9. 宗教・慣習・文化

9 宗教・慣習・文化
事例9−1 工場内でサリーを着たいとの抗議
関連情報
1.企
業
の
業
種
製造業
2.問 題 の あ っ た 時 期
1998 年 4 月〜1998 年 12 月頃
3.場所(州又は都市名)
マネサール
4.体験の際の職種・職務
日本本社でのインド担当の技術系
部長職
5.資
本
6.従 業 員 数
形
態
合弁
イ ン ド
日本本社
301 人以上
A.困難事例の概要
9
自動車組立工場に部品を納める会社では、社員の半数以上が女性で精密部品の
組立や検査に従事していた。工場新設時に採用した女性社員から、
「事務所の女
性はサリーを着ているのに、工場内では、なぜサリーを着てはいけないのか」と
いう苦情があった。会社側は、サリーと首に巻くドゥパタ(ショール)が機械に
挟まれる恐れを強調し対立した。
B.対処概要
サリーは一般的に 5 メートル程度の長さの布、ドゥパタは胸を隠す 1 メートル
余のショールであるため、機械に挟まれると一大事になる。インド人女性のサリ
ーに対する思いに理解を示しつつも、彼女たちに「人の命は何物にも代えがたく
121
9 宗教・慣習・文化
尊いものだ」と認識してもらうことから始めた。
インドでは自動車や列車による事故で支払われる慰謝料は、日本の常識では
考えられないほど低いが、政府は「人身事故死」には厳重な調査、査問を実施
し、対策不十分と判断されれば工場閉鎖を余儀なくされる場合もある。まず女
性全員で「女性にとって安全なユニフォーム」について話し合ってもらった。
その結果、女性全員の提案で、工場内では事務職も製造現場もパンジャビス
ーツを着用し、ドゥパタは使用しないこととなった。
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
サリーは、上はサリーブラウス、下は一重の巻きスカートになっている。パン
ジャビスーツは、ワンピース、パンツ、ドゥパタの 3 点を着用する。インドの女
性がサリーを着るのは、日本の女性が学校を卒業しセーラー服からワンピースへ
9
と着替えるような感覚のようである。
このサリーをめぐる一件をきっかけに日本人はインド文化への理解が深まり、
インド人は安全に対する会社の並々ならぬ努力を知る良い契機となった。
122
9 宗教・慣習・文化
事例9−2 給食のメニューと多宗教文化
関連情報
1.企
業
の
業
種
自動車部品製造業
2.問 題 の あ っ た 時 期
3.場所(州又は都市名)
デリー近郊
4.体験の際の職種・職務
社長
5.資
合弁
本
6.従 業 員 数
形
態
イ ン ド
100 人以下
日本本社
A.困難事例の概要
インドは多宗教国家である。このことを忘れて会社内の給食メニューの拡充案
を考えていた。いくつかの私案をもって人事担当のインド人に相談したところ、
宗教上の理由で食することができないメニューが多すぎるとの指摘を受けた。
B.対処概要
まず私の私案はすべて撤回し、給食に用いる材料は野菜に限り、メニューは野
菜を調理したカレーのみとした。ちなみにこの方が私の私案よりもコストが安く
なった。
123
9
9 宗教・慣習・文化
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
インドは多宗教国家であり、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べられず、他方イスラ
ム教徒は豚肉を食べることができない。それでは鶏肉を使えばよいのかというと
そうではなく、インドには多数の菜食主義者、いわゆるベジタリアンがいる。そ
の他にもシーク教徒や回教徒もおり、結果として全員が食することができる素材
は野菜しかない。
もう一点重要なことは、信頼できるインド人の人事担当者を配置することであ
る。彼の助言がなければ私は大きなミスをしてしまったかもしれない。このよう
なローカルスタッフの有無が、少なくともインド人に対する人事管理上は極めて
有効と考える。
9
124
9 宗教・慣習・文化
事例9−3 従業員のカーストについて
関連情報
1.企
業
の
業
種
製造業
2.問 題 の あ っ た 時 期
1990 年代後半〜2000 年代初め
3.場所(州又は都市名)
4.体験の際の職種・職務
5.資
本
6.従 業 員 数
形
態
イ ン ド
日本本社
A.困難事例の概要
インド進出後数年が経過して業績も順調に伸び事業が軌道に乗り始めた頃、州
政府より下層カーストから一定の割合で従業員を雇用しなければならないと通
達があった。インド人の労務担当者も初めて耳にした話で慌てることになった。
B.対処概要
カーストにより業務に支障があるようなことはなかったが、人事・労務はイン
ド人スタッフに任せ、インド流の管理運営を心掛けていた。
社内で調査を実施したところ、下層カーストに属する従業員を問題のない程度
雇用していることが判明し、事なきを得た。
125
9
9 宗教・慣習・文化
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
インド人は名前で出身地が分かり、また出身地からカーストを知ることが可能
であるといわれているが、彼らであっても 100%カーストが分かる訳ではなく、
まして外国人がカーストを把握することは困難である。また、外国人が立ち入り
難い領域であるため、人事・労務は信頼できるインド人に任せる方が問題が起き
た場合の対応も上手くいく。
国立大学の入学枠や公務員の採用枠では、カーストの差別を是正する措置とし
て下層カーストに属する人々を優先的に割り当てる制度が導入されている。イン
ドの特殊事情として、カーストは今も根強く残っているということも考慮に入れ
ておく必要があるだろう。
9
126
9 宗教・慣習・文化
事例9−4 階級社会と職種の関係
関連情報
1.企
業
の
業
種
サービス業
2.問 題 の あ っ た 時 期
2000 年代初め〜2000 年代中頃
3.場所(州又は都市名)
デリー
4.体験の際の職種・職務
社長
5.資
合弁
本
6.従 業 員 数
形
態
イ ン ド
101 人〜300 人
日本本社
A.困難事例の概要
職場にゴミが落ちていたため、インド人の従業員に「拾っておくように」と指
示をした。すると彼は「拾わせておきます」と返答し、即座に掃除をしようとは
しなかった。
B.対処概要
インド人幹部や他の日系企業の友人に尋ねると「無理強いをしてはいけない」
とのアドバイスを受けたため、特に何もせず、そのままにしておいた。
127
9
9 宗教・慣習・文化
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
インドではカースト制度は廃止されたものの、実際の生活等を見ると、この階
級意識は根強く残っている。さらに仕事(職種)についても、階級とのリンクが
あるようである。
彼ら曰く、掃除という仕事は階級が低い者が担当するものらしい。これを無視
してその従業員に掃除を厳命することは、彼らの文化・慣習を踏みにじることに
なるかもしれない。確かに階級社会というのは、我々日本人にはナンセンスに映
る。日本の製造業では 5S が徹底され、どのような役職の従業員であっても、職
場にゴミが落ちていればすぐに拾うのが当たり前である。
しかしこれをインドで行うと、彼らの伝統的価値観を踏みにじるため、無用な
トラブルを招きかねない。このようにインドでは職務範囲が明確化されているた
め、その範囲をきちんと把握しておく必要がある。さもないと、単なる指示が民
9
族間のトラブルに発展しかねないのである。それほどまでに、インドにおける階
級意識は強いと考えてよいのではないか。
128
9 宗教・慣習・文化
事例9−5 根強い階級意識
関連情報
1.企
業
の
業
種
自動車部品製造業
2.問 題 の あ っ た 時 期
2005 年頃
3.場所(州又は都市名)
デリー近郊
4.体験の際の職種・職務
社長
5.資
独資
本
6.従 業 員 数
形
態
イ ン ド
100 人以下
日本本社
A.困難事例の概要
①会社が年度の目標を達成し、これを祝って社内でパーティーを開くことになっ
た。しかし、オフィス(事務職)の従業員はブルーカラーの従業員とは一緒に食
事をしたくないと主張した。
②家族を呼んだパーティーでも、オフィスとブルーカラーはともに出席しながら
も、別々に座る。家族も同様である。子供同士の交流すら全く見られない。
③社内で実施するボーリング大会でも、オフィスの従業員はブルーカラーの従業
員と同じ組になることは嫌と主張した。
④社員食堂におけるメニューも、オフィスとブルーカラーでは異なっていた。
⑤工場には行きたくない(入りたくない)とオフィスの従業員が文句を言った。
129
9
9 宗教・慣習・文化
B.対処概要
①②に対して
一緒のテーブルに着くよう指示した。気持ちの中では不満に思っているであろ
うが、渋々ながらも同席してくれた。
③に対して
同じ組でプレイするよう指示した。
④に対して
社員食堂のメニューを同じものに統一した。
⑤に対して
必要であれば工場へ出向き、直接当事者と話すよう、説得した。
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
9
社の方針として、階級社会が存在しようとしなかろうと、会社内では仕事を中
心に行動させるべきであろう。取り組みを始めた頃はなかなかクレームも多かっ
たが、現在ではオフィスの人間も率先してブルーカラーに話しかけ、また工場へ
出向くようになっている。まだ完全な協力関係までには至っていないが、その布
石はできつつあるように思える。恐らく他社よりも進んでいると自負しており、
当社の状況を目にするときっと驚くのではないだろうか。
これは日々繰り返し指示や説得をしてきた効果であると思う。また朝礼におい
て、常に「チームワーク」
、
「コミュニケーション」
、
「助け合い」を述べてきたの
もよかったのであろう。
このような不満は当然ながらオフィスの従業員から生まれる。彼らは大変論理
的な思考をするため、会社のオペレーション上その行動が重要だということを認
130
9 宗教・慣習・文化
識させると、想像以上にスムーズに行動に移してくれた(本音では未だに不満か
もしれないが)
。他方、この取り組みはブルーカラーからは好評であった。例え
ばディワリの際の記念品を全従業員同じものにしたところ、彼らからは「同じも
のを貰えるなんて」と感謝の言葉を多く受けた。
しかし、現実にはこの取り組みをどこまで推進すべきは大きな課題である。社
内では「カーストはない」と述べても、実際には階級の高くない人材を昇進させ
ると、仕事がスムーズに回らなくなった事例、低い階級の人材が同じランクの役
職に就いた際に、その昇進者にいやがらせを行った事例などもある。
このような理由から当社では、昇進や配置転換の際には必ずインド人スタッフ
の意見を聞くようにしている。そして表面上は日本人からインド人ではなく、イ
ンド人からインド人へ伝えるようにしている。これを破ると日本人への反感を生
みかねないからである。この意味からも、総務人事スタッフは極めて重要なポジ
ションであり、信頼できるインド人をいかにこのポジションに就けるかが成否の
鍵を握ると言っても過言ではない。当社では内部育成により、一番のベテランを
配置している。彼は率先してワーカーの中に飛び込んでくれている。ただし、彼
の後継者がいないのが目下の悩みである。
131
9
9 宗教・慣習・文化
事例9−6 言語の多さが組織改革を阻害
関連情報
1.企
業
の
業
種
サービス業
2.問 題 の あ っ た 時 期
2000 年代中頃
3.場所(州又は都市名)
4.体験の際の職種・職務
社長
5.資
独資
本
6.従 業 員 数
形
態
イ ン ド
301 人以上
日本本社
A.困難事例の概要
9
当社の場合、製品のアフターサービスが極めて重要である。このような背景か
ら、インド各地に営業所やコールセンターを有している。
経営の合理化を図るため、これら組織の統廃合により組織のスリム化を行おう
としたが、断念せざるを得なくなった。
B.対処概要
これまでの組織を若干変更したのみで、大幅な改組はできなかった。現在もそ
の組織のまま営業活動を展開している。
132
9 宗教・慣習・文化
C.教訓、知っておくべき情報・知識など
組織統合ができなかった第一の理由は「言葉」の問題である。インドには数多
くの言語があり、公用語とされるヒンディー語や英語を理解できない国民も多い。
つまり営業所やコールセンターは言語の数だけ必要になる。さらにそれに伴う管
理部門も重複して存在することになる。日本の考えからいえば集中管理を行いた
いところだが、これは日本では日本語がどこでも通じるからである。
第二の理由は従業員の配置転換が難しいからである。当社でも経営幹部やエン
ジニアなどの英語を話すことのできる人材は、勤務地に対するこだわりは薄いよ
うに思える。反対にアフターサービスを担当する従業員はそれぞれの担当言語が
あり、その言葉が使われない地域では仕事にならない。工場のワーカーであれば
言葉の問題は大きな問題にならないかもしれないが、当社の場合はアフターサー
ビスを担当する営業マンであることから、会話は必須となる。
以上の理由から、当社のインドの組織は極めて「太った」組織となっており、
業態にはよるものの、日系企業の多くが多少なりともこのような「太った」組織
の問題を抱えているようである。
133
9
9 宗教・慣習・文化
9.宗教・慣習・文化 関連解説
インドは人種、宗教、言語など極めて多様性を持つ国である。デリーを中心と
する北インドにはアーリア系、コーカシアン系、南インドには生粋のインド人と
いわれるドラビダ系民族が多く、北東インドにはモンゴロイド系も多く分布して
いる。宗教ではヒンドゥー教徒が 80%余、イスラム教徒(ムスリム)が 13%
余と中心を占めるが、キリスト教徒、シーク教徒、仏教徒、ジャイナ教徒の他
ゾロアスター教徒、原始宗教など比率は低いが多くの教徒を持つ多宗教国家であ
る。
言語は公用語としてヒンディー語、準公用語として英語があり、さらに 22 の
地方言語が指定されている。公用語としてのヒンディー語は初等教育で学習され
ているが南インドでの習得度は十分でなく、むしろ地方公用語が一般的に受け入
れられている。国会にはヒンディー語、英語を理解しない議員のためこれら地方
9
語の同時通訳が配置されている。インドは 28 州、6 中央政府直轄地からなる連
邦国家であるが、州は独立後同一言語を理解する住民を中心に形成されている。
人種、宗教、言語が異なれば自ずと文化、慣習も異なる。インド最大の祭りと
いわれるディワリ祭は、北インドではこの日を機会に新しい帳簿に切り替えるい
わば正月であるが南インドでは 3〜4 月に正月を祝う。ヒンドゥー教徒は基本的
に牛肉、豚肉は食べず、ムスリムは豚肉を食さない。ジャイナ教徒のように、肉
類は一切食せず厳密な菜食主義者もいる。食においても極めて多様性がある。イ
ンドを 1 国としてとらえるのではなく国連あるいは EU のように集合体としてと
らえる必要があるといわれる所以である。社会、文化、経済全般で多様性を有す
る国として、その多様性を理解することが重要であろう。
これらの多様性が水平的な多様性とすれば、ヒンドゥー教徒には垂直的な多様
性としてカースト制がある。カーストはポルトガル語のカスタ(家柄、血統)を
134
9 宗教・慣習・文化
表す言葉であるがインドではヴァルナ(色)及びジャーティ(生まれ、社会集
団)の複合されたものといわれる。支配者(アーリア人)被支配者(ドラビダ
人)に加え職業、身分の世襲化、固定化がインドのカーストの特殊性といわれる
(浄、不浄の思想も加わる)。基本的に 4 カーストがあり、4 カーストの最下位
は上位に奉仕する隷属民に位置する。また、カーストに位置しないアウトカース
トがあり、細分すれば数千のカーストがあるといわれる。
インドの憲法ではカーストによる差別を禁止しているが、一方指定カースト、
指定部族に対して政府、公営企業の採用枠及び大学などの高等教育で入学優先枠
が設けられており、これがカーストの存在を肯定しているとの指摘もあるように、
カーストはインド社会にとり大きなテーマであることは疑いない。
近年、都市部においてはカーストの希薄化が指摘されているが、日曜版現地新
聞の花嫁、花婿募集広告の条件として対象相手の希望カーストがまず上げられて
いるようにカーストは依然根強く残っている。地方において娘の結婚相手のカー
ストが低いため反対する父親が娘、配偶者を殺したなど悲劇報道も見かける。
数千年にわたり社会的規範として存在したカーストを理解することはビジネ
スのため進出する我々外国人には困難であり、立ち入りがたい領域でもある。
業務面で現地スタッフのカーストの上下により上司の指示、命令に従わないと
いう経験はなく、人事、業務面ではカーストの存在を「認識するが意識しない」
姿勢で取り組むことが必要であろう。
135
9