『なぜ泣いているのか?』​ ​ヨハネの福音書 20章1~18節 2015.4.5

『なぜ泣いているのか?』​
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ヨハネの福音書 20章1~18節 2015.4.5(日・イースター) 『マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話さ
れたと弟子たちに告げた。』 ヨハネ20:18 今春、スーパーの食品売場に「イースターパーティー」の大規模コーナーがあり驚いた。キリストの復活を喜び祝
う日だと伝えるクリスチャンの出番到来! ◆約二千年前の復活の朝、弟子たちも、墓参に来た婦人たちも復活を信じなかった。イエス様が、十字架と復活に
ついて何度も予告し、その意味を教えたのに…。彼らは空っぽの墓を見て唖然とし、マリヤもただ泣くだけ…。人
は、感情に流されるとき、この世の悲しみや悔しさばかりを見て、大切なものが見えなくなる(見失う)!マリヤ
は、目の前の復活したイエス様がわからず、ただ「遺体」を捜し、空っぽの墓を見て泣くばかりだった。主はその
マリヤの名を呼んでくださった!今も生きておられる復活の主こそ私たちの本当の希望である。ナインの息子も生
き返り(ルカ7章)、ヤイロの娘(ルカ8章)も、ラザロ(ヨハネ11章)も生き返ったが、それは「復活」ではない!(彼
らはまた、やがて亡くなった)。イエス様だけが、二度と死ぬことのない命に復活し、死とその呪い、人の悲しみ
と絶望を完全に滅ぼされた。 ◆イエス様はマリヤに『わたしにすがりついていてはいけない(17節)』と言われた。➊それは第一に、「目に見え
る」イエス様にしがみつき、肉的に感情的に、神が「いる・いない」を感じたり,判断したりするのではなく、信
仰によってイエス様と結ばれ、『キリストが私のうちに生きておられる(カ
゙
ラ
テ
ヤ
2:20)』と確信する、「心強く、安心
の信仰」を教えるためだった。➋第二にイエス様は、いつまでも抱きついていないで、マリヤが、すぐに、この素
晴らしい知らせを伝えるために出かけて欲しかった。「以前、約束されていたことが、今朝、本当に起きた!」と
告げるために。イエス様は復活の知らせを『わたしの弟子たちに(17節)』と告げた(「わたしの弟子たちに」で
も、「わたしのしもべたちに」でもなく!)。神は、御子の贖い(十字架と復活)を自分の救いとして受け入れ、
信じた者と共に住み、神の家族、神の子として、共に歩む人生の勝利と希望を約束された。 あなたは、死の悲しみと恐れから解放してくださるイエス様を信じただろうか?死に代えて永遠の命を与え、天国
の約束と確信、安心と希望をくださるお方を、「今」信じているだろうか? 『御手の中で砕かれ新しく!』​
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エレミヤ書 18章1~18節 2015.4.12(日) 『…イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。─主の御告げ
─見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように…あなたがたも、わたしの手の中にある。』 エレミヤ18章6
節 神の民・ユダの状況は最悪だった。エレミヤは神の「裁きと救い」の御旨を何度も伝えたが、全く聞く耳はな
く、ますます頑固になって反抗し、ついにはエレミヤを抹殺計画まで立てる(18:21)。この状況で神は、エレミ
ヤを陶器師の許に遣わして作業をみさせ、『この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないとで
も思うのか。…あなたがたも(神の民もエレミヤも)わたしの手の中にある!(6節)』と告げた。 ◆聖書の中心テーマは『再生(復活)』である。完全に駄目になったものが、全く新しく造りかえられるのであ
る!神が注がれる祝福と幸せを妨げ、災いとしてしまう唯一最大の害悪は、『悔い改めない、頑固な心』(7~10
節)である。逆に、私たちがどんなに神の恵みを忘れ、不従順を繰り返し、その裁きと滅びが決定的となったとし
ても、その罪に気づいて心から悔い改めるなら、神はその災いはとどめられる! ◆かつてイスラエルの民は、400年ものエジプトの奴隷生活から解放され、祝福の地カナンを目指すが、1ヶ月
もかからない旅路に40年間もかかってしまった。彼らは荒野で、水がない・パンがない・肉が食べたいと呟き、文
句タラタラと堂々巡り!御声に聞かず、心頑なになり、感謝を忘れ、神への信頼を失った。しかし神は、御手を
もって彼らを荒野で練り直し、作り替え、ついに約束の地へ導き入れた。 ◆ヤコブ(「奪う者、だます者」)は荒野(ヘ
゙テ
ル
)で神と出会い、一旦は悔い改めるも、叔父のラバンを騙し、また
騙されて20年間も苦労する。しかし神はペ
ヌエ
ルにて彼と出会い、彼の傲慢を徹底的に打ち砕き、悔い改めへと導
き、ついに兄エサウと涙で和解する者へと変えられた◆6節『(陶器師は器を自分の手で)こわし…』の原語は
「シュ
ー
フ
゙」(「生き返らせ/回復/帰る/住む/悔い改める」等の意)。神は、その御手をもって私たちを打ち砕
き、罪の悔い改めへと導き、ついに私たちが御前に歩み、慈しみと平和と優しさに生きる者へと変えてくださる
(ミカ書6:8)。弱さを告白し、御手に委ね、へりくだってあなたの神と共に歩む生涯へと変えていただこう! 『砕かれるべき頑固な心!』​
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エレミヤ書19章10~15節 2015.4.19(日) 『彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。…彼は、私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のため
に砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒された。』イザ
ヤ53:4~5 神はエレミヤを陶器師のもとに導き、出来損なった粘土の器が何度でも作り直されるのを見せ、「このように、
あなた方もわたしの手の中にある(18:6)」と再生の可能性を告げた。しかし民はますます頑固になり神の御声に逆
らった。神はエレミヤに陶器を買わせ、ヘ
゙ン
・ヒ
ノム
の谷へ導き、長老や祭司たちの前で粉々に砕かせて告げる「…主は
こう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町
を砕く。(19:11)」と。人が、柔らかな粘土のように素直に、罪も弱さも認めて告白し、全てを御手に委ねる時、神
はいつでも、裁きを祝福に、呪いを平安に変えてくださる。しかしいつまでも自分の思いにこだわる頑固な心は、
救われないばかりか、完全に砕かれ、裁かれる。「
ヘ
゙
ン・
ヒ
ノ
ムの谷」
とは新約聖書の「
ゲ
ヘ
ナ
(地獄)」
のこと。「…見よ、そ
の日が来る。主の御告げ!その日には、この所はもはやベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれ
る…(19:6~)」。神の言葉に聴き従わない時、人は一気に祝福から遠ざかり、関係は破壊され、争い、恨み、妬みが
起こっていく。 ◆「…神はおひとり…悪霊どももそう信じて、身震いしている(ヤ
コフ
゙
2:19)」
とある。『信じる』とは、存在を認め、
救いの事実を認める「悪霊レベル」以上に、「
従い、愛すること」
を意味する。頑なな心は、素直に従う喜び、愛
し・愛される幸せを失っていく。壊れた神の像(かたち…「
愛し・愛される幸せ」
)を回復していただく唯一の方法
は、御声に聴き従うこと! 『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高
く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を
生かすためである。」(イザヤ57:15)』全地で崇められ、賛美されるべきお方が、低く下られた。100%正しいお方
が、100%悪い者の身代わりに呪われ,裁かれた。 ◆祝福か呪いかは選択できる!神の願いは、『常時喜悦!不断祈祷!万事感謝!』。悪魔の願いは、『いつも落ち
込み、絶えず恨み、すべてに不平を言うこと』である。私たちを罪と滅びから救い、呪いに替えて祝福を注ぎ、い
つも最善を計画し、万事を益としてくださる神を知る者は、悪魔を喜ばせる生き方は選ばない!神を愛する者は、
心して次の言葉を聴くべきである。 『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打た
れ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれ
た。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:4~5)』 人生が罪によって滅び、砕かれ、呪われ、捨てられるはずの私たちに代わって、崇められ、賛美され、全存在が御
前にひれ伏すべきお方がムチで打たれ、唾を吐きかけられ、葦の棒で頭を叩かれ、愚弄され、裸にされ、罪人とし
て処刑された。すべては、私たちを救うためだった。栄光の主が「私」に代わってボロボロに砕かれ、しかも黙っ
て受け止め、謙られたことを知るとき、今度は私たちがこの神の前に謙り、素直に聴き従い、愛し慕う者となれな
いだろうか?あなたは、この神に心の傷を癒され、イエス様から平安をいただいただろうか?砕かれ、謙った心か
ら出ているものは、ただ感謝以外にない! 『見よ,その日が来る!』​
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エレミヤ書23章1~8節 2015.4.26(日) 『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。主はいつくしみ深い。…主
を求めるたましいに。』 哀歌3:22、25 エレミヤが悔改めを語れば語るほど、民の心は頑なになった。愛する者たちが目の前で滅びの谷底に転がり落ちて
いくのを見て、どうすれば、呪いから祝福へ、死から命へと回復されるのかを伝えるも、民は聞かなかった。その
悲しみと絶望の真ん中で神は語られた…『見よ、その日が来る(5節)』。神の助けが直接介入する日が来る! ◆神の嘆きの中心は、牧者(イスラエルの王)たちが、苦しみ、疲弊している民を顧みないこと。その無慈悲の代償
は大きかった(BC586…当時の王ゼデキヤもその家族も悲惨な結末を見る。神殿も王宮も廃墟となり。愛する祖国
は失われた)。神は、民が憎くて裁いたのではない!どうにかして彼らが罪(不信仰・不従順)に気づき、悔い改
め、神に立ち返ることを願ってのこと。なので神は、裁きと共に救いの預言を告げた。『しかし、わたしは、わた
しの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる…わたしは彼らの上に
牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない(23:3
~4)』。この「神の立てる牧者」こそ真の救い主である。『見よ。その日が来る。…その日、わたしは、ダビデ
に一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う(23:5)。』 ◆公義とは、神の恵みの支配、導きや訓練のこと。正義とは、貧しく弱い者への憐れみ、施し、救いそのもののこ
と!私たち人間の義は、責め・裁き・切り捨てる!神の義は、憐れみ、助け、施す!神の義に飢え渇く者は祝福さ
れる(満たされる)のである(マタイ5:6)。ダビデの祝福と繁栄の大木は根元から切り倒されたが、その切り株から芽
が出て、そのタダビデの子孫から救い主(イエス・キリスト)が誕生したのである!2000年以上も前にキリストが
来られたと言うのに、憎み、争い、殺し合うこの世界のどこに平和は実現したというのか?それはクリスチャンの
心と生活、その遣わされた家族・社会の中に…である! ◆アッ
シ
リ
ヤもバビロンも滅び、ペ
ルシャ
もロー
マ帝国も跡形もなく消失した。2000年以上経ち、3度も祖国を完全に失ったユ
ダヤ人だけが、何度も回復され、現存している。それは彼らが希望の信仰を持っていたから!彼らは主の約束を聞
いた『…それは災いではなく、平安を…将来と希望を与えるためのもの(29:11)』と。この、どんな試練や絶望の中
でも、揺るぐことのない希望の信仰は、苦難の中でこそ育まれるもの!私たちとって「その日」は既に来た。この
世に来られ、十字架にかかられ、復活して,今ともにいてくださる救い主を仰ぐ者は誰でも、神の正義(憐れみと
救い)を信じて喜び、「ここに真の平和がある!」と希望を告げる者となれる! 『さばきの中にこそ救い!』​
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エレミヤ書24章1~10節 2015.5.3(日) 『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。…義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるか
ら。』 マタイの福音書3:4、6 神は、バビロンを用いて徹底的に神の民を裁かれた。その裁きは、神の民の不信仰、不従順、頑固さの故だった!
しかし、その裁きの中に、神の最善の計画があった。それは、裁きを謙虚に受けとめ、敵に仕えて傲慢な心を砕か
れ、自分たちの罪と愚かさを心から悔い改めて、素直で従順な民に作り変えることだった!そのことを神は次のよ
うに語った『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は死ぬ…。出
て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きる(21:8~9)」と。しかしゼデキヤたちは、神に反
抗して都に留まり、謙るどころか傲慢にも戦いを挑み、預言通り悲惨な結末となる。しかし捕囚となったエホヤキ
ンら約1万人はバビロンに完全降伏し、失意の中で心砕かれ、へりくだって敵に仕えて命を得た。 ◆神は、自分の罪を素直に認め、正直に弱さ無力を自覚してへりくだる者を豊かに祝福される。 ①謙りは、第一に神に対するもの!私たちがどれほど神の御心に従っていないかは明らかである。その不従順を認
め、罪深く、無力な自分を神の御前に差し出すとき、主はその者を憐れまれる。 ②第二に人の前に謙ること!心から人に謝るには、徹底して自分を低くする必要がある。「あ~ごめんごめん」と
いう軽い謝罪、「どうせ私が悪かったわよ」という渋々謝罪、「ごめんって言ってるでしょ!」という逆切れ謝罪
…などは、心からの謝罪ではない。プライドを捨てよう!③第三に、試練や困難の中で謙る。人は、困難の中でこ
そ真剣に祈り、不安や絶望の中でこそ、渇いて神の御心を確認し、その都度、その都度神に導かれる!これ以上に
確かな生き方はない。 ◆敗北し、倒され、街が消えていく…その中に神の御心がある。そこで人は本当の謙遜と従順を学び、悔い改めて
神にのみ信頼するようになれる。神は言われた『わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与える(エレ
ミヤ
24:7)』と。主がどんな逆境の中にも共におられ、最悪と思える事態の中でさえ最善を行われることを知るとき、完
全なアウェー(敵地)が、ホーム(御国)に変えられる。人生の巨大な試練を「乗り越えてやる!」ではなく、低
く、謙虚、弱さも無力も認めて主により頼み、その下をくぐり抜けさせていただこう!