2016年3月 「拒絶された道」

2016 年 3 月 6 日主日礼拝説教
拒絶された道
イザヤ書 53:1-12
ルカによる福音書 22:35-46
藤井 和弘 牧師
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願い
ではなく、御心のままに行ってください」。
これは、私たちが普通「ゲッセマネ」という名で知っている場所で聞かれた主イ
エスの祈りの言葉です。主イエスがこの祈りを祈られたとき、そこには恐ろしい危機
と苦難が訪れようとしていました。この出来事の直後、主イエスは 12 弟子の一人イ
スカリオテのユダの裏切りによって逮捕されます。それはまさに十字架の死へと続
く受難の道でした。ゲッセマネでの主イエスの祈りは、その十字架の死へと続く受
難の道を主イエスが最終的に選び取られたことを教えています。「御心なら、この
杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに
行ってください」。つまり、主イエスは、激しい苦悩のただ中で十字架で死ぬという
ことこそが父なる神の御心であるとして、そこに至る道を選び取られたのです。
けれども、この場面を読むたびに、以前から私の中には何か引っかかりを感じる
ことがありました。それは、もしかすると、今も私たちの前に問われなければならな
いものとして置かれているのかもしれません。
その引っかかりというのは、主イエスが祈りの中で口にしておられた「この杯をわ
たしから取りのける」という願いがもし成就することがあったとすれば、それはどのよ
うなことであっただろう、ということです。つまり、十字架の死へと続く受難の道では
ない「道」、言い換えるなら、父なる神の御心にかなう道ではなかった「道」とは何
であったのか。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」、そう祈るこ
とによって、主イエスが拒絶なさった「道」とは何であったのかということです。
もちろん、このように問うということは問題を含んだことかもしれません。聖書が証
言し、私たちの前に置かれているのは、まぎれもなく十字架の苦難と死に至る道を
主イエスが歩まれたという事実です。ですから、それ以外の「道」について問うとい
うのは推測の域を出ないものですし、さらに言うなら、主の十字架がもたらす私た
ち自身の救いを揺るがしかねないことになるからです。
しかしまた、それについてはこうも言えるのではないかと思うのです。つまり、確
かに推測の域を出ないにせよ、もし主イエスがたどられた道ではない道が何であ
ったかを知ることができるなら、私たちにとって主の苦難と十字架の死に至る道は
より深く理解できるようになるのではないかということです。そして事実、福音書そ
れ自身が、主イエスが拒絶なさった道について何らかのことを知っているということ
です。
この記事の直前に、ルカによる福音書は、使徒たちに対して主イエスが語られ
た言葉を伝えていました(35-38 節)。ここはルカによる福音書だけに出てくるところ
です。それはとても謎めいていて、一見すると主イエスのおっしゃった教えと矛盾
しているようにも見えるところとなっています。
ここで主イエスがお語りになっていることとは何でしょうか。まず初めに、主イエス
は、以前使徒たちを宣教のために派遣なさった時とは反対に、財布や袋のある者
はそれを持って行くよう命じておられます。さらには服を売って剣を準備するように
とさえおっしゃったとあります。私たちは、主イエスが別のところで、「剣を取る者は
皆、剣で滅びる」とお語りになられたことを知っています。しかし、なぜか主イエス
はここで剣のない者は服を売って買うように言われるのです。
なぜそのようなことを、主イエスはここでお語りになられるのでしょうか。それにつ
いて、ルカによる福音書は、御自身の受難を目の前にした「今」という時がどのよう
な時なのかについて、主イエスが弟子たちに教えようとされたことを伝えておりまし
た。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさ
い。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」。
以前使徒たちを宣教に遣わされたとき、主イエスは「何も持って行ってはならな
い」と教えられました。それは、彼ら自身は弱くもろい存在であったにもかかわらず、
彼らの行う宣教が神の配慮と導きによって支えられたものであることを使徒たちに
自覚させるためであったと思われます。具体的には、使徒たちは自分たちが足を
踏み入れた町や村で彼らを迎え入れてくれる人々の親切やもてなしを経験したの
です。
それに対して、「しかし今は」と主イエスがおっしゃっておられる時はどのような
時なのか。財布も袋も持って行くように、そして、剣を持たない者は買うようにという
言葉から考えますと、自分の力で何もかもやって行かなければならない、そういっ
た様子のことが言われているのではないでしょうか。そこには以前とは異なる状況
があったのでしょう。すなわち、人々の親切やもてなしがもはや期待できないので
す。いいえ、使徒たちは歓迎されないどころか、自分たちに危険が迫り、生と死が
隣り合わせにあるような事態がそこにはあったのです。そのようなところで人間が本
能的に取り得る態度、それは自分独りで自分の力でやって行くという態度ではな
いでしょうか。
まだ、主イエスの十字架について教えられなかったとき、使徒たちは「何も持っ
て行ってはならない」という主の言葉に信頼して出かけることができました。けれど
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も、今や危険が迫り、弟子たちの中からも裏切る者が現れ、主イエス御自身も逮捕
されるという息もつまりそうな事態を前にして、使徒たちはどのような道を選び取る
のか。もしかすると主イエスがここでおっしゃっていることというのは、そのことを暗
示するものになってはいないでしょうか。すなわち、ここで主イエスは、もはや神の
配慮や導きに信頼せずに、自分の力で困難な状況を乗り切れと言われているの
ではないのです。剣を買い求め、暴力的なことには暴力をもって備えよと命じてお
られるのではないのです。そうではなく、御自分に従う者たちが、深刻な事態を前
にして自分たちの力に拠って立つような誘惑にさらされるということを主イエスはこ
のとき御存じであったということです。彼らが御自身を見捨てて逃げるということ、そ
れはつまり、彼らが自分の力でやっていかなければならない道を選んだということ
です。そのことに主イエスは気づいておられたのではなかったでしょうか。
この「自分の力でやっていかなければならない」ということは、けれども、主イエス
に従う使徒たちにのみかかわることではなく、実は、主イエス御自身にもこのときか
かわるものであったことを私たちに想像させます。そして、それが「わたしの願いで
はなく、御心のままに行ってください」という主イエスの祈りにつながったということ
です。父なる神の御心が何かについて、主イエスは今日のところではっきりとお語
りになっていました。それが、37 節に出てきます「その人は犯罪人の一人に数えら
れる」ということです。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書
かれてあることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現する
からである」。十字架の死に至る主イエスの苦難とは、犯罪人として死ぬ道にほか
なりませんでした。そして、それこそが主イエスにとっての御父の御心であったとい
うことです。父の御心にかなう道として主イエスが選び取られたのは、単に漠然とし
た死に向かう道ではなかったのです。むしろ、犯罪人の一人に数えられる死、そ
れは誰からも悲しまれたり、讃えられることのない死のことです。この世から蔑まれ、
見捨てられ、怒りを買い、呪われた死。この世の片隅へと追いやられた死なので
す。
そのような死に至る道を選び取ることによって主イエスが拒絶された道、まさしく
それが、このとき弟子たちが足を向けようとしていた道です。つまり、自分の力に頼
ってやって行こうとする道だったのではないでしょうか。主イエスの場合、それは弟
子たちと違って特別な意味を含んでいました。神の御子である主イエスにおいて
自らの力に頼るということ、それはほかでもなく地上で王となる道であったからです。
犯罪人の一人に数えられるといった人々の嘲りを浴びせられるところではなく、む
しろ、人々の称賛を受けるところ―しかし、そのような道を、主イエスは拒否なさい
ました。むしろ、弟子たちからも見離され、この世の多くの人々から見捨てられるこ
とになる孤独の道を、主は選び取られます。そこにこそ天の御心があり、御父によ
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って備えられた道があったからです。
使徒たちにとりまして、結局のところ、財布も剣も助けにはなることはありません
でした。しかし、どうでしょうか。犯罪人の一人に数えられるという道を主イエスが選
び取ろうとなさるまさにそのところで、使徒たちは、「主よ、剣なら、このとおりここに
二振りあります」と、剣を示して見せるのです。それは、このときすでに使徒たちの
中で、みずからの力でやって行こうとする思いが生まれつつあった。そのような思
いに使徒たちは絡め取られていたことを意味するのではないでしょうか。私たちも
また、平穏無事な日常であるとき神の御言葉に信頼することが容易に感じられるこ
とがあります。しかし、そういった日常が脅かされるとき、まして神の支えが感じられ
ないとき、私たちはどこかで自分で自分を支えようとする術に捕われ、それを求め
ようとするのではないでしょうか。目の前の苦境からすぐにでも助け出してくれるよ
うな道ならばいざ知らず、胸をふさがれるような苦難の道をたどり続けるというのは、
私たち人間にとっては何とも我慢のならないことなのではないでしょうか。
しかし、そういった中で私たちを本当に強く支えるのは何のかについて、今日の
御言葉は私たちに教えてくれているように思います。それは、地上で王となる道で
はありません。犯罪人の一人に数えられるとしても、それを御心として受けとめ、神
への信頼に歩まれた主イエスこそ、どのようなときにも私たちを支えることのできる
お方であると、今日の聖書は告げているように思います。
自分で自分を支えようとする道と、すべてを神に委ねて生きる道とが交錯する中
で、主イエスは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」「起きて、祈っていなさい」と繰
り返し呼びかけておられました。主イエスの十字架を救い主と告白しながら、教会
は剣で血を流す歴史をみずからたどってまいりました。「御心のままに」と口にしな
がら、多くのキリスト者はつねに自分の思いに仕える歩みをなしてきました。けれど
も、それらは、主イエスが十字架へと向かわれる中で拒絶なさった道でありました。
十字架を掲げる共同体、それこそが教会の自己理解です。もはや頼るべきもの
が何一つ失われてしまったような中で、それでも拠って立つことができることを教
会は知らされているのです。希望に価するものがもはや奪い尽くされてしまったよ
うな中で、それでも希望のうちに歩むことができることを教会は聞き取ってきたので
す。古い自分に死に、神から与えられる新しい自分に生きていく。そこにこそ自分
たちを本当に支える強さがあることを、教会は聞き取ってきました。その強さは、神
御自身が惜しみなく私たちの土台となり避け所となってくださるところから与えられ
る強さです。そこにこそ私たちのいのちがあります。受難節を歩んでいます。どうか、
私たちの信仰が主イエスの十字架に拠って立つものであることをもう一度新たに
覚えたいと思います。
(藤井和弘牧師)
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