医療事故の被害者救済策のあり方

( )
研究ノート
医療事故の被害者救済策のあり方
大
羽
宏
一
佐
藤
大
介
1, はじめに
最近は医療に係る紛争が多く報道されるようになってきており, 地方裁判所
の新受件数もこの年間, 約件∼約件の間で推移している。 一昔前
(年代は件以下) から比べ, 増加してきている一番の理由は, 患者側が
医師や医療機関に対し損害賠償請求を行うことを躊躇しない傾向になってきた
ということがいえる。 つまりは, 医師や医療機関を神聖視することがなくなっ
てきた 1) ともいえ, 医療のパターナリズムに変化が生じ, これが徐々に浸透
し一般化してきた現象ともいえよう。 その意味で, 今日の状況は医療事故の増
加ではなく, むしろ 「医療紛争」 の増加であるという指摘2) は的を射ている。
さらにこのような状況に輪を掛けたものとして, 年に起こった横浜市立大
学病院事件 (患者取り違え手術事件) と都立広尾病院事件 (注射器取り違え患
者死亡事件) があり, この衝撃的ともいえる2つの事件は広く報道され患者の
安心感を喪失するもととなった3)。
しかしながら, 医療サービスは他のサービスと異なり専門性が高く, また代
) 西島梅治 () 「「専門家の責任」 と保険」 川井健編 専門家の責任 日本評論
社, 。
) 加藤愼 () 「医師賠償責任保険」 損害賠償法と責任保険の理論と実務 信山
社, 。
) 桑原博道 () 「この
年の医療訴訟のトレンド」 医療訴訟のそこが知りたい
日経メディカル, 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
替性がないこともあり, 患者との信頼がないと治療関係は成立しない 4) こと
は自明の理ともいえ, 患者側の損害賠償請求を現在以上に認めることは, 医師
などの医療関係者の 「立ち去り型サボタージュ」5) を助長することともなり,
アメリカ合衆国で経験したような医療崩壊につながる結果になると思われる。
そこで, 本稿では, わが国の医療事故の被害者救済の現状を報告し, 次に先進
諸国での医療事故の被害者救済策を研究し, また
年にわが国で実施された,
産科医療補償制度も視野に入れ, 今後の医療事故の被害者救済策のあり方につ
いて提案してみることとしたい。 この産科医療補償制度は, 表−1に示すよう
に, 出産時のトラブルにより産婦人科医が多く訴訟に巻き込まれているという
情勢の下で, 周産期医療の現場を安定させ, ひいては産科医不足を解消すると
いう目的で発足したものであるが, わが国での医療に関する初めての無過失責
任制度 (いわゆるノーフォールト制度) といえるもので, その点において注目
に値するものと考えている。
本稿では, 医療に関する患者側の身体障害に関する事故をすべて 「医療事故」
として記述することにしている。 医療についての医師や医療機関の負うべき民
6)
事責任 (過失責任) は, もともと英米法の言葉である の翻訳語として, 「医療過誤」 7) という語を用いることもあるが, この語は医
師や医療機関の誤った行為を示しているように解釈できることから, ここでは
用いないこととする。
) 田口宏昭 () 「終末期のケア」 ケア論の射程 九州大学出版会, 。
) 小松英樹 () 医療の限界 新潮新書, 。
) ! によると, " #
$ #
# %
%
!としている。
) 医療過誤という語を用いて医師の責任を追及した書物として, 上原専祿 上原専
祿著作集, 死者・生者 (年刊) があるが, 本書の中では上原専祿の妻の闘
病生活について患者家族の立場から, 患者側と主治医側 (主治医と主治医の指導医
である国立大学医学部教授) との間のコミュニケーションギャップを厳しい論調で
追求している。 この記述の初出は年月日であり, このころから一部には使
用されていたと思われる。
( )
表−1
医事関係訴訟事件 (地裁) の診療科目別既済件数
年
診療科目
内
平成年
平成
年
平成
年
科
科
精神科 (神経科)
皮
科
小
児
膚
科
整
形
外
科
形
成
外
科
泌
尿
器
科
産
婦
人
科
科
耳 鼻 咽 喉 科
歯
外
眼
科
麻
酔
科
そ
の
他
計
合
(注) 複数の診療科目に該当する場合は, そのうちの主要な一科目に計上している。
(最高裁判所HPより)
2, わが国の医療事故の被害者救済の現状
() 医師や医療機関の負うべき民事責任
イ, 法律上の責任
医師は患者との間に, 診療を行うという契約を締結しており, 民法上は準委
任契約 (民法第条) とされる。 したがって, 医師は善良な管理者の注意を
もって契約を履行する義務を負うこととなり (民法第条), これに反した場
合は債務不履行として損害賠償を求められる (民法第条)。 他方, 医師の過
失により患者に損害を与えたと考えれば, 不法行為により損害賠償を求められ
ることとなる (民法第条)。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
このように, 医療事故の場合の損害賠償請求の方法は, 債務不履行と不法行
為の2種があり請求権は競合しているといえる。 しかしながら, わが国の裁判
では, 原告が不法行為として請求しているものがほとんどであるために, 不法
行為として処理されており8), 現在では不法行為の1つのジャンルを構成して
いるといえる。 なお, 債務不履行で損害賠償請求する場合でも, 過失の挙証責
任は別として, 過失の内容には変わりがない9)。
ロ, 判例の動向
①求められる注意義務
医師の注意義務を明確にしたのは, 東大輸血梅毒事件) (最高裁昭和年2
月日判決) といえる。 職業的給血者から採取した血液を患者に輸血したとこ
ろ, 患者が梅毒に罹患した, この事案で最高裁は 「いやしくも人の生命及び健
康を管理すべき業務に従事する者は, その業務の性質に照らし, 危険防止のた
めに実験上必要とされる注意義務を要求されるのは, やむをえないところとい
わざるを得ない。」 とし, 医師に対し高度な注意義務を求めている。 つまり,
単に 「身体は大丈夫か」 と発問しただけでは不十分であり, それ相当の問診を
していたならば, 結果の発生を予見できた可能性があったとして, 医師の過失
を認めているわけである。
この判決は医療関係者に大きな影響があり, 医師や医師会からの要請もあり,
損害保険会社が昭和年に, 医師や医療機関向けの医師賠償責任保険を営業開
始する契機ともなったともいわれている)。
この注意義務の判断基準はどこにあるのか, については種々論議があるとこ
) 加藤一郎 () 注釈民法 () 有斐閣, 。
) 前掲, 加藤一郎, 。
) 浦川道太郎 () 「東大輸血梅毒事件」 医事法判例百選, 別冊ジュリスト 号, ∼。 判例時報号 。
) 大羽宏一 () 「医療に従事する専門職業人を対象とする賠償責任保険の保険
事故について」 損害保険研究 第巻第3・4号, 。
( )
ろであるが, 未熟児網膜症事件 ) では, 医療水準については 「当該医療機関
の性格, 所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり, 右の
事情を捨象して, すべての医療機関について診療契約に基づき要求される医療
水準を一律に解するのは相当でない。」 とし, 医療機関によって異なることを
明らかにしている。 今後, 最先端の医療に関する責任を論議する場合は, 医療
機関の性格や特性等により, 注意義務の判断に差異があることを念頭に置く必
要があろう。
②過失判断の時期
過失の判断は行為時とみることが一般的である。 水虫放射線障害事件 ) で
は, 前述した東大輸血梅毒事件の注意義務を前提とし, 最高裁は 「・・・診療
当時の医学的知識にもとづきその効果と副作用などすべての事情を考慮し, 万
全の注意を払って, その治療を実施しなければならないことは, もとより当然
である。」 としている。
③因果関係
医療事故の訴訟においてもっとも論争を呼ぶものが, この因果関係 (一言
でいえば医療行為と結果との関係) といっても過言ではない。 ルンバール事
件) (最高裁昭和年月日判決) は, 化膿性髄膜炎の患者に対しルンバー
ル (ペニシリンの髄腔内注入) を実施したところ, 嘔吐や麻痺の発作があり,
患者に右半身麻痺や言語障害などの後遺症が残った事案であるが, 最高裁は
「訴訟上の因果関係の立証は, 一点の疑義を許されない自然科学的証明ではな
く, 経験則に照らして全証拠を総合検討し, 特定の事実が特定の結果発生を招
来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり, その判定は, 通
) 手嶋豊 () 「未熟児網膜症事件」 医事法判例百選, 別冊ジュリスト 号,
∼。 判例時報号 。
) 星野雅紀 () 「水虫放射線障害事件」 別冊ジュリスト 号, 。 判
例時報号 。
) 米村滋人 () 「ルンバール施行後の脳出血と因果関係」 医事法判例百選, 別
冊ジュリスト 号, 。 判例時報号 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要
とし, かつ, それで足りるものである。」 とし, ルンバールの実施と後遺症の
因果関係を肯定し, 原告勝訴としている。 この判決は, わが国での因果関係の
判断基準となっている。
次に, 医師が当時の医療水準にかなっていなかった場合に, その医療行為と
患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれど, 医療水準にかなっ
た医療が行われていれば, 患者が, なお生存していた可能性の存在が証明され
るときは, 医師は患者に対し損害賠償責任を負うという最高裁の判断 ) もあ
る。 判決の中では 「生存していた相当程度の可能性の存在」 という言葉を使用
しているが, いわゆる期待権や延命権などという言葉も一般には使われている
ものであるが, これを法的に認めてきたといっていいと考えられよう。
④説明義務
医療法第1条の4 (医師等医療の担い手の義務) の第2項は 「医師, 歯科医
師, 薬剤師, 看護師その他の医療の担い手は, 医療を提供するに当たり, 適切
な説明を行い, 医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない。」 と
している。 医療のパターナリズムに変化が生じるとともに, 患者に対し医師な
どの医療の担い手の説明責任が求められるようになってきたことで, 近年に医
療法が改正されてきたわけである。 歴史的には, ナチスの人体実験の反省から
ニュールンベルグ綱領やヘルシンキ宣言などにより, 医療に関する倫理基準が
定められたことで, 先進各国は医師などの説明義務を強く求めるようになって
きている。
そのような状況の下で, 現在わが国の医療の現場でも患者の身体に医的侵襲
を加える場合には, 事前に患者へ説明を行い, そして同意を得ること (いわゆ
るインフォームド・コンセント) は一般的になってきている。
) 前田順司 () 「医師の注意義務違反と因果関係」
リスト 号, 。 判例時報号 。
医事法判例百選, 別冊ジュ
( )
乳がんに罹患した患者が, 乳房温存療法に関する医師の説明義務違反を主張
した事案で最高裁 ) は 「少なくとも, 当該療法 (術式) が少なからぬ医療機
関において実施されており, 相当数の実施例があり, これを実施した医師の間
で, 積極的な評価もされているものについては, 患者が当該療法 (術式) の適
応である可能性があり, かつ患者が自己への適用の有無, 実施可能性について
強い関心を有していることを医師が知った場合などにおいては・・・当該療法
(術式) の内容, 適応可能性やそれを受けた場合の利害得失, 当該療法 (術式)
を実施している医療機関の名称や所在などを説明する義務があるというべきで
ある。」 と原告の主張を認めている。
また, 美容整形外科の医師に十分な説明をされずに, 時間がないと急き立て
られ, その日のうちに手術をされた患者に対して, 広島地裁 ) は 「美容整形
は, その医学的必要性・緊急性が他の医療行為に比して乏しく, また, その目
的がより美しくありたいという患者の主観的願望を満足させるところにあるか
ら, 美容整形外科手術を行おうとする医師は, 手術前に治療の方法・効果・副
作用の有無を説明し, 患者の自己決定に必要かつ十分な判断材料を提供すべき
義務があるというべきである。」 と判断している。 そして 「可愛くしてあげる」
等の表現はきわめて主観的, 不十分で, 説明義務を尽くしているとはいえない
とし, 損害賠償を認めている。
⑤コメディカルの責任
大学病院で, 看護師が滅菌精製水と消毒用エタノールのポリタンクを間違え,
人工呼吸器の加温加湿器チャンバー内に消毒用エタノールが充填されたことで
患者が死亡している。 この刑事事件の大阪高裁判決) では, 「その容器のラベ
) 山口斉昭 () 「選択可能な未確立療法と医師の説明責任」 医事法判例百選,
別冊ジュリスト 号, 。 判例時報
号 。
) 増田聖子 () 「美容整形術についての術前説明義務」 医事法判例百選, 別冊
ジュリスト号, 。 判例時報号 。
) 日山恵美 () 「エタノール誤注入と看護師の責任」 医事法判例百選, 別冊ジュ
リスト 号, ∼。 本件は判例集未登載。
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医療事故の被害者救済策のあり方
ル等を見て確認するという看護師として最も基本的で初歩的な注意義務を怠っ
た」 として新人の看護師に有罪を命じている。
一方, 骨折した患者が, 不適切な硬膜外麻酔の注入をしたことによって死亡
したことについて, 医師とともに看護師が損害賠償を求められた事案 (平成5
年に発生) では, 大阪地裁は, 注入を実施した看護師に対し 「医師の補助者に
すぎず, 医師の取った指示内容の当否について判断し得る立場になく, その能
力も有しなかった」 とし, 責任を否定している。 しかし, 医師が誤った指示を
したときであっても, 今後, 看護師は是正すべき注意義務を求められることに
なるとの指摘) はもっともなものといえるだろう。
() 周産期医療と被害者救済
イ, 産婦人科の危機的な状況
諸国と比べると医師の総数が絶対的に足りないといわれる中で, 少
しずつ増加している状況にある (
年の医師数は
人) ものの, 産婦
人科医は1万人弱となっており, これは年前と比べて%減であり, 減少に
歯止めがかからないといわれている。 特に, 地方では産婦人科医が不足する事
態が生じることで, 分娩を謝絶せざるを得ない分娩機関が増加してきている。
また, 産婦人科医不足により, 最近では都会の総合周産期母子医療センターで
さえ機能していないことが明らかになってきている。 この原因, つまり産婦人
科の医師になることが敬遠される一番大きな要因は, 分娩時のトラブルである
ということが報じられるようになってきた。 確かに表−1で示したように産婦
人科の訴訟件数は1万人弱の医師数からすれば, 他の診療科に比べ異常なほど
事件発生率が多いことが判明している。
古くから分娩は家族にとって大きなリスクであることは不変なものとされて
) 川端和治 (
) 「点滴および硬膜外麻酔時の看護師の過失」
別冊ジュリスト 号, 。
医事法判例百選,
( )
いるが, 現在では少子化の背景から, 異常分娩となった場合, 家族は医師に対
し厳しく責める傾向にあることから種々のトラブルが発生するといわれている。
わが国の乳児死亡率は
% (
年) ときわめて低い値を維持しており, こ
れは先進各国のなかでも誇れる数値となっているが, この産婦人科医の優れた
乳幼児死亡率の実績は, 個別事案でトラブルとなった患者には判ってもらえな
いのが悩ましいところであろう。
そのような背景から昨年, 後述する産科医療補償制度が創設されたわけであ
るが, これが定着することにより, 医師と家族の間に無用の軋轢がなくなり,
結果として安心して出産ができるようになり, 少子化に歯止めがかかることが
期待できるし, また産婦人科の医師の増加につながればわが国の保健福祉行政
にとっても好ましいということができよう。
ロ, 産科医療補償制度の内容
①制度の目的
この制度は, 分娩に関連して発症した重度脳性麻痺児に対する補償を行う機
能と, その脳性麻痺の原因分析, 再発防止の機能の2つの目的を有し, 結果的
に産婦人科医を分娩後のトラブルから開放することになるものといえる。
分娩により発症した重度脳性麻痺児について, 訴訟で争われた件数は明確で
はないが, 医療問題弁護団の分娩事故判例研究会の調査 ) によると, 平成
年1月以降の判決で, 胎児死亡, 仮死で出生後死亡, 脳性麻痺, の被害につい
ての法の判断は判決 (事案) あると記述されている。 この制度が実施され
ることにより, 訴訟が大幅に減り, 原因究明もされ, これが再発防止に繋がる
とすれば, 国民経済的観点からも望ましい結果となると思われる。
) 医療問題弁護団・分娩事故判例研究会 () 「分娩事故判例分析∼裁判例に学
ぶ事故原因と再発防止策∼」。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
②制度の仕組み
図−1のように, 運営主体は財団法人日本医療機能評価機構 (以下, 評価機
構という) で, この評価機構がリスク分散のための損害保険会社との保険加入
手続きをするほか, 補償対象の認定, 原因分析, 長期にわたる補償金支払手続
きなどの制度運営業務を行うとしている。
図−1
補償制度の仕組み
(財団法人
日本医療機能評価機構のHPを元に作成)
③補償対象
分娩により下記の基準を満たし出生した児が対象となる。
「出生体重がg以上かつ在胎週数週以上で出生した児に, 分娩によって
身体障害者1・2級相当の重度脳性麻痺が発生し, 評価機構が補償対象として
認めた場合。」
これに加え, 出生体重・在胎週数の基準を下回る場合でも, 週以上の児に
ついては, 分娩による脳性麻痺に該当するか否かという観点から個別審査を行
うこととしている。 個別審査で補償の対象となる場合は, ①低酸素状況が持続
して臍帯動脈血中の代謝性アシドーシスの所見が認められる場合, ②胎児心拍
数モニターにおいて特に異常のなかった症例で, 通常, 前兆となるような低酸
素状況が, 例えば前置胎盤, 常位胎盤早期剥離, 子宮破裂等によって起こり,
引き続き, 突発性で持続する徐脈などの胎児心拍数パターンが認められ, かつ
( )
心拍数基線細変動の消失が認められる場合, である。
ただし, 先天性要因等は除外されているので, この点は注意が必要である。
先天性要因としては, 両側性の広範な脳奇形, 染色体異常, 遺伝子異常, 先天
性代謝異常, 先天異常などがある。 また, 分娩後の感染症などの新生児期要因
についても除外されている。
年間出生数万名のうち, 補償対象者は名以下と推定されているよう
である (保険料算出の基礎となる想定事故数値としては名∼名といわれ
ている)。
④補償金額と掛金
準備一時金 (看護・介護を行う基盤整備のための資金) 万円, 補償分割
金 (看護・介護費用として毎年定期的に支給) 年万円, 年間。 合計する
と
万円が補償される。
掛金は1分娩あたり3万円・・・週以降のすべての分娩が対象となる。
この制度は, 公的制度ではないものの, 妊産婦に対する健康保険の出産育児
一時金の増額により賄われることとなっている。
⑤約款内容
評価機構と分娩機関との間の標準的に使用される補償約款第1条 (目的) は
次のとおりである。
○産科医療補償制度標準補償約款
第1条 (目的) この補償制度は, 分娩に係る医療事故 (過誤を伴う事故及び
過誤を伴わない事故の両方を含みます。) により脳性麻痺となった児及びそ
の家族の経済的負担を速やかに補償するとともに, 事故原因の分析を行い,
将来の同種事故の防止に資する情報を提供することなどにより, 紛争の防止・
早期解決及び産科医療の質の向上を図ることを目的とします。
なお, その医療事故について, 事後に分娩機関の民事責任が明確になった場
合は, 補償金と損害賠償金との調整をすることとしている (産科医療補償制度
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
標準補償約款第8条)。
次に, 上記の補償約款に定められた補償内容を裏打ちする, 損害保険会社と
評価機構との間の保険約款第1条 (保険金を支払う場合) は次のとおりである。
○産科医療補償責任保険普通保険約款
第1条 (保険金を支払う場合) 当会社は, 分娩機関の管理下における分娩に
より保険証券記載の保険期間中に出生した児 (分娩機関の施設外において,
被保険者またはその使用人その他被保険者の業務の補助者が分娩管理を行っ
た児を含みます。) に生じた重度脳性麻痺について, 認定機関が補償約款に
定める補償対象と認定した場合に限り, 被保険者が補償約款に基づく補償金
の支払い責任を負担することによって被る損害に対して保険金を支払います。
⑥課題
この制度は, 基本的に分娩するすべての人を対象とすることから, きわめて
公的な制度に近似しているといえるが, 前述の産科医療補償責任保険普通保険
約款のように補償金の支払いを損害保険会社に委ねている。 これが国の制度と
して年に創設された医薬品副作用被害者補償制度と異なるところである。
設立時の財政上の情勢が反映しているとも思われるが, 制度間の格差があると
ころについては今後解決すべき課題となろう。
さらに, この補償制度は分娩時の医療事故により脳性麻痺となった児のみが
対象となっているが, 先天性要因や分娩後の感染症との競合事案が出てきたと
きのトラブルはあると思われる。 この点についての家族との事前の了解を取り
つけておかないと, 思わぬ問題が発生することもあり得るだろう。
3, 各国の医療事故の被害者救済の現状
わが国における医療事故の被害者救済制度を検討するための材料として, 先
進諸国での事例について触れておきたい。 各国においてどのような問題が発生
し, その解決のためにいかなる制度が構築されているのかを示しておきたい。
( )
() アメリカ合衆国
イ, 被害者救済の法理
米国の医療事故に関し, 損害賠償責任を求める場合は, わが国と同様に原告
は被告の過失 (いわゆる ) を立証しなければならないとされてき
た。 しかしながら, 製造物責任の判例の発展と同様に, 徐々に挙証責任が崩れ
てきている状況にある。
まず, 英米法における過失の考え方を整理しておきたい。 英米法では一般に
被告の行為は, 法が擬制的に作り出したところの 「合理人」 (合理的にして思
慮深い人間) が行うであろう行為を基準として, その 性が判断さ
れる)。 したがって, 医療事故においても, 過失の有無を判断する基準は, 医
療関係者が持っている合理的思慮深さ (
) の基準に基づ
いて判断される。
さらに, 過失に基づく医療事故の訴訟において, 一応の立証 (
) を果たすには, 原告は以下の4つの要素を立証する必要があるとされて
いる)。
①被告には原告の安全や権利を保護する義務があること。
②その義務に関し, 被告が, 職業上の保護, サービス, 処置を行う上での適
切な基準に沿って実行しなかったこと。
③その義務を怠ったことが原告の損害の近因となっていること。
④その損害は, 賠償されるに十分な重大さがあること。
①の保護義務については, 近年ではその議論が拡大しているが, 基本原則は
依然として変わっておらず, 自らの行動の影響について予見可能性があるか,
) 平林勝政 () 「プロフェッショナル・ネグリジェンスとしての医療過誤−慣
行的プラクティスをめぐって−」 現代損害賠償法講座4 医療事故・製造物責任
日本評論社, 。
) ( !)"
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'
(
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
という点がポイントとなっている。 原告に損害を与えた危険が, 被告の作為ま
たは不作為の結果であることが合理的に予見可能かどうかによって判断されて
いる。
次に, ②は医療処置の基準 (医療水準) である。 これは, それぞれの事例に
より異なるが, 同等の技能を持つ合理人が同様の状況においてとる行動が基準
となっている。 この医療水準については, アメリカ合衆国では, 年のマサ
チューセッツ州最高司法裁判所の 事件に対する判決において, 都市と
地方における情報や医師の経験の格差を考慮した地域基準が認められていた
)。
この事件は人口人の小さな村の一般開業医が, 相当程度の外科的手腕を要
する重傷の手当てをしたが, 手術が首尾よくいかなかったため訴訟となったも
のである。 判決では, 地方の医師は公共病院や大都市で扱う医療を観察したり,
実行したりする機会は少ないため, 大都市で開業し外科を専門とする優れた医
師の持つ高度の技能と熟練を持つことを要求されるものではない, との判断を
示した)。 しかし年の同裁判所における, 事件) の判決では, 地域
の医師の水準を遵守していても, それと異なる全国の水準を遵守していない場
合には, 過失に該当し得るとの判断が示されている。 現在のコミュニケーショ
ンや情報の進歩などを考慮すると, どの地域にいても最先端の医療技術を知る
ことが出来るようになってきている状況から, 現在では 「地域基準 (
)」 よりも「全国基準 (
)」を判断基準とすることが
主流になってきているといえる)。
さらに, ③は被告が原告の安全や権利を保護する義務を履行しなかったこと
が原告の損害の近因となっているか, という点である。 医療事故の場合にはこ
) 平野晋 () 「補追 アメリカ不法行為法 判例と学説[]」 国際商事法務
に掲載されている !"
#
()
事件。
) 山田卓生 () 「医療水準と医療慣行」 判例タイムズ $, %
) &'
'
#
(
$
()
) 前掲, 平野晋, 。
( )
の点を立証することが困難であることが多い。 そのため, 過失の立証に際して,
過失推定則 (
) が導入されている。 この原則は
下記の3要件を原告側が立証すればよいこととしている)。
a. 事故が, だれかの過失なしには起こらないものであること。
b. 事故が, 被告の排他的支配下にある道具や行為によって起こったこと。
c. 原告側は, 事故になんらの関与もしていないこと。
医療事故の事実関係については, 一般に, 患者である被害者には知るすべが
なく, 医療関係者である被告側が多くを把握していることから, 「証拠を提出
する責任を被告に課すことが, このルールの意義であり, それは正当なことだ
という点である」) とされている。 過失推定則が認められた判例として年
のカリフォルニア州最高裁判所における 事件の判例を紹介する。 これ
は, 盲腸炎の治療として麻酔を受けて虫垂切除手術を受けた患者について, 手
術終了後に首から肩にかけて麻痺と筋機能の低下が発生したことで, 患者が医
師, 麻酔医, 看護師, 病院経営者など6名を被告として訴訟を行った事件であ
る。 カリフォルニア州最高裁は, 6名の被告のうちだれが過失的な行為をした
か, 障害を生じさせた器具が何かを特定していなくても, 病院で意識を失って
いた間に加えられた外部的な力から障害が生じたことを原告から示されれば,
過失推定則が成り立つと結論付けている)。
また過失の認定に関して, インフォームド・コンセントについての法律的判
断であるが, アメリカにおいては医療の現場で, インフォームド・コンセント
が一般的になってきたのは年以降といわれている。 もともと, 患者側の同
意なく医的侵襲を加えた場合は (暴行) による故意の不法行為を犯し
) !"
#
()"$
%
%
&' ( &
)
*
"
+ !
,
,
) 樋口範雄 () 「
-,.)
」 英米判例百選 (第三版), 別冊ジュリ
スト /,
0, ,
。
) 前掲, 樋口範雄, ,
。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
たとして損害賠償責任を負っていた)。 年代になると, 治療の内容やこれ
に付随するリスクについて医師や医療機関側は患者の同意を得ていなければ
ならないとされてきているが, これに関する訴訟について か
か, の論議があった。 事件 ) においては, 脊髄の手術を
した患者が, 手術後下半身が麻痺し再起できなかった事案について, 連邦控訴
裁判所は1%程度の非常に少ない可能性であっても手術前に説明をすべきとし,
過失責任を認めている。 インフォームド・コンセントの根本的前提は, 成人の
健全な判断力を有したあらゆる人は, 自分の体に何をするかについて決定する
権利があるという概念である)。
さらに近年では, 過失に基づかない厳格責任 (
) による損害
賠償も認められてきている。 この背景には近年の医療では, 医療機器や医薬品
などにおいて放射線の利用など内在する危険性が一般には十分に知られていない
場合が多くなっていることが挙げられる。 ウェストヴァージニア州の最高裁判所
において審議された 事件 ) では, 向精神薬のフェンタルミンの食欲
抑制作用を利用した肥満症治療において, 血圧上昇や心臓発作により患者が死
亡した事件に対し, 製薬会社や販売会社に製造物責任を認めるのではなく, 患
者が産後の授乳期であったことを確認せず, 以上の患者に処方するなど
の処方上のガイドラインや能書を遵守しなかった医師側に厳格責任を認めている。
上記のとおり, 現在のアメリカ合衆国においては, 医療事故の損害賠償にあ
たっては, 医療提供者の過失を立証する必要があるが, 被害者が医療関係者側
の過失を立証することは現実的には困難となるため, 過失推定則や厳格責任な
どにより被害者側の立証負担を軽減させている現状がある。
) 丸山英二 () 「過失・注意義務の程度」 英米判例百選私法, 別冊ジュリス
ト ,
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) 平野晋 () 「補追 アメリカ不法行為法 −判例と学説 ) 」国際商事法務
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( )
ロ, 医療事故賠償責任保険の危機
アメリカ合衆国では医師や病院が医療事故による損害賠償請求に備えて医療
事故賠償責任保険に加入し, 医療事故被害者への賠償資力確保を行っている。
しかし訴訟大国であることから高額な賠償請求となる場合もあり, 損害保険会
社が賠償責任保険の引受から撤退または消極的になることで, 医師が賠償責任
保険に加入できずに廃業することや, 保険料の安い州に転居することも珍しくな
い。 この結果, 地域住民が医療機関を利用できない事態や医師が訴訟をおそれ
て責任回避を主眼とした消極的医療に走るという困った事態も報告されている。
こうした状況は保険危機とも呼ばれ, 年代に第一次保険危機, 年代
に第二次保険危機と呼ばれる時期があった。 年に医療事故賠償責任保険の
大手損害保険会社のセントポール社がこの分野の収益が望めないとして撤退し,
他の損害保険会社も事業縮小に動いたことから医療事故賠償責任保険の契約が
できない状態となり, 第三の保険危機とも呼ばれることとなった)。
ハ, 危機回避の対応策
年代および年代の医療事故賠償責任保険危機を経験し, アメリカ合
衆国では, 医療事故賠償責任保険の保険料上昇を抑制するための対応策として,
各州において, 保険会社への規制強化とともに, 医療事故に関する不法行為法
の改正などが行われた。
具体的には, 損害保険会社への規制強化としては, 保険監督当局である州の
保険庁に対して届出を行う保険料水準についてその適正さの監督強化, 医療事
故賠償責任保険の検証のための州保険庁によるデータ収集, 賠償責任保険を入
手できない医療関係者と保険引受の用意のある損害保険会社との条件交渉等を
) 鴻上喜芳 (
) 「第三の保険危機−米国の医療過誤賠償責任保険マーケットの
実態−」 損保総研レポート 第号, 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
州保険庁が調整役となって折り合いをつけるなどの対策がなされた。 また, 不
法行為法の改正も実施されてきており, 医療事故の損害賠償に関して, 損害賠
償額に上限額を設定した州が多くある。 この場合の損害賠償額は, 医療費や逸
失利益等といった経済的損害賠償ではなく, 精神的苦痛や懲罰的損害賠償といっ
た非経済的損害賠償額に関して制限を設けることが一般的である。 たとえばテ
キサス州保険庁では, 非経済的損害賠償額を万ドルに制限することで医療事
故賠償責任保険の保険料節減効果を外科医で
∼
%, 病院で∼%,
看護施設で∼%と見積もったと発表している)。 その他の不法行為法改革
としては, 伝統的なコモンローのルールであるコラテラルソース・ルール (不
法行為者は他の補償があるか否かにかかわらず, 全損害額を支払う義務がある
とするルール) を見直し, 健康保険, 労災保険, 自動車保険や社会保障など原
告の損害を補償する他の競合する制度を念頭において, これを控除し損害賠償
額を算定する考え方を導入した州もある。 また, 医療事故賠償責任保険の保険
金を一時金払いではなく, 定期金払いとして原告の生存期間にあわせて分割し
て支払うことを容認するもの, 弁護士への成功報酬に上限を設け高額の賠償請
求訴訟を抑制するもの, 産科や脳外科, 救急外傷センターなど医療関係の中で
も特にリスクが大きい診療科目について損害賠償額に制限を設け, また制限額
を超える部分について補償基金を設けている州もある)。
こうした保険会社への規制強化や不法行為法の改正以外にも, リスクの大き
い産科医療において, 分娩に関連する重度の脳性麻痺について無過失補償制度
がヴァージニア州とフロリダ州で導入された。 年に始まったヴァージニア
州の出生障害基金 (
) は全米で初めて導入された無
過失補償制度である。 そして翌
年にはフロリダ州に神経障害補償協会
(
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) 前掲, 鴻上喜芳, !
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) 前掲, 鴻上喜芳, !
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( )
る。 こうした制度が導入された背景も年代に産科において医療事故賠償責
任保険の保険料が急激に上昇したためである。 産科医が医療事故賠償責任保険
の保険料の安い州に流出することに歯止めをかけることが, 被害者への早急な
救済ということよりも優先する目的であった) といえよう。
および ともに州政府が運営する制度ではあるが, 受給資格が厳
格であるため受給者自体はごく少数しかいない。 ヴァージニア州の の場
合は制度発足から5年間は受給者はおらず, 年までの年経過時の受給件
数はわずか件である。 フロリダ州の においても年までの受給件
数は件と1年間件に満たないレベルである )。 今後どのように推移する
かが注目されよう。
() ニュージーランド
ニュージーランドでは, すべての事故による身体傷害につき, 伝統的なコモ
ンロー上の損害賠償請求訴権および労働者災害補償法を廃止して, すべての被
害者がその傷害の原因を問わず, 統一した算定方式による給付を受けることを
基本理念とした包括的な補償制度を年から導入している)。 その意味で,
巨大な社会システムの変革を行ったというべきであろう。
この制度が確立した背景には, 年に政府により業務上の事故や病気から
生ずる身体傷害あるいは死亡に対する補償および損害賠償請求に関する法の調
査のための王立委員会 (いわゆるウッドハウス委員会) がまとめた調査報告書,
ウッドハウス・レポートの存在がある。 このレポートの結論は, 労働者災害事
故の問題だけを解決することは不可能であり, 身体傷害に関するコモンロー訴
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) 前掲, ! "
) 伊藤高義 (
) 「ニュージーランド事故補償法運用上の問題点」 損害賠償制度
と被害者の救済, ジュリスト臨時増刊 , 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
訟と労災補償法の廃止, とともに事故による原因を問わない包括的な補償制度
を勧告するものであった)。 このため, 過失に基づく損害賠償請求を否定し,
自動車事故, 労災事故, 医療事故などの各種の事故による被害者救済を社会保
険制度の一環と位置づけるものである。 したがって, この制度のもとでは身体
被害に関する損害賠償訴権を停止し, 損害賠償請求訴訟に代わり, 労働能力を
一時的または永久に失った事故の被害者に対する生計維持システムとして, 共
同体の責任による被害者救済を行うこととしている)。
この補償制度は事故の被害が無過失の場合も補償対象としており, 事故の類
型の一つとして医療事故を 「治療傷害」 と位置づけ, 治療やリハビリテーショ
ンの現物給付, 所得保障などが給付される。
治療傷害を受けた者が, 発生後カ月以内に, 制度運営主体である公的企業
体 (
) の 「事故補償法人 (
)」 に補償を請求する。 事故補償法人では, 申請受理から2カ月以内に審
査を行い, 速やかに補償の決定を行う。
補償の対象となる治療傷害とは, 治療を原因とする身体傷害, 不必要な治療
および治療の不測の結果による身体傷害とされている。 ただし, 治療傷害が被
害者の受診前の健康状態に基づく場合や, 受療および受療への同意をいたずら
に引き伸ばした結果に基づく治療傷害は対象外となっている。
補償として給付される内容は, ①治療と治療費用, ②各種のリハビリテーショ
ン, ③所得保障, の3種類である。 リハビリテーションについては, 身体・認
知リハビリテーション以外にも, 車椅子・用具の支給, ホームヘルプ, 子の保
育および付添介助, 自宅の改造, 自立訓練といった社会リハビリテーション,
職業リハビリテーションも受けられる。 所得保障については, 治療障害の程度
) 前掲, 伊藤高義, 。
) 浅井尚子 () 「ニュージーランド事故補償制度の年」
, 。
判例タイムズ
( )
に応じた補償金が休業中の所得保障として支給される。 この支給水準は本人の
賃金または最低賃金の%が上限である。 このほかにも永久的な身体機能喪失
に対する一括払補償金や死亡時の葬祭料, 遺族への一時金, 遺族への週払補償
金, 育児手当が所得保障として支給される。
この制度に対する請求件数は, ∼年度に件, ∼年度に
件, ∼
年度に件と増加傾向にある)。
ニュージーランドにおいては, 労働災害などを含めた社会保障の一環として,
損害賠償請求訴訟を回避した上で, 医療関係者の過失を問わず, 医療事故の被
害者救済制度が実現しているのである。 ただし, 最近, 補償額に満足しない患
者が, コモンロー訴訟を行っていることも報告されている)。
() スウェーデン
スウェーデンにおいても, 医療事故について医療提供者の過失責任に基づく
損害賠償という枠組みを越えた補償制度として, 年に発足した無過失患者
保険スキーム (
) という名称の
医療事故補償制度がある。
補償される要件は, 「不適切な医療によって被った, 避けられたはずの損害」
となっている。 ただし, すべての事故が補償されるのではなく, 予期・予見で
きないもの, および起こりうる可能性の非常に低い被害に限定され, 補償額は
かなり低額に抑えられている)。
) 宍戸伴久 () 「外国における医療事故補償制度―ニュージーランドと英国の
場合―」 レファレンス 平成年7月号。
) 甲斐克則 (
) 「ニュージーランドにおける医療事故と被害者の救済」 比較法
学 第巻1号 ∼。
) 伊集守直, 藤沢由和 () 「国内外における医療事故・医事紛争処理に関する
法制的研究―スウェーデンにおける無過失補償制度とその財源に関する検討―」
平成年度厚生労働省科学研究費補助金 (医療安全・医療技術評価総合研究事業)
研究協力報告書 , 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
補償される損害の種類は, ①治療行為による損害, ②一般的な疾患に合併し
た不合理に重症の損害, ③誤診による損害, ④事故による損害, ⑤感染による
損害, の5種類である)。
一方, 補償対象とならない損害は, ①軽い損害, ②重篤な状態に対しリスク
を伴う医療を行った場合, ③身体的損害の結果生じたものを除く精神的障害,
④保健医療サービスの資金の限界により生じた政策の結果による損害, の4種
類である。 ①の 「軽い損害」 に該当するか否かは, 日以上の入院, その損害
が日以上続くなどの補償基準が規定されている)。
こうした補償制度は患者保険 (
) と呼ばれる医療提供者
に加入義務のある保険制度に基づいている)。 医療事故被害者の損害は, 医療
や保健サービスを提供する広域行政体である 「ランスティング」 が引受けるこ
ととし, その責任をランスティング保険相互会社へリスク移転している。 ラン
スティング相互保険会社が被害者に給付を行う際には, 医師の過失は要件とは
ならない)。
本制度による補償に要した費用の年間平均額は, 制度開始初期の∼
年でみると, 日本円で年平均約8億円相当, 一人当たりの平均支払補償額は
万円相当, ∼年でみると, 年平均約億円相当, 一人当たりの平均支
払補償額は万円相当である )。 年の補償申請は件であり, そのう
ちの約%が実際に補償され, 補償総額は3億万クローナ, 日本円で億
円相当だが, 個別の補償額は通常2万クローナ, 日本円で万円相当に満たな
) 岡井崇, 木村武彦, 重光貞彦, 石渡勇 () 「医療事故における無過失補償制
度」 周産期医学 巻号, 。
) 前掲, 岡井崇, 木村武彦, 重光貞彦, 石渡勇, 。
) 伊集守直, 藤沢由和 () 「医療事故の予防と患者補償制度−スウェーデンに
おける制度設計の実態−」 経営と情報 第巻第1号, 。
) 千葉華月 () 「医療事故における被害者の救済―スウェーデン患者傷害法か
らの示唆」 損害賠償法の軌跡と展望 (山田卓生先生古稀記念論文集) 日本評論社,
。
) 前掲, 岡井崇, 木村武彦, 重光貞彦, 石渡勇, 。
( )
いものが多いようである)。
補償額がかなり低く抑えられている要因は, スウェーデンでは社会保障制度
が高度に整備されており, 賃金補償や生活保障, 医療や福祉に関する社会サー
ビスが公共部門によって広範に担われているため, 当該の補償制度によって補
償すべき範囲というものが相対的に限定されている点が指摘されている)。 こ
の考え方が, 前述のアメリカ合衆国におけるコラテラルソース・ルールの見直
しと同様の概念であり, 興味深いところといえよう。
また, 補償額の基準は, 不法行為における過失に基づく基準ではなく, その
事象の回避可能性に基づいていることが特徴といえる。 つまり過失があったか
ということとは別の次元で, あくまで事前に明確化しうるレベルで事象に関連
する一連の行為が回避可能であったかという点が重要となる点 ) がポイント
といえよう。 過失責任に基づく損害賠償という概念ではないため, 医療関係者
の過失を証明する必要がないことから, 多くの場合6カ月から長くとも1年で
補償の決定に結論が出ること ) も被害者救済という観点からはメリットが大
きい制度といえよう。
なお, スウェーデンにおける医療事故補償制度は, 不法行為に基づく損害賠
償請求を否定しているわけではない。 つまり請求権が競合していることとなっ
ており, この点では損害賠償請求をする道も残している。 しかしながら, 現実
には医療訴訟はきわめて少ないことが報告されている)。
() フランス
フランスにおいても, 医療事故の分野において過失責任原則の壁を乗り越え
)
)
)
)
)
前掲,
前掲,
前掲,
前掲,
前掲,
伊集守直,
伊集守直,
伊集守直,
千葉華月,
千葉華月,
藤沢由和 (), 。
藤沢由和 (), 。
藤沢由和 (), 。
。
。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
ようと努力を重ね, 年の立法により, 医師および医療機関の過失なき医療
事故の領域に損失補償の原理を導入している)。 基本的には過失責任主義を原
則とし, 医療提供者には損害賠償責任保険の加入を義務化して過失責任にもと
づく賠償資力を確保しながら, 無過失事故の補償を国家機関で行う制度を構築
した。
医療事故を専門に扱う (裁判外の紛争処理手続) 機関を設立し, この
機関が事実関係や過失の有無を鑑定し裁定を示す。 医療提供者に過失があれば,
加入義務化された民間保険会社の賠償責任保険から補償を行うこととなり, 無
過失の事故など賠償責任保険で支払ができない事案では, 新設した国立医療事
故補償公社から補償が受けられる制度となっている。 ただし申立てできる被害
は恒久的な機能障害が%以上に及ぶ場合などに限定されている。
専門機関による の中に無過失補償を組み込んでいる点が大きな特徴で
ある。
被害者補償の運営主体は, 国内各地域に設置される医療事故専門の 機
関である, 地方医療事故損害調停・補償委員会 (以下 「地方委員会」) および,
医療紛争の和解的解決と被害者補償を行う, 国立医療事故補償公社 (以下 「補
償公社」) である)。
各地方委員会における手続は, 申立て, 鑑定手続, 裁定の3段階となってお
り, 被害者が申立てを行ない, これが受理されると複数の専門家による鑑定手
続に付される。 鑑定報告書をもとに各地方委員会が裁定を行う。 裁定で判断さ
れる項目は, ①損害に関する事実関係, ②原因, ③損害の範囲, ④過失の有無
などの賠償責任の法的性質, ⑤損害の程度である。 各地方委員会の裁定に基づ
き, 過失が認定されれば, 医療提供者が加入している保険会社が賠償責任保険
) 工藤哲郎 () 「フランスにおける医事責任法の改正について」 判例タイムズ
, 。
) 我妻学 () 「フランスにおける医療紛争の新たな調停・補償制度」 法学会雑
誌 巻2号, 。
( )
に基づき賠償額の提示を行う。 無過失と認定された場合には, 補償公社が補償
額を提示する仕組みとなっている)。
医療事故の補償対象は, 一定水準以上の重度の損害に限定されており, 次の
4つのうち, 少なくとも一つを充足することが要件となっている。 ①恒久的に
重大な損害 (政令により, 機能喪失が%以上と規定) が発生しているか, 死
亡していること, ②一時的労働不能が連続して6カ月間, または1年の期間内
に失業が断続して6カ月以上におよぶこと, ③医療事故前に従事していた職業
をもはや継続できないこと, ④たとえば重大な負傷による治療のため引越しせ
ざるを得ないなど, 日常生活に重大な損害をもたらすこと, の4つである。 ③,
④については例外的にしか認められないことから, ①および②の要件が申立要
件の中核である)。
年の地方委員会での裁定件数は, 件であった。 このうち医療提供者
の過失が認められ, 保険会社での賠償となった案件は, 件で全体の
%
であった。 地方委員会で無過失事故と裁定され, 補償公社での補償となった件
数は
件で全体の
%であった。 裁定件数のうち, %にあたる
件は,
補償対象の要件を満たさないなどの理由で却下となっている)。
地方委員会による裁判外紛争処理システム () の利用は, 被害者にとっ
ては強制的なものではなく, 地方委員会の意見に不服があれば被害者は訴訟を
提起することができる。 この点で限界も認められるが, 被害者にとって有用性
が高く, わが国における医療事故被害者の救済を検討するうえで大いに参考と
なるという指摘がある)。
)
)
)
)
前掲, 我妻学, 。
前掲, 我妻学, 。
前掲, 我妻学, 。
山野嘉朗 () 「医療事故の賠償・補償と紛争処理」
賠償科学
, 。
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
4, 望ましい被害者救済策
過失の有無にかかわらず一定額を被害者へ補償するという社会保険システム
が, ニュージーランドで全面的に導入され, 基本的に従来型の損害賠償システ
ムが駆逐されることになったことは, つまりは近代私法の原則ともいえる過失
責任主義を核とする, 現在の損害賠償システムに種々の問題があるからであろ
う。 これについて加藤雅信教授は, 現行の損害賠償制度の問題点として, ①被
害救済の実効性の不十分さ, ②社会的な負の対応, ③裁判における後退減少,
④不法行為に代替する個別的救済システムの並存, ⑤賠償金一括払い原則, を
挙げている)。
人は誰でも間違える
)
ことから, 医療現場での事故の根絶は無理がある
といわねばならない。 また, 上記の加藤教授が指摘する現行の損害賠償法の問
題点に加え, 医療事故の場合は, 原告側に過失や因果関係に関する, 重い立証
義務が課せられることになる。 そのため近年では医療事故の被害者救済策を,
現在の不法行為法体系で行うことには限界があるとの指摘が様々になされてい
る。 そこでニュージーランドやスウェーデンでは年代から原則的に無過失
補償制度を導入してきており, また最近ではフランスが過失責任原則を維持し
つつも, 機能障害が%以上残るような事案について無過失補償を認めてきて
いる) 状況にある。
産科医療補償制度も, この世界的な傾向のなかで発想されたものであろう。
もともと, 「わずかな過失の有無を分岐点として損害の負担をいずれか一方に
振り分けるのではなく, 損害をできるだけ分散して負担させることが必要であ
) 加藤雅信 (
) 損害賠償から社会保障へ 三省堂, 。
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の
書籍の邦題。
) 佐藤大介 「医療事故補償制度と損害保険―諸外国制度を踏まえた考察―」 損保総
研レポート, 第号, 年3月, &
。
( )
る。 ・・・できれば医療行為に起因する全ての損害を保険する制度・・・を確
立する必要があると思う」) という損害保険を利用した無過失責任的な制度の
考え方は昭和年代から主張されているところでもある。
医療事故の根絶はできないという自明の理のもとで, 医療事故の被害者救済
を現在の損害賠償システムで対処する限りは, 被害者である患者と医療関係者
の不毛ともいえる過失の有無を巡る論争は避けられない。 医療事故の被害者が
法的行動をとった理由を問うたアンケートでは, 多い回答の順で, ①怒りを感
じたから, ②過誤を認めさせたかったから, ③納得のいく説明が欲しかったか
ら, という結果 ) となっており, これから見ると患者と医療関係者の間の信
頼関係はまったく損なわれていることが伺え, 医療関係者にとっては辛い内容
となっている。 被害者側の願いは, 原状回復, 真相究明, 反省謝罪, 再発防止,
損害賠償, の5つである ) とすれば, これを叶えるためにも産科医療補償制
度と同様な, 無過失責任制度 (いわゆるノーフォールト制度) が優れた制度で
あると考えることができる。
さらに, 損害賠償システムを採るかぎり, 無用な論争が惹起されるだけでは
なく, 長期化することから, 結果的に訴訟費用などのコストが必要以上にかか
ることになり, 被害者救済に配分される金額が少なくなるという問題点がある。
アメリカ合衆国の調査では訴訟費用などの管理費用が%を超え, 適正な資源
配分がなされていないとの指摘がある)。
なお, 最近では, 医師側からもアイデアがあり, 治療に当たり一定確率で発
生し, 現状では回避不可能な症状・事故として, 肺塞栓症, 内視鏡検査時の穿
孔, 週術期の心筋梗塞, 消化管手術における縫合不全, 診断の遅れ, 採血や点
) 四宮和夫 「判例批判 (梅毒輸血事件の判決について)」 ジュリスト号, 。
) 阿部康一 () 「医療事故被害者救済策としてのADRの可能性」 東京大学先
端科学技術研究センター卒業論文。
) 加藤良夫 () 「医療被害者の 「5つの願い」」 生命倫理と法 弘文堂,
。
) () !"
( )
医療事故の被害者救済策のあり方
滴における抹消神経障害などがあり, これらに対処するためには, 患者負担と
すべきで, 患者側が契約する疾病保険 (傷害保険的なもの) の契約によるリス
ク移転が望ましいという興味ある示唆がある)。 また, これと同様なものとし
て, イギリスで美容外科医療について, 患者側が契約できる保険 (ロイズの引
受) の存在が報道されている)。 このような保険システムは, 被害者が自ら契
約する, いわゆるファースト・パーティ型の保険ということができる。 このよ
うなファースト・パーティ型の保険の提案は, 損害賠償法の存在を前提とした
責任保険型でないことが注目されるところである。
5, 結論
産科医療補償制度は, 産婦人科の医師の危機的な実態を救うための窮余の一
策ともいえる方策であったが, 医療事故の被害者救済策に与えたインパクトは
大きなものがあるといわざるをえない。 民主党のマニフェスト政策各論 (
年) では 「妊婦, 患者, 医療者がともに安心して出産, 治療に臨めるように,
無過失補償制度を全分野に広げ, 公的制度として設立する。」 とある。 医療事
故全般について損害賠償システムを廃し, 無過失責任制度 (ノーフォールト制
度) を導入していくということであり, 社会システムの変革を伴うものである
ことから, 今後, 様々な論議がなされていくものと思われる。
その際は, 社会保障的なものか, 紛争処理的なものか, の制度組の観点, 医療
事故防止へのインセンティヴの観点, 財源の観点など, 検討すべき様々な課題
があり), 当事者のみならず社会全体で解決を模索すること) が求められよう。
本稿に記述した内容は, わが国の社会システムの変更を伴う大きなテーマと
) 自治医科大学・長谷川剛教授の年月の医療ADR連絡協議会・研究会での
意見。
) ) 山口斉昭 () 「医療事故と民事責任」 賠償科学 。
) 手嶋豊 () 「医療事故の民事責任をめぐる近時の動き」 ジュリスト
。
( )
もいえ, また学際的な分野でもある。 今後引き続き研究し, 次の論文に繋げた
いと考えている。
<この論文は, 大分大学学際研究創造セミナー (第回, 平成年1月日開
催) およびソーシャル・リスクマネジメント学会 (平成年月日) の大羽
宏一の研究発表を発展させ記述したものである。 >