Ⅱ−⑥ 寶国寺

Ⅱ−⑥
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寶国寺
歴史(由来)
天 正 年 間 ( 1 5 7 3 ∼ 9 1 ), 堪 蓮 社 大 誉 に よ り 創
建されたといわれる 。「寛文村々覚書」に ,「浄土宗当
村西方寺の末寺寺内一反歩前々除」とある。三世長益
は,近郊の農民たちの控訴の目安を引き受けたことに
より,慶長2年(1597)死刑に処せられた。この
と き 彼 は ,「 我 れ 今 , は か ら ず と も 無 実 の 難 に 逢 う て
他界せんとす。その心外いうべからず。是に依って,
没後我諸人のために無実の難を除き,且つ諸願を満足
宝国寺本堂
せしむべし」と誓った。長益の像は,本堂に祀ってあ
る。これは,白柳が安保12年(1727)のある夜,
長益の姿を夢によって感じ得て,造像したものである,
という。像は厨子に納められている。長益の徳を慕い,
祈願のために,寺への参詣者は,岐阜県下,名古屋市
とその近郊にも及び,現在も香煙の絶えることがない。
本堂内には,安永年間(1772∼81)に奉納の絵
馬や,大きな額などが数点掲
げられている。
現在の寺は,長益上人の仏像ができてから後,25
長益上人像が祀られている厨子
0年ほど前に建てられたものらしい。11月17日が
長益上人の命日であり,昭和30年頃までは前日の11
月16日には提灯飾りや出店が出ていた。何事も願い
を聞いてもらえるという御利益から,戦時は兵隊を守
る願い,戦後は商売繁盛や受験成就の願い事をする人
が多い。現在は季候の良い3月17日に大祭が行われ
ている。
長益上人の墓は,寺の敷地内ではなく西の方の平和
寿司の近くにある。長益上人が処刑されたときに一番
地が多く飛んだところであると言われている。墓石は
長益上人御墓
明治か大正につくられたものである。お堂の中に塚が
あるが後ろの壁には人々の様々な願い事を神に記した
ものが,数多く掲げられている。
また,寺の門の脇には ,「細井平洲先生生誕生の地」
の碑があるが,細井平洲先生との関わりも多い寺であ
る。細井平洲先生の家は寶国寺の目の前で,九世玄廓
和尚,十世潮巖和尚は細井平洲先生と所信の往復があ
り,書状が残っている。また大仏卓は細井平洲先生の
兄,安右衛門氏の寄進である。
平洲先生の兄寄進の大仏卓
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長益上人略縁起
長益上人は当寺(寶国寺)中興の開山にして光蓮社性誉上人長益大和尚と号し,元亀天正
時代の傑僧なり。当時はまさしく応仁の大乱百年の後を受けて世は麻の如く乱れ,大小の
群雄将星等互に兵火を交えて所謂る天下取りの功名を争えり。かの小牧,長久手の戦争も
丁度この時にて,恐ろしい戦火兵塵のために田畑は荒廃し家財は奪われ人身の不安はその
極みに達すると言うべし。しかも上司の役人は位に誇りて横暴を敢てなし万民の苦しみ挙
げて数ふべからざる惨状なりき。
かかる頃,近郊の庄屋達相集まりて当村に来たり或つ公訴の内評議を密かに開きたるも
其の目安を認むる適任者なし,依ってこれを当山に住みし給ふ時の長益上人に頼み請う。
上人は元より慈悲に深く義侠富むを以て直ちに快諾して諸人救済の心から公訴の目安を認
めて与え給ふ。その後,図らずも上司よりの公難を蒙り,近郊のこの事に関する物はよく
刑に処せられんとせし時 ,例の関係者等は自己の危機を脱れん為めに徒党を組み連判して ,
「かの目安を認めしは長益上人なれば即ち公訴の長本人なり」と無実の申出をなし,上人
を罪に陥し入れたり。
かくて遂に長益上人は義のために無実の罪を一心に受けて死罪におもむき給ふ。時に慶
長二年酉の十一月十七日なり。
当に上人,死刑に処せられんとするの時,当村甚右衛門と申す者に語り告げて曰く「我
れ 今 ,はからずとも無実の難に逢うて他界せんとす 。その心外いうべからず 。是 に 依 っ て,
没後我諸人のために無実の難を除き,且つ諸願を満足せしむべし」と誓い給ひ,遂に処せ
られるるに及び首飛んで寺中畑中へ落つ,即ち若宮一本松の処なり,ああ哀しくも勿体な
き極みなり。
されば天はただしきに与するものなれば,首を打ちしものは直ちに死し,其の徒党の長
本一家一悉く病疫を煩ひ,あまつさへ近郷一統に類を及ぼし,はほるるもの打ち続くを以
て,多くの農民等始めて迷いの夢さめ,上人の慈悲を深く謝すると共に天罰の恐ろしさを
悔い,改めておもむろに上人の遺骸を集め、塚となし信心の香華を供え供養し奉れり。こ
れより長益上人の御誓願むなしからず,仰ぎ信じて参詣するもの所願ことごとく叶ひ,殊
に無実の難をのがるる霊験あらたかに参詣する人群をなして続けり。
ざ ん き
この時,張本人の庄屋孫左衛門なるもの別して仏罰恐ろしく慚愧の念深うして遂に屋敷
を立ち退き其地を寺に寄進せり。その後,慶安二年荒尾七カ所村より今の石塔を墓地の塚
に建立す。後又八十年ほどして,享保十二年,白竜和尚の代に至り,毎夜の霊夢に現じ告
げたまわく,
「わが姿を木像に刻み当寺に安置せよ,然からば一切の結縁の衆生を化益し,現世にて
は心中の諸願を成就せしめ,福寿延命を守り,来世は必ず安穏ならしむべし」と。即ち此
の夢中の告命によりて白竜和尚は翌申年に今の御尊像を建立し,上人の御霊碑を木像の胎
内に納め奉り広く一切の諸人に参拝せしめたり。
かくて星移り,年変わること三百有余年の間,法灯は絶へず光を放ち,参拝するもの跡
をたたず化益をうける善男善女愈々繁く,慈光は日を逐ふて輝き,利益は年を積んで洪大
に趣き,参拝結縁の衆生ひとしく厄難を免れ,上人の護念を蒙るもの挙げて数ふるの遑な
し。
(以下省略
資料
当寺
長益上人略縁起)