第2章 第1節 賃貸編 問1 契約前キャンセル テナントの契約前キャンセル 【問】あるビルオーナーは、入居を希望する会社から、広いフロアーを借りたいと言わ れ、約1年間に渡り、賃貸場所や賃貸条件、契約条件を交渉した。交渉が始まって から7ヶ月目以降は、賃貸予定建物のフロアーを他に貸すための募集を中止し、テ ナント希望者と交渉を重ねた。ようやく最初の交渉から約1年経った平成28年3 月1日に本契約の約束をした。 ところが、入居希望者は、平成28年2月29日に、突如として、借りるフロア ーのレイアウトが気にくわないという理由で本契約をしないとオーナー側に通告 してきた。 このような場合、ビルのオーナー側は、入居希望者に対し、何らかの損害賠償請 求はできるか。 【答】 1 契約締結上の過失の理論で、ビルのオーナーは入居申込者にある程度の損害賠償 請求ができる可能性がある。 2 実際の判例としても、賃貸借契約の成立を予定して4月から翌年1月まで約10 ヶ月折衝が続けられ、貸主が契約の成立を信じて他に貸していないことを入居予定 者は知っていたが、結局契約の締結を入居予定者が拒否し、契約の成立に至らなか った場合、入居予定者に「契約締結上の過失」が認められ約1億1000万円の損 害賠償が命じられた事例がある(東京高判 平20・1・31 金融・商事判例12 87-28)。 3 事案の概要 1) 平成15年4月、訴外A社は都内に分散していたグループ会社の事務所を1ヵ 所に統合するため、貸主から、賃貸借条件検討申込書を受領した。 2) 同年8月、訴外A社は貸主に対し、本件建物に関する貸室申込書(本件申込書) を交付した。本件申込書には、賃貸面積、賃料、共益費、敷金、契約期間、解約 ・違約の条件、賃料の起算日等の記載があり、9月末日までに双方が完全に合意 することが成約の条件となる旨の記載があった。 3) 9月1日、貸主は訴外A社に対し賃貸階を8・9階とし、本件申込書記載の条 件で賃貸することを承諾する旨の承諾書を交付した。しかし、訴外A社はこれを 不服とし、受領書に押印しなかったので、さらに交渉し、11月19日、賃貸対 象階を14・15階とする等契約内容の主要部分について貸主、入居予定者間で 合意(本件合意)が成立した。この間の、同年10月以降賃借人が訴外A社から グループ会社の入居予定者に変更された。 4) 平成15年12月、貸主と入居予定者は契約書の調印予定日を平成16年1月 16日とすることで合意したが、貸主は入居予定者に賃貸するため平成15年9 月より賃貸対象階の募集を停止しており、入居予定者もその事実を知っていた。 5) ところが、平成16年1月16日、入居予定者は、本件グループの会長の意向 が変わったという理由で、貸主に対し、賃貸借契約を結ばない旨を通知した。 6) 貸主は入居予定者に対し、債務不履行を理由に賃貸借契約を解除し、①主位的 に、賃貸借契約が平成15年9月1日に締結されたとし、入居予定者の債務不履 行に基づく損害金と遅延損害金として3億2488万円余を請求し、②予備的 に、入居予定者が賃貸借契約の申込みをした後、契約締結準備段階に至っていた のに、正当な事由なく契約の締結を拒絶したとして①と同額の3億円余りの支払 を求めた。原審が①の3億円余りの請求を棄却し、②の請求の一部を認容したの で双方から控訴がされた。 4 判決の要旨 裁判所は次のように述べて、貸主の請求の一部1億0900万円の請求を認容し た。 1) ①の主位的請求である賃貸借契約が平成15年9月1日に締結された事実は 認められない。 a) 本件申込書には、賃貸借契約書中の諸条件について平成15年9月末日まで に双方が完全に合意することが成約の条件となる旨の記載があるが、契約が成 立したというには、本件申込書記載の事項についての合意に加えてなお、賃借 目的部分の具体的な特定、契約更新、期間内解約、賃料・共益費の改定、内装 工事等に関する合意に至ることと、賃貸借契約書への調印がされていることが 必要である。 b) ところが、平成15年9月中には賃借目的部分の具体的な特定がされること はなかったし、賃借人が訴外A社から入居予定者に変更されたのも10月以降 のことであり、しかも同月を過ぎても契約書の案文について交渉を重ねていた というのであるから、貸主の主張(9月1日に契約が成立していた)を採用す ることはできない。 2) ②の契約締結上の過失については、 a) 当事者双方とも本件合意によって賃貸借契約締結に当たっての重要な課題 がクリアされたと考えていたこと b) 9月末日の本件申込書上の期限を経過しても交渉を重ね、その期間が通常の 2ヶ月ないし4ヶ月を超えて5ヶ月余に及んでいること c) 貸主が既に賃借目的部分を賃借人募集対象から外す手続を取っており、入居 予定者がそのことを本件合意時までに承知していたこと 等の事実関係に照らすと、少なくとも本件合意後においては貸主が本件建物に かかる賃貸借契約が成立することについて強い期待を抱いたことには相当の理 由がある。 3) また、この期待は無理からぬものということができるから、入居予定者として は、この期待を故なく侵害することがないように行動する義務があるというべき である。しかし、入居予定者は結局、賃貸借契約を締結せず、これを締結しなか ったことについて正当な理由はない。 4) したがって、入居予定者には契約準備段階における信義則上の注意義務違反が あり、これによって貸主に生じた損害を賠償する責任があるということができ る。 5) 損害額については、本件合意の翌日から契約締結拒絶日までの間に貸主が喪失 した約定予定賃料及び共益費の相当額は、他の借主が借りる賃借予定の部分を考 慮すると控え目に見積もるべきであるとし、9900万円を認容し、相当因果関 係のある弁護士費用は1000万円を認め、これらの額に対する民法所定の利率 による遅延損害金を認めた。 5 まとめ 1) 「契約締結上の過失」とは、契約締結に至らない場合でも、契約当事者に違法 な対応があり、相手に損害を発生させた場合に、損害賠償義務を認める理論であ り、最高裁判例でも認められている(最三判平成19.2.27金融・商事判例1 274-21ほか)。 2) 本件は、最終段階で、借主が借りなかった例であるが、貸主が賃借希望者との 交渉途中で第三者に賃借してしまった事例で賃借希望者が出費した金額の一部 を認容した東京高等裁判所平成14年3月13日判決(判タ1136号195 頁)もある。 3) 実務的には、余り交渉が長引く場合は ① 貸主側としては、交渉期限を区切り、交渉期限以後は他の借主希望者との交 渉を平行し、他の貸主希望者に貸してしまうこともありうることを明確に文書 で借主に伝えるべきである。 ② 借主側としても、交渉期限を区切り、交渉期限以後は他の物件との交渉を平 行し、他の物件を借りてしまうこともありうることを明確に文書で貸主に伝え るべきである。 ③ また、前年8月くらいに話がまとまって、翌年4月から入居という条件で契 約が成立した場合は、特約で「契約後、入居前キャンセルの違約条項」を必ず 入れておくべきである。 問2 アパート等の入居前キャンセル 【問】 借主希望者が、部屋を借りたいというので、仲介業者が 1 ヶ月分の家賃を預か って募集広告を外した。ところがその後この借主希望者から、「他の所を借りるこ とになったので、キャンセルして欲しい。ついては先日預けた 1 ヶ月分の家賃を返 して欲しい。」と要求された。預かった 1 ヶ月分は手付金として没収してよいか? 【答】 1 法律的には、前記と同様余り勝手な住居希望者に対し、契約前でも「契約締結上 の過失」の理論で、損害賠償が可能である。但し、居住用のアパート等では実務上 はできないと考えておいた方が良い。アパートなど一般の居住用借家の借主は経済 的弱者であるから、多少不誠実なことをしても損害賠償をさせるのは妥当でないと 裁判所は考えること、また、対応しているのが、仲介業者・大家であり対処になれ ているのだから、損害は防げるはずだと言われてしまうからである。 2 さらに、このような場合、預かった1ヶ月分の家賃を法律上手付けとして没収す ることもできない。 3 賃貸借契約でも手付金解除が認められ、法律上は手付金没収が理論的に可能であ る。 4 ただ手付金を没収するためには、契約が成立していなければならない。手付金は 契約成立と同時に充当されるお金だからである。 5 本件において契約が成立していると言うためには、仲介業者は重要事項説明を行 わなければならないし、契約書を作成していなければならない。 6 本件では重要事項説明も行われてないし、賃貸借契約書も作成されていないの で、契約成立前に授受されたお金は手付金とは言えず単なる預かり金(申込証拠金) にしかならない。手付金とは言えないお金は没収することができない。 民法第 557 条(手付) 1 買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手す るまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解 除をすることができる。 2 第五百四十五条第三項の規定は、前項の場合には、適用しない。 民法第 559 条(有償契約への準用) この節の規定は、売買以外の有償契約について準用する。ただし、その有償 契約の性質がこれを許さないときは、この限りでない。 第3 アパートの入居前キャンセルへの対処法 【問】 アパートの入居前キャンセルに対応するために、どのような処理とどのような 特約を作っておけばよいか? 【答】 1 前問のような入居希望者の依頼があった場合には、例えば今週の日曜日までとか 期限を切って、募集のページや他の入居希望者の受付を停止する期間を限定してお く。 2 約束の期限までに契約が締結できるのであれば、重要事項説明を行い、賃貸借契 約を成立させる。 3 その賃貸借契約の中に、以下のような条文を入れる。 「第○条(入居前キャンセル) 本契約成立後、借主が本契約を解除した場合には、以下の処理を行うものとす る。 ①礼金・仲介手数料は返金しない。 ②敷金から入居前キャンセルの違約金1ヶ月分を控除する。 【注】借主が入居前にキャンセルした場合には、礼金仲介手数料で2ヶ月分を失う ので、できればトラブル防止のため、違約金の1ヶ月分は控除しない方が良い。
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