「中国残留邦人」の形成と受入について

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「中国残留邦人」の形成と受入について
選別あるいは選抜という視点から
鍛治致
1 はじめに
旧満州において、「中国残留邦人」はどのように形づくられていったのか。
日本は「中国残留邦人」をどのように受け入れてきたのか。以上の過程におい
て、「中国残留邦人」およびその家族はどのような基準により選り分けられて
いったのか。選別のための境界線はどこに引かれたのか。何を基準に引かれた
のか。そのとき、誰の利益が優先され、誰の利益が優先されなかったのか。以
上の選抜を正当化・正統化した理屈とは何だったのか。そこにはどのような原
理が見られるのか。
本稿では選別あるいは選抜という視点から「中国残留邦人」の形成と受入に
ついて論じてみたい。
2 「満州国」崩壊と難民化: 主として拓務省および関東軍との関わりから
片手に銃・片手に鍬を持った移民の送出によって現地民を制圧し領土を確保
し ロ シ ア ・ ソ 連 の 勢 力 に 対 抗 す る と い う 国 策 は 、 北 海 道 (屯 田 兵 )で は 成 功 し て
も 「 満 州 」 (満 蒙 開 拓 団 )で は 失 敗 し た 。
「 中 国 残 留 孤 児 」 や 「 中 国 残 留 婦 人 」 と は (主 と し て )「 昭 和 の 屯 田 兵 」 「 新
日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと謳われて「満州」への移住を勧められ、現地
召 集 (18∼ 45 歳 男 子 )に よ り 父 や 兄 弟 や 夫 か ら 切 り 離 さ れ 、 ほ と ん ど 女 性 ・ 児
童・高齢者しか村に残っていないところをソ連兵や現地民に追い立てられ、鉄
道等の避難経路へのアクセスが困難な地域で戦争難民になったにも関わらず、
「満州」を放棄して撤退していく関東軍に置き去りにされ、主要避難所への集
結をめざした徒歩による逃避行では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者およ
び自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え・寒さ・伝染病等
に 苛 ま れ 、死 ぬ か 生 き る か と い う 切 迫 し た 状 況 の 下 、招 か れ た り・拾 わ れ た り ・
もらわれたり・買われたり・さらわれたりするかたちで、妻あるいは養子とし
て現地民の家族へと統合されていった児童や女性のことである。
開拓民として「渡満」した人々がそうでない人々よりもどれだけ「割を食っ
た 」 か を 指 し 示 す 資 料 と し て は 、 満 州 開 拓 史 刊 行 会 (1966:437)を 参 考 に し な が
ら以下のような表を作成することができる。
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表 1:開 拓 民 と 非 開 拓 民 の 間 に お け る 死 亡 者 数 等 に つ い て の 差 異
全体
開拓民
非開拓民
-----------------------------------------------------------------終 戦 時 在 満 邦 人 数 (関 東 州 を 含 む )
1550000 人
270000 人
1280000 人
敗戦に基づく一般邦人の死亡者数
176000 人
78500 人
97500 人
何人に一人が死亡したか
8.81 人
3.44 人
13.13 人
1.49
3.82
1.00
死 亡 指 数 (非 開 拓 民 比 )
(満 州 開 拓 史 刊 行 会 (1966:437)を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
表 1 の「一般邦人」とはおそらく民間人のことだろう。また「在満邦人」の
中に非民間人が含まれているか否かは定かでない。しかしいずれにせよ、表 1
に 顕 著 な 点 は 、開 拓 民 と し て 渡 満 し た 者 は 3.44 人 の う ち 1 人 の 割 合 で 死 亡 し た
という点、そして、開拓民として渡満するということはそれ以外の身分で渡満
す る こ と よ り も 死 ぬ 確 率 が 3.82 倍 だ っ た と い う 点 で あ る 。
こ れ は 第 一 に は (以 下 の 引 用 が 示 す 通 り )開 拓 民 達 が (い わ ば )日 本 か ら 最 も 遠
く て 最 も 危 険 な 地 域 に 入 植 さ せ ら れ て い た か ら で あ る と 推 測 で き る (漢 数 字 を
部分的に算用数字に書きかえた。また[
]内 は 鍛 治 に よ る 補 足 で あ る 。 以 下 同
様 )。
開 拓 政 策 の 重 点 目 標 に 北 辺 鎮 護 の あ る こ と は 既 述 の と お り で あ る が 、開 拓 民 、
義勇隊はいわゆる鍬の戦士であり北辺第一線の兵站基地としての役割を果たし
ていた。すなわち開拓民総数の約 5 割は北満国境付近の省県に入植し、残り 4
割は中央の匪民分離地区へ、なお残り 1 割は交通産業の要路都市付近に入植し
て い た 。 [… 中 略 … ]さ ら に 前 述 の 匪 民 分 離 地 区 の 約 4 割 は 匪 賊 の 出 没 す る 辺 境
や密林地帯の近くに入植したので、匪賊の通路が遮断されてその行動の自由を
失 う に 至 り [… 後 略 … ]
(満 州 開 拓 史 刊 行 会 1966:398)
ま た 、第 二 に は (以 下 の 引 用 が 示 す 通 り )難 民 化 し た 元 開 拓 民 達 の 中 に「 男 手 」
があまりおらず、しかも作戦上の「必要性」から関東軍が避難経路を切断して
いったからだろう。
残留孤児:
満州崩壊:
根こそぎ動員:
男手とられ婦女子で逃避行
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札 幌 市 の 石 柴 田 正 雄 さ ん (68)は 、 残 留 孤 児 の た め に 開 い た 全 寮 性 の 日 本 語 学
校 の 校 長 を し て い る 。 40 年 前 の 8 月 、 ソ 連 の 参 戦 直 後 に 根 こ そ ぎ 動 員 で 応 召 、
14 日 夜 、黒 龍 江 省 の チ ャ ム ス を 出 る 最 終 避 難 列 車 に 、救 護 医 師 と し て 乗 り 組 ん
だ。
「 列 車 に は 、す で に 50 人 ほ ど の 兵 隊 と 将 校 が 乗 っ て い た 。鉄 橋 に さ し か か る
たびに列車をとめさせ、電話線を切り、橋を爆破する。奥地にはまだ大勢の開
拓団が残っている。爆破はやめろ、と抗議したが、『ソ連軍の追撃を断つ作戦
だ』と相手にされなかった」
「道路の橋も、兵隊が敗走しながら爆破している。後から来た開拓団の女子
どもは、橋の手前で立ち往生です。ソ連軍に追い詰められ、河原で輪になって
集団自決をしたり、一本の縄を頼りに川を渡ろうとして濁流にのまれたり」
ところが、ソ連軍は、橋がなくともすぐ仮橋を架けて楽々と進撃して来る。
爆破は開拓団難民の避難路をふさぐだけの結果となった。「日本軍に殺された
ようなもの。私は今でも関東軍を許せない。」と柴田さん。
山 梨 県 一 宮 町 で 、 ぶ ど う 園 を 経 営 す る 荻 原 正 三 さ ん (71)は 、 中 国 黒 龍 江 省 富
裕 県 、五 △ [=木 偏 に「 果 」(入 力 で き ず )]樹 義 勇 隊 開 拓 団 の 幹 部 だ っ た 。20 年 7
月 末 、 召 集 令 状 が 来 た 。 こ れ も 根 こ そ ぎ 動 員 で あ る 。 そ れ ま で に 約 200 人 の 団
員が次々と応召していき、男手は荻原さんが最後の 1 人だった。団員の妻子だ
け 約 20 人 が 後 に 残 さ れ た 。
8 月 1 日 に 奉 天 (現 瀋 陽 )の 部 隊 に 入 隊 し た 。 砲 兵 隊 だ っ た と い う の に 、 砲 ど
ころか小銃も、兵舎すらなかった。部隊長が召集されてきた老少佐なら、兵隊
も各地から寄せ集めの老兵ばかり。「これが関東軍か、と信じられない思いだ
った」と荻原さん。
敗戦で、部隊はまもなく解散。荻原さんは開拓団に残した妻子を捜すため、
避 難 民 の 流 れ と は 逆 に 、は る ば る チ チ ハ ル 郊 外 に 向 か っ た 。が 、既 に 遅 か っ た 。
子ども 2 人は死に、近郊の開拓団は集団自決をした後だった。
「兵器もないのになぜ動員をかけたのか。根こそぎ動員で、逃避行は婦女子
と老人だけになった。そこへソ連軍と暴民が襲いかかった。男たちがいれば、
状況判断や食料調達などができ、被害を最小限にとどめることができたのに」
根こそぎ動員でシベリア送りにされた方が、結果的に生存率が高かった。夫
はシベリアから復員したが、妻は避難途中で死に、子どもは残留孤児に、とい
う典型的なケースでは、孤児の肉親判明率が特に低い。
(朝 日 新 聞 1985 年 11 月 24 日 朝 刊 14 版 22 頁 縮 刷 版 904 頁 )
なお、難民収容所での惨状と戦争難民達の行く末を集計した資料としては以
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下 の よ う な も の が あ る (な お 表 2 を め ぐ っ て は 諸 説 あ る よ う な の で 詳 し く は 同
書 492 頁 も 参 照 し て ほ し い )。
惨 状 の 殊 に 著 し か っ た 収 容 所 は 方 正 (三 江 省 )、拉 古 (牡 丹 江 省 )、延 吉 (間 島 省 )
等であったが、いま方正の一例を挙げよう。方正県伊漢通開拓団の空屋を中心
に 設 け ら れ た 収 容 所 は 開 戦 以 来 翌 年 5 月 ま で に 収 容 さ れ た 総 人 員 8640 名 に 上 っ
たが、その終末は次の通りであつた。
[表 2:方 正 県 伊 漢 通 開 拓 団 跡 に 収 容 さ れ た 邦 人 の 終 末 ]
ソ兵に拉致されしもの
460 名
[ 5.32%]
自ら脱走せるもの
1200 名
[13.89%]
自決、病死せるもの
2360 名
[27.31%]
満妻となったもの
2300 名
[26.62%]
ハルピンに移動せるもの
1200 名
[13.89%]
現地に残りしもの
1120 名
[12.96%]
[合 計
8640 名
100.00%]
その死亡者は伊漢通開拓団の裏山に積み上げられて春を迎え、暖気の訪れと
ともに凍解し始めたのでこれを焼却したが、二昼夜にわたって燃えつづけたと
いう誠に凄惨な状況が伝えられている。
満 州 開 拓 史 刊 行 会 (1966:418)
なお、以上の引用に登場する方正県は旧満州で日本人が数多く残留を余儀な
く さ れ た 地 域 の 代 表 格 で あ る 。そ の こ と は 以 下 の 集 計 か ら も 明 ら か で あ る (部 分
的 に 旧 字 体 を 書 き 改 め た 。 以 下 同 様 )。
(五 )満 洲 残 留 開 拓 民
現在残留の開拓民関係者は開戦当時、移動せずに現地に残留生活したもの、
あるいは避難途次収容所で越冬した応召留守家族または男手不足などにより、
現地残留を余儀なくされ満人家屋に身を寄せる以外に生きる道のなかつた者等
であって、主として国際結婚者と孤児である。
33 年 [=1958 年 ]現 在 で 住 所 氏 名 が ほ ぼ 確 実 と 思 わ れ る 者 を 省 県 別 に 挙 げ る と
左のとおりである。
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[表 3:住 所 氏 名 が ほ ぼ 確 実 な 満 州 残 留 開 拓 民 の 地 域 別 分 布 (1958 年 現 在 )]
三江省
390(
方 正 県 245、
通 河 県 80、 依 蘭 県 26 等 )
東安省
36(
鶏西県
15、
勃 利 県 14
等)
北安省
80(
慶安県
28、
鉄 力 県 16
等)
竜江省
85(チ チ ハ ル
23、
甘 南 県 45、 訥 河 県 11 等 )
延 寿 県 35、 五 常 県 27 等 )
ハルピン市
30
浜江省
140(
尚志県
31、
牡丹江省
65(
寧安県
35、 牡 丹 江 市 23
等)
新京市
18
吉林省
48(
敦化県
16、
盤石県
6
等)
間島省
56(
汪清県
22、
琿 春 県 26
等)
奉天市
54
撫順市
23
興安東省
19
興安南省
7
そ の 他 (中 国 )
50
計
1100
満 州 開 拓 史 刊 行 会 (1966:437)
表 3 に 列 挙 さ れ て い る 県 の う ち 、 方 正 県 (245 人 )と 隣 接 す る 県 は 延 寿 県 (35
人 )・通 河 県 (80 人 )・依 蘭 県 (26 人 )・尚 志 県 (31 人 )で あ り 、こ れ ら に 方 正 県 (245
人 =22.27%)を 加 え る と 残 留 者 の 数 は 合 計 で 417 人 (=37.91%)と な る 。こ こ で 注 目
す べ き 数 値 は 245 人 や 417 人 と い う 人 数 そ れ 自 体 で は な く 、22.27%や 37.91%と
いう割合である。表 3 からは、方正県およびその隣接県には残留開拓民が高い
割合で分布していたことが見てとれる。
さて、難民化した日本人女性が現地人の家族へと回収・統合・編入されてい
った過程にはどうやら現地における「需要」も作用していたようである。以下
は (表 2・3 同 様 )「 満 州 国 」崩 壊 後 に 数 多 く の 日 本 人 難 民 を 受 け 入 れ た 方 正 県 に
関連する集計である。
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表 4:方 正 県 に お け る 男 女 別 人 口 推 移
年
総人口
男
女
性 比 (男 =100)
-----------------------------------------------1909 年
1904 人
1050 人
854 人
(81.33)
1918 年
44291 人
25286 人
19005 人
(75.16)
1919 年
43729 人
25472 人
18257 人
(71.67)
1924 年
45296 人
25448 人
19848 人
(77.99)
1934 年
67578 人
38013 人
29495 人
(77.59)
1941 年
75898 人
42277 人
33621 人
(79.53)
1949 年
72778 人
40738 人
32040 人
(78.65)
1954 年
79098 人
43121 人
35977 人
(83.43)
1959 年
100053 人
55486 人
44567 人
(80.32)
1964 年
120403 人
64122 人
56281 人
(87.77)
1969 年
143466 人
75291 人
68175 人
(90.55)
1975 年
176732 人
92738 人
83949 人
(90.52)
1979 年
194923 人
101408 人
93515 人
(92.22)
1984 年
203243 人
104792 人
98451 人
(93.95)
(方 正 県 誌 編 纂 委 員 会 (1990:629-630)を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
表 4 か ら は 1945 年 当 時 の 方 正 県 の 男 女 比 が 男 100 人 に 女 80 人 程 度 だ っ た こ
と が 推 測 さ れ る 。も と も と 女 が 生 ま れ に く か っ た の か (=低 出 生 率 )、そ れ と も 女
が 生 き に く か っ た の か (=短 命 )、あ る い は そ の 両 方 だ っ た の か 。方 正 県 人 の 中 に
は 「 当 時 は 風 土 病 に よ り 女 性 が 産 後 に 死 亡 し や す か っ た 」 (=鍛 治 が 方 正 県 に て
個 人 的 に 聴 取 )と 主 張 す る 者 が い る が 、真 相 は 定 か で は な い 。し か し た だ 一 つ だ
け言えそうなことは当時の方正県は深刻な「慢性的嫁不足状態」にあったらし
い と い う こ と で あ る 。日 本 人 女 性 達 が「 元 難 民 の 外 国 人 花 嫁 (言 葉 は ま だ 上 手 に
話 せ な い )」と し て 現 地 人 (=農 夫 で あ る こ と が 多 か っ た )の 家 族 へ と 回 収・統 合・
編入されていくのを促進したひとつの要因は、実はここにもあったのではなか
ろうか。
そして、いったん現地人の家族へと統合されてしまうと前夫の元へ戻ること
はたいへん困難となる。根こそぎ動員で兵隊に取られた夫は戦闘中や抑留中に
死亡しているかも知れないし、無事復員していたとしても日本で再婚している
かも知れないからだ。このことに関しては以下のような新聞記事がある。
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30 年 ぶ り 運 命 の 再 開 :
死別、里帰り:
夫 … 召 集 、ソ 連 抑 留 、帰 国 、結 婚 :
妻…中国で再婚、
福島
[… 中 略 … ]敗 色 が ひ し ひ し と せ ま る 20 年 7 月 、迎 さ ん に 召 集 令 状 が 来 た 。迎
さ ん は シ ベ リ ア 国 境 近 く で 終 戦 を 迎 え 、8 月 16 日 、部 隊 は 現 地 解 散 し た が 、す
ぐ捕虜になりシベリアに送られた。
一 方 、身 重 だ っ た ト ヨ さ ん は 終 戦 の そ の 日 に 、9 歳 の 長 女 、4 歳 の 二 女 を 連 れ
て 、 引 き 揚 げ 列 車 が 出 る ハ ル ピ ン に 向 か っ た 。 開 拓 団 の 約 100 人 と 一 緒 で 全 員
徒歩。
トヨさんが発しんチフスで倒れ、途中の軒先に母子 3 人はとり残された。そ
こ へ 通 り か か っ た の が 、 中 国 人 A さ ん (4 年 前 死 亡 、 当 時 69)だ っ た 。 A さ ん は
母子を馬車に乗せ、家に連れて行ってくれた。先妻に死なれたばかりだった A
さんは、親切な人だった。
[… 中 略 … ]ト ヨ さ ん は A さ ん に 「 帰 っ て も よ い 」 と い わ れ た が 、 男 の 子 が 生
ま れ て い た 。「 新 し い 奥 さ ん [=復 員 し た 前 夫 が 日 本 で 再 婚 し た 相 手 ]に 迷 惑 か け
てはすまない。帰ってはいけないんだと自分にいい聞かせた」。
迎 さ ん に は 長 女 (20)と 長 男 (18)。 ト ヨ さ ん も A さ ん と の 間 に 3 人 の 男 の 子 が
で き た 。長 男 (28)は 尚 志 県 で 小 学 校 教 師 。二 男 (20)は 大 工 。三 男 (15)は 高 校 生 。
(朝 日 新 聞 1975 年 3 月 14 日 朝 刊 13 版 22 頁 縮 刷 版 432 頁 )
3 「中共」との協定に基づく集団引揚: 主として法務省との関わりから
1946 年 か ら 1958 年 に か け て 行 わ れ た 旧 満 州 か ら の 集 団 引 揚 は 前 期 と 後 期 に
分けられる。前期は中華人民共和国成立前に行われた集団引揚である。後期は
中華人民共和国成立後、「中共」政府との協定に基づいて行われた集団引揚で
ある。
前 期 引 揚 は 4 期 に 区 分 さ れ る が 、 第 1 期 は 1946 年 5 月 か ら だ っ た と い う (ぎ
ょ う せ い 1997:38-19)。 な お 、 こ れ は 「 満 州 国 」 崩 壊 後 (少 な く と も )ひ と 冬 越
すまでは旧満州から内地への引揚がほぼ不可能だったことを意味する。哈爾濱
地 図 出 版 社 (2000:2)に よ れ ば 、 哈 爾 濱 は 9 月 19 日 か ら 4 月 28 日 ま で 霜 が 降 り
る 。 無 霜 期 は 年 間 142.7 日 間 (1 年 間 の 39.1%)。 1 月 の 平 均 気 温 は 零 下 18∼ 20
度。多くの者が身寄りのない難民としてこの冬を生きることをあきらめ、現地
人 の 家 族 (=妻 や 養 子 な ど )と な っ た こ と は 前 述 し た 通 り で あ る 。な お 、前 期 引 揚
は (国 共 内 戦 等 の 理 由 に よ り )1948 年 に 打 ち 切 ら れ た 。
後 期 引 揚 は 「 現 在 中 国 に は 約 3 万 人 の 日 本 人 が お り [… 中 略 … ]今 後 船 の 問 題
が 解 決 で き る な ら ば [… 中 略 … ]中 国 政 府 と 人 民 は 帰 国 希 望 者 を 援 助 す る 」 と い
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う 北 京 放 送 ('52.12.1)を 契 機 と し て 取 り 結 ば れ た 北 京 協 定 ('53.3.5)に 基 づ い
て 開 始 さ れ た (ぎ ょ う せ い 1997:46)。 と こ ろ が こ の 協 定 の 解 釈 と 運 用 を め ぐ っ
ては日中間に行き違いがあり、以下の新聞記事に見られるような「混乱」が生
じた。
興安丸に多数の外国人:
い:
``中 国 人 の 夫 ''含 む 160 余 人 :
一応不法入国扱
個々に実状を調べ処置
北京協定の了解事項では「中国人と結婚した日本人の妻」「日本人と結婚し
た 中 国 人 の 妻 」「 こ れ ら の 夫 婦 の 間 の 子 供 た ち 」「 16 歳 未 満 の 子 供 お よ び 孤 児 」
に つ い て 規 定 は あ る が 「 中 国 人 [で あ る と こ ろ の ]の 夫 」 に つ い て は 全 く ふ れ て
いない。
こ ん ど の 興 安 丸 乗 船 者 で 日 本 へ の 入 国 が 問 題 と な る の は (1)中 国 人 の 夫 (2)中
国人と結婚した日本婦人で、両親に会う目的で単独または子供連れのもの。こ
の婦人たちは肉親との面会、墓参などが済んだら再び中共へ帰ると明言してい
る [… 中 略 … ]な ど で あ る 。
中 共 側 が な ぜ こ ん ど の 帰 国 者 の な か に こ の よ う な ``非 日 本 人 ''を 多 数 入 れ た
か に つ き 外 務 省 は 「 [… 中 略 … ]両 国 人 民 の 自 由 往 来 を 事 実 上 強 行 し よ う と す る
や り 方 だ 。 [… 中 略 … ]と に か く ``帰 国 ''は だ ん だ ん ``旅 行 ''化 し つ つ あ る 」 と
判断している。
第 11 次 ま で の 中 共 帰 国 者 の う ち 外 国 人 は 、中 国 人 が 一 番 多 く て 58 人 [… 中 略
… ]と な っ て お り [… 中 略 … ]こ の う ち 中 国 人 は 日 本 人 の 妻 で あ っ た り 、母 親 が 日
本人という人たちで、いずれも北京協定の了解事項に該当している。こんど初
めて現れた「中国人の夫」などをどう扱うかについては、法務省は「原則的に
は不法入国とみなす」との態度をとり、すべて個別によく審査するとの方針を
決めた。
例 え ば (1)の「 中 国 人 の 夫 」の 場 合 は 、妻 の 肉 親 と の 面 会 な ど が 終 わ れ ば 直 ち
に 中 共 へ 帰 る と い う 意 思 表 示 を 条 件 に 仮 釈 放 す る 。 [… 中 略 … ]た だ し 長 期 滞 在
を主張される場合は、どうしても収容所に入れざるを得ないと考えているよう
だ (2)の 場 合 は 、一 応 正 当 な 日 本 人 帰 国 者 と み な し て 諸 手 続 を 終 わ ら せ 、将 来「 中
共へ帰りたい」という申し出があった場合には、中国人の妻として中国籍があ
る も の と み な し て 中 共 へ 送 還 す る [… 中 略 … ]
内田法務省入管局長の話
[… 中 略 … ]当 方 と し て は [… 中 略 … ]「 妻 の 肉 親 に 一 度 会 っ て 置 き た い 」 と い
う人道的な希望も考えて、できるだけその希望がかなえられるように法を適用
したいと考えている。
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島津日赤社長の話
北京協定を厳格にみれば日本人の妻が帰国したい場合には離婚しなければな
らない。離婚はしたくないが、日本にいる肉親に会いたいという場合、やはり
「帰国」という形式をとるほかはないんじゃないか。
(朝 日 新 聞 1955 年 12 月 15 日 朝 刊 12 版 9 頁 縮 刷 版 203 頁 )
中国人の夫と別れ子供を何人かずつ分けて帰るもの、子供全部を連れて帰る
もの、中国人の夫とともに帰るものなど戦後の一般引揚とは少々様子が違う。
[… 中 略 … ]天 津 で は 夫 に 泣 き つ か れ て 帰 国 を あ き ら め た 婦 人 も あ り 、 ま た 天 津
駅のホームにとり残されて男泣きに泣きさけび、中にはホームに倒れてしまう
中国人の夫の姿はあわれであった。
(朝 日 新 聞 1955 年 12 月 16 日 夕 刊 3 版 7 頁 縮 刷 版 223 頁 )
さて、以上にいう「北京協定の了解事項」とは、受入をめぐる以下のような
選 別・選 抜 原 理 が 体 現 し た も の で あ る と 推 測 で き る (た だ し こ の「 北 京 協 定 の 了
解 事 項 」 に つ い て は 、 ぎ ょ う せ い (1997:501)や 厚 生 省 援 護 局 (2000:45-46)を 参
照 す る 限 り 、 協 定 自 体 の 中 に 明 文 化 さ れ て い る わ け で は な い )。
図 1:「 北 京 協 定 の 了 解 事 項 」 が 体 現 す る 選 別 ・ 選 抜 原 理 (日 本 側 の 主 張 )
永住目的
訪問目的
=======================================
家 族 A:
日本人夫
○
×
家 族 A:
国際児
○
×
家 族 A:
中国人妻
○
×
--------------------------------------家 族 B:
中国人夫
×
×
家 族 B:
国際児
○
×
家 族 B:
日本人妻
○
×
図 1 から読みとれるのは以下の各点である。第一は「居住国唯一主義」であ
る 。こ れ は つ ま り「 常 に ど ち ら か 一 方 の 国 だ け に 住 み 続 け る よ う に し ろ (自 由 往
来 は 認 め な い )」 と い う 考 え 方 で あ る (こ れ は 以 上 の 引 用 に お け る 外 務 省 の コ メ
ン ト に 現 れ て い る )。第 二 は「 男 主 女 従 主 義 」で あ る 。こ れ は つ ま り「 妻 が 夫 に
付き従うことは許すがその逆は許さない」という考え方である。そして、以上
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二つを掛け合わせた場合、中国人と結婚した日本人女性に与えられる選択肢は
「日本を捨てて、中国および中国人家族を取る」か「中国および中国人家族を
捨 て て 、日 本 を 取 る 」か の 二 者 択 一 と な る の だ (こ れ は 以 上 の 引 用 に お け る 日 赤
社 長 の コ メ ン ト に 現 れ て い る )。
さ て 、 以 上 の 弊 害 を (い ち お う )解 決 し た の は 天 津 協 定 (’56.6.28)だ っ た 。 こ
の協定により次のことが定められた。
四 、 [… 中 略 … ]中 国 に い て 中 国 人 と 結 婚 し て い る 日 本 婦 人 が 、 も し 希 望 す る
場合は、正規の手続きを経て、日本に赴き、親類を訪問し、再び中国へ帰つて
くることができる。
(ぎ ょ う せ い 1997:502-503)
こ れ に よ り 日 本 人 妻 の 一 時 帰 国 (あ る い は 里 帰 り )が 制 度 上 可 能 に な っ た 。 し
か し 、 こ こ で 忘 れ て な ら な い の は 、 天 津 協 定 は 一 時 帰 国 を (制 度 上 )可 能 に し た
だ け で あ り (現 在 の よ う な )家 族 同 伴 の 永 住 帰 国 を 可 能 に し た わ け で は な い と い
う こ と で あ る 。従 っ て こ の 協 定 に よ り 日 本 人 妻 の 選 択 肢 は「 中 国 人 家 族 を 取 り 、
日本へは里帰りで我慢しとく」か「中国人家族を捨て、日本に永住帰国してし
ま う か 」 か の 二 者 択 一 へ と (わ ず か な が ら )改 善 し た だ け だ っ た 。
さ て 前 掲 の 「 ``中 国 人 の 夫 ’’問 題 」 に 際 し て は 、 中 国 人 夫 (=「 不 法 入 国 」 )の
扱 い や 一 時 帰 国 希 望 の 日 本 人 妻 を 日 本 人 と 見 な す か ど う か の み な ら ず (以 下 の
引 用 が 示 す 通 り )父 を 中 国 人 と す る 日 中 国 際 児 の 国 籍 が ど ち ら な の か に つ い て
も議論があったようである。
日赤井上外事部長、厚生省引揚援護局瀬戸引揚課長、法務省小笠原入管審査
課 長 補 佐 ら は 17 日 舞 鶴 地 方 引 揚 援 護 局 で 打 ち 合 わ せ を 行 い 、つ ぎ の よ う に 決 め
た。
(1)日 本 人 の 妻 に つ い て く る 子 供 は 、い っ た ん 日 本 人 と 認 め 、引 揚 援 護 を す る 。
(朝 日 新 聞 1955 年 12 月 17 日 夕 刊 3 版 5 頁 縮 刷 版 237 頁 )
以上はおそらく両親の婚姻が無効であり当該子は婚外子であるとの解釈から
導 き 出 さ れ た 結 果 だ ろ う 。 つ ま り 法 務 省 は (暫 定 措 置 と し て で は あ る も の の )中
国人父を「正式な父」とは認めず、中国人夫を「正式な夫」とは認めなかった
わ け だ 。 こ の こ と は 先 の 新 聞 記 事 の 見 出 し に お い て 「 ``中 国 人 の 夫 ''」 と い う
具 合 に ``
’’が 使 用 さ れ て い た こ と か ら も 推 察 で き る 。
(訪 問 希 望 か 永 住 希 望 か に 関 わ ら ず )日 本 人 女 性 と 結 婚 し た 中 国 人 夫 が 入 国 し
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て く る と い う こ と 、 永 住 帰 国 (=引 揚 )で は な く 一 時 帰 国 (=旅 行 )を 希 望 す る 日 本
人妻がいるということ、一時帰国希望の日本人妻に日中国際児がついてくると
い う こ と ----こ の ど れ も が 日 本 側 の い わ ば 「 予 想 外 」 で あ っ た 。 帰 国 希 望 の 日
本 人 女 性 は 当 然「 中 共 」に お け る 家 族 結 合 を 処 分 し 単 身 で (あ る い は 日 中 国 際 児
を 連 れ て )永 住 帰 国 し て く る は ず ----こ れ が 日 本 側 の 思 い 込 み だ っ た と い う わ
けだ。
以 上 か ら は 当 時 の 日 本 の 法 務 行 政 が (未 だ に )イ エ 制 度 を 媒 介 と し た 個 人 と 国
家 の 結 び つ き を 想 定 し て い た こ と (あ る い は そ の よ う な「 体 質 」か ら 脱 却 し き れ
て い な か っ た こ と )を う か が わ せ る 。人 を 戸 に 一 義 的 に 結 び つ け る の は 戸 籍 で あ
り、戸を国に一義的に結びつけるのは国籍である。そして戸の主は一義的に男
であり夫であり父である。この原則からいくと、戸主である男性の国籍が一義
的にその妻子の国籍となり、「イエ」の中で「クニ」がばらけるなどというこ
と は あ り え な い (と い う か 想 定 さ れ て い な い )。 こ れ を 図 2 に 表 せ ば 以 下 の よ う
になるだろう。
図 2:イ エ 制 度 を 媒 介 と し た 個 人 と 国 家 の 結 び つ き
大媒介
人 ----((戸 籍 ))----(戸 )----((国 籍 ))----国
小媒介
小媒介
妻 の 戸 籍 ・ 国 籍 は 、 夫 の 戸 籍 ・ 国 籍 に 合 わ せ る 。 子 (未 婚 )の 戸 籍 ・ 国 籍 は 、
父の戸籍・国籍に合わせる。これが戦前日本の基本・原則だった。日本人が中
国人に嫁げば中国人になるし、中国人が日本人に嫁げば日本人になる。また、
父が日本人であれば子も日本人になるし、父が中国人であれば子も中国人にな
る 。し た が っ て 、中 国 人 夫 を 捨 て る 気 が な い 日 本 人 女 性 は ``非 日 本 人 ’’で あ り 、
中 国 人 父 を 捨 て る 気 が な い 日 本 人 児 童 は ``非 日 本 人 ’’で あ る 。 そ し て こ れ ら の
人達は「非・国民」として分類され、出入国管理行政の統制下に置かれ、用が
済んだら国籍国に送還されるわけだ。
当 時 は (今 日 の よ う な )日 本 人 の 子 や 配 偶 者 を 対 象 と し た「 日 本 人 の 配 偶 者 等 」
などという在留資格は想定する必要がなかった。日本人の妻子は外国人である
は ず が な か っ た し 、外 国 人 に 嫁 い だ 女 が 日 本 人 で あ る は ず が な か っ た の で あ る 。
1899 年 4 月 1 日 か ら 1950 年 6 月 30 日 ま で 効 力 を 有 し て い た 旧 国 籍 法 (明 治
32 年 法 律 第 66 号 )は「 夫 婦 国 籍 同 一 主 義 及 び 親 子 国 籍 同 一 主 義 等 を 基 本 と し て
家 族 制 度 に 対 す る 考 慮 を 払 っ て い た 」 (法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 1994:10)が 、
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こ の 旧 国 籍 法 に は 以 下 の よ う な 規 定 が あ っ た (旧 仮 名 遣 い の 片 仮 名 を 現 代 仮 名
遣 い の 平 仮 名 に 書 き か え た 。 以 下 同 様 )。
第 1条
子は出生の時其父が日本人なるときは之を日本人とす。その出生前
に死亡したる父が死亡の時日本人なりしとき亦同じ
第 5条
外国人は左の場合に於いて日本の国籍を取得す
1 日本人の妻と為りたるとき
第 18 条
日本人が外国人の妻と為り夫の国籍を取得したるときは日本の国
籍を失う
(法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 1994:374,376)
し か も 上 記 第 18 条 は 1916 年 8 月 1 日 に 大 正 5 年 法 律 第 27 号 が 施 行 さ れ る 前
は「日本人女が外国人と婚姻したときは、婚姻による外国籍の取得いかんにか
か わ ら ず 、 日 本 国 籍 を 失 う こ と と な っ て い た 」 (法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会
1994:11)と い う 。
嫁 ぐ と い う 行 為 は (基 本 的 に は )単 に 人 に 嫁 ぐ の み な ら ず 戸 に 嫁 ぐ こ と を 通 じ
て国に嫁ぐことを意味した。「家族は中国、祖国は日本」などという「浮気」
「わがまま」「身勝手」「ふたまた」「曖昧な態度」は当時の日本人女性達に
は (未 だ 十 分 に )許 さ れ て い な か っ た と い う わ け だ 。
さ て 、 だ が し か し 、 ど う し て も 納 得 で き な い の は 「 ``中 国 人 の 夫 ’’問 題 」 が
起 こ っ た の が 1955 年 だ っ た と い う こ と だ 。つ ま り 、こ の 頃 ま で に は「 個 人 の 尊
厳」「両性の本質的平等」等を謳った日本国憲法が施行されていたし、女性が
婚姻などの身分行為によって日本国籍を得喪するのが原則と定めていた旧国籍
法も失効していた。にもかかわらず、法務省は中国人夫と別れようとしない日
本人妻から日本国籍を取り上げたうえで「中共」に送還しようとしている。上
記引用中の「中国籍があるものとみなして」という表現からすると、どうやら
日本人女性に日本国籍の得喪を選択させたうえでということでもないらしい。
同じ「送還」するにしても、どうして日本人のまま「送還」できなかったの
か。なぜ彼女らは外国人にならなくてはいけなかったのか。国籍を異にする者
どうしが国籍を異にしたままで結婚生活を継続することを、法務省はなぜ認め
ようとしなかったのか。日本国籍のままでは協定上の理由から「送還」できな
かったからか。中国人夫の国籍国における国籍法との兼ね合いからか。日本人
が「中共」との間で自由往来したとの前例を作りたくなかったからか。それと
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も単に新憲法の精神が法務行政の中に未だ十分に根付いていなかったからか。
疑問は残る。
な お 、 当 時 の 日 本 人 妻 (=「 一 世 」 )や 日 中 国 際 児 (=「 二 世 」 )た ち の 国 籍 が 、
現在までに結局どのような「決着」をみせているのかについて以下にまとめて
おく。
図 3:「 二 世 」 の 国 籍 (出 生 に よ る 日 本 国 籍 取 得 が ど こ ま で 開 放 さ れ て い る か )
「一世」の国籍状態→
日本国籍維持
日本国籍離脱
「二世」の生年月日↓
-----------------------------------------------∼ 49.09.30
??
○
??
○
49.10.01∼ 64.12.31
×
○
×
○
65.01.01∼ 72.09.28
△
○
△
○
72.09.29∼ 84.12.31
△
○
×
×
85.01.01∼
○
○
×
×
-----------------------------------------------「一世」の性別→
女
男
女
男
(△ は 入 国 3 カ 月 以 内 に 届 け 出 る と い う 条 件 付 )
まず「一世」の国籍からである。「満州国」は国籍法を持たず国民が 1 人も
いない「国家」だったので、渡満した日本人はとりあえず日本国籍を喪失しな
い。また、日本人女性が中国人に嫁いだからといって必ず日本国籍を喪失する
ものでもない。なぜなら、まず「満州国」崩壊から中華人民共和国成立までの
間 (例 え ば )農 村 に お い て 農 夫 と 難 民 と の 間 に 国 際 結 婚 が 有 効 に 成 立 し た と 証 明
することはしばしば困難であるらしく、この「混乱期」における国際結婚につ
いては中華人民共和国が成立するまでは効力を有さないとされてしまうことが
多々あるようなのだ。また、仮に国際結婚が有効に成立していたとしても、当
時 の 国 籍 法 は (前 述 し た 通 り )外 国 人 男 性 と 結 婚 し た 日 本 人 女 性 か ら 強 制 的 に 日
本 国 籍 を 奪 う も の で は (も は や )な く な っ て い た 。 そ し て 中 華 人 民 共 和 国 成 立 に
先 立 つ こ と 3 カ 月 、1949 年 7 月 1 日 に は 女 性 の 結 婚 は 国 籍 の 変 動 を 女 性 に 対 し
て 求 め な い と す る 新 国 籍 法 (昭 和 25 年 法 律 第 147 号 )が 施 行 さ れ て い る 。
以上により「一世」達は基本的には日本国籍を死ぬまで保持し続ける。ただ
し (夫 や 養 親 の 意 志 で は な く )自 ら の 意 志 に よ り 中 国 国 籍 を 取 得 し た 場 合 に は 日
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本国籍を喪失する。しかしこの喪失の時期も日中国交正常化以降ということに
な っ て い る 。し た が っ て (例 え ば )1950 年 代 に 日 本 国 籍 を 離 脱 し て 中 国 国 籍 を 取
得したと主張してもそれは認められず、その場合、日本国籍喪失の時期は日中
国交が正常化した日であるとされる。
さて、以上のことは「二世」の国籍に影響してくる。
ま ず「 一 世 」が 男 性 の 場 合 は 比 較 的 単 純 で 、日 本 国 籍 を 生 涯 維 持 し て い る「 一
世」を父として生まれた「二世」はどの時期に生まれた者であっても日本国籍
を 取 得 す る 。 ま た 、 日 本 国 籍 を (自 ら の 意 志 に よ り )離 脱 し た 「 一 世 」 を 父 と し
て生まれた者は、日中国交正常化以前に生まれたのであれば日本国籍だが、そ
れ以後に生まれたのであれば父の日本国籍離脱の時期が自分の誕生日より早い
のか遅いのかについて考えなくてはならない。そして、もし早ければ日本国籍
取得は不可能になるし、遅ければ可能になる。
次に、比較的複雑なのは、「一世」が女性の場合である。まず、日本国籍を
生涯維持している「一世」を母として生まれた「二世」は、もし「満州国」崩
壊から中華人民共和国成立までの間に生まれていれば、日本人女性の婚外子と
み な さ れ る 場 合 が 多 々 あ り 、 こ れ に よ っ て (い わ ば 「 父 が 知 れ な い 子 」 と し て )
日本国籍を取得する場合もある。一方、中華人民共和国成立後に生まれた「二
世 」に つ い て は 1985 年 以 降 に 生 ま れ た か 、そ れ よ り も 前 に 生 ま れ た か に よ っ て
国 籍 の 取 得 方 法 が 異 な る 。 (1985 年 以 降 生 ま れ の 「 二 世 」 は ほ ぼ い な い だ ろ う
が )ま ず 1985 年 以 降 生 ま れ で あ れ ば 「 女 子 に 対 す る あ ら ゆ る 形 態 の 差 別 の 撤 廃
に 関 す る 条 約 」 の 批 准 に 合 わ せ て 発 効 し た 改 正 国 籍 法 (=出 生 に よ る 国 籍 取 得 に
つ い て 父 系 主 義 を 廃 し 両 系 主 義 を 採 用 )に よ り 母 (=日 本 )の 国 籍 が 継 承 で き る 。
ただし、これには以下に引用するような経過措置があり、これに従えば、た
と え 1984 年 以 前 の 生 ま れ で あ っ て も (1965 年 以 降 の 生 ま れ で あ り さ え す れ ば )
母 (=日 本 )の 国 籍 が 継 承 で き る 。 た だ し 、 こ の 場 合 は (1985 年 以 降 生 ま れ の 者
と は 異 な り )日 本 へ 来 て か ら 3 カ 月 以 内 に 届 出 を し な け れ ば な ら な い し 、 ま た 、
生まれた日にさかのぼって日本国民になるわけではなく、届出の日から日本国
民となる。
「 国 籍 法 及 び 戸 籍 法 の 一 部 を 改 正 す る 法 律 」 (昭 和 59 年 法 律 第 45 号 )
(国籍の取得の特例)
第 5条
1 昭 和 40 年 1 月 1 日 [=’65.1.1]か ら こ の 法 律 の 施 行 の 日 ( 以 下 「 施 行 日 」 と い
う 。 ) の 前 日 [=’84.12.31]ま で に 生 ま れ た 者 ( 日 本 国 民 で あ つ た 者 を 除 く 。 )
で そ の 出 生 の 時 に 母 が 日 本 国 民 で あ つ た も の は 、母 が 現 に 日 本 国 民 で あ る と き 、
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又 は そ の 死 亡 の 時 に 日 本 国 民 で あ つ た と き は 、 施 行 日 [=’85.12.31]か ら 3 年 以
内に、法務省令で定めるところにより法務大臣に届け出ることによつて、日本
の国籍を取得することができる。
3 第一項に規定する届出をしようとする者が天災その他その責めに帰すること
ができない事由によつて同項に定める期間内に届け出ることができないときは、
その届出の期間は、これをすることができるに至つた時から 3 月とする。
4 第 一 項 の 規 定 に よ る 届 出 を し た 者 は 、そ の 届 出 の 時 に 日 本 の 国 籍 を 取 得 す る 。
以上の特例により「二世」が国籍を取得できるということは、つまり、「一
世」が旧満州に残留を余儀なくされていたということが「天災その他その責め
に帰することができない事由」にあたるとして法務省から認められているとい
うことなのだろう。
なお、「一世」である母が日本国籍離脱者だった場合については既述の原理
を組み合わせれば自ずから「答え」は出るので省略する。ただし上述のことに
関して注意すべきことは以下の各点である。
第 一 に 、 以 上 は あ く ま で も 「 二 世 」 が (帰 化 に よ っ て で は な く 出 生 に よ っ て )
日本国籍をどこまでとれるのかという「果て」あるいは「限界」を示している
だけであるという点。つまり、ここでは帰化による国籍取得については問題と
していない。また「中国に長期間滞在しづらくなるのが嫌」等の事情により戸
籍に関する各種届出を敢えてしなければ、中国の旅券で入国している者につい
て は (た と え「 一 世 」で あ っ て も )法 務 省 か ら は 永 遠 に 中 国 人 と し て 処 遇 さ れ 続
ける。
第二に、出生の届出人は原則的に親となっており、両親がともに死去してし
まうと手続はやりにくくなるという点。
第三に、図 3 は中華人民共和国成立以降については「二世」が婚外子として
生まれることを想定していないが、その可能性が全くないわけではないという
点。
第四に、「一世」が「身元未判明孤児」の場合、出生の届出は事実上不可能
なので、家庭裁判所に申し立てて許可をもらうという手段を取ることになると
いう点。
第五に、図 3 の原理は「三世」による国籍取得についても当てはまるという
点 。例 え ば 母 の 父 が「 一 世 」で あ る よ う な「 三 世 」の 場 合 、1965 年 以 降 に 出 生
していれば国籍が取得しやすい。もっともこの場合、母も日本国籍を取得する
ことが必要条件である。
なお、「一世」や「二世」の国籍をめぐっては以下のような判断が過去に法
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務省や裁判所から出されている。
日本人母の中共からの引揚に伴い、中国人父とともに中国旅券を所持して入
国 し た 子 5 人 (い ず れ も 昭 和 29 年 [=1954 年 ]以 降 中 国 で 出 生 )が 、父 母 の 婚 姻 事
実がなく、また同人らが自己の志望により中国籍を取得した事実が見受けられ
な い と こ ろ か ら 、日 本 国 籍 を 有 す る と さ れ た 事 例 (昭 48[=1973].4.18 民 二 3247
号回答)
法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 (1994:238)
昭 和 19 年 [=1944 年 ]に 渡 満 、 昭 和 25 年 [=1950 年 ]中 国 人 男 と 結 婚 し 、 昭 和
40 年 [=1965 年 ]7 月 申 請 に よ り 中 華 人 民 共 和 国 の 国 籍 を 取 得 し た 日 本 人 女 は 、
日 中 国 交 回 復 の 日 に 日 本 国 籍 を 喪 失 す る 。 (昭 51[=1976 年 ].6.14 民 五 3393 号
回答)
法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 (1994:239)
日本人女が中国本土において中国人男との間に出生した子につき非嫡出子出
生届がなされ、調査の結果、父母につき婚姻の成立を証する書面はないが、母
の 供 述 等 か ら 判 断 し て 、昭 和 23 年 [=1948 年 ]当 時 に お い て 中 華 民 国 民 法 の 定 め
る方式により有効に婚姻が成立していたことが認められるとして上記出生届を
受 理 す べ き で な い と さ れ た 事 例 (昭 53[=1978 年 ].1.21 民 二 431 号 回 答 )
法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 (1994:212)
中 共 政 府 樹 立 (昭 和 24 年 [=1949 年 ]10 月 1 日 )当 時 、中 国 本 土 に お い て 中 国 人
男と事実婚の状態にあった日本人女について、同日をもって同国の方式による
婚 姻 が 成 立 し た (た だ し 、 日 本 国 籍 に つ い て 変 動 は な い )も の と し て 処 理 す る の
が相当であるとされ、また、その結果、右夫婦間の出生子について母からされ
た 非 嫡 出 子 出 生 届 は 受 理 す べ き で な い と さ れ た 事 例 (昭 和 53[=1978 年 ].11.7
民 二 6054 号 回 答 )
法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 (1994:230)
いわゆる中国残留日本人孤児からの就籍許可申立事件において、申立人の父は
知れないが、申立人が中国内で日本人難民集団とともに逃避行を続けていた女
性から中国人養父母に引き渡されたことからすれば、申立人の母は日本人であ
ったことは疑いをいれる余地はなく、申立人は出生により日本国籍を取得して
い る な ど と し て 、就 籍 を 許 可 し た 事 例 (横 浜 家 裁 昭 60[=1985 年 ].11.18 審 判 )
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法 務 省 民 事 局 法 務 研 究 会 (1994:241)
さて、天津協定により制度的に可能となっていた「婦人の里帰り」も、岸信
介 が 五 星 紅 旗 の 扱 い を め ぐ っ て 反 共 的 発 言 を し た こ と 等 が 契 機 と な り 、1958 年
を も っ て 中 断 す る こ と と な っ た 。こ の こ と は 1958 年 6 月 4 日 次 の よ う な 電 報 に
より伝えられた。
中 国 紅 十 字 会 [よ り ]
[引 揚 ]三 団 体 連 絡 事 務 局 あ て
[… 中 略 … ]日 本 の 岸 信 介 政 府 が 中 国 人 民 を 敵 視 す る こ と を 継 続 し て い る の で 、
本会は里帰り日本婦人に対し、彼らが日本へ里帰りに行くことを援助するのを
暫く中止します。
(厚 生 省 援 護 局 2000:58)
こ れ 以 降 は (非 常 に 細 々 と し た )個 別 引 揚 時 代 に 入 り 、 「 中 国 残 留 邦 人 」 の 引
揚・帰 国 の 再 開 は (事 実 上 )日 中 国 交 正 常 化 を 待 た な け れ ば な ら な か っ た (な お 引
揚 援 護 行 政 上 は 、 日 中 国 交 正 常 化 を 境 界 線 と し て そ れ よ り 前 を 「 引 揚 (者 )」 そ
れ 以 後 を 「 帰 国 (者 )」 と 呼 称 す る こ と が 多 い )。
4 日中国交正常化後: 主として厚生省との関わりから
ここからは、日中国交回復から現在まで日本がどのような条件を満たす「中
国残留邦人」を受け入れどのような条件を満たさない「中国残留邦人」を受け
入れてこなかったのか、そこにはどのような選別・選抜原理が働いていたのか
について考察する。
『 厚 生 白 書 』に 紹 介 さ れ て い る 統 計 を 参 考 に す る と 、1972 年 の 日 中 国 交 回 復
後 1999 年 ま で に 一 時 帰 国 を し た 「 中 国 残 留 婦 人 」 (=里 帰 り 婦 人 )お よ び 永 住 帰
国をした「中国残留婦人」について以下のような表を作成できる。
表 5:一 時 帰 国 し た 「 中 国 残 留 婦 人 」 世 帯 数 (上 位 4 年 の み )
1974 年
587 世 帯
13.79%
(2 位 )
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1975 年
898 世 帯
21.09%
(1 位 )
1976 年
448 世 帯
10.52%
(3 位 )
1977 年
262 世 帯
6.15%
(4 位 )
-----------------------------------------上位四位合計
'72∼ '99 合 計
2195 世 帯
4258 世 帯
51.55%
100.00%
(『 厚 生 白 書 』 を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
表 6:永 住 帰 国 し た 「 中 国 残 留 婦 人 」 世 帯 数 (上 位 4 年 の み )
1993 年
203 世 帯
5.53%
(4 位 )
1994 年
222 世 帯
6.04%
(3 位 )
1995 年
308 世 帯
8.38%
(1 位 )
1996 年
239 世 帯
6.51%
(2 位 )
----------------------------------------上位四位合計
972 世 帯
26.46%
'72∼ '99 合 計
3674 世 帯
100.00%
(『 厚 生 白 書 』 を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
表 5・ 6 で 不 可 解 な の は 、 一 時 帰 国 の ピ ー ク と 永 住 帰 国 の ピ ー ク が 20 年 間 も
開いていることである。これはなぜだろうか。また、永住帰国者が一時帰国者
を 下 回 り (4258÷3674×100 で 計 算 す る と )前 者 は 後 者 の 86.28%に し か な ら な い 。
これはなぜだろうか。以下、このことについて考察する。
ま ず「 中 国 残 留 邦 人 」の 永 住 帰 国 を め ぐ っ て は 、以 下 の 図 4 に 示 す よ う な 、4
次 に わ た る (事 実 上 の )「 規 制 緩 和 」 が あ っ た と 言 っ て も 良 い だ ろ う 。
なお、図 4 の「第 1 次」は厚生省が何か策を講じたということではなく、単
に 国 交 が 正 常 化 し た と い う だ け な の で 「 第 2∼ 4 次 」 と は 性 格 が 異 な る 。
また、ここで言う「規制」とは文字通りの規制ではなく「静観・放置するこ
と 」 に よ る (事 実 上 の )「 規 制 」 で あ り 、 日 本 (具 体 的 に は 法 務 省 入 管 )が 日 本 の
旅券を持って入国しようとする日本人を入国させてこなかったということでは
な い 。日 本 に 頼 れ る 人 が な い の で 帰 る に 帰 れ な い (=安 心 し て 帰 れ な い )、自 分 の
(日 本 で の )身 元 が 不 明 の た め 戸 籍 が 入 手 で き ず 日 本 の 旅 券 も 申 請 で き な い 、 と
いう人達のために国がどこまで策を講じるのか、あるいはいつまで静観・放置
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を維持するのか。まずはどのような人から救済し、どのような人は後回しにす
るのか。限られた金銭的・時間的・人員的資源をどのようなカテゴリーの人達
のために配分するのか。カテゴリー化はその人のどのような属性に着目してこ
れを実施するのか。国は誰に対してどこまで責任を負うのか。ここで言う「規
制緩和」とは、以上のような議題について判断を下しながら国が引揚援護の範
囲・対象を拡大していく過程のことを指す。
図 4:「 中 国 残 留 邦 人 」 の 受 入 (永 住 帰 国 )を め ぐ る 「 規 制 緩 和 」
身元
受入
年齢
年
できごと
「効果」
------------------------------------------------------------------第 1次
判明
同意
不問
1972
日中国交正常化
○
第 2次
不明
----
孤児
1985
身元引受人制度を創設
◎
第 3次
判明
拒否
孤児
1989
特別身元引受人制度を創設
△
第 4次
判明
拒否
婦人
1991
特別身元引受人制度を適用
◎
ここでまず重要なことは「中国残留邦人」の選別・選抜に際し以下のような
3 つの原理に基づく基準が設定されていたということである。
第 1 の選別原理は「同定能力」である。つまり自分がどこの誰か知っている
か。そして知っているというだけでなくそれを他人に対して立証することがで
きるかということである。自分を特定氏名と特定本籍に同定することに失敗す
れば戸籍謄本の取り寄せは不可能になり、自分が日本国籍を保有していること
を公的に証明することも困難となり、旅券の入手は困難となってしまう。
第 2 の選別原理は「生計能力」である。つまり在日親族が受入に同意してい
る か ど う か で あ る 。同 意 が 取 れ な い 場 合 は 、国 と し て も (親 族 の 代 わ り と な っ て )
「水際」以降の面倒を見たくはないものだから、結局「水際まで」の援護です
らしてもらえなくなる。なお、この選別原理は入管法における以下のような規
定と意図・目的を一にしていると思われる。
出 入 国 管 理 及 び 難 民 認 定 法 (昭 和 26 年 10 月 4 日 政 令 第 319 号 )
(上 陸 の 拒 否 )
第 5 条 次の各号の一に該当する外国人は、本邦に上陸することができない。
三 貧 困 者 、放 浪 者 等 で 生 活 上 国 又 は 地 方 公 共 団 体 の 負 担 と な る お そ れ の あ る 者
(出 入 国 管 理 法 令 研 究 会 2000:216)
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第 3 の選別原理は「責任能力」である。つまり、北京協定に基づいた集団引
揚が開始した時点で成人していたかどうかである。成人していた場合は、自己
の判断と意志と責任に基づき敢えて中国残留を選択したという理屈づけにより、
永住帰国は原則自助となる。そして実はこの、年齢という物差しを根拠とした
「 責 任 能 力 」の 保 有 度 合 こ そ が「 中 国 残 留 孤 児 」と「 中 国 残 留 婦 人 」を 分 類 し 、
1991 年 に 至 る ま で「 中 国 残 留 婦 人 」を 国 費 永 住 帰 国 と い う サ ー ビ ス へ の ア ク セ
ス機会から排除しつづけるための原理として働いたのである。
さて、以下第 1 次から第 4 次にかけて、規制がどのように緩和されていった
かについて検討する。
まず、第 1 次「規制緩和」は日中国交回復である。これにより、自分がどこ
の誰であるかをしっかり覚えており、かつ在日親族と連絡を取ることができ、
かつ在日親族から永住帰国についての支持を取り付けることに成功した者は、
永住帰国することができるようになった。
しかし、一時帰国ならまだしも、永住帰国に関して在日親族の支持を取り付
けることは並大抵のことではない。旧満州で家族と死別した者などにとって、
在 日 親 族 と は (基 本 的 に )オ ジ・オ バ で あ る 。代 替 わ り し て い れ ば イ ト コ で あ る 。
し か も 、1958 年 に 集 団 引 揚 が 中 断 し た こ と を 受 け た 戦 時 死 亡 宣 告 制 度 に よ り 戸
籍 上 死 亡 し た こ と に さ れ て し ま っ て い る 者 の 場 合 、(い わ ば )死 人 が 生 き 返 り (し
か も )日 本 へ 戻 っ て く る わ け だ か ら 、在 日 親 族 か ら し て み れ ば 、せ っ か く ま と ま
っていた家屋や土地をはじめとする遺産相続の話も蒸し返すことになりかねな
い し 、 「 戦 死 し た 父 (あ る い は 夫 )の 弔 慰 金 の 正 当 な 受 取 人 は 私 で す 」 な ど と 言
われた日にはたまったものではない。また、日本語も分からないような外国人
をぞろぞろと連れてこられたのでは、周囲の目も気になるし、第一、今は自分
の 生 活 だ け で 手 一 杯 な の に 人 の 面 倒 ま で 見 る 余 裕 は な い ----と い う こ と に な る
場合が多い。
在日親族から「中国残留邦人」に宛てられた受入拒否を表明する手紙には、
およそ以下のようなことが書いてある。
○月○日手紙受け取りました。△△△さんが日本人の子供だから日本に帰国
するのはあたりまえと思うと書いてましたが、日本に帰らうとする心が理解で
きます。
△△△さんは日本人として帰国し定住する権利もあります。但是、帰国後自
己の生活が誰にも頼らず自立することが出来ればです。この問題が重要で最も
大切なことです。一時帰国とは違います。定住するということは、日本で生活
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することです。生活することはどういうことかわかりますか?
△△△は両親は日本人だったけれど親は死亡して日本には居りません。小さ
い子供の時から中国で暮らし風俗も習慣も感覚も中国人と同様です。日本語も
話 せ ま せ ん し 文 盲 で す 。帰 国 し て も 日 本 の 社 会 の 中 に 調 和 す る こ と 困 難 で す よ 。
日本国は現在経済的不況。失業者が大勢居ります。現在の日本は生活水準は
高いと思うでしょうが、日本国人の中には生活の貧しい人大勢居ます。
△ △ △ は 言 葉 が 不 自 由 で (日 本 語 話 せ ま せ ん )文 盲 と い う 困 難 な 問 題 が あ り ま
す。日本の会社企業ではまづ仕事探すこと困難でしょう。帰国しても幸福には
な れ な い と 思 い ま す 。△ △ △ さ ん が 私 を 頼 り に 帰 国 し て も 私 は ××家 の 嫁 で す 。
一 切 援 助 は 出 来 ま せ ん 。 ××家 で △ △ △ さ ん 家 族 の 生 活 を 世 話 す る 能 力 あ り ま
せんから、お願しますと頼まれても△△△さんの願を受けられません。
△△△さん日本に帰国しても親は居りませんし肉親という人は叔母の私 1 人
だ け で す 。 叔 母 と い う 立 場 は 私 の 生 活 を 犠 牲 に し て ま で 甥 (す な わ ち △ △ △ )の
世話をすること出来ないのです。この点わかりますか。中国には△△△の肉親
が多勢居るではありませんか。中国で皆んな仲良くして助け合って暮らした方
が幸福ではないかと思います。
○月○日
××
△△△様
以上はある「中国残留孤児」の遺品である。なお、彼は永住帰国を果たせず
し て 中 国 で 亡 く な っ た が 、 1991 年 の 改 正 入 管 法 施 行 以 後 、 彼 の 息 子 が (入 管 行
政 が 分 類 す る と こ ろ の )「 日 系 中 国 人 」と し て 日 本 に 来 て い る (改 正 入 管 法 は「 二
世 世 帯 」や「 三 世 世 帯 」が「 永 住 帰 国 の 夢 」を「 一 世 に 成 り か わ っ て 実 現 す る 」
た め 、 現 在 お お い に 活 用 さ れ て い る )。
次 に 、第 2 次「 規 制 緩 和 」は 身 元 引 受 人 制 度 の 創 設 だ っ た 。こ れ は 自 分 が (日
本 で は )ど こ の 誰 か 分 か ら ず (日 本 で は )身 寄 り が な い と い う 者 に 対 し 、国 が 責 任
を持って在日親族のかわりを紹介するという制度だった。
な お 、 藤 沼 (1998)に よ れ ば 、 こ の 身 元 引 受 人 制 度 の 成 立 は 1984 年 2 月 25 日
に日中両国政府間で「残留孤児引取りに関する口上書」が交換されたことをひ
とつの契機としているようである。そしてこの制度の成立は以下の表 7 に示す
通 り 、非 常 に 大 き な「 効 果 」を 上 げ た 。1974 年 以 降 民 間 の ボ ラ ン テ ィ ア 団 体 に
よ る 肉 親 捜 し が 大 々 的 に 新 聞 報 道 さ れ る よ う に な っ て も 、1981 年 以 降 厚 生 省 が
「 身 元 未 判 明 孤 児 」 を 呼 ん で 「 訪 日 調 査 」 (=「 帰 国 」 で は な く 「 訪 日 」 で あ る
と こ ろ が「 ミ ソ 」で あ る )を 実 施 し て も 、「 中 国 残 留 孤 児 」の 永 住 帰 国 者 数 は 決
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し て 高 い 数 値 を 記 録 し な か っ た 。 1972 年 か ら 1985 年 に か け て の 「 中 国 残 留 孤
児 」の 永 住 帰 国 者 数 は 他 の ど の 年 度 (='72∼ '99)よ り も 低 い 。と こ ろ が そ の 翌 年 、
数値は一気に跳ね上がったのだ。
表 7:永 住 帰 国 し た 「 中 国 残 留 孤 児 」 世 帯 数 (上 位 6 年 の み )
1986 年
159 世 帯
6.78%
(5 位 )
1987 年
272 世 帯
11.60%
(1 位 )
1988 年
267 世 帯
11.39%
(2 位 )
1989 年
218 世 帯
9.30%
(3 位 )
1990 年
181 世 帯
7.72%
(4 位 )
1991 年
145 世 帯
6.19%
(6 位 )
----------------------------------------上位六位合計
'72∼ '99 合 計
1242 世 帯
2344 世 帯
52.99%
100.00%
(『 厚 生 白 書 』 を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
さ て 、第 3 次「 規 制 緩 和 」は 1989 年 に お け る 特 別 身 元 引 受 人 制 度 の 創 設 だ っ
た。これは「肉親なんか見つからなかった方がよかった。厚生省の肉親捜しは
いったいなんだったのか。肉親がみつかった人は帰国できず、みつからない人
が 未 判 明 孤 児 と し て ど ん ど ん 帰 国 し て ゆ く 」(菅 原 1989:131)と い う 言 葉 に 代 表
さ れ る よ う な 問 題 に 対 処 す る た め の 制 度 で あ り 、 藤 沼 (1998)に よ れ ば 、 「 援 護
局 長 発 各 都 道 府 県 知 事 宛 通 知 第 411 号 」 「 庶 務 課 長 発 各 都 道 府 県 民 生 主 管 部
(局 )長 宛 通 知 第 267 号 」に よ っ て 通 知 さ れ た 。し か し 、こ の 制 度 が 発 足 し た 後
に「中国残留孤児」の永住帰国世帯数が上がったという事実は確認できない。
だがしかし、この同じ特別身元引受人制度が「中国残留婦人」に対して適用
されたとき、「中国残留婦人」の永住帰国世帯数は高数値を記録していった。
これが第 3 次「規制緩和」である。
第 2 次および第 3 次「規制緩和」の「効果」等をめぐっては以下のような表
を作成することもできる。
表 8:永 住 帰 国 し た 「 中 国 残 留 孤 児 ・ 婦 人 」 世 帯 数 の 比 較 ('85∼ '99)
年
孤児
婦人
できごと
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--------------------------------------------------------1985 年
56 世 帯
<113 世 帯 >
1986 年
<159 世 帯 >
122 世 帯
1987 年
<272 世 帯 >
105 世 帯
1988 年
<267 世 帯 >
98 世 帯
1989 年
<218 世 帯 >
125 世 帯
1990 年
<181 世 帯 >
145 世 帯
1991 年
<145 世 帯 >
133 世 帯
1992 年
120 世 帯
<163 世 帯 >
1993 年
115 世 帯
<203 世 帯 >
1994 年
100 世 帯
<222 世 帯 >
1995 年
91 世 帯
<308 世 帯 >
1996 年
110 世 帯
<239 世 帯 >
1997 年
108 世 帯
<132 世 帯 >
1998 年
<94 世 帯 >
66 世 帯
1999 年
<65 世 帯 >
43 世 帯
未判明孤児も国が帰す
受入拒否婦人も国が帰す
三カ年計画終了
--------------------------------------------------------'72∼ '99 年
2344 世 帯
<3674 世 帯 >
(『 厚 生 白 書 』 を 参 考 に 鍛 治 が 作 成 )
表 8 か ら 言 え る こ と は 、'72∼ '99 年 の 合 計 値 は「 中 国 残 留 婦 人 」の 方 が 多 く
(=1.57 倍 )、 「 孤 児 」 よ り も 「 婦 人 」 の 方 が (い わ ば )「 主 流 」 で あ る と い う こ
と で あ る (な お 表 8 で 省 略 し た 1972 年 ∼ 1984 年 に お け る「 主 流 」も「 中 国 残 留
婦 人 」 で あ る )。
た だ し 、1986 年 、「 中 国 残 留 婦 人 」は 史 上 初 め て「 中 国 残 留 孤 児 」に「 主 流 」
の 座 を 明 け 渡 し た 。こ れ は 1985 年 に 身 元 引 受 人 制 度 が 開 始 し た こ と に よ る も の
と 思 わ れ る 。 こ の 制 度 は (前 述 の 通 り )た と え 身 元 未 判 明 に よ り (「 ク ニ 」 =「 イ
エ 」と の「 絆 」で あ る と こ ろ の )戸 籍 が 探 し 当 て ら れ な い 者 で あ っ て も 、日 中 両
国 政 府 間 の 合 意 の 下 、 彼 (女 )ら が 祖 国 に 永 住 帰 国 で き る よ う 便 宜 を は か る と い
う 施 策 の 一 環 と し て 発 足 し た 制 度 だ っ た (も っ と も 法 務 省 は こ れ を「 日 本 人 が 帰
国した」というよりは「外国人が来日した」と見なし、身元未判明孤児達に対
し て 外 国 人 登 録 を 義 務 づ け て い た の だ が 。 菅 原 1989:142-143)。
「 中 国 残 留 婦 人 」が「 中 国 残 留 孤 児 」か ら「 主 流 」の 座 を 奪 回 し た の は 、1992
年 の こ と で あ る 。 藤 沼 (1998)に よ れ ば 、 こ れ は 、 在 日 親 族 か ら 受 入 を 拒 否 さ れ
ているために帰国できなかった身元判明孤児を対象として創設された特別身元
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制度が「中国残留婦人」にも適用された、その翌年である。
以 上 を 総 括 す る と 次 の よ う に 言 え る だ ろ う 。(年 ご と の 永 住 帰 国 世 帯 数 を 質 的
に で は な く 量 的 に 見 て 判 断 す る 限 り )孤 児 に と っ て の「 革 命 」は「 未 判 明 で も 帰
国援護する」という国の方針転換であり、婦人にとっての「革命」は「親族拒
否でも帰国援護する」という国の方針転換であった。これはつまり、孤児達に
とっては「自分がどこの誰なのか分からない」が、婦人達にとっては「親族に
帰ってくるなと反対された」が大きな「壁」になっていたということだ。
さて「中国残留婦人」が「中国残留孤児」に再び「主流」の座を明け渡した
の は 1998 年 の こ と で あ る 。こ の 前 年 は (3 月 末 を も っ て )い わ ゆ る「 3 カ 年 計 画 」
が 終 結 し た 年 だ っ た 。こ れ は 1993 年 9 月 に 起 こ っ た い わ ゆ る「 強 行 帰 国 」を 受
けて厚生省が打ち出した施策であり、未だ中国にあって早期永住帰国を希望と
す る 者 に つ い て は 、1994 年 度 か ら の 3 カ 年 で 全 員 早 期 に 永 住 帰 国 さ せ る と い う
ものであった。
なお、この「強行帰国」とは「このまま厚生省の援助を待ち続けているので
は 生 き て い る う ち に 帰 れ な い 」 (朝 日 '93.9.7 朝 刊 2 頁 )つ ま り 、 厚 生 省 が 特 別
身元引受人を斡旋してくれるのを待っていたのでは永住帰国がいつ実現するか
分 か ら な い と い う 事 情 を 背 景 に「 中 国 残 留 婦 人 」ら 12 人 (全 員 日 本 国 籍 )が「 戦
前の国策で旧満州に渡り、戦後は帰るすべもないまま中国で生き抜いてきた。
高齢になって祖国の土に返りたいと願っても、身元の引受人はおらず、生活を
し て い く 手 だ て も な い 」 (毎 日 新 聞 '93.9.6 朝 刊 23 頁 )「 故 国 の 土 に な り た い 。
思 い を 細 川 首 相 に 直 訴 し た い 」(毎 日 新 聞 '93.9.6 夕 刊 11 頁 )「 私 た ち は 日 本 政
府にすがるしか生きる道はないし、政府が対応してくれないなら、この空港で
死 ぬ だ け 」(毎 日 新 聞 '93.9.6 朝 刊 23 頁 )と し て 成 田 空 港 で 宿 泊 を 始 め て し ま っ
たという出来事である。
さ て 、 藤 沼 (1998)に よ れ ば 、 身 元 未 判 明 孤 児 の 永 住 帰 国 等 を 日 中 両 国 政 府 間
で 取 り 決 め た 年 (=1984 年 )に 開 所 し た 「 中 国 帰 国 孤 児 定 着 促 進 セ ン タ ー 」 は 、
「 強 行 帰 国 」の 翌 年 (=1994 年 )に「 中 国 帰 国 者 定 着 促 進 セ ン タ ー 」と 改 称 し た 。
同 セ ン タ ー の 開 所 は 、 「 (基 本 的 に )『 水 際 』 ま で し か 援 護 で き な い 。 そ こ か ら
先は在日親族を頼るなどして各々『落着先』をみつけるように」としてきた戦
後の引揚援護施策の中に起こったひとつの「革命」であった。そしてこの「革
命」は、「未判明者だけ」「孤児だけ」という制限を段階的に撤廃して現在ま
で 続 い て い る 。た だ し 、「 水 際 ま で 」が 部 分 的 に 撤 廃 さ れ る ま で に 約 40 年 、そ
して「未判明者だけ」「孤児だけ」が全面的に撤廃されるにはそれからさらに
10 年 間 の 歳 月 を 要 し た こ と は こ れ ま で 見 て き た 通 り で あ る 。
そ し て 、冒 頭 の 表 5・6 に お け る 2 つ の「 不 可 解 」に 対 し て は 、今 は ま だ 明 確
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な「 解 答 」が 出 せ な い も の の 、「 中 国 残 留 婦 人 」達 が (制 度 上 い ち お う 安 心 し て )
一 時 帰 国 だ け で な く 永 住 帰 国 も で き る よ う に な る ま で に は (事 実 上 )20 年 の 歳
月を要し、中にはそれに間に合わずに死去した者が多数いた、という推測は立
てられるのではないかと思う。
5 さいごに
本稿では触れることができなかった議題は多数ある。
「元中国残留邦人」を「核」とする「中国帰国者」という議題。「中国帰国
者 」 が 指 し 示 す 範 囲 が (養 父 母 の 問 題 も 含 め )引 揚 援 護 施 策 の 中 で ど の よ う に 拡
大 し て い っ た の か と い う 議 題 。「 二・三 世 世 帯 」(「 一 世 」が 存 命 か 否 か を 問 わ
な い )に 関 す る 入 国 と 定 住 の 法 的 根 拠 が 「 ガ ラ ス 張 り 」 と な っ た 1991 年 以 降 の
入 管 法 政 。 永 住 帰 国 を 果 た せ ぬ ま ま 日 本 を 慕 い つ つ (あ る い は 恨 み つ つ )死 ん で
いった者たちの「亡骸」の中に残留していた「日系人の素」が「墓荒らし」達
の手によって「開封」され「流出」「拡散」した結果としての「偽装日系中国
人」問題。実子にも特別養子にも恵まれなかった「中国残留邦人」は入管法と
の 関 連 か ら (事 実 上 )永 住 帰 国 で き な い の で は な い か と い う 問 題 。 親 子 関 係 を
「 DNA 関 係 」 に 「 還 元 」 し 、 日 本 人 の 養 子 や 継 子 の 入 国 や 定 住 を 制 限 す る こ と
は 、 単 に 養 子 や 継 子 を 差 別 す る こ と に な る だ け で な く 、 国 家 の エ ゴ (=先 の 戦 争
や 東 西 対 立 )に よ っ て 半 世 紀 に わ た り 家 族 結 合 を 妨 げ ら れ 続 け て き た「 元 中 国 残
留邦人」達の人権を引き続き侵害し続けることにはならないかという問題。
「 DNA ハ ン タ ー 」 (=入 管 職 員 )と 「 墓 泥 棒 」 (=「 偽 装 日 系 中 国 人 」 )と の 間 で 現
在 展 開 し て い る 「 DNA の 所 在 」 と 「 リ ネ ー ジ の 真 正 性 」 を め ぐ る 「 お い か け っ
こ」等々。
以上の議題については次の機会に論じることとしたい。
最後に、引揚援護行政と入国管理行政との間の「溝」がいかに深いかという
ことを示すある法務官僚の言葉を引用しておく。これは「中国帰国者」という
厚生省側における呼称と「日系中国人」という法務省側における呼称との間の
「距離」をも象徴しているようで興味深い。
近 現 代 の 帝 国 主 義 の 時 代 に 軍 人 ・ 軍 属 を 含 め 400 万 近 い 数 の 日 本 人 が 朝 鮮 半
島、中国大陸に進出した。しかし、戦争の終結により、これらの日本人はすべ
て日本に引き揚げた。
(坂 中 1996:242)
「 (元 )中 国 残 留 邦 人 」 た ち は 、 そ し て 、 旧 満 州 で 死 ん で い っ た 開 拓 民 達 は 、
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いったいどのような気持ちでこの文章を読むだろうか。
引用文献:
ぎょうせい(1997)『援護 50 年史』
厚生省大臣官房企画室『厚生白書』
厚生省援護局(2000)『続々・引揚援護の記録』クレス出版
坂中英徳(1996)『国際人流の展開』日本加除出版
出入国管理法令研究会(2000)『改訂 2 版:入管法 Q&A』三協法規
菅原幸助(1989)『「日本人になれない」中国孤児:官僚と帰国者たち』洋泉社
哈爾濱地図出版社(2000)『黒龍江省地図冊』
藤沼敏子(1998)「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」『中国帰国者定着促進セン
ター紀要第 6 号』
方正県誌編纂委員会(1990)『方正県誌』
法務省民事局法務研究会(1994)『改訂:国籍実務解説』日本加除出版
満洲開拓史刊行会(1966)『満洲開拓史』
(京都大学大学院教育学研究科博士課程)
=========
(以下 2002-05-10 鍛治加筆)
以上の論文の出典は下記の通り:
「『中国残留邦人』の形成と受入について:選別あるいは選抜という視点から」梶田孝道(編著)
『国際移民の新動向と外国人政策の課題:各国における現状と取り組み』東京入管の依頼によ
る研究報告書 2001 年 3 月 p271∼ p294
以上の論文で「疑問は残る。」と判断を留保した部分があるが、その後の調べでこれは「中国
人夫の国籍国における国籍法との兼ね合いから」であることが判明した。なお、この問題をめぐ
っては以下の資料がある。
『戸籍時報』(1999 年 9 月号)「国籍相談(318)中華人民共和国成立前に中国本土において、
中国人男と中華民国の方式により婚姻した中国残留婦人及び同夫婦間の子の国籍について」
以上の論文は「発表された当時そのまま」であり、新たに手を加えた部分はないが、数カ所の
誤字についてだけは訂正してある。
以上の論文に関する問い合わせは下記まで:
鍛治致(KAJI,Itaru)
(以上 2004-03-12 鍛治加筆)