞 か ず に 、 自 分 の 考 え (修 行 者 自身 の 考 え )を 押 し 通 そ うとする。それでは修行にならないではないか。分かっても分からな く て も 、教 え られ た と おり に す べき で あろ う 。 -3- ⑤州 云 わ く、 擬 せず ん ば 、争 で か 是れ 道 なる こ と を知 ら ん・ ・ ・ 擬 せ ず ん ば → 「 不 擬 (向 )」 ⇨ 向 か わ ん と 擬 せ ず ん ば 。 趙州 和 尚 、分 か ら な い ま ま で で 居 る こ と に 堪 え き れ な い。 が 、 修 証 は 元 々 一 つ も の で あ る 。 だ か ら 、「 初 発 心 時 便成正覚」と心得て、いつでも自己を忘ずる功夫を続 けるだけである。途中下車をしてはダメだ。それでは 何 も か も失 っ て しま う 。 真に自己を忘じた時、一挙一動が、あるいは一瞬一瞬 が宇宙的となって救いとなるであろう。この時点を以 て 、 一 超直 入 如 来地 と いう の で ある 。 (飯 田 註) 「平常心に叶う努力をしないで、どうして道に叶うこ と が分 か りま す か 」 ※人 の 言 うこ と (指 導 者の 言 うこ と )を 聞 かず に 、勝 手 に 判断 し て (是 だ、 不 是 だ と 言 っ て )、 自 分 の 考 え に 固 執 し て い る (止 ま っ て い る )。 自 己 の 立 場 が捨 て きれ な い でい る 。 ⑥泉云わく、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知 は 是 れ 無記 ・ ・・ 属 せ ず →範 疇 に ない こ と。 妄覚 → 知 とは 分 か ろ う と し て 心 を 用 い る こ と だ が 、 道 は心の対象となるものではないから、知を用い るだ け 妄 覚だ と いわ れ る ので あ る。 無 記 → 善悪 が 決 めら れ ない 心 の はた ら き。 頑 空 の心 を指 し 、 心が 空 っぽ で は たら き のな い 状 態。 ※「道」は何処にでも満ちあふれている。しかし、求めようとしても求 められるものではない。そこが知と不知とを離れている、と言われる 所 以 で ある 。 従 っ て、「 道」 は 元 々対 象 的に 捉 え られ る もの で は な いのだ。むしろ、求める主体の心が、そのまま求められる「道」だ、 と い わ れる 。 そ れ に も 関 わ ら ず 、「 道 」 を 知 り た い と い う 心 は 起 こ る 。 そ う す る と 、「 道 」 は 大 火 聚 の よ う な も の で 、 近 づ け ば 大 や け ど を す る こ と に なる。分かろうとして、却って「道」はますます分からなくなる。知 が 知 の はた ら きを せ ず 、妄 覚 に なっ て しま う と いう の だ。 そ う だ か ら と 言 っ て 、「 道 」 は 認 識 で き る も の で は な い か ら 「 不 知 -4- だ 」 と 託つ け ても 、 一 面、「 道」 に は 塗毒 鼓 (ズ ド ッ コ⇨ 聴 く者 を し て 死 に 至 ら し め る 太 鼓 ) よ う な と こ ろ が あ っ て 、“ 分 か ら な い も の だ ( 不 知 だ )” と 打 っ て 出 る と 、 生 命 を 失 う こ と に な り か ね な い 。 知 が “妄覚”となるように、不知もまた“妄覚”に陥る。全くはたらきの な い“ 頑 空”の よう な も のが 、「 道 」だ 、と 誤 って し ま う恐 れ が ある 、 と い う のだ 。 註 :妄 覚 と い う の は 、 分 別 知 が そ れ 自 体 の は た ら き を 超 え て 、 な お 分 別 し よ うと す る 時を い う。 ※眼は眼である、と言う関係に同じである。眼が眼を見ることができな い。眼が眼を見ようとしたら、白雲万里、絶対に見ることはあり得な い。見ようとしなければ、本来具足のものとしての眼は眼のはたらき を す る まで で ある 。 (飯 田 註) ⑦若し眞に不疑の道に達せば、猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈 強 い て 是非 す べけ ん や ・・ ・ 不疑の道→今、ここで、知と不知とから離れることが出 来れば、疑いの世界は消えて無くなることを いう。 太 虚→ タ イ コ。 タ イ キ ョ 。 全 く の 空 無 、 空 無 な る こ と 。 又、何 物を も 包 み込 む かた ち 。道そ の もの の 様 子。 廓然として洞豁→廓然⇨大空がからりと晴れて、空中に 一点の雲もない境地。広々とし て い る さま 。 洞豁 ⇨ 豁然 ( から り と さと る さ ま) 豁(カツ・ひらける・ひろい) 洞 ( ほ らあ な ・ほ ら ) カラ ッ とし て 明 りょ う なる か た ち。 豈 強い て 是 非す べ け ん や → 議 論 の 余 地 が な い こ と 。 無 心 で あ る こと を 言う 「 本 当 に疑 い が 消え 求 心が 止 む とき 、道 はそ の 姿 を現 す 。 心は一片の雲もない虚空のように、どこまでも明りょ う で あり 、 道そ の も のと な る。」 ⑧州、言下に於いて頓悟す・・・頓悟す→頓⇨頓速、急に、とみに。ぬ -5- かず く 。 た だ ち に さ と り を 開 くこ と 。 修 行 の 段 階 を へ ず に さと り に 至 る こ と。 換 骨 奪 胎 し て 新 し く 生ま れ 変 わ る こ と。 「 趙州 和 尚 は、 南 泉 の言 葉 を耳 に す るや 、 大悟 し た。」 ※南泉の証明の下で、自分自身が平常ままで成佛していることが分かっ た の で ある 。 ⑨・ ・ ・ 【拈提】 無 門 云 わ く 、 南 泉、 趙 州 に 発 問 せ ら れ て 、 直 に 得 た り 、 瓦 解 氷消、分疎不下なることを。趙州縦饒え悟り去るも、更に参 ず る こと 三 十 年に し て 始め て 得て ん 。 ◇語 義 ①趙 州 に 発問 せ られ て ・ ・・「 被趙 州 発 問」 が 原文 。「 趙州 の 発問 を 被 む る」 の 意。“ 被 ”を 前 置 詞と 捉 え、“ 趙 州に ” の意 と な る 。「 被 趙州 発 問 」は 「 趙 州に 問 われ て 」 の意 に な る。 [秋 月 師 註] ②直 に 得 たり ・ ・・「 直得 ~ 」 は、「 ~と い う 結果 と な った 」 の意 で あ る。 [秋 月 師 註] ③瓦 解 氷 消・・・ め ち ゃめ ち ゃに な っ て消 え た こと 。 ④分 疎 不 下・ ・ ・言 い 訳 一つ 成 り 立た な いこ と 。分 疎 → 言い 訳 す るこ と 。 ※「南泉和尚は、趙州に質問されて、己れの立場がめちゃくちゃになっ て 、 言い 訳 一つ 出 来 なく な っ てし ま った 」 と はど う いう こ と か。 南 泉 和 尚 は 、 趙 州 和 尚 に親 切 し す ぎ た と 言 う の で あ る 。 余 り の 親 切 -6- な指導ぶりだというのである。そのことが、門下の修行僧には通じ な い も の だ か ら 、 南 泉 和尚 の 指 導 振 り を 非 難 し て 、 門 下 生 た ち に 脚 下 を 照 顧 せ し め て い る の で あ る 。「 ま だ 分 か ら な い か ! 」 と 一 喝 し た の だ。 ⑤縦 饒 ・ ・・ 譲 歩:「 たと え ~ でも 」 ⑥更 に 参 ずる こ と三 十 年 にし て 始 めて 得 てん ・ ・ ・ 始 めて 得 て ん→ 「 始 得」 ⇨ 始 め てよ ろ し い。 「こ れ か らま だ 30 年 坐禅 し て、漸 く 結 果が 出 てく る だ ろう 。」 ※ 大 悟 し た と い う 趙 州 和 尚 も こ れ か ら 30 年 坐 禅 し て 本 物 に な る だ ろ う と は ど うい う こと か 。 ※法は自分自身にあることをいう。今、ここの、自己ということに気づ かねばならないと言うこと。日々の生活がそのまま悟りの世界だ、と い う こ とで あ る。 従 っ て 、 大 悟 し た と 言 っ て済 ま さ れ る よ う な こ と が 道 な の で は な い 。 言わば、さとりのあとを掃除して、悟り臭さを取らねばならない。即 ち、悟後の修行とは日々の生活がキチンと行われているかどうかと言 う こ と であ る 。趙 州 和 尚が 、 60 歳 を 過 ぎ て 20 年 間 80 歳 ま で 再行 脚 し た と 伝 えら れ る事 実 を 能く 噛 み しめ て 味わ う べ きこ と であ る 。 ⑦・ ・ ・ じゅ 【頌 】 頌 に 曰わ く 、 春 、 百花 有 り 、秋 、 月 有り 。 夏 、 涼風 有 り 、冬 、 雪 有り 。 若 し 閑事 の 心 頭に 挂 か るこ と 無く ん ば 、 便 ち 是れ 人 間 の好 時 節 。 ◇語 義 -7- ①春 、 百 花有 り ・・・自 己の 花 は、 活 動 三昧 で あ る。 (飯 田 註) ② 秋 、 月 有 り ・ ・ ・「 天 上 の 月 を 貪 り 見 て 、 掌 中 の 珠 を 失 却 す 。 肩 背 傷 めず ん ば争 で か 良商 と な るを 得 ん」 (飯 田 註 ) ※月 を 愛 でる 時 節も 是 の 如し の 経 験を 経 て後 の こ と。 ③ 夏 、 涼 風 有 り ・ ・ ・「 糞 水 を 掬 せ ず ん ば 良 農 と 成 る 能 わ ず 」 (飯 田 註 ) ※自 己 を 忘ず る ほど 涼 き はな い 。 (飯 田註 ) ④冬 、 雪 有り ・ ・・「 ちり の 世 とい ふ は うそ な りけ さ の 雪」 (飯 田 註 ) ※我 ら の 雪は い つま で も 白皚 白 皚 (一 面の 白 )。 (飯 田 註) 「 死 地 に入 ら ずん ば 良 士と 成 る 能わ ず 」(飯田 註 ) ※松 陰 は 忠実 ( マメ ) だ 、忠 実 ( マメ ) だ。 (飯田 註 ) ※春夏秋冬の風景は何処までも風景に過ぎない。風景のままに受け入れ られる生活、それが我々人間に出来るか。人情に左右されない境界を 錬 る こ と、 そ れが 仏 道 修行 の 真 骨頂 で ある 。 ④若し閑事の心頭に挂かること無くんば便ち是れ人間の好時節 ・・・ 閑 事→ む だ 事で あ る 。二 重 の妄 想 を 言う 。 (飯 田 註) ※死の中に生を入れんとして、死という大仏を殺している。そのものば かりになりきって他を羨まぬ時、天下はその者の所有となっているで は な い か。 (飯 田 註 ) ※その場その場に安住して動かざること須弥山の如くなるとき、人生の 最 好 時 節で は ない か 。 (飯 田註 ) 「 この 秋 は 雨か 嵐 か知 ら ね ども け ふの 勤 め に田 の 草 を取 る 」 ※日 々 の 生活 あ るい は い まの 環 境 以外 に 極楽 は な い、 と いう こ と 。 ※取 り 越 し苦 労 と持 ち 越 し苦 労 。 知と 不 知の 内 容 であ る 。 しかし、今の災厄だけで充分ではないか。その災厄を災厄として先ず 受け入れよう。修行とはそのこと以外の何ものでもないはずだ。ただ の 生 活 をす る 。そ れ を 坐禅 で 示 して い く。 平 常 心是 れ 道な り 。 -8-
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