C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icohr

発見のエッセイとしての『 ,烏と獣と 花コ
中
D. H.
西
善
弘
p レンスは , 主として,イタリアにおいて『 鳥と獣と化
年刊行 ) の力作群を書いた。 円熟して柔らかなスタイルには ,
自の詩の世界が 感じられる。 この詩集においては ,
くらはやり抜いたⅡ
完全な自由詩型であ
『
(1923
この詩人独
さきの詩編『見ょ ,ば
01917年刊行) のもつ無理ともいえ
づかいや束縛したリズムが 消えている。
』
6
張りつめた息
鳥と獣と化 』の詩編は,すべて ,
る。 この文体を巧妙に 駆使し
さわやかに詩人の 力量
が発揮された 作品となっていることは ,注目にあたいする。 そのなかで,
ヴィジ, ン ,象徴,
引楡 ,イメジャリ
一などが, 自発 りに動いてゆく発話
自
がもつ自然なリズム と混清している。 しかもこの詩編は ,高度で複雑な 輪
郭をたどる所産となっている。
p レンスの詩は ,エリオ,
トの古典的整合
と対極する不同な 性質をもつものではあ る。が,
ロレンスの毒がもつ 輝か
しい活力や熱情に 充ちた多様性が ,肉体と精神と 知性にたいする 真率な 摂
坐法にいたる 旅であることが,
ょ
ぅ
『
鳥と獣と花 』の作品を通じて ,理解でき
。 この詩集の記述的問いかけを ,代表作の軌跡のすぐれた 例のなかに,
探求し,発見してみたい。
『
鳥と獣と 花コには,総数 W8 の詩編が収められている。 それらは,均一
で等質の詩というわげではない。 また, この詩編 群は ,
さらに九つの グル
一プ に介げられている。 それぞれのグループは ,題材に従って ,逐次,
「木の実」,「
木 」,「
花 」,「福音書作者の獣」,「いきもの」,「爬虫類」,「
鳥」,
「げだもの」,そして「精霊」に分類されている。
まず,
「ざく
る 」は, ところどころに 引きつげるような
であ る。
だがいまトスカナ で
ざくろに触牙 Ⅰるときみの
両手ほほてる
美しさをもつ 詩
天理大学学報
28
そして花かんむりが 王者のょ 5 に お 5 よう に
花かんなりが
左のまゆ毛に垂れかかる
そして 照れてほいげない あ の割れ目がある
きみはどんな
割れ目もみたくないとばくにいう
つ もりか
平らな側面だけを眺めようというのか
それでもやっぱり 夕日は口をあいている
終りがぱちっと裂けて始めにつながっている
ばらいろに やさしく きらきらと 割れ目の中でかがやいて
「ざく
「木の実」連作の一 つ であ る。 「木の実」に付 げられた
る 」は,
題詞によると , ホの 実はみな女性であ
るから,それらには 種子があ る。そ
こでくだものが 割れて種子をあ らわにすると ,ばくたちは 子宮をのぞきこ
み,その秘密を 悟るのであ
る, という。 ところが,同じ 連作のもう一つの
詩 (「いちじく」
) において,あ
る 諸 行では,陽気にも
男性的な果実であ
としている。 「育っているいちじくは すぐに何かを 暗示する /
れは男の性を
おもおせる」
る
そしてそ
しかし,すぐつぎの 詩行 では,生殖の 観点、
から,女性的であ ることを認識させている。
題詞を含めて ,そうした陳述は ,直接的であ
る。 内にむかってゆっくり
変容する根源的生の 秘密が,神秘的な 交感を失った 現代の人間の 自己と
直哉に対置されているからだろう。
火の隠楡を用いつつ ,
ざくろと女性の 割れ目の呼応のすぐあ とで,夕日
の叙述がつきつげられる。 夕日は,外にむかって
判別しがたいことだが
という語法は ,
男性的であ る。拙訳 では
,原文では夕日 は複数で書かれている。 複数の太陽
しかし,不幸であ る。 ロレンスの説く 真の結婚によれば ,
情動的にただ 一つの太陽でなければならないことに
気づくはずだ。 この詩
をざくろという 聖なる秘密,大いなる 未知の世界の 表出であ るとするなら
ば,詩人は単数を 保持すべぎではなかったか。
単数を守る点は ,
「
桃 」の一片は,
p
「
嘆かれるところであ る。
桃 」という詩では ,これが実行されている。 この
レンスの詩作のなかで
全盛期の所産であ り,また主要
作 に数えられよう。 読者の注意は ,単数の桃から
逸脱することなく
いう中心的象徴にむげられる。 意味という意味は ,
,
桃
と
この永遠のくだものか
と
花山
と
獣
鳥
と
ェ
め
@
る。
出
発
て,
すべ
ら,
発見して、
29
きみろ はばくにたねを投げたいと思っているのか
さあ食らうがいい ばくの桃の残りを
血のように赤く 濃色
どのようにしてできたのかだれも
知らない
あ げひろげられただれかの
肉の一 ポンド
秘密をたたみこんで
接を ょせ
そしてその秘密を
守ろ うと 固く決意した巌
どうして銀白の桃の花から
小枝に咲くあわい銀色の葡萄酒の
杯から
ころころころがり は とんと滴る この重たいつぶらな
球ができるのか
ば くは もちろん 食べる前に桃のことを
居、っているのだ
どうしてこんなに
滑らかで肉感的にどっしりしているのだろう
たろ
どうしてこんなにつりあ
れない重みでぶらさがっているの
どうしてこう で こ ばこがあるのたろ
どうしてみぞ があるのたろ
う
う
う
どうして二葉の
弁をもち ふくらんでかわいいのたろ
う
どうして球面がさざ・
波立っているのた ろ
う
どうしてほんのり
割れ目があるのだろう
どうしてばくの
桃は玉突きの玉のようにまるく完結してはいなかったのか
人が造ればきっとそうなったことだろう
でももう食べてしまったから
同じさ
だがばくの桃は
玉突きの玉のようにさるく
完結してはいなかった
そしてばくがそういうからといって きみろ はばくに何か投げようとする
さあ この桃のたねを
食らうがいい
この詩を一読して 驚かされることは ,開始の詩打 と終結の詩行 のもつ皮
内 なユーモアが , この詩に統一性を 添えている点であ
ろう。 裸にされては
いるが,実を 結ぶたね,桃の 花,熟した木の 実,豊彦と繁殖力の 秘密 と再
天理大学学報
30
生の約束を含んだ 箱船としてのくだもの。 それらの構造のうちに ,詩人は,
始まりのなかに 終りがあ る, と指摘する。 すなわち,桃のいのちと 人間存
在の内奥の循環を ,
p レンスはたどるのだ。 それら循環の 終りと始まりが ,
作者が繊細に 描写した足跡であ
る。詩人Fこ たねを投げる よう呼びかけた一
行田 は,姦通した女の 話を脚色している
よ
うにも考えられる。 桃は,たし
かに,象徴であ る。が,たんに女性そのものを 表わすものではない。 桃の
アイデンティティというものを ,詩人はこの 詩で完全に溶け 込ませている。
「創世記」において, 女と 禁断の木の実 は別人の存在であ った。 しかし,
「
桃 」においては
,それらは一つの
実在に昇華されている。
まさにこの詩を 通して,実際の 桃は,肉感的な 実体となるのだ。 桃はこ
れまで食用に 供されてきたという 事実にもかかわらず ,桃がいまそこに 実
在することが 絶えず喚起されている。 桃の形状や芳香は ,
この詩にみなぎ
っている。 が,それらが 完結されるということはないのだ。 桃の生命循環
は,
決して終らないということ ,
この完全な創造的な 珠が完成されること
はあ りえないということ。 そういう示唆が ,
ジ ,イムズ・ ジ ,イス流に多
重の地口やしゃ 九の表現をともなって , 行 なわれている。 一方,滑らかな
仕上げをされた 玉突きの玉は ,初めから死んだいのちしかない。 桃と 玉突
きの玉 とは,すなわち ,有機的創造作用と 機械的完成を 暗に含んでいる。
両者を対応させる 形で,形式自りな
韻律学上の制限からはなれて ,
語的 発話手段を駆使することによって ,
れを正当化する。 その必要のために ,
形式が採用された。 多少,
血のように赤く
口
また, 口
ロレンスは自己解放を 成就 し ,そ
この詩ではもっとも 合致する自然な
ぎたない下品な 言葉が,敬虔に 使用された。
濃色, という内 なる言葉は,遠出法的含蓄をともなうが ,
ここで快活なる 肉欲を見落としてはならないだろう。 割れた 桃 ,傷ついた
側面などの迂言 法表現は, み だらにも好色性を 誇示しているようであ
ビロー
ド
る。
のように 手 ざわりのよい 桃の形状と,女性らしいみぞや 丸みとを
統合し,合一させて ,その結果,各人の
実在と本質を 他方に包含させた。
すなわち,桃を 食べることが ,真の生 (性 ) なる聖餐を受けること
ヤこ
なる
のだ。
どのようにしてできたのかだれも 知らない, という一行は ,容易に信じ
られない未知の 暗黒の内容であ ると同時に,事実に 関する遠慮のない 陳述
発見のエッセイとしての『
,鳥と獣と
31
花コ
として読まれなければなるまい。 そのつぎの諸行における 肉の 一 ポンド云
々は ,
F ヴェニスの商人ロへの 言及であ り,アダムの 肋骨を思い合わせる
であ ろう。 f'F
者は,復讐的悪意をもったシャイロック
照、 させている。 聖体礼儀上の ,あけひろげられた ,
と
,創造上の神を 対
という言葉によって ,
いかなる形式の 創造性も,観俳的日常的な 自我を生きるのではなく , 自発
的な内部の真実のうちに 生きる, ということが 要求されよう。 その諸行 は,
また,性的衝動によって ,
自己実現の成就を 希求していることにほかなら
ない, ということを 実は意味しているのだ。 換言すれば,それは ,元来そ
うであ った二者の再結合, あ るいは,再び 一つの 肉 となるかもしれない 両
者の再会への 願いでもあ
る。
原初的な両性の 結合への希求は ,
「ぶどう」という詩の中でも如実に 語
られている。
むかしむかし そう
ずっとむかし
ばらが誇らしく作り笑いをはじめるよりも
前
あ らゆるばらのばら 世の中のすべてのもののばらが
芽を吹くよりも前
さだまらぬ海 と風の中から
氷河が一団となって
集められるよりも
前
あ るいはそれらがノアの
洪水の中で 再度押し流されるよりも
前のころか
っ たのだ ほのぐらく 花のない まきひ げの世界
そしていきものはみずかきをもち
沼地に住み
そして端っこで 人間はよれよわしい
足をして清純だった
この世界の中で ぶどうの水は 目に見えないばらだった
ほなびらがひろがらず 色彩がしずげさを破らず
目がおおくのものを
見すぎなかったころ
青くぬらぬらして みずかきをもち ことばに表れせず
歌のない世界で
ぶど の木はあらゆるばらのばらだった
う
け しの花もカーネーシ
, ン もなく
水っぱく弱弱しい 青ざめたゆりもほとんどなかった
青く
おぐらい かくれたところに
ぶど 9 の木が生い茂って
王者のよ 5 に身をふるわせていた
天理大学学報
32
ロレンスは,イェー ツ が叙述する世の 中のすべてのもののばらのもつ 偽
善を拒絶する。 香りのしない 去勢された花によって ,啓示されるものはな
にもないという。 p レンスは, 目に見えない 全能の神の手によるところの ,
目に見える活動を 見越して描写する。 その手は進化の 過程にあ ずかり,そ
こでは,かつて
いた。 ぶ ど
う
,神人も黒い 肌をもち,ヘブライ 人の神話を支配さえして
の花には, 目に見えない 創造力があ る。浅黒いぶど
ら圧搾されるぶど
う
う
の房か
酒は,夢を呼び 起こす。 その夢は,ばくたちを 大洪水
以前の別の世界にむかわせる。
認識の奥にあ るたましいの 回復,小暗い 生
殖力の秘密こそ ,ぶど う 酒の遺言であ る。ぶ ど
う
酒をすすることで ,ばく
たちは,たそがれのときに ,王者のごとき 創造的存在となる 入口,大洪水
以前の世界の 出発点へと取りつがれる。 たくみに足をとられ
,恐ろしいほ
ど動揺をきたせられるが ,ばくたちほ黄金時代の呪文にさそわれる。
そう
した英知とは ,非観念的な 生き方への沈潜,非精神生活への 没入, という
ことを意味するのだ。 新しい人間世界の 約束としての 虹が現出するのは ,
腐敗した角質のおおいをぬ
ぎ
すてた洪水の 後であ ろう。
かつては人間もこの 別の世界で , 新しい生命を 花開かせていた。
連作の一編「あ めんどうの花」では ,
この理念の連想が ,
「
化
」
とりわけ,示唆
的であ る。
血 のしずくを流しながら
長い夜のゲッセマネをとおり
は げてゆく
花の中に 誇りの中に はち蜜の勝利の中に いちばん
すばらしいかがやきの
中に
ああ
化 とひらいたいのちの
木をばくにあたえたまえ
そして何ものにもまさっておそれを
知らぬ花を咲かせる「十字架」を
この詩集中もっともすぐれた 詩の一つであ る「あ のんどりの花」では ,
いのちの 水 と十字架が,全く 同一のものであ る。 この詩人にとっては ,春
のあ めんど
う
の木も,いのちの 木も,十字架も ,
ともに,積極的な 生命力
をもつょり大きなたましいにしたがい ,その存在を 花開かせる奇跡の 対象
であ ろう。 また, より直楡 的には,好色上の 男根を象徴するものであ り,
ひいては「 出 エジプト 記 」の故事をもじったアロンの 杖や ,北欧の神話に
出てくるト キ、 リコの大木, イ グドラシルと 関係があ ることを暗示している。
発見のエッセイとしての[,鳥と獣と花山
33
このあ めんどうの木の 中で具体化された 不滅のシンボルは , 善 なる 悪 ,
ま
たは,生命それ 自体の悪なる 神秘についての 批判にむげて ,詩人にとって ,
重要な意味をもつものであ る。 この二律背反する 逆理を,
「
化 」連作の中
心的主題ともいえる ,新しい生命の 回復,神秘な 復活の問題として ,詩人
ほ見つめている。
つづいて,エデンの 楽園を舞台設定に 据えた「 シ シリ一のシクラメン」
の主題もまた ,絶え間のない 再生であ
る。
男がひたいからもじゃもじゃした
黒い髪をはらいのげたとぎ
女がほつれ毛をひとみからかきあ
げ それを しろで
ぅ
力
a1 じってゆねえたとき
一 あ あ おそろしいふてぶてしい行為 よ
ひたいがむきだしになり 天に伺ってさらけだされ
ひとみがあらわになったことを
二人が感じたとき
天の光がナイフのようにその
血防備のひとみに躍り入ることを
二人が感じたとき
そして海をやいばのようにその
顔に感じ
地中海の野蛮人の2 9 であったとき
二人がみそらのもと 自分自身の髪の
毛深い下生えから
顔をあらわにして あ らわれでたとき
はじめて二人はその
め しのの びのあいだに小さなばらいるの
シクラメンを
見た
そこにはのっそりしたひきがえるが
過去を抱いてすわっていた
彼明げのばらいろ
ほのかなょ ろこび 石が生みだした
シクラメソ
若いシクラメンが
身をそらして
めざめながら 耳をそぱだて
敏感な とても若いグレーハウンドの
北天のようだ
目の前のまだ
経験されない
日の展望をみてあくびしかけ
しずかなはなび らの耳をまた
伏せる
この詩の単語や 語句の実験的な 選択は,技術的に 賞讃すべぎであ る。た
とえば,はじめて ,
という語句は ,あらわれでた, と,見た,という動詞
天理大学学報
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を結ぶ二重の機能を ,単独行為の 中の二人の役割として
この諸 行 は,あわせて,原罪発生行為の
,演出している。
統合的部分を 形成している。
また,
しずかな, という言葉は ,新しい世界の 中での始原の 沈黙,ひいてば 花弁
のついた陰門が 無言のうちに 開くことを暗示した
花の巧妙な様子を 表して
経験されない ,
いる。 この単語は,また ,二行双の,まだ
という言葉を 補
強している。
この詩の冒頭箇所は ,『聖書』,ならびに進化論上の神話を
ひとみから,あ
るいは,ひたいから
想起させる。
,髪の毛をはらいのげることは
,感覚
的,知性的な 行為であ る。その行為は,知恵の 木から禁断の 実を奪い取る
進化論的冒険と 同意義であ
は ,そう林からの
る。 この男女が毛深い 下生えから出現すること
脱出を暗示する 意味から,楽園追放のあ の故事が思い 出
されよう。 下生えや髪の 毛についての 想像が融合されるところで
,大胆に
も男女は知性的,肉体的な 罪の行為を犯す。 その行為によってはじめて ,
自分自身と置かれている 環境を認識する。 そして目に見えない 神にたいし
て自分をさらしていることを 発見する。 二人は,楽園の 門を守っている 燃
えるような剣に 等しいものに 向かい合わせられる。
そのと ぎうつむくと,
あ しののび のところにシクラメンがほえているのを
見て,慰められ ,鼓舞
される。 その場所に,水陸両棲のい き もの,ひきがえるが ,
らわれることをき己憶 していて,聖霊としての
に続く請待をさらに
この男女があ
生成白9 任務を代行する。 それ
注目してみたい。
そして青白い 海に漂白された地中海の石の斜面をのばる
ばらいろのシクラメン われを忘れた先駆者よ
シクラメンが 赤いはなづらのシクラメンが
野兎のかたまりのように
小さなかたまりとなって
はなづらをつきるわせ 耳をそばだて
呪文をつぶやく
とある泉の 夜あげの泉のそばの女たちのよ9 だ
ギリシア そして世界の朝
そこでは パルテノンの大理石がまだシクラメンの
根を
そ だてていた
すみれだ
異教の ばらいろのはなづらしたすみれ
だ
発見のエッセイとしての『
,鳥と獣と
花山
秋の
夜明けのももいる
夜明けの青白さ
ずくまったひきがえるのような
ぱなびらが散り敷くなかに
う
まだ生れていなかったのだ
ェ レクタイオ
ソ の大理石は
時間から言えば ,表向きは夜明けのことについて 書きながら,作者は ,
シクラメ ソ
が,われを忘れた 先駆者, として早春になお 花咲く意を含ませ
ている。 春がもつ 豊 飴の不可思議,生殖力や 多産という伝統白9 象徴の光が
ほのかに見える。 シクラメンは ,のちにはい あがって花を開かせるが ,
まだ眠りについたまま 待たせていた 大地からのばりつっあ
い
る。それは,新
しい文明の完全な 花なのだ。 アテネのパルテノン 神殿と ェ レクタイオ ソ 神
殿の大理石は ,かつて,シクラメンの
根をそだてていた。 それらは,現在,
威厳あ る廃嫡と化している。 しかし花や人間ば ,そこに生き 続 け,間断な
く活力を再生させ ,生気を復活させ ,花を咲かせている。
シクラメンは ,
いまだその当時のままの 真正 牲 をとどめている。 その詩の中の 音 や リズム
は,なめらかに 上昇する展開を 模倣している。 ば くたちは, シクラメンを
希望の春,創造の 中心的シンボルとして 見失うべきで 忙ない。 そのまわり
芸術を通
には,一連の 拡大した 明楡群 がちりばめられ ,そこでは,性愛や
じて達成される 人間の再生,気を 引き立たせる 創造の喜びが 予想される。
神性をもって 合一を求めることは ,完全に自然な 営みであ る。人間の動
物的衝動も,それと 同じであ る。 ここでい 動物的衝動とは ,たとえば,
う
消化,排便,睡眠,または
生殖などをさす。 真なる人間の 性質とは,動物
であ るという意味であ る。形式的なかたくるしい 精神性は,衣服のように ,
外面上のことであ り,本当の意味で 人間実在の一部を 構成しているもので
はない。 鳥や獣がこ
う
もりとともに 集まるように , 神 (性 ) と動物 (性 )
は,人間のうちに 集まる。 肉体が否定されなければ ,それだけで 精神は栄
えることができる。 精神の悦 惚 たる飛翔のあ とで,人間はその 生命を真に
おのれのものとすることができる。
「
「いきもの」連作中の「こ
う
もり」と
人 とこうもり」という 二つの詩は,人間と 動物のもう一つの 出会いを述
べたものであ る。部屋のまわりの 光がつきめげているあ たりで,下界の 密
天理大学学報
36
使 としてのこ
う
もりは,暗闇を 放つ暗い 炎 となる。 頭韻をふんだ ,
ソス の疲れた
示が窺える。
フロレ
という表現には ,精力の尽きた 美の視覚的,聴覚的 暗
「
人 とこうもり」にみられる 甲高いヒステリ 一の発作をおこ
したり, また, こ
う
もりをいまわしく 思い嫌悪する 作者ではあ るが,にも
かかわらず, この動物を殺す 気にはなれない。 むしろ交感的な 態度をほの
めかせる。 この詩を締めくくる 詩行は ,
が
こうもりによって ,
のっ ぱ で声の大きな 野郎がすわっている
だ……
/
おれはやつの 手をのがれたんだ……
(ほらあ いつ
/ だがおれはやつより 偉いん
) と語られている。 こうもり
に最後の言葉を 言わせている 点は,ある種のユーモアが 窺える。 p レンス
は,物理的な 経験を述べるのではなく ,精神的体験を 瑚 笑 をまじえて描
き
たかったのだろう。 換言すれば,専横にも 低次のいきものと 呼ばれている
ものを,創造の 世界からたえず 追放しようと 躍起になっている , 自称,聖
者たちの発作的な 闘争とその体験をど @5しても書き記しておきたかった。
これら二つの 詩について言えば ,詩人としてそうあ りたい自己と ,人間
教育を, 明白に,区別しようとする 傾斜がみられる。 この問題は,つぎの
「
蛇 」というあ の傑作につながる 伏線ともいえよう。
「
蛇 」は, ロレンスの詩のなかでもっとも 頻繁 セこアソ ソロ ジ 一に収めら
れる毛詩の一編であ る。 この詩が評判が よい理由は,それが ,動物にたい
して善良たれ ,
という童心の 詩であ ると考えられる ,純真な選択による れ
ざであ ろう。 抑制のあ る柔軟性や, 詩行 のなかの視覚的,聴覚的媒体とし
ての本能的な 技法は, この毒がイギリス 詩のひとつの 極北を示すのに 役立
っている。
「
蛇 」では,比較的,繊 密な象徴主義は ,その影を潜めている。
もっとも, 蛇ヰこ たいする愛情に 引き込まれ,無意識に 蛇を賛美すると ぎ ,
みずから引き 起こした罪と 暗 いを解かれる ,あのコーリッジの 水夫の教訓
は 思い合わせられる。 また,エデンの 楽園の主題に 関する ダブ
ソは,
「
り
エーシ 。
蛇」では, ホ , 蛇, 泉 という言及のなかで 認めることが 容易にで
きる。
焦 ぐるとしたいなごまめの
大樹の 深い不思議に匂 う木 かげに
私は水差しをかかえて石段をおりてきたが
だが 待たねばならなかった 立ちづくし待たねばならなかった
水鉢のところにあれが一足先にいたからだ
発見のエッセイとしての下島 と獣と花コ
37
詩人は,象徴的な 出来事として 蛇に遭遇する。 水鉢 のところで水差しを
もちながらたたずんでいる。 明白にも単純なイメージだが ,遠慮がちにも
『聖書コ上の引楡 がみ
ぅ
げられる。 「創世記」のりべ力と イサク, 「田ヱ
ジプト 記 」の ラケルと ヤコブ, 「ヨハネによ る福音書」の イヱスと サマリ
アの女のエピソードは ,
これと類似した 道具立てであ る。深い, という単
詰 は, 調密 とか,だんだん 下へおりて行く 深みを暗示する。 そして,不思
議に匂う, という複合語が ,大樹よりむしろ 木 かげを制限していることは ,
木 かげに 輝 げる日光を触れさせる 雰囲気を助長している。 石段をおりて 行
くことは,オルフ ,ウス的 降下に続いて ,
プルート一の 冥界の領域を 受け
入れることであ り,それは,『最後の詩集』 (1932年刊行) に収載された
「バヴァリアのり ソ ドウ」の体 .験を先回りしたことになる。
しかし突然 穴にはいらないでいた
体が ぶざまに慌ておののき
稲妻のようにのたうち
壁の表面の暗い穴の中へ 大地の塵のような
裂け目の中へと
消えていった
ぱくはまったくの
静寂の真昼のなかに 魅せられたように
見つめていた
詩人は, 自分の受けた 教育に忠実であ ろうとする。 そのために,倫理的
拘束力をもつ 慣習,あるいは,理性や 宗教に基づいた 自然法則を欺いて ,
蛇 にたいしてとりなすすべを 誤る。 蛇がその背中をねじった 時に,教育の
声はやくざ犬のように 蛇を攻撃する よう ささやいた。
蛇に 棒 きれをなげることは ,
のら か を永続させる。 のら か は,超自然の
わざわ い ではない。 そ 九は,ただ,ぼくたちの
受けた, のろわれた人間の
教育の結果にすぎない。 そのために,生命の 男根的局面にたいする 地下の
存在が否定される。
「
蛇 」ではこの点が ,説教によるよりも ,むしろ,そ
の行為様式を 通じて述べられている。 読者は,暗黙のうちにそのなかに 包
コントラストが
括されてゆく。 ゆったりした 優美さと,発狂したような 性急さのあ いだの
繰り返されるなかで ,結局,蛇の
姿は消えてしま @
トつ
前述の引用文に 含まれる音節は , 速やかに連続しながら 相互に続いてい
る。断音的技巧によって
,綿密に, 昔がどれも消されていく。 比較的長い
天理大学学報
38
単語は,流動性,変移性という
揺り動かされる 印象を読者に 与える。 その
効果のために ,全体にわたる 印象は,激しい 漣がたつようなひとつの 運動
となる。 いなずまに似た ,蛇ののたうつ 様相は,擬声語を 駆使して,非常
れこ効果的に
視覚的実体を 再成せしめる。 いなずまの動 き忙,敏速であると
同時に蛇のようであ ることが認められる。 最後のけいれんを 起こす閃光と
とも 蛇が消え去ると ,そのつぎには 落雷を待つようなまったき 静寂がも
とこ
たらされる。 詩人ば怒れる 静寂のなかで ,
と
このうえもなく 空虚な壁をじっ
見つめたまま 自失する。 光 と熱が打ち倒され , 流窟てのヨ
% よ ,大地なる 子
ざん
宮の中へと消え 果てる。 教育は創造性を 攻撃し,追放してしまった。
ファ
ルスはこの地上にはなく ,激怒のうちに 地中に埋められた。 人間の受けた
教育のために , この地上での 暗い神の臨 在 であ る蛇の神聖を ,苛酷な陳腐
さでもって,著しく 汚してしまったことを ,詩人は嘆くのであ る。
新しく胎化した 他出動物であ る「亀の赤ちやん」から ,
「亀は叫ぶ」に
いたる一連の 亀を題材にした 詩は ,人間に関するもう 一つのエッセイであ
ることを知らされる。
頭 と胸は婦人,胴はライオン ,翼はワシをした 怪物,スピンクスが 旅行
者になぞをかけて 正しく解答できない 者を殺してしまった。 オイディプス
が,それは人間だ ,
と正しく答えを 出したとき,スピンクスは 自殺したと
いら。 「亀の赤ちやん」では ,子供と亀が, このスピソクス のなぞという
点から,同等視されている。
また, うさぎと亀の 例の T イソ, プ 物語コヘ
の言及と関連して
,古代神話の 英雄と比較もなされている。
挑戦者 よ
小さなユ リシーズ 先駆者
ばくの親指の爪は どもない奴
元気で行きたまえ!
生命あるもののすべてを
肩にのせて
行け
小さなタイタン お前の戦いの楯に身をひそめて
孤独という意識もない
孤独な奴
だから六倍も孤独だ
記憶できぬ歳月をのめるよ に進んでゆく
う
ゆっくりとした
情熱で満たされて
発見のエッセイとしての干鳥 と獣と花山
39
お前の小さな丸い家は混沌のまっただ
中にある
亀の甲羅は,船になる。
赤 ちやんは,悪意にみちた 神に攻め悩まされる
ユ リシーズとなる 0 と同時に,遊牧生活を 送る天幕露営者を 示唆している。
詩人は , 亀の言葉を使って ,進歩も なく,存在の 重荷からの救済もな
目的地もない 探検的な巡礼の 旅として人生を 描写している。 流動する印象
主義的な言葉によって ,親指の爪ほどもない 亀の赤ちやんを ,ユリシーズ
とその船の着想を 補強しつつ,保護の 対象から,人間存在の 象徴へと変化
させている。
「げだもの」連作中の「 象 」では, セイ ロソ島のカンディで ,
・
プリンス
オヴ ・ウェイルズに 敬意を表して 行なわれた ぺラ へうの行列が 題材とな
っている。
白人の大公は ,あまりに疲労し 卑屈になりすぎている。 魂の抜
げた青白い大公の 運命とオーバーラ " プ される大英帝国については ,最後
の審判の運命が 定められている。 白い人種がひとたび 指導力に懸俳の 色を
浮かべれば,暗い 人種がたちまち 攻撃に出て ,
白い人間を打倒する。 1947
年以来,インドそのほかの 大英帝国の支配下にあ る地域で勃発している 事
件を想起されたい。 この詩の予言が ,正確な予言であ ることを認めなけれ
ばならないだろう。 この点が, 詩 として作られてしかるべき 材料であ るか
どうか, ということは ,疑問の余地があ
るものの,詩人が 抜け目のない 政
治的オブザーバ 一であ ったことは確かであ
る。
オーストラリアの「カンガルー」では ,意味の深み, というよりむしろ ,
詩 としての魅力を 読みとれる。 この詩の最高の 部分は , 大いなる女性性を
一瞥できることであ
る。 この一片の詩には ,中心的な構成も
発するイメージといったものも 欠落している。
,思想的E 挑
しかし遂語的なこの肖像画
は, 巧みな技巧をもって 完成されている。 諸行 は,正確にも記述的であ る。
優雅なカンガル一の母親
兎のように体をおこすが
巨大なおもりがつげられている
それからその美しいほっそりした
顔をあげる おお !
優美な輪郭
家兎の顔よりも野兎の親よりもずっとずっと
その顔をあげて好物の白いはっ
かド p ップ をかじる
繊細なカンガル一の母親
天理大学学報
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彼女の締りのない小さな手
ヴィクトリア
朝風の
だらりと下った肩
それから膜下のどっしりした重量 黄色い手を外にたれさげている
ちっちやい
仔 どもをかかえた
方大な青白い腹
リボンのような
細長い耳が一つぴょこんと
現われる
腹のまん中につげられた
奇妙な飾りのよ5 だ
細いちっぱけなぶらさがった
一木の手
それにちっちゃな
片方の耳
哀れみ深い洞察の 表現がちりばめられていて
,一読することで 気分が新
たになる。 人 と動物の関係, とくにかわいらしい 母親が焦点に 集められる。
それは,審美主義からそれた 感覚かもしれない。 詩人の注目は ,効果的E
ヵソ ガルーそのものから 離れていく。 一度注意がそらされると
,その関心
は母親から人問 へ ,それから子供へと 移る。 動物とは生ける 生命をもった
生き物であ り,さながら 人間的であ る点に疑問の 余地をはさむものではな
い。
ロレンスのもっともよく 知られたアメリ
ヵ
ヵ
の詩は, p ボ峡谷の「アメリ
ライオン」であ る。 この詩では,巧みな 描写 力が 円熟して完結されてい
る。記憶に残らない 太古から, えぞ松の林やバルサム 樹など自然の 神秘な
万物には,事がない。吹雪のなかでの 陽光のように ,凍てつかない 水は,
微妙に凝縮された 和音のよ
う
う
であ る。踏み跡は依然として
明らかだ, とい
事実は,その 土地が雪が深いこと ,孤独であることを暗示している。
こ
の当てにならない 静かな雰囲気は ,創造され,そしてまた
,打ちくだかれ
る。平安のうちに
伸ばされたり ズム は,突然遮られ ,不安から親密さへと
推移する。 様宍 な情緒の段階をくぐって ,死んだ二つの 耳 ,
と,美しい 死
んだ 眼, をした弱々しい 姿が,正確に 記録される。
彼女はもはやふたたびあ
の道を跳び上ることはないのだ
黄色い閃光のようなアメリカライオンの
長い跳躍を見せることほl
そして彼女の明るい縞模様のような
顔は
血のようなオレンジ
色の岩のあいだのほこらのものかげから
なにものをも見ることはない
ロボ の暗い河口の林の上で l
4
発見のエッセイとしてのF,鳥と 戦と花山
Ⅰ
かわってばくが眺める
黄色い閃光のようなアメリカライオ
ソ の長い跳躍とは ,
アメリカライオ
ンが本来もっているはずのしなやかな 内部生命であ り柔軟な活力であ る。
かわってばくが 眺める, といら最後の 一行は,作者と 動物のあ いだの対比
であ る, と同様,類似点を 示唆するものであ
性と類似性は ,つぎの諸 行にみられる ,
る。 この雌のライナ ソ
との相
この虚ろな世界の 中にぼくと アメ
リカ ライオ ソ の住む場所がかつてはあ った, という詩人のノスタルジアを
説明できる。 m といら非文明世界は ,空虚である。 しかし, この詩人は ,
悪いことは何もしていないと 馬鹿みたいに 微笑んでいる 人間を知っている。
もっとも,彼らこそがこの 世で恐ろしい 唯一の動物であ るのだが。
リカライオン」では ,教理を作りかえたり
「アメ
,詩人がおおげさにしゃべるこ
とはなされていない。 詩人は, 自分の立場を 誇張して述べることを 極力回
避しているのだ。
「精霊」連作の一編「アメリカ 鷲 」でほ,詩人は 叙述しようとするので
俗
はなく,創造しようと 試みた。 滑稽な創作には ,いのちが宿っている。
詩的な自由な 表現が, ウイットと結び 合わされている。 詩人は, きびきび
した風刺の
5 ちに,アメリ
ヵ
合衆国とほかの 列強とを同等 規 する。
ところで フランスの百合が
栄華をきねめるソロモソ を
やっつげることほありえない
そして豹は斑点を
変えること忙できないし
イギリスの獅子もその
食欲を変えることはできない
若い雄の鷲がオリーヴの
小枝を口にくわえ
ぎ
どって笑って
坐っていることもできない
彼の性にあれないことだ
だから心をきめた
方がいい アメリカ鷲ょ
お前が乳を汲 鳩でいるか ルークーゥ一 l
ぅ
クアーク@
グァ一ガ
あるいは羽毛の生えかわる時に 脱げた金色の胸毛をさしだす
ペリカンとなるか
あ るいは一種の金を産む鳶鳥 となって
かぎりなく十 ドル金貨の卵を
産むか
天理大学学報
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それとも お前がローマ鼻をしていて
握手をするには不向きな爪があ
り
それから己れが万能であるといった眼をしているからといって
本当に鷲であるのかどうなのか
飾り げ のないイェスの 言葉の素朴 さぱ,太陽王 ,ルイ十四世の 宮廷の壮
麗 さに変わる。 豹は斑点を変えることはできない ,
「
という教訓的格言は ,
ェレ, ヤ書」を照らし 合わせ はげればならない。
クシュ人は皮膚を
豹はまだらの皮を
変ええようか。
それなら,悪に
馴らされたお前たちも
正しい者となりえ2 5 。
(13 章23 節)
イギリスの獅子に 相当するフランスの 紋章用語は , 豹であ る。 こ
点を下敷にして ,
「アメリヵ鷲」では政治的真実が
う
う
いう
たわれる。 それが 一
節目の後半部分の 漫画的な内容を 当然だと認めさせる。 乳を吸う 鳩 , とい
5 のは,獅子の 奥に潜む弱い 者けじめをする 欲望を示している。 羽毛の生
えかわる時の 仁愛をめぐって ,詩人はアメリカ 合衆国を軽蔑しつつ 論じる
のだ。 金銭をう む排出腔的な起原は , あ の金色の卵の 主題に関する 面白い
ヴァリ エー ションといえる。 鳶鳥は,米国国会議事堂の
という美名と 偽装のもとで ,
象徴であ る。繁栄
ローマ皇帝, シーザ一の鷲が 皇帝の神性を 求
めて,残酷にもつかみかかろうとするさまが 認識させられる。 最後から二
番目の行は,痛切な 叙述がなされていると 同様に警戒感すら 窺える。 この
詩では,言葉のなかよりむしろイメージのなかで
老練にもしゃれを 飛ばしている。
思考されている。 作者 は,
「アメリカ鷲 」は ,
アズテックの 象徴と
してあがめる自然物, ト一 テム として鷲をみていた「ニュー・メキシコの
鷲 」ともまったく 異なる作品であ
リカ
る。一連の「 鳥 」の詩のなかでも「アメ
鷲 」では,双述したように 皮肉や風刺に 富んだ 詩 として仕上げられて
いる。
『
鳥と獣と花 』の最後に配置された 詩においては , 毒 表しいほど 現
代文明に痛棒をくらわせたり ,人間の尊厳を 破壊した現代産業社会に 対し
て攻撃を激化させるまでに 批判的態度が 硬直していないものの ,
こうした
発見のエッセイとしての『
,島と獣と
「アメ
さ』
りヵ鷲」の詩の作風は ,
F三色すみれ』 (1929年刊行 )
(1930年刊行) に先んじる新しい 展開の詩であ
43
花皿
や T いらく
るといえる。