第1回 - 膳所高等学校吹奏楽班 OB会

2005年10月16日(日)午後2時開演
栗東芸術文化会館措き引大ホール
膳所高校耽奏楽Ⅰ児OB会王催
膳所高l吹奏楽班OB会の記念すべき第・回演奏会が開かれるにあたって、一言ご挨拶を述べさせていただきます。そもそもの
OB会の設立の経緯は次のとおりです。私が昭和48年の更、部長および指揮者としてコンクールに臨んだ時、生徒同二1二の互いの指
楓二限界を感じ、OBで音楽の迫に進んでおられた先輩方をはじめ、卒後閑もない先輩方にも電話一本で突然ご指導をお掛いした
ところ皆さんが快くお引き受けくだきり、多数の方に来ていただくことが川東、とても助かりました。音楽のみならず、人生経験も楕んだ
先輩方と直接交わす言葉は多くの示唆に富み、人生の道しるべにもなりました。
この舘重な綽験から、H分を育てていただいたクラフへの恩返しに、そしてこの貴屯な場を素敵に保ち、後輩たちにとってますま
す意義深い素敵な場所であり続けるために、「OB会」の形で、同じ吹奏楽斑の域で青春を送った先輩方に現役の活動を支えてい
ただいたり交流できる場をぜひとも確保したいとの思いで、大先輩の人たちにも呼びかけ、昭和40年季久保憲二会長、昭利49年
季橋本也寸史事務局長にて最初のOB会が立ち上がはした。1976年たったと思います。このときの会員は吹奏楽址に在籍し卒
業したもの全員(一部、中途退班者も含む)としていました=
その頃のOB会は親睦会が主で、他に施設訪問演奏、現役の楽器購入補助などの活動を約10年近くは続けていました。しかし事
務局長が毎年引き桝がれるようになってからいつの問にか手1■i極的な活動は立ち消え、ただ事務局のみが現役の演奏会の寄付金
を渠める口重だけを細々と引き継ぎ運周していた状態でした。
長く活動停止している状況をとても残念に思い、2001年、昭和50年季井上泰介君と私でOB会再興をと呼びかけ、多くの人た
ちのご協力を得て現在の新生OB会の立ち上げとなりました。これまでの掌放生は平成17年までで450名を越え、連絡先が把握で
きない万もありましたが、何とか連絡がついて参加未明のあった方のみを会員として新たに出発しました。会員数は現在250名を越
え、今回の演奏会をきっかけにさらに増加していますこ事務局の皆さんのこ尽力によi穴ホームページの立ち上げ、メーリングリストの
開設、メールマガジンの発行、新入生の楽器貸与のシステムも整ってきており、この甲斐あって最近の卒業生は殆とが入会していた
だいています。
年代の違う人たちとの親しい会話はいろんな可能性と結びつきを生み出します。職種や宿昔を離れた人的ネットワークは大きな
珪二が)を持ち、思わぬ所で身を肋けることもあります二分け隔てなく付き合えるOB会の利点は、私自身も強く感じていました。社会に
出ていないものから見た、すでに活躍中の社会人の方たちのお請は深みと味わいがあり、本当に参考になったものです。OBと開い
たたけで、なぜか30年以上維九たノブで 全然気兼ねなしに気峰に話せました。
いまや、私のガがはるかに年の離れた大人:二なってしまいましたが、今度は逆に若い人から吸収できるエネルギーがあれば…な
とtと思ったりしております{陀所高吹奏楽斑OB会と膳所高吹奏楽班のますますの発展のために少しでも寄与できたら、そしてそれ
がひいては皆さんの人生の肯重な道しるべか、はたまた 朋の清涼剤か、あるいはせめていさというときにすがる藁の一本にでもな
ったら…なとと雑感と今後への期待をのべて筆をおきます。 (吹奏楽址OB会会長:伏木雅人)
吹奏楽址は、昭利34年の別法以来40年近い壁史を持っている。初期のことは、膳所高校八十年誌にゆずり、ここではコンクールに
参加したころからの活動について触れることにする。
筆者は昭和47年に本校に入学し、コンクールに3回出場した。その後、平成3咋に本校教諭として赴任して、班参与という形で班の
活動に関わってきた。
現在の吹奏楽址の大きな行事として、夏の吹奏楽コンクールと、年度当初または末の自主運営の演奏会の2つがある。前者は滋賢
県吹奏楽連盟の主催による大会で、関西吹奏楽コンクールの予選を兼ねている。後者は校外のホールでの演奏会である。
滋賀県吹奏楽コンクールは昭和39年に始まり、翌年休止された以外は現在まで継続されている吹奏楽界妓大の行事である。本校
は昭和46年の第7回大会から参加し見事第3位に入賞して以来、現在まで毎年出場している。
初出場にして第3位入賞の栄冠は、班員に大きな自信と喜びを与えた。次なる目標は関西大会への出場である。この時代は、審査
は順位制で1・2・3位が入賞であった。閃両大会出場枠は1位だけで、甲賀高校(現水口高校)が毎年関西大会に出場を果たして
いた。昭和49年の第10回大会から関西大会への出場枠が2位までとなり、前年に2位入賞を果たしていたため期待が持たれたが、
やはり気負いがあったのであろう、第3位で残念ながら関西大会出場は果たせなかった。劉相浦150年、ついに2位入i■ほ果たし、
念願の関両大会初出場を果たした。
ことわっておくが音楽の本質は競争ではない=コンクールの場面で、徒に闘争意欲を燃やし、勝った負けたで全てを考えるのは筋違
いである。しかし、自分達の演奏の可能性を追求し、最大限の能力を引き出した演奏を口指すのは当然のことである。
1】
昭和53年までは、コンクールの指揮者は3年生の生徒であった。関西大会出場を果たしたのもこの時代である。現在でも生徒の中
から指揮者を遠出し、学生指揮者が練習指揮をしている。昭和54年からは、指揮者として君代孝三氏が指執こあたられるようにな
った二
岩代孝三氏は昭和41年本校卒のOBで、クラリわト奏者として活躍されておられる方である。現在まで20年近く指導をしていただ
いており、長い歴史の中で、他の指揮者に代わられた時期もあるが、現在の吹奏楽班に多大の貢献をされてきた。特に昭和59年に
は関西大会で初めての金賞受賞に培いていただいた。
若代氏に限らず、OBを始めとする多くの方々が後輩達の指導にあたってくれることが、吹奏楽班の大きな財産の一つであると思う。
勿論たた他人に頼るだけでなく、班員一人一人が真剣に考えて練習し、より良い成果を得ることが大切であると思う。
残念なことは、平成2年を最後として関西大会出場から遠ざかっていることである。特に最近では少子化に伴う班員の減少が著し
い。思うように楽器編成が組めなくなってきている。今後の非常に大きな課題である。
コンクール以外のもう一つの活動の柱として演奏会が挙げられる。これは昭和59年から始まり、大津市民会館で毎年、春季休業中
に実施している。コンクールでの演奏曲は2曲だけで、時間別限がありクラシカルな選曲になるが、演奏会では行進曲やポピュラー曲
や管弦楽作品の編曲等を取り上げてきた。演奏会を3ステージに分け、毎年様々な企画を考えるようにしている。
平成7年からはマーチングにも脚)組むようになり、演奏会の3ステージの内の1つをマーチングの発表の場面としている。始めて口が
浅く、まだ満足のいくものには程遠いが、粘り強く継続してゆくことを期待している。
音楽は1つ間違うとエゴイストを産む傾向がある。演奏者各人が努力するのは勿論であるが、自分以外の演奏者をはじめ、多くの
支えている人間が周りにいて、自分達の活動が成り立っていることを決して忘れないでほしいと常々願っている。常に謙虚な気持ち
を持ち、感動を忘れないでほしい。膳所高校百同年にあたり、今後も益々発展してくれることを祈るばが)である。
以上は膳所高校百周年[平成10年]の時に鮎舌劫の歴史として百周年誌に寄せた文章であり、実際にこれを吉いたのは今から
約10年も前のことです。今回、この演奏会が企画されたのを横に、同級生の井上泰介君から続きをむくよう依蛸されました。私は平
成17年4月の人事異動で脂所高校から転出することになlはしたが、それまで14年間に渡り母校に勤務し、その全期間、吹奏楽斑
の顧問を務めていました。OB会再結成の動きに井上君と共に関わってきた経緯もあり、「14年間を振り返るのも悪くない」と思い、こ
れを引き受けることにしました。
さて、前回の文章の中で残念なこととして、「関西大会出場から遠さかっている」「班員の減少が著しい」という2点を挙げています。
嬉しいことに、2点とも現在では克服されました。関西大会は、平成13年に11年ぶりの出場を果たしました。翌年は残念ながら関西
大会には進めませんでしたが、平成15年から今年まで連続3年、関西大会に出場しています。コンクールの実績がものをいったので
しょうか、平成15年ころから、班員数が急増して、今年平成17年は百人を超えたと聞いています。
今でこそ、膳所高校で班員数最多の吹奏楽班ですが、11年振りに関西大会に出場した平成13年の斑Hは39人で、最近30年間
ほどで、投低の人数でした。当時は、「大編成は無理、小編成にすべき」と言われたことがあります。当時の班員のがんばりが現在
の大所帯を産んだと言っても過言ではないでしょう。
良いことばかりではありませんでした。せっかく取り組んだマーチングをやめ、百同年のころ、2回予選落ちを経験し、人数も減ってい
き、このころが一番きつい時期だったように記憶しています。そのような状況下の平成11年秋に、山川すみ男先生に指揮をお嘩飢−
することになり、現在に至っています。先に触れた最近の上昇傾向は、山川先生の熱心なご指執二よる賜物です。本当に感謝して
います。
人数が増え、好成紙を修めることは嬉しいのですが、これだけ大所帯になると、楽器や練習場所の確保が大変になってきます。学
校(生徒会)の予算で楽器を購入することは牡しく、大型管楽器や打楽器以外は、出来る肘)個人で恥入してもらうよう、吹奏楽斑
保護者会でお願いしています。
保護者会は私が随所高校に赴任した平成3年ころ、少し機能していたように記憶していますが、その後は開催されることもありませ
んでした。関西大会出場を機会に、平成13年から、保護者会を開催するようにしました。日常の活動の様子、会計(決算・予算)、夏
休みの練習の概要などを話し、理解と協力をお願いしています。会の中で、楽器購入のお願いをしていますが、それでも楽器の不
足や老朽化の問題があります。班費の値上げもお願いし、快くア承して頂きました。また、不足の楽器については、このOB会を適し
て、多くのOBの方から、楽器の借用や寄付を受けています。
こうかいてくると、膳所高校吹奏楽班の活動は、多くの方の熱心な援助があって成り立っていることがよくわかりますこ指揮者の山川
先生、学校の顧問の先生方、保護者の方々、OBの方々……です。今後もその良好な関係が継続することを望んでいます。
今、陪所高校は校舎改築の貢っ最中で、第1グラウンドには新校舎が姿をだんだんと顕わにしつつあります。早ければ来年の途中
から新校舎で授業が始まるようです。今後も皆様方のご支接をよろしくお闘い致します。 (前吹奏楽班顧問:岡田浩二)
2j
第1部
▲行進曲「銃声」
K.J.アルフォード
〔1960年代、応援マーチ〕
当時の吹奏楽班にとって高校野球の応援は晴れ舞台の1つでした。バンカラスタイルの応
援団と共に、Z旗の下での応援演奏のオープニングは必ずこの曲から!
▲行進曲「太陽の下に」 奥村 一
〔1971年コンクール課題曲〕
故木戸幸康さんの学生指揮で臨んだ吹奏楽コンクール、初出場で県大会3位はお見事でし
た。
▲吹奏楽のための「第1組曲」 G.ホルスト
〔1973年コンクール自由曲〕
伏木雅人さん指揮で、シャコンヌとマーチを熱演。当時の県大会は中学校の体育館等を会
場としていたのを思い出します。
▲シンフォニックバンドのための序曲 兼田 敏
〔1975年コンクール自由曲〕
県立体育館のフロアで開催された県大会。久世正則さんの指揮で関西大会初出場を果た
しました。
▲狂詩曲「スペイン」 E.シャブリエ
〔1979年コンクール自由曲〕
学生指揮から専門の先生へのバトンタノチ、初代指揮者は膳所高OBでクラリネット奏者の
若代孝三先生でした。
三上 次郎
▲シンフォ=工ツタ
〔1984年コンクール課題曲〕
関西大会にて初の金貨受賞!指揮は君代先生、自由曲はシャブリエの「ポーランドの祭」。
3】
第2部
▲この女こそは
F.イグレシアス
〔1986年第3回定期演奏会〕
大津市民会館での演奏会を始めて3年目、客演指揮に岩井直薄先生を招いての第2部、ア
ルトサックスソロ曲。
▲マーチ「ハロー!サンシャイン」 松尾 善雄
〔1987年第3回定期演奏会〕
2代目指揮者に森島洋一先生を迎えて2年日のコンクール、自由曲は大栗裕作曲「吹奏楽の
ための神話」でした。
▲キャンディード序曲 し.バーンスタイン
〔1994年コンクール自由曲〕
再び若代先生が指揮を執り、自由曲としては異色な選曲で「きっと関西へ!」との意気込みの
伝わる演奏でした。
▲ヴィリア F.レハール
〔1996年第13回定期演奏会〕
喜歌劇「メリー・ウィドウ」第2幕より、妖精ヴイリアの歌、美しく流れる旋律が印象的です。
▲あの丘をこえて
星谷 丈生
〔2001年コンクール課題曲〕
山川すみ男先生が指執こ来られて2年目、なんと11年ぶりの関西大会出場となりました。
▲アニメ・メドレー久石議作品集
森田 一浩編曲
〔2000年第17回定期演奏会〕
ミレニアムの時代の日本を代表する宮崎アニメのメドレー。ニューサウンズイン・ブラスより。
▲カーペンターズ・フォーエバー 真島 俊夫編
〔1998年第15回定期演奏会〕
膳所高校創立100周年、そして創班40周年という節目の演奏会のエンディング曲です。
4」
畠演奏者たちの早い出話l
●
コンクールに初出場のころの篭槍を書いてみます。初出場の前年.1970年の吹奏楽票(た
S49卒
しか6月)にAリードの「フェスティバルプレリュード」を膳所高が演奏したのですが、なんと奇
伏木 雅人
と準備されたのですか、事務手続きが間に合わずに出場できませんでした。翌年我々が入学
しくもその年のコンクールの高校の課題曲がまさにこの曲だったので、ぜひとも出場したい
し、罰長で指揮者のS47年率故木戸幸康さん以下、30名にも満たない人数でコンクール初出
場を遂げ3位に輝きました。その頃の熱いクラブ活動の思い出は昨日のようです。とくに、頻
肋r血でI  ̄∴;‥一三∴∴十〇▲ ∴I.●誓∴.㌦∵∴こ
ともあり、1日8ページの強者もいました。罫線を無視して大きな字で書くものもいたので逆に
私はいかに小さい文字でたくさん書くか意地になりましたね。あまりに楽しい文章ばかりでついつい2年になっても非公式バージョン
で続けて何十冊にもなりました。後になって各学年の日誌を集めて前OB会長の久保憲二さんが「はとにいほ・へろほい」でしたか、小
さな本にまとめていただいたこともあります。恥ずかしくも懐かしく熱い青春の思い出のかたまりです。
私達が人班したのはコンクール初出場で3位入賞を果たした記念すべき年の翌年でした。
S50卒
創班以来少人数ながら情熱を持って班を維持してこられた先輩方の努力が実を結び、名実と
もに“吹奏楽班’’としての新しい歴史が始まった頃のことです。後の飛躍発展を象徴するか
安富 三子
のように、23年生併せて15名にたいして私達1年生が20名もいて活気にあふれていました。
当時、オーボエプアコットバスクラバリサクなど(特殊楽器扱い日は無く、代替楽器による吹
き替えは当たり前のことでした。外部からの指導者インストラクターなどもー切なく、指揮も
肋r加〆 二㌦.∴−ご・ ̄ ̄∵、∴_ ̄.,干∴∴.一・、
思い出深いものと言えば「到王日誌」が挙げられます。日誌と言っても活動記録ではなく学年
間の交換日記のようなもので、そこには青春がいっぱい詰まっていました。猛暑の甲子園球場での野球応援、結果は9−0で惨敗でした
がこれも強く印象に残っています。そして、何と言っても班員たちの強烈な個性、先輩方は言うに及ばず、全員個性的な人ばかり、中に
は変人の域に遺しているかと思われる人達もいて、私には少し刺激的でした。
かけがえのない時を共に過ごした仲間や、それを受け継ぎ発展させていった人達とともに、世代を超えて一緒に演奏できることは、
私にとっても無上の喜びです。
S51卒
井上 一郎
蝕み〟
「関西大会“初’’出場」
多感な青春期、吹奏楽三昧で過ごせたこと、誠に幸福の極みでありました。冬寒く夏とても
暖かいあの狭く薄暗いコングノート床の視聴覚教室、当時の我々の班室として、合奏練習、話
し合い、楽器倉庫にと、まさにフル稼働でした。膳所公園での基礎練習、寒風吹く中でのロン
グトーンはあの頃だから出来たのでしょう。夏休み前になると、学校周辺の住宅をくまなく回
って、終日頼習のお詫びとご協力をお願いして回ったこと、今も構いているのでしょうか。
S51卒
横田 稔
押脚噌庇
横習環境を整えるのに苦労したあの頃、楽器を借りに各学校へ、楽譜を探しに京都や大阪
へ、学校のリヤカーと京阪電車の荷物券にはいつもお世話になりました。今となっては、テイン
パニーを京阪電車に持ち込むなど考えられないことですね。
班の運営や技術指軌はすべて生徒の自主運営、もちろん合奏指揮も同様でした。皆の知
恵を絞りつつ、議論を重ねながら、より良いものを作り上げていく中で、メンバーの結束は確実
に高まっていきました。
ユ」
軒三∃≡型≡∃主要≒妻∃蕃 ̄豆享=蛋]
そして、昭和50年のコンクール、ようやく関西大会初出場を果たすことが出来ました。課題曲「吹奏楽のための棟習曲」(小林徹作
曲)、自由曲「シンフォニックバンドのための序曲」(兼巴敏作曲)、指揮者は同学年の久世昌臥総勢37名での精一杯の演奏でした。この
時、他校のすぼらしい演奏に触れることができ、更なる向上を痛感させられたのは言うまでもありません。幸いにも本日出演の機会に
恵まれた我々2名が現在も楽器を続けられているのは、30年前のこの体繋が支えとなっていたのだと改めて感じさせられた次第です。
我々が今日在るのは「美音士会堂」のおかげです、感謝I
私の同期には、大江康浩(Hr一・指揮).木杯真(Tp〉、木塚聡明(Tp一・Eph∴長谷川宍(Eph一・Tb)、
S53卒
中嶋民男(Tu)、中野(中井)久美(CI)、野瀬(竹島)ゆかり(Prc)と私の8人が卒業まで在籍してい
佐伯 幸良
美晴(Fl)の5人もいました。顧問は、稲田先生と月原先生にして頂いていました。
ました。入学時には、長安秀隆(Tp)、広瀬喜一郎(Tu)、西村裕?(Cl)、西村久美子(Cl)、(故)清水
私の入った年から、関西大会代表に出れる様になりました。審査結果発表の時は非常に嬉
しかったのを覚えています。3年生の時には合宿(法明院)も始まりました。合宿は非常に楽
〟如W
しかったのですか、一度も風呂に入らない奴や、毎回ご飯のお代わりを競いあう奴等がいて困
ったものでした。全員で40名程度の班員数でしたが、今考えると、酒も無しに良くあんなに楽
しくやれたのか不思議です。今では全国的に有名な美富士会堂も、まだそんなに大きくなく、
量もそこそこ(せいぜい2倍)でした。
3年生のコンクールの課題曲「バーレスク」では、使う打楽器が無かったのか、ストーフの敷板みたいな物を叩いていた様な記憶があ
ります。自由曲「哀歌」冒頭の私のソロは、緊張しまくりの「びびラート」が何故か莫しいビブラートに聴こえたようです。
私は大学卒業後、埼玉に赴任したので、東京の新交響楽因に所属し、1993年には、ベルリン芸術週間に参加しました。ベルリンフィ
ルハーモニーの大ホールで演奏できたことが、今までの演奏活動中では一番嬉しかったことです。現在は、芦屋交響楽団に所属してい
ます。年2回、ザシンフォニーホールで演奏会をしていますので、機会がありましたら是非お越しください。膳所高OBでは、奥村(S60卒
Tb)所(S61卒Cl)夫妻がいます。本多(Hl卒Ob)さんの旦那(Fg)もいます。ではでは。
昔のことなのでほとんど忘れましたが、高ヰ交在籍時はユーフォ二アム(Euph)を吹いていま
S54卒
寺村 干冬
した。1年生の時に関西大会で奨励賞をもらい、物凄く悔しかったのを覚えています。そして、
それがトラウマとなり、高校卒業後も大津シンフォ二、ソクバンド(OSB)で頑張ることになった
のだと思います。当時のOSBにはそんな人が一杯いました。
今はフアコット(F9)なので、普通にアマチュアオーケストラでやっています。EuphからFg
に転向するきっかけは、秦介さんが与えてくれました。今になってとても感謝しています。でも、
叫加〝血相
もし倭が泰介さんよリEuphが上手かったら、今ごろは泰介さんの方がFgを演奏していたの
だろうと思うとちょっと残念な気もします。
今回の演奏会、僕が高校1年生の時の課題曲である「協奏的序曲」が候補になっていました。
木場先輩と1日何百回練習したかわかりません。今なら、もっと効率よく練習できるところですが、当時は何が正しくて何が間違ってい
るのかもわかりませんでした。
OB演奏会は、懐かしいことは懐かしいですが、知らない人も沢山いるので、複雑な気持ちです。でも.出演できるのは、それだけでも
幸せなんでしょうね。同学年の仲間なのに、もう20年以上会ってない人もいます。楽器を辞めてしまった人もいるし。楽しい演奏会
になるように、頑張ります。
6」
●高額入学●入学後、中学のプラスの同級生から、「プラス人らへんの?もー、トロンボーン満
S55卒 員やで」と言われて牒てて入部したら、そのとおり。
●1年生−ホルンの1年生は2人だったのですか.2人ともホルンは高校からでした。いつも初
坂田 誠 ∴■;ミモミ∴.二∴ ̄デ十二二■,=÷誉’
助川 ●㍉∵∴アヲてこ」−■■立言、∴三一.言賢一∴■
某OBの方の紹介で、現在、名フィルで活躍されているプロの方にレッスンに行くことになり
ました。平安神宮の近くのレ、ソスン場に緊張しなから行った記憶があります。
●3年生・この年から若代先生が来てくださいました。すごい刺激を受けました。当時の班ノートを見てみると、特にクラリネットの同級
生が感動しておりました。この年の自由曲は本日演奏する「工スパナ」でした。今田は思い出のこの曲の1番を吹く予定です。1番は
久々なので、体力が持つかどうかがとても心配です。
●卒業後 大学に入学したときは.また、楽器を変わるのはいやだったので、即座にオーケストラに入部しました。そして、現在は大津
シンフォニックバンドでホルンを吹いています。
高校時代の吹奏楽班での思い出といえば、3年生の時のコンクールで関西大会にでられな
S56卒
かったこと。それまで関西初出場から5年間連続出場していて、中学生のとき関西大会にでた
山田 敏男
2年のときは順調に関西に行けたのに、なぜ最後の3年の時に‥ コンクールが終わって顧問
ことかなかったので、膳所高に入れば関西に行けるとういう憧れで吹奏楽班に入りました。1,
であリ3年のクラス担任でもあった日原先生と楽器を返しに行くときに思わす泣いてしまいま
した。翌年からまた関西に連続出場となり、宅代先生や後輩諸君の頑張りに嬉しく思う反面、
肋〃∬ね〃 ≡芸芸霊芝≡≡芸霊芝誓;慧0あれから25年も鮎、改めてこうして当
1年生:課題曲「南の島から」、自由曲「ドビュッシーの夜想曲より祭」(県大会金賞)
S58卒
全国高校芸術祭で金沢で演奏したこととコンクールで県代表を惜しくも逃してしまったこ
とが思い出に残っています。1年生でしたが、すごく責任を感じました。
八田 眞範
2年生:課題曲「イリュージョン」、自由曲「ロミオとジュリエット」(関西大会銀賞)
びわこ国姐たくさんの楽器を買ってもらえましたが.終わると同時に楽器の割り当ての見
直しがあり.私のヤマハの62のアルトは、別の学校へ行ってしまいインペリアルや、倉庫の力
明細〃β 宝器;慧≡芸㌫誓覚えています○そして’この年アンサンプルで関西出場、でも
3年生:課題曲「序奏とアレグロ」、自由曲:「海の肖像」(関西大会銀賞)
伊吹山での合宿。この年は、部員数も70名を越え、AとBの両方の部門に出場しました。体力をつけようと、毎朝、近江大橋往復マラ
ソンのトレーニングがありました。指揮は、3年間若代先生。すごくエネルギッシュに指導してくださいました。週1回の楽しみは.美富
士の焼きそばとお好み焼きの異のフルコースや、かき氷の全種類シロップがけ(恐ろしい色です。)をみんなで突いていました。
7」
我々の学年の思い出は、「3年連続の関西出場」や「国体での演奏」などもありますが、なん
S59卒
と言っても、「幻に終わった定期演奏会」でしょう。ちょうど、我々が1年生の冬に、壱代先生が
北脇一智己
けで1つのコンサートを実現する楽しみを知りました。そこで、今度は是非自分たちで主催す
持ち込んで下さった企画である「バレンタインコンサート」での演奏をとおして、自分たちだ
る定期演奏会を実現しようと、2年生の秋に、第1回定期演奏会の詳細な企画を立てました。
こうした演奏会の企画をすることが初めてだったこともあり、日頃の頴習とは別に、みんなで
助摘 要誓いながら凱く企酌まとめていき、これで瀬会ができると胸をふ‘らませていたの
しかし、まさにちょうどそのころ、近所の高校の定期演奏会の打ち上げで、高校生が飲酒を
するという不祥事が発覚し、稲田先生月原先生(当時の顧問)の説得もむなしく、この企画は職員会議で否決され、庵局.この企画は幻
に終わったのでした。
翌年、一つ下の学年が中心となった第1回演奏会の企画は許可されました。今でも、その演奏会の最初で、「シンフォニア・ノビリッシ
マ」のサウンドに合わせて、椴帳が徐々に上がっていきながら.だんだんと客席が見えてくるときの光景が思い出されます。そのときの
気持ちは、「やっと演奏会ができた」といううれしさの反面、「どうして僕たちのときに、できなかったのか」という悔しさが入り交じった、
複雑な思いでした。
ちなみに.この演奏会では、「今回は特別に許可された演奏会である。今後稚続して演奏会を許可するとは限らないので、定期演奏
会と銘打つことはまかりならん」とのお達しがあり、「定期」ぬきの「演奏会」となっていました。その後も、19回まで、この伝統は続いて
いたようです。
高額から吹奏楽を始めた私の初舞台は6月の吹奏楽祭。初心者だった私は、演奏するとい
S62卒
うよりはなんとか舞台の上に乗せていただいたという感じであったが、それでも初舞台だった
安藤のりみ
次に夏のコンクール。私は控えということでBの部(小編成)に出場したが、Aの部(大編成)
のメンバーは関西大会に出場し、見事初のr金賞』を受賞11ただし、この時の反動なのか、そ
せいか、この時演奏したr工ルザの大聖堂への行列=ま大変印象に残っている。
の後の2年間は県代表になることが出来ず、結局私は1度も関西大会に出られないまま卒業。
肋〝伽f 思諾芸諾慧諾慧…霊芸が岩代先生から森島先生に代わり「心機
一転、頑張ろう日という感じだったのだが、結果は金止まりで代表ならず。コンクール後の
ミーティングで森島先生が私たちに向かって「すまんりと頭を下げられ、そんな先生の指導に応えられなかったことが余計つらかった。
話は前後するが、1年のコンクール後3年生の先輩が引退され、12年生だけの新メンバーで文化祭に出演。演奏後3年の先輩から
「よく頑張ったやん」と声をかけられ、「私達も少しは成長したんだな」と感じたことを思い出す。また、この頃から学生指揮が1学年上
のN澤先輩になったのであるが、この先輩が合奏中に発する言葉の表現が大変面白かった。今でもよく覚えているのが「みんなの演奏
はF美○士Jの溶けたかき氷みたいやな」という意味不明(?!)のもの。膳所高生にはおなじみ、そして今ではTVでもちょっとした話題
の『美〇士jであるが、この名前を耳にするたびついN澤先生を思い出してしまう私である。
凸
若手重宝≡喪≡喜妾蜃蓋声等芦原辟−]
1&2年生の時では月原村地(入学当時は津田)先生、3年生の時は山中村地先生が顧問で
Hl卒 主__..丁...∴−∴− ∴ 一∴二 ∴
本多 麻子
は浪人した」、なんて言っていたものです。
指揮は、高校2年の演奏会までは森島先生、3年生のコンクールは若代先生(S41卒Cl)で
仇如け  ̄ 十一∴LJ‥▼_一.−⊥− ∴._∴∴
ウンスでは「すらっと足も長く」と言われつつの登場でしたが、「そ■ういうけど、こんなトレ
ーナーくれよったで」と言って、<しゅっと看ていたトレーナーのすそを伸ばされました。そのトレーナーは、太ももが隠れるくらいの丈
があり、見ていたみんなで目がテンになりました。演奏会の衣装係が「FOS」になったU、演奏会パンフの某パート写頁に毎年噴水ペン
ギンのウメちゃんを入れようと言い出したりしたのはこの年代です。
原稿を書いている私は2年生からの入部のため、実質現役としての到王所属は1年半程度し
H2卒
かありません。それでもいろいろあったなあ。
福井 良太
たこと(能勢電鋳に乗って兵庫県まで行ったUもしました)が思い出されます。文化祭の演奏や
班としては、若代先生の「舞台慣わしよう」という言葉をきっかけに、いろんな機会に演奏し
膳所公園のさくら祭りでの演奏なども含めると、所属していた期間に観客を前にして確か延べ
で100曲近くをこなしたように記憶しています。あまり自覚はないのですが、そのために練習
もけっこうしていたのでしょうね。昭和天皇が亡くなったBも練習に集まったULました(学校
才わあ〟 側の判断でさすがに当日の練習は中止になりました)。
個人的には、練習が終わった後、よく何人かで学校近くのマクドナルドや美富士(大盛りで有
名?な大衆食堂。近年メディアにも取り上げられている)に遅くまで居すわったことが印象に残っています。していたことはたいてい「あ
ほトーク」でした。学校で遅くまで残ることも多かったのですが、3年生になるころに警備員のおじいちゃんが入るようになって「お前
らが帰ってくれへんかったら、わしが帰られへんやないか」と切実な叫びとともに7時には追い出されることになったのも、楽しかった
思い出です(あのじいさまにとっては実に迷惑たったのでしょうが)。
もうあれから15年ほどが経っているのですね。楽しい思い出を一緒に作ってくれた先輩、後輩、同期の仲間たち、その他いろいろな
方々にあらためて感謝いたします。
私たちが1年生の時、初めてコンクールBの郡に出場しました。経常者もいましたが、高校
H3卒
小林 加枝
入学を機に吹奏楽を始めた人や、中学の時とは違う楽器を選んだ人の方が多かったように思
います。1年生でも上手な人はAの矧こ出場し、残った20人足らずで出場しました。指揮を5
∼6年上のOBの前畑先輩に振ってもらい、一生懸命頼習し、演奏技術は未熟ながらも心のこ
もった演奏ができました。あのJバラの謝肉祭.は名演だったと思います。当時の吹奏楽班は.
各学年20人前後で男女比は11か23くらいでした。お笑い芸人並に面白い目方先輩他仲
鵬or .⊥一、−●.・∴ ∴●∴、∴∵
たかもつ3年間ちょくちょくバレーボールをしましたが、今はどうなんでしょうね。1、2年生の
ときは看代先生、3年生のときは花石先生に指導していただき、コンクールは毎年関西大会に出場だけはできました。当時も皆で言っ
ていましたが、やはり関西のレヘルには追いついてなかったナァと思います。演奏会の余興で劇をやり始めたのも1年生の時でした。1
つ上の福井良太先輩の提案でした。2年の時は揉め事が多かったですが、3年の時には落ち着き、班長の山本君、学生指揮の内藤君、フ
ロとしてご活躍中の矢巻君などを中心によく練習し、練習後も数人が遅くまでだらだらしていました。美富士にもよく行きました。今よ
り量は少なかったですし味は同じ)。楽しい学年だったと思います。
。、l
この度は、OB演奏会の開催、おめでとうございます。私はH4年卒の代で学生指揮を担当し
H4卒
ておりました今西です。近くに住んでいたら是非とも参加させて頂きたいところですが、本日
出演する小澤氏より思い出作文の依頼がありましたので、微かな記憶で恐縮ですが、遠隔奉加
今西 雅也
にて失礼します。私たちの代は、入部した頃は10名近く居たかと思いますが最終的には半分
位になっていました。
思い出は色々ありますが、花石先生と最も婦が深かったせ代でもあリノリの良さでは長い膳
伽〃血血r  ̄ ̄呈: ̄∴二二‥二二∴言二 ̄−一丁ご.−∴
祭では競馬のファンファーレもやっちゃいましたね。まあ、個人的にはノ」\澤氏と一緒に出演し
たアンサンブルコンテストでのトロンボーン4重奏「トロンボーン・ファミリー」が一番印象深いですが。
そういえば、小澤氏と普門館に全国大会を聴きに行って、「全国行くには見た目が大事日と、赤いブレザーまで作ってしまいました。
その「赤いフレザー」は、花石先生が大好きだった「火の烏」にも引っ掛けていたので、夏のコンクール自由曲に迷わす選曲。しかし、徳
栗は「焼き鳥」になっちゃって、あえなく県大会で敗退。今までで一番悔しい思い出です。でも、H4年卒一同「完全燃焼」、良い思い出に
なっています。今も膳所高で、吹奏楽に熱中されている現役の皆様を羨ましく思います。そして、本日のようなOB演奏会が開催される
事も、OBの一員として嬉しい限りです。大成功に終わることを、お祈り申し上げます。ビバ、プラパンl
く初代女班長、渾美樹手〉(現、田近)
H5卒
獅子王信江
どんな男子到王員よりも貫禄、楽器の実力、共に勝っていた人でした。(なのに美人!)
(学指揮、蛸香くん〉
どんな女子班員よりもキュートで腕力がなさそうな人でした。
〈異端児、たろう〉
バリサク吹き。ある日突然、短ラン&ぼんたんの利根に髪を脱色してプレた婆になったが、最
の如β 芸芸認諾芸芸芸芸だ吉認諾≡芸芸子、当瞑っていた私とよく衝突したけど、
〈風流人〉
フルートと読ませていました。えU、おじょ−、あや、やすこし(靖子)の四人で形成された、やんごとなき人種。
(しおじい、またはごまじい〉
8時になったら帰れ∼といいにくる守衛のおっちゃん。
(玉虫色の見解です〉
二年生のころに膳所高に赴任してきはった岡田先生の当時の口癖。今もですか?
(初心者小編成、小組曲で金賞受暮〉
うちの学年は初心者がとても多かったです。−一年生の時にその大半が初心者の状態でBの部に出て奇跡的に金賞を取りました。指揮
者だった目片先輩には相当のプレッシャーがかかっていたようです。合宿の思い出といえば、勧修寺YHで補習しまくった小組曲(Aリー
ド)くらいしか記憶に残ってません。て、いうほど大変でした。
くダルマ購入〉
澤と私と馬場さん(Bass)で関西大会出場の願いを込めるためお正月に大きなタルマを買いに行きました。その後、準備室に神棚が設置
されお札を鮎ったりしましたが、神頼みの甲斐もむなしく3年の夏は関西には出れませんでした。あのダルマはどうなったんだろう。。。
そういや、このころから吹達から裏方の仕事を頼まれなくなりましたねえ。膳所プラスの斜陽を肌で感じた学年でありました。
くリヤカーに乗ってマクドでドライブスルー?〉
当時、これがやりたくてたまらなかったのですか、結局、勇気を振り絞った人はいませんでした。ホルンパートが膳所城前の横断歩道で、
橋本<ん(H6卒)にリヤカーを引かせて、残りのみんなとペンギンの梅ちゃんがリヤカーに乗ったところまではやってのけました。証拠
写真は定演のパート紹介に。
く美暮士友の会〉
初代会長、福井良太先輩、2代目、藤井亜希子先輩、2代目、私…。そういや、合宿では超OBの福井良太先輩がお昼頃やってきては.おひ
っを抱え込んでシャモジでご飯食べては帰ってはりましたね−。
川_l
中学2年の冬、父の転勤で生まれて初めて湖国の地を題みました。土地カンもなく、どこに
H6卒
瀬戸加奈子
どんな高校があるかも知りませんでした。友人の「うちのお姉ちゃん、ゼゼコウのプラスで、毎
年関西大会いってはるで」の一言で、臥志望校を決めました。晴れて入学・入部し・お祝いに
クラリネットも買ってもらい、関西の準備は万端です。
めざせ関西大会!と、渡された自由曲は、ストラヴィンスキー丁火の烏」でした。さすが高校生1さ
すが県代表l真っ黒の楽譜にくらくらしながら、やっと書をたどれるようになった頃には、すでに
夏でした。本番中は頭の中が真っ白になってし乱、、指揮の花石先生の「火の烏」のような衣
肋血。 ∴・二■∴二∴∴ 二∴∵∴■・‘ ̄∴∴
−ルに臨みました。が、結局、私の在学中に県代表になることはありませんでした0こうして「毎年関西」を夢見た3年間が終わりました。
高校教師となり、はじめて吹奏楽部の顧問として夏の大津市民会館に生徒を引率しました0その客席で、「膳所高校県代表」の発表を
聞きました。高楓こ入学してから1特でしたeこだわっていた歳月がほくれるのを感じました0今は牒れていた「毎年関西」を現実にし
ている現役生の皆さんの頼もしさを、我が事のように嬉しく感じています○この先、母校に勤務する機会があるかどうかはわかりません
が、かつての私のような夢見る吹奏楽少年少女たちに、いつまでも漂い続けたいと思っています。
H7卒
能登 哲也
演奏者ではないのですが、思い出を書く事になりました。
Hワ卒のメンバーは個性派が揃う膳所高プラスでは珍しく(つ)大人しい学年で(実際はそ
んなこと無いのですが)、芸達者が揃う先輩方や元気爆発の後生たちにいつも圧倒されて
いたように思います。そんな中牒王長の岩名さん、学生指揮者の北山君(本日は指揮も振りま
す)を中心にまとまりのある学年でした。演奏会では1年生の時だったと思いますが、花石先生
がギターを持って歌ったのが印象的でした。曲は”Stand by me”だったと思います0合同練
習の時は窓に向かって(当時はプリンスホテルの方に指揮台がありました)歌っているのを笑
肋 ∴ ●こ ■∴_・._ 」l「・∴ ̄て∴二・二 ̄
と書かれているそうですね。「胤、の残らない演奏をしよう0結果は後からついてくる」という軋いで演奏していたので(結果はついて
きてくれませんでしたが)、この言葉が胸に突き刺さります
卒業して10年が経ちましたが、今でも飲み会などで昔話に花を咲かせ・ほのぼの・まったりの関係が続し、ています0本当にいいメンバ
ーに巡り会えたと思っています。惑乱感言乱感謝!ll
入ったころはおそらく35人ほどいた私たちの学年も、2年生の吹奏楽票後には20人をきっ
H8卒 ∴ ∴. ̄\∴...∵− ̄ ̄−‥」ご  ̄l
岡部 友子
クラまでそろった学年でした。(それでも最後には4人になっていましたが。)
1年生の定演なのか2年の定演なのか記憶がはっきりしませんが、「ティコテイコ」を演奏し
ました。指揮は花石先生。舞台袖で出る準備をして待っているときに突然先生が私に近づい
てきて、「これ、指揮台の後ろにお客さんに見えないように置いといてくれるり」とマラカスを
(伽r加gI r■∴..‥_∵∴∴1∴∴ ̄ニー. ̄
が揺れて吹けなくなっていく姿に、笑いをこらえようにもこらえきれなかったことを覚えています0
私机いた3年間、指導者は若代先生と花石先生の両先生に来ていただくことができました0キャラクターの違うお二人の先生方からた
くさんのことを学ばせていただけて、そして岩代先生にはクラリネットパートを本当によくみていただけて、とてもありがたい3年間でしたロ
H9卒
小山 徹也
付け側坤βJ
演奏会が終わり、ぽちぽち受崇のシーズンに入ろうという頃に伺名か退部することになり、
ミーティングが開かれました。みんな輪になって、退部するそれぞれの人が挨拶をしました0
私は裏切られたような気がして、ふてくされていましたが、みんなが悲しむ中、同根の池島
君が、突然、演奏会で披露した「上を向いて歩こう」を歌ったのでした0
旦
ヒ≡≡≡云享≡∃≡] 喪∃ヨ ーニ至言∃三塁三!
最後まで残ったのは∴たった10人。私たちの代はとにかく人数が少なく、コンクールも演奏
Hll卒 −∵一一一 ∴− ∵_′・∵㍉ニー∴■十、∴∴
松井 美和
欠かせなかったのはマーチンク!先輩方が始められたのですか、1年生の時に継続を希望し、
マーチンク楽器の購入を決めたのは何を隠そう私たちの学年です′<_<,)マーチンクの思い
出と言えば、膳所公園での練習。リアカーで楽器を運び、何度も注意をされながら、マークタイ
ムや動きの練習をしました。1年生秋には、後にも先にもたった1匝】の参加となるマーチンク
助r〝 フェスティバルに初出場。この時は、朝練をしたり、雨の中カッパやコミ袋をかぶったりして運
動場で練習をしたのです。2年目は程骸者もなく、すべてが一杯一杯でしたが.演奏会でのス
テージドリルは何よりも達成感と感動を味わえるものでした。
転機は2年生のコンクールで予選落ちをしてしまった後、指揮者が若代先生から竹内さんに変わったこと。私たちは最後の1年を竹
内さんのアットホームな雰囲気の中で過ごしました。竹内さんの合奏は熱く、全く付いていけない私たちでしたが、いっぱい笑わせても
らいました(<∧)最後の舞台は鳥取での全国高文案。大きな舞台で演奏する機会を与えてもらえて光栄でした(T_T)2泊3日だったの
で、みんなで花火をしたり、遊園地で遊んだUと私たちには半ば思い出作りだったのですか、今考えても本当に貴重な経撃で、幸せな学
年だなと思います。
最後になりますが、本田演奏するカーペンターズフォーエバーは2年生の演奏会で竹内さん考案の踊りも投票した思い出の一曲♪
今でも時折同窓会をしては語り合う10人のメンバー。卒業して7年、今年で25歳の私たちですが、膳所高校吹奏楽班で得たもの、出会
えた仲間たちとの友情はフォーエバーです▼
H12卒のメンバーは10人で、今回の演奏会では3人のメンバーが参加しています。私たち
H12卒
吉田 浩子
の高校時代は、班員が少なくてマーチンクを途中でやめたり、指揮者の方が代わったUと、今
振り返ると色々と変化のあった時だったと思います。卒業時に作成した文集のアンケートより、
私たちの思い出をいくつか紹介させていただきます。
一番の思い出:全国高校文化祭で、鳥取に行って演奏したこと。県外での初めての演奏、そ
して幹部交代の時期でもあり、さまざまな刺激を受けたよい機会でした。夜には近くの海で花
火をして、おもいっきりはしゃいでいたこともよく覚えています。
伽叫血〃‘ 誓書誓言. ̄ ▼‥ ニー.・.・∴∵∴_
もあり、再び演奏できるのでワウワウしています。)
富己念行事:高攻の100周年記念で、大津プリンスホテルで校歌の演奏。当時のOBOGの方々にもお手伝いをしてもらって、歴代の膳
所の校歌を5つ演奏しました。(琵琶湖ホールでは、なんと「第九」をドイツ語で歌いました(。)
定期演奏会:2年生の頃に、「だんこ3兄弟」が大ヒットし、余興として振り付けしなから、合唱をしたことが懐かしいです。また.通称「赤
プレ」(膳所のZのマークが入っている赤い色のブレザー)を着ての演奏も思い出の一つです。
最後のコンクール:「マーチグ」−ンフォレスト」と「ハンガリー狂詩曲第二番」で大会に臨みました。(桔果的には、地区予選で終わっ
てしまい、とても悔しくてみんなで大泣きした記憶があります。それでも/高嶺時代のクラブ活動のすべてが、今ではかけがえのない思
い出になっています。)
本日は、いろいろな思い出を振り返りながら、気分は高校生(<_−ト☆で、演奏したいと思います‖
H14卒
谷郷 智美
膳所高吹奏楽班の班員としての3年間で、最も印豪渓かったことは、3年生の夏に関西大会
に出場できたことです。当時班員は1年生15ノし2年生11人3年生13人、と現在とは比べも
のにはならないくらい非常に少なく、1人欠けるだけでも演奏に大きく影響が出るくらい大変
な状態でした。
夏休みは、クーラーもついていない蒸し暑い教室で、汗だくになりながら朝から練習し、毎日
課題曲と自由曲の2曲ばかりで、正直頭がおかしくなりそうでした。(笑)しかし、辛い練習の
(肋血げI 工.. ̄∴∴・∵∵㍉.−∴十二 ■
応援あってのことだと、今でも感謝しています。関西出場校発表で膳所の名前が呼ばれた瞬
間は、今でもはっきりと覚えています。関西大会では頚賞でしたが.素晴らしい舞台に立てたことは非常に責重な繹矧こなりました。
凸
毒≡垂
【 l ≡
● 一■■■▲lllllllllllll
ます、人班してすくの新入生歓迎会で、先輩たちのロから飛び出す数々の逸話にピピリまし
H15卒
柴田 祐子
た。だいぶ纏ってから嘘だと気付いた人も馴乱、引ます 0そんな迫力ある先生たちに恵ま
れて、膳所高生活は始まった。
山川先生の合奏は、毎回が頁剣勝負だった。あの緊張感、たまに飛び出す先生の冗談0楽
しくて、合奏の時間はいつもあっという間に過ぎてしわた。湖風祭・乱、体育館にたくさん
の人が聴きに来てくれたことに感動したが、ひげタンスをする先生を見て、笑いを必死にこら
α〝伽庇 え芸芸諾諾冨宣言器芸謡会。切符を手。入れた。常連と。われる学校を
見かけては蔑き・、初めてのことだらけで、興奮と緊張の連続だった。舞台袖で聞く演奏に凹みながらも励ましあい・ベストを尽くそうと意
気込んだ。
気がつけば、年生はたった9人になっていた0最後のコンクール、先輩たちがプレゼントしてくれたシード校という枠0特別演奏に相
応しい演奏をしなくては,と焦ることもあった0精一杯やった0悔しい思いもした0関西大会につなくことが出来なくて・涙を呑んだ。定
期演奏会に出る、そのことを糧に受験勉強をした。そして、戻ってきた私たちはt後輩の足を引っ張らないように、たった2週間を一生懸
命練習した。フランクを埋めるべく0けれど、演奏に加えて・タンスが待ち受けていたロえっほんまに踊んのり運動不足がこたえた0そ
して、素晴らしいタンスリーターが誕生したり、なんてこともあった0演奏会終盤・舞台で一人ずつ名前を呼ばれて立った時湧き上
がった拍手、最高の瞬間だと思った。
私たちの代が新入生として入った頃、膳所高校吹奏楽班は山川先生に振り始めていただい
H16卒
てちょうど3年巨くらいだったと乱、ます○くtんぐん力を伸ばしていた途中で・それまで関西常
松井 幸子
年でした。入りたての私には実感がつかめていませんでしたが、先輩たちの熱意にひっぼられ
連棟だった石山と甲西の指揮者の先生が変わられたこともあり瀾西出場をとても期待された
山川先生に指導していただき精一杯練習した結果、なんと11年ぶりに関西大会出場を果たし
ました。このときの感動は今でも忘れられませんDそして次の年、多くの新入生を迎え「今年も
叫如肘 了∴二■∴一言 ̄∴∴一・十㌦・:
しルプログラムは膳所一番。よほど軌嘲象を与えなければ代表になれない0もうこうなれば思いきりやるしかない11もし代表に
なれなくても胤1のない演奏をしよう、そう思って皆が一つになりました。結果・見事関西大会へ☆2年前は連れていってもらった関西、
けれど今回は自分達の手でつかんだ関西でした。もちろん山川先生をはじめ顧問の先生方・家族、仲間机いなければ達成できません
でしたが。お世話になった方々への感謝をすっと忘れずにいたいと思います0
私達が入城したときは新人班員30人に対し先輩が21人しかおられす、先輩の少なさにと
H17卒
関谷麻理絵
ても驚き、同蓋の名前を覚えるのに苦労しながらのスタートでした01年の頃は力不足を痛感
し詣揮の山川すみ男先生には怒られ通しで、コンクールや定演の樟習では辛さに泣く班員
も少なくなかったように思し、ます○しかし、大部屋で泊まった合宿、劇の衣装カツラに笑いを
堪えた近畿高文祭など楽しいこともたくさんありました0
2年生の頃は本当に成長した時期でした0吹寮での失敗をバネに、3年生のいないパートも
劇中血血血相
多い中必死に補習を重ね、念願の関西大会へ,どのパートもこの頃レッスン地獄で、特に6人と
いう少なさで頑張っていたClが「レッスン代もうない」と嘆いていました。関西大会では銀賞、
その後のアンコンでは金賞と快挙を重ね・迎えた定演はとてもやり甲斐があるものでした。曲は勿論のこと、企画係が半泣きになりなが
ら仕上げた劇「州LL」は感動的なものになり・他にも班長がトトロに粉したり小さい班員を幼稚園児役にしたり 個児のうち二人は本
日Flとして出演してますJ)多くのお客さんも動員Lt乱、出深いものになりました0
3年生では班員もさらに増え、吹祭の舞台は96人という大所帯でのることになりましたロ気合い充分で臨んだコンクールは課題曲
祈りの旅(北爪道夫)自由曲パリのスケッチ(Mエレビー)でした0この年からオーディション制になり涙を呑んで裏からの応援となった
3年生もいました。この頃、後輩たちが必死で宿題しているのに受験生の私達は喋ってばかりだったのには笑えました。そして県大会
ではきらめき&金&代表を勝ち取り、関西では金賞には及びませんでしたが感動の演奏ができ、爽やかな涙の中で引退できました。
〉13.
♂三≡惹忘一一∃主竃若草二 ㍉騒 十芋
卒業演奏として魯帰した定演では卒業式後なのに朝から登校してスライドや道貝を作ったU、マツケンサンバを踊ったUと最後にたく
さん思い出ができました。最後のステージではなんと1468人ものお客さんを動員し、立見や入って頂けない万が出たりとたくさん迷
悪もかけましたが感動のステージでした。終演後の顧問の岡白先生や指揮の山川先生の言葉、伝わってきた感動に皆が吹奏楽到王でよ
がったと懲したのでした。あれから半年、OBl年生の私達の中から本日は4人が出演します!
CONDUCTOR 中嶋 民男(S53) 北LLJ 佳史(H7)
FLUTE 宮川 和則(S50) 北LLJ 綾(H7) 澤EE]稚調子(H9) 伊藤 幸子(Hll)
村田あっさ(H12) 櫛村 理恵(H16) 白垣 桃子(H17)
080E 本多 麻子(Hl) 小林 加枝(H3) 獅子王信江(H5)
FAGOTTO 等村 千冬(S54)
CLARINET 伏木 雅人(S49) 安富 三子(S50) 安藤のりみ(S52) 山本 将史(H3)
相澤 千絵(H5) 寺村 美苗(H5) 瀬戸加奈子(H6) 岡部 友子(H8)
谷郷 智美(H14) 柴田 祐子(H15) 斉内 実(H17)
SAXOPHONE 八田 眞範(S58) 由本 明子(S63) 小野 晶子(Hl) 北LLJ 佳史(H7)
吉田 浩子(H12) 山口真裕子(Hl5) 松井 幸子(H16) 谷郷 裕美(Hl6)
佐薙 亜衣(H16) 天崎恵理子(H17)
TRUMPET
FRENCH HORN
TROMBONE
小山 徹也(H9) 池島幸太郎(H9)
岡田 浩二(S50)
竹内 順一(S56)
重森 玲子(H15)
福西 洋一(H16)
佐伯 幸良(S53)
坂田 誠(S55)
松井 美和(Hll)
菊井 否奈(H14)
横田 稔(S51)
上原 健一(S60)
上柳 真人(Hl) 小澤 明弘(H4)
北脇 知己(S59) 寺 咲子(H8)
井上 雄(H13)
EUPHONlUM
井上 泰介(S50)
園田 志帆(H12)
谷口 祐子(H14) 関谷麻理絵(H17)
BASSTUBA
井上 一郎(S51)
福井 良太(H2)
岡野 裕美(H13)
PERCUSS10N
山田 敏男(S56)
飯田 朋子(Hl)
大高 麗子(H9) 村尾 竜一(H13)
佐竹 綾(H15)
ス青戸−
木塚 聡明(S53卒)和田 智成(S55卒)山岡奈緒美(S58卒) 池田奈緒美(H4卒) 能登 哲也(H7卒)
粟井 幸子(H9卒) 猪飼 祥子(H16卒)高谷 実郁(Hl6卒) 山形 蓮(H17卒)中村麻理子(Hl7卒)
黒木 緩和(H17卒)松岡 沙織(H17卒)
141
◆校歌◆
l洩液の期 日に映えて
霊峰奇し 比良比叡
埋けく高さ 白雪に
奪えて立てる 学び舎は
われらが永久の 故郷ぞ
2速見の桜 咲く庭に
いざや毅へむ わがカ
盟ひては
矢はじ
到着して
いや固く
継ぎゆかむ
石鹿城址 松超の
の の 三 の こ
功操た理 こ
業のび盤に
響かふ窓に 書よみて
台不 星久 良
人壊霜速友
ともに啓かむ わが智徳
3
9堅塁婁乾昼砂彗㊤萎型居皆
1吹奏楽王脚こ在籍しておられた方で、まだOB会に入会されていない方は、この機会に手続きをお済ませ下さい。
20B会員の方で、住所・連絡先等の変更をされた方はお申し出下さい。
3本日の演奏会終了後、以下の通り、吹奏楽王脛OB親睦会を開催致します。ご来場の皆さんの飛び入り参加大歓迎ですl
日 時:本日この後18:00− 会場:料理旅館「魚和」(JR守山駅より徒歩5分)
参加費:一般3.000円、学生1.500円 ※以上3点、本日、当会場ロビーの受付に、お申し出頂くようお軌、致します。
連結先園zbobTOffice@yah。〇・CO・jp 田http:Nwww・SCn・tVIusedyok。ta−nlJzb。b/