測定機器を手づくりすることから始める研究。 生粋の内国産馬で

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「測定機器を手づくりすることから始める研究。
生粋の内国産馬で世界に挑みたい!」
優しげな目、美しい毛並み。細い脚、引き締まった筋肉。そして、
しなやかかつ力強い動き。競走馬たちは、年間970万人の
入場者たちの喚声に包まれて疾走し、3兆円超の売り上げを支えている。速く走ることをアイデンティティーとして生きる彼
らを科学の目で見つめながら伴走しているのが、
「JRA競走馬総合研究所」のスタッフたちだ。
Text: Arihiro Nakata
Photograph: Yukio Kubota
馬の保健から、強い馬づくりへ―
国際的に認められる日を夢みて
競走馬総合研究所は、競走馬資源の確保および競馬の公正確
保を使命として、昭和34年、競走馬保健研究所の名称で東京・世
田谷に設立された。昭和52年に現在の名称になり、平成9年、宇
都宮育成牧場閉場を機に移転。JRAの本部付属機関であり、同
列の機関に馬事公苑(東京)、競馬学校(千葉)、育成牧場(日高・
宮崎)、
トレーニングセンター(美浦・栗東)がある。
研究所は宇都宮市郊外にあり、敷地は約37万平方メートル。馬
場と牧草地に囲まれて、事務棟、研究棟、厩舎などが点在する。そ
れらを、手入れの行き届いた植栽に縁取られた通路が結んでいる。
競走馬総合研究所には、運動科学研究室、臨床医学研究室、
Nobushige Ishida
石田信繁
高橋敏之
生命科学研究室、施設研究室があり、馬の温泉を有する常磐支所
(福島県)
と、競走馬の感染症を研究する栃木支所を持つ。また、
Toshiyuki Takahashi
関連機関として、
ドーピング検査などを担う競走馬理化学研究所や、
装蹄師を養成する装蹄教育センターが本所に隣接している。
今回、応対してくださったのは、運動科学研究室の室長、石田信
繁氏と、研究主査の高橋敏之氏。まず、石田氏に研究所の役割か
らお聞きした。
「設立当初の、競走馬資源の確保と円滑な競馬の施行を図ると
いう目的は、大きく変わっていませんが、いまは事故防止と強い馬づ
くりに関する研究が中心になっています」
石田氏が入所した頃と違い、最近は海外の生産馬の輸入自由
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化が進み、門戸開放で外国産馬の出場可能レースも増えた。
「なかなか言うことを聞きませんからね。たとえば、蹄にかかる負荷
「競馬は、いい馬をセレクトする場。能力のある馬がつぎの繁殖ス
を計測する荷重加速度計を装着するのに1時間、筋電図に1時間、
テージへ行けるんです。種牡馬は多い時で200頭に種付けできる
鎮静させる場合は前後の待ち時間が1時間。合計で2〜3時間を
ので相当優秀な成績を残していないとなれないし、生まれた子供が
準備にかけて、実際の計測は5分で終わり、だったり。断線などの電
速く走らなければ、自ずと種付頭数は減少する。いちばんよく走るの
気的なトラブルも多く、同時に複数のデータを取るのは非常に難し
はサンデーサイレンスの子供達ですね。ようやく最近、内国産馬を
いんです」
父に持つ馬が活躍するようになってきましたけど、
まだまだ外国産の
計測技術が確立されていないため、その開発から取り組んでいる
種牡馬の方が上。日本のダービーを獲った馬が種牡馬になり、その
状態だと、高橋氏。荷重加速度計は構想10数年、製作5年で完成
子供が各国の3冠レースなどに臨むようになってはじめて、国際的
に至ったそうだ。
にも認められるのだと思います」
まさに、生き残りを賭けて競走馬は走っているのだ。
バイオメカニクスを駆使して
競走能力を最大限に開花させる
脚1本に700キロから1トンの力
強くて細くなければ勝てない 矛盾
海外と比べて、日本の競走馬研究のレベルはどの程度か。高橋
研 究 室自慢の荷 重 計は、蹄にはめ
氏が答えてくれた。
「まず、競馬施行団体が研究所を持っているという日本のスタイル
たあと瞬 間 接 着 剤と爪の補 強 剤を塗
自体、特殊なことなんです。海外では、獣医大学や大学の獣医学
って固定する。
トレッドミル(巨大なラン
部で研究されてますね。日本は、
レベル的に世界トップクラスだと思
ニングマシーン)を使 用する時は直 接
へい
います。海外の研究機関とは、共同研究や招聘研究などで交流が
※
測 定するが、馬 場を走らせる時は、背
あり、たとえば臨床医学は屈腱炎 の研究で英国王立大学と共同
中に乗せた送信機からデータを受ける。
研究しています」
特殊無線で1キロ程度は追えるが、全
さて、両氏が属している運動科学研究室とは、サラブレッドの競
速力で走ると断線したり、飛んでしまい、
走能力を開花させるために、
どんな飼養管理やトレーニングを行え
壊れる。加速度センサーを含めると軽
ばよいのかを、運動生理学、栄養学、行動学、心理学、
さらにはバイ
自動車1台分の費用が、一瞬のうちに
オメカニクスなどといった手法を用いてアプローチするところだ。
バイオメカニクスは、直訳すると生体力学。身体の構造や機能を
消えてしまう。昔は3キロあった荷重計
も改良を重ね、いまでは200グラムにな
った。しかし、軽量化すると強度が落ち
力学的観点から解明する学問だ。
「要するに、 動きと力の関係 ということですね。画像とフォース
※
プレート を組み合わせて関節
※
る。馬の脚とおなじだ。
そう、馬はより速く走るために、筋肉
トルク
のトルク を計算したり、
はできるだけ上へ、脚先は慣性の影響
から腱にかかる力や筋肉の発
を受けないようにできるだけ軽く、
と発
揮する力を計算したりします。
達した。腕節、飛節(ヒトの手首、足首)
動きからリズムを見たり、頭と
から先はまったく筋 肉がないのだ。走
ひせつ
飛節
かた
肩
●
腕節
●
●
わんせつ
●
ひじ
ひざ
肘 膝
脚の動きがきれいにシンクロし
行時、その華奢な脚1本に700キロか
ているかなどを解析するわけで
ら1トンの力がかかる。それに耐える強
すね」
さと軽さ、
という相反する条件をクリアしないと勝てないのだ。
●
やはり相手が大きな生き物
「犬、猫、チータ、オオカミなどと違って、馬だけが背骨を動かさずに
なだけに、苦 労も並み大 抵で
走ることができます。だからこそ人間を乗せて走るのに適しているの
はないようだ。
ですが、勝つには、強さと軽さを兼ね備えなければならない。つねに
リスクがついて回るんです」
真面目な人柄を感じさせる話し方の高橋氏の目標は、全ての馬
が無事に走れる環境を作ること。北海道大学在学時、札幌競馬場
で骨折した馬が、安楽死させられ、研究材料として大学に運ばれて
くる場面に何度も遭遇し、胸を痛めた経験が影響しているとか。
「厩務員の悲しい顔を見るのもつらいし、昨日まで見ていた馬がレ
ースから姿を消すのは私自身もつらいですからね」
新しい研究テーマへの意欲を認める環境
いずれは騎手の動きの研究にチャレンジ
馬を故障から守りたいと願う高橋氏が、情熱を込めて、素人のわ
れわれにわかりやすく研究の成果を語ってくれる。
「この荷重加速度計を使って、馬場による負担の違いも調べまし
※
ダートの方が脚にかかる力が少なく、故障には
た。芝とダート では、
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つながりにくいのですが、力が逃げるので疲れにつながるんです。ま
た、ほとんどの荷重を爪の後部で受けていることもわかりました。爪
の前部分はピークでも200キロなのに対し、後ろ部分は500〜600
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キロ。それから、馬場の特性を見る実験では、芝がいちばん滑りにく
く
(=ブレーキのかかりが早く)、ニューポリトラック(海底ケーブルの
被覆素材を砕いて混ぜた馬場)は中間で、
ダートやウッドチップは滑
りやすいということがわかりました」
傍らで頼もしげに見つめる室長の石田氏は、高橋氏への期待を
「海外の生産馬に勝つためには、遺伝子レベルで強さの秘密を解
込めて、
こう語る。
明することも必要です。その結果、能力が拮抗したときにこそ、バイ
「将来は高橋君にG I 馬のフォームを解析してテレビで解説してもら
オメカニクスが真価を発揮するんでしょうね」
いたいですね。本人はいやがってますが。レースの勝敗は別にして、
時代のトピックになる馬について、
フォームや歩幅など、バイオメカニ
生まれる前から徹底的に科学されている――。そんな背景を知っ
た上で見る競走馬の疾駆する姿は、
また一味違ったものかもしれない。
クスの視点から解説すると面白いと思うんですよ」
そんな石田氏は、管理職として忙しい毎日の中、若い人の独創的
な研究への意欲を見る時がうれしいという。
「いい結果をひとつ出すには、いくつものチャレンジが不可欠。新し
つま先の歯医者さん?
装 蹄 教 育センター
いことに取り組もうという意欲に対して基本的にはNOとは言わない
ことにしています」
そんな期待に応えるように、高橋氏は、
「まだあまり研究されていないジョッキーの動きに関心があるんです。
馬の重心とどう連動しているかも含めて調べたい」
と、目を輝かす。
馬は、独創性はないけど記憶力はいい
飼い主に似るところは、犬と同じ
実験を通して見つけた馬の特性や、馬とふれあう喜びについても
聞いてみた。石田氏は、
「馬は、独創性はないけど、記憶力はあるんです。そこをうまく使うの
が調教。反復すれば覚える。悪いことをしたときにすぐ懲罰を与えな
いといけませんね。うれしいのは、重賞レース後のドーピング検査を担
当して、素晴らしい馬体を見られること。レース結果と馬体を合わせて
見られるんですから。そして自分なりに馬体をタイプ分けして見るのが
楽しいんですよ。ネオユニヴァースは千代の富士タイプ、サクラプレ
Profile
ジデントは貴乃花タイプ(ともに全盛期の)かな、
ってね。やはり、G I
クラスの馬は心技体がそろっていて、緊張する場面でもしっかりして
つわもの
石田信繁
高橋敏之
いるのが多いですよ。強者になると、本馬場入場したときの数万人
なみあし
が発する唸るような大歓声の中、常足で歩いて行きますからね」
石田信繁
続けて、高橋氏が話す。
「確かに、
もの覚えはいいですね。特に、いやなことはよく記憶して
います。
トレッドミルに乗ると床のベルトが動いている間中、走らなけ
ればいけないのですが、だんだんスピードが上がってくると、すぐバテ
て後ろに下がってしまう馬がいるんです。測定した乳酸値をチェック
すると、本当は疲れていないなと、すぐバレるんですけど(笑)。実験
用マスクを嫌う馬は、首を必死に動かして外すことを繰り返すうちに、
ラクな外し方を覚えてしまったり。正しい測定値を得るためには、信
高橋敏之
頼できる馬を選ぶことも必要ですね。面白いのは、犬と同じで、けっ
こう飼い主に似るんです。厩務員が人なつっこいとそうなるし、
ちょっ
と荒っぽい方だと馬もそういう性格になるんです。なつく馬だと、お
手をしたり。馬事公苑には芸をするポニーもいます」
研究所での成果はトレーニングセンターや競馬場で応用される。
また、生産者や厩務員、獣医、調教師などにもシンポジウムなどの
形で伝えられる。これまでのもっとも大きな成果は、心房細動の診断・
治療を確立したこと。外国馬から学んだ調教形態やウォーミングア
ップ、
クーリングダウンも、科学的な裏づけを行って、普及させてきた。
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