恩をおもう ―慈悲のかわりめ― 副学長 三明 智彰 お待ち受け・報恩講

■宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌お待受大学報恩講講話
恩をおもう
―慈悲のかわりめ―
副学長 三明 智彰
■お待ち受け・報恩講
きょうは、宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌お待ち受けの報恩講を迎えました。
学外から、真宗大谷学園の監事の方々はじめ、近隣の多くの方々のご参加を頂いており
ます。
このたび講話を仰せつかりました三明です。きょうは本学が開学四〇周年記念事業のテ
ーマとし掲げられた「恩(めぐみ)を思う」を講題としてしばらくお話をさせていただき
ます。まず本日の法要の趣旨を確かめたいと思います。宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌お待
ち受け報恩講であります。まず宗祖とは、何でしょうか。宗は真のむね。拠り所、立脚地
のことです。その真のむねを教えてくれた偉大な師のことを宗祖というのです。その方が
親鸞聖人です。親鸞聖人は、本学の建学理念のよりどころであり、本学の教育の根幹です。
その親鸞聖人が入滅なさったのは、弘長二(一二六二)年一一月二八日であり、来年は、
七五〇年目の節目の年を迎えます。五〇年に一度の御命日の集いを御遠忌と申します。今
はその準備体制なのです。準備して待つということを待ち受けると言いますね。それで、
宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌お待ち受けと申すのであります。
真宗本廟(東本願寺)では、来年三月から五月まで宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌の法要
が行われます。その法要に、本学の四学科の代表の方四人が感話をされます。また、法要
の手伝いのボランティアに参加を予定している人もいますし、参拝する人も募る予定です。
私もまた、法話を仰せつかっております。今を逃すと次回は五〇年後です。その時私はこ
の世におりませんから、唯一無二の機会なのです。
報恩講は、親鸞聖人の御祥月の集いです。年に一度の毎年かかさず勤められている最も
大事な法要です。親鸞聖人の御命日をきっかけにして、その恩に感謝し、自己を省みる集
いです。この大谷講堂を会場にした初めての報恩講なのです。
■大谷講堂の建設の願いー出遇いー
本学は、二〇一〇年、開学四〇周年を迎えました。その記念事業として、また、宗祖親
鸞聖人七五〇回御遠忌記念事業の一貫として、この度大谷講堂を建設いたしました。宗門
関係はじめ、同窓会や多くの方々のご支援、ご協力を頂いたおかげであります。先月、一
一月二日に開学四〇周年記念式典・大谷講堂竣工式がありました。
この講堂は、御本尊を安置した礼拝施設であり、建学理念である浄土真宗の精神を公開
することを使命とする大学の中心です。毎朝の勤行を行い、御命日勤行をここで行います。
また、五月には、御遠忌記念として演劇放送フィールドのみなさんによる『愚禿釈親鸞』
の公演をここで行い、多くの方々に親鸞聖人のお心に出遇っていただきたいのです。
ただ今は、出遇いをテーマにして、四人の方の感話がありました。出遇いとは、ちょっ
と会ってすぐに忘れるようなものではありません。一生を尽くして後悔のないただ一言と
の出遇いです。そのような出遇いの場として本学が開かれることを願っております。
■恩(めぐみ)をおもう
今回の御遠忌に、真宗大谷派宗門全体のテーマとして「いま、いのちがあなたを生きて
いる」が掲げられています。この言葉を言われたものとして受け止めるなら、「いま」と
は、注意を喚起する言葉です。「いのちが……生きている」ですから、生きる主体は主語
の「いのち」です。いのちは私よりも大きい。それは、いのちの歴史を受けて今日わたし
どもは生かされているということでしょう。そのようないのちとは、何なのでしょうか。
『大無量寿経』によれば、それは、わたしになって生きている本願のことでしょう。本当
の願い、根源的願いを以て、私共は生を受けたという見方です。生まれたということは、
本元のところに深い願いを持っているということなのです。ただいたずらに生きるのでは
なく願が生きている、その現れがわたしであるということになると思います。
ふだん私どもは何が自分の本当の願いなのか分からず、目先の利害損得や好き嫌い、優
劣の比較に振り回されています。そのようにわたしを振り回すものが、ことが、願いだと
あやまって思い込んでいるのです。しかし、そんな願いは、もし、かなったとしたらすぐ
にまた、さらにもっと欲しいと願うようになるでしょう。それは願いではなく貪りである。
そのようなものではなく、真の願いが何なのか。これを問い、真の願いに気づくようには
たらきかけられている。めぐみを受けているのでしょう。
めぐみをうけていることは、当たり前のことではありません。まさしく有ることが難い。
ありがたいということです。親鸞聖人は、このことを、
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
(恩徳讃・『真宗聖典』五〇五)
と詠われました。めぐみを思い、めぐみに気づいた所から、めぐみにお礼を言いい、おこ
たえしていく歩みが人生であるということなのではないでしょうか。そのめぐみをもたら
す根源を、本願と言い、それは大悲の心からの願いだと言われるのです。
■大悲への目覚め
如来大悲の悲とは、古代インド語では「カルナー」と言い、その意味は「苦しみを共に
する」という心です。ふだん「慈悲」という熟語で用いられます。「慈」は、「マイトリ
ー(友情)」であり、「悲」は「カルナー(同悲)」です。その心は、対象的限定や、分
け隔てがないので、無縁の大悲とか大慈悲と言われるのです。『観無量寿経』というお経
に、
仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。
(『真宗聖典』一〇六)
とあります。仏の心は大慈悲である。対象を限定しない慈しみの心で衆生を受容して下さ
っているという意味です。
また、「正信偈」には
大悲無倦常照我(大悲倦きことなく、常に我を照したまう)
(『真宗聖典』二〇七)
とあります。あきることなく常に私を照らしてくださっているという意味です。
そのような大慈悲の心に目覚める契機をあらわされたお言葉をたずねたいと思います。
それは『歎異抄』第四条です。親鸞聖人の御語録です。
一、慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かな
しみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてあり
がたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、
おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とお
もうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もう
すのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
(『真宗聖典』六二八)
これは、鎌倉時代の親鸞聖人のお話しなさったお言葉ですから、試みに現代語訳をあげて
みます。
慈悲に聖道・浄土のかわりめ(変わいく目・転換点)がある。
聖道の慈悲というのは、衆生をあわれみ、かなしみ、はぐくむのである。しかしなが
ら、思い通りに助け遂げることは、極めて困難である。
浄土の慈悲というのは、念仏して、早く仏になって、大慈大悲心でもって、思い通り
に衆生を利益するのをいうべきである。
今の生において、どれほど、いとおしい、かわいそうだと思っても、おもいのように
助けることは難いので、この慈悲は始めも終りもない(尽きることがない)。*深い悲
しみを共にして、大悲が呼びかけることばが「ナムアミダブツ」そうであるから、念仏
もうすのみが、最後まで徹底した大慈悲心にておありであるべきである、と……
(試訳、三明智彰)
と。このようにおっしゃったのが、親鸞という人です。
まず、「慈悲に聖道浄土のかわりめあり」とは、慈悲について、仏教の二つの大きな流
れである聖道門と浄土門の二つを並べて優劣を比較するということではありません。慈悲
の歩みがある。転換していく目があるというのです。「ものをあわれみ、かなしみ、はぐ
くむ」という慈悲は、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」という
壁に突き当たるのです。それが大事な転換点です。
今の生において、どれほど、いとおしい、かわいそうだと思っても、おもいのように助
けることは難いので、「この慈悲始終なし」と。この慈悲は始めも終りもない。始終なし
とは、尽きることがないということです。慈悲が尽きることがないから、悲しみもつきま
せん。その深い悲しみを共感にして、大悲が呼びかけることばが「ナムアミダブツ」であ
ります。
そうであるから「ナムアミダブツ」と、念仏もうすのみが、最後まで徹底した大慈悲心
であるに違いないということです。
大慈悲のおはたらきによって生かされている。そのめぐみを思って生きられたのが私ど
もの建学の精神のよりどころである親鸞聖人なのです。
(2010年12月1日)