2012 年 2 月 6 日 一度の人生(Y) 息子として ③ 息子として両親に最も心配をかけたのは、フランスで起こした交通事故でした。 1971年の 1 月、チロル地方でのスキーの帰り道、北フランスで、スピード を出して運転していたところ、氷の路面で滑り道路わきの大木に衝突してしま いました。10本を骨折し、肩、骨盤を外し、70 針位縫い、「生きているのが 不思議」とフランス人が言う程の大事故です。 生命の危険も含めてこの知らせを聞いた両親は、大変ショックを受けました。 というのは、その数年前に次郎兄貴をヨットの遭難事故で亡くしていることも あったからです。パリまでの飛行機の中で母が神様に、 「神様、二人も持って行 かないで下さい」とお祈りしていたという話を後から聞くと、かなり親不孝者 の実感を持ちます。 一ヶ月の間、珍しく母がフランスの田舎で介助者として一緒に生活してくれ ました。右手が 4 本折れているので食事は取れないし、学生時代に 3 年間習っ たフランス語も通じません。かなりの量のフランス人のトラック運転手さんの 血が輸血されたのですが、語学には役に立ちませんでした。 一ヶ月経ってからストレッチャーで移動可能になったので、英語圏で治療す るという事になり、ロンドンに搬送してもらいました。そこでも母は介助者と して滞在してくれました。 私が、 「オックスフォードの卒業は無理だな」と病人としての弱気もあり、そ の旨を口に出すと、あの優しかった母が、 「しっかりなさい。もう一年残って頑 張りなさい」と珍しく迫力を出して言いました。 そして、その一年の延長のお陰で卒業でき、それが、外交官になろうか、国 際機関で働こうか等という自信にもつながり、今ではその一年間の延長が私の 人生を拡大してくれたと思っています。 退院後三ヶ月位は松葉杖や杖を頼りに、毎日、リュックサックを担いで図書 館に行ったり、買い物に行き、一人で寄宿舎内にある学生共有の台所で料理を して、その場で立ち食いをし、鍋や食器を洗って部屋に戻るという生活で、結 構わびしい感じでした。 しかし、両親のお陰で経済的な心配をしなくてもよい学生生活を送っていた ので、実に幸せな日々でした。 ラグビーでもかなり怪我をしたので心配をかけました。試合で脳震盪を起し た際には、試合後、友達が自宅まで同行して、説明してくれたとはいえ、私が 同じ質問を何度も繰り返すので、この子は頭がおかしくなったのではないかと 医師を呼んだという話です。しかし、これもたいしたことはないでしょう。総 じて順調に育った子どもの一人に入るのではないかと思いますが、それも私の 身勝手な評価ですので両親からは同意を貰えないかもしれません。 麻生 泰
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