「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的 - So-net

「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案
土 井 浩 之
(弁護士土井法律事務所、022-212-3773
人権擁護委員、東北学院大学法科大学院講師)
はじめに
本拙文は、いわゆる医学的ないし心理学的論文とは趣を異にしております。筆
者は、平成6年より弁護士を開業している者であり、平成17年から人権擁護委
員を拝命している者です。
弁護士としては、過労死・過労自死事件(全国過労死弁護団幹事)を中心に、
パワーハラスメント、解雇などの労働問題、学校や任意団体、地域でのいじめ、
また家庭の中の夫婦、男女問題、親子の面会交流事件、刑事弁護等に取り組んで
きました。また、人権擁護委員として、人権相談を受け付けて法律的解決とはま
た異なる視点で、自死やストレス、対人関係の問題にかかわってきました。
そのような対人関係の中での問題についての解決をめざし、クライアントは
もちろん、裁判所や役所、または同僚などに対して、今起きている紛争の状態を
説明する必要に迫られ、あれこれ私なりに学習し、考えてきたものを集約したも
のです。
拙文が、自死対策に何らかの実務的貢献ができれば望外の幸せであります。
第1 情動のコントロール
1 動物としての情動
人間に限らず、動物は危険に対処する生理的仕組みを遺伝的に有してい
る。キャノンの緊急反応、セリエの警戒反応という先駆的な研究を経て、ア
ントニオ・ダマシオが一次の情動と名付けた脳の機能である。
即ち、身体・生命の危険を示す事象を、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で
覚知し、脳がそれを統合して危険と判断し、視床下部から副腎髄質のホルモ
ン分泌を促すなどする。
その結果、血圧の上昇、心臓の拍動の昂進(こうしん)、血液の凝固力の強
化が生じ、体温の上昇、血流が内臓から筋肉に多く流れようとするなどの生
理的反応が生じる。
これは、危険から走って遠ざかる場合、逆に危険に対して闘いを挑んで危
険を排除する場合に好都合な生理的変化であり、理に適っているというこ
とになる。
1
逃走(FLIGHT)と闘争(FIGHT)という二つの「(F)」といわれている。
(バベット・ロスチャイルド 「PTSD とトラウマの心理療法」創元社)
人間も、このような情動ないし情動反応が生じているが、当事者が、反応
時に、それを自覚することは難しい。また、反応の有無、程度は個性が大き
く影響しているようだ。ある人にとっては情動反応すら起きないことが、あ
る人にとってはたまらない恐怖になる、またある人はそのことに接して大
きな怒りを抑えられないという現象を目の当たりにすることがある。
2 人間の情動のコントロール
人間は、日常生活においては、生きるか死ぬかという事態に直面すること
はあまりない。危険を感じても、一目散に逃げ出したり、無我夢中で他人に
攻撃を加えるということも多いわけではない。
(ただ、刑事弁護の仕事では、
このような攻撃行動にしばしば出会う。)
また、人間は、危険について、それが存在するかしないかという二者択一
的な考え方ではなく、
「どの程度危険であるか、またそれを回避するために
はどのような手段が合理的か」という思考をとることが他の動物と比較す
ると顕著な違いだと思われる。
人間は、火を使う動物であるということが特徴的だと言われるが、それは、
危険を利用する動物であると表現を置き換えることも可能だと考える。あ
えて危険に近づき、危険性をコントロールして、危険から利益を享受する動
物だと整理できると思う。
他の動物は、火を見れば、危険であると認識し、火に近づかない。それで
すむ。ところが、毛皮もなく、クマの爪もオオカミの牙も持たず、またカバ
や象のような硬い皮膚や体重も持たず、馬のような走力もないという全く
生活力のない人間は、危険を味方にすることによって、種としての存続を図
るほかはなかった。このため、火の高温の範囲を把握し、燃えていない部分
をつかむことによって火を移動させ、利用することを行っていた。
人間も、火を認識すれば、ある程度の情動反応が起きる。しかし、推論す
る力で、危険の認識を限定的なものとして把握することによって、情動反応
を抑える、即ち情動をコントロールすることができた。
この「推論する力」とは、自分のこれからする行動が、どのような結果が
生じるかということを推論し、危険な結果を回避するという力である。この
結果、危険な結果を起こさないように危険を利用することができる。また、
危険な結果が発生する確率が高い場合は、行為自体を回避することになる。
火事のように強力な火力がある場所には近づかないということになる。
但し、このような危険に対する情動のコントロールが可能である場合と
いうのは、危険がコントロール可能だと認識した場合である。危険をコント
2
ロールすることが不可能な場合、例えばライオンの檻に入れられたような
場合は、通常はわき目も振らずに安全な場所に逃げ出すだろう。
アントニオ・ダマシオは、
「二次の情動」という概念を提唱するにあたっ
て、このような推論する能力は、大脳前頭葉前野腹内側部の機能だと指摘し
ている。「デカルトの誤り」岩波書店、岩波文庫
そうだとすると、このように危険がコントロールできない場合は、危険か
ら脱出することが、すべてのことに優先されることが合理的であるから、余
計な推論をすることをやめる、即ち大脳前頭葉前野腹内側部の機能が、停止
ないし低下することによって、ひたすら逃げる、ひたすら戦うという状態に
なるということが、脳の仕組みなのだと思われる。この仮説は、現在の脳科
学の手法から、エビデンスを得ることは困難ではないと思われる。
第2 人間が抱く第2の危険
1 対人関係の危険が情動を起こすということ
ⅰ 身体生命の危険がないところで起きる情動反応
人間の場合、情動反応が、身体生命の危険がない場合でも生じることは、
すでに一般的な見解となっていると思われる。学生がテストが始まる前、
労働者が上司から叱責されたりするとき、やはり、血圧や体温の上昇、脈
拍の増加が生じる。現在の生活に適合しない変化である(山下格「精神医
学ハンドブック」日本評論社第7版 15頁)。
これはアントニオ・ダマシオの言うところの「二次の情動」である。彼
は、二次の情動は、一次の情動の形成的表象を援用すると指摘する。私は、
この主張に大いに触発された。私流の解釈をすれば、やはり、身体生命の
危険がない場合でも、何らかの危険を感じていると考えれば、私の本来的
な仕事の分野の対人関係の紛争の原因について、わかりやすく説明でき
ると思った。人間には、身体生命の危険以外にも感じる危険がある。
身体生命の危険がない場合に感じる危険こそが、「対人関係上の危険」
だと私は主張する。
ⅱ 対人関係上の危険とは何か。
対人関係上の危険を一言で言えば、
「群れから排除される危険」という
ことになる。人間の群れは、人類史上から見れば最近の一時期を除けば、
19万年以上、ほとんどの人類が、単一の群れで生まれ、育ち、死んでい
った。支配者層ではない圧倒的多数の人間は、200年ほど前までほぼ同
一の群れで一生を完結していた。人間にとって、群れから排除されること
は、外敵や飢えのために、生存は不可能だったと思われる。群れから排除
されるということを、事前に覚知し、危険だと認識し、行動を修正すると
いう脳の仕組みによって、群れの中で協調的に生活することができた。ま
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た、群れとしても、群れを構成する個体数が少なくなることは、外敵から
の防御についても、食料の調達についても、極めて不利になることであっ
た。このような対人関係の危険を感じ、二次の情動を発動させることは、
個体としての人間ばかりではなく、群れの存続のためにも必要不可欠の
ものであった。この仕組みのために人間が現代に生き延びることが可能
となったと考えている。
ⅲ 対人関係の危険を感じる事象
対人関係上の危険は物理的にではなく、社会的に、規範的に、文化的に
感じるものであるから、仲間の言動、自分の行動に対する自分の評価によ
って感じるようになっている。様々な事象を、脳が統合し、危険を判断し
たのちは、生命身体の危険の場合と同じように視床下部からの指令が発
せられ、交感神経が活性化するということになる。この統合による危険の
認識にあたっては、前頭葉前野腹内側部の推論する力が大きな力になり、
これは経験や教育による学習によってはぐくまれる。これはダマシオの
指摘の通りだと思う。しかし、さらに、他者への共鳴力、共感力も危険を
認識するにあたって重要な要素になるものだと思われ、この点は、先天的
な力も存在するのではないかと考えている。
ⅳ 対人関係の危険の二つの特徴
身体生命の危険と、対人関係の危険の一番の違いは、危険の現実化ない
し非現実化という結果が出るまでに要する時間の違いである。身体生命
の危険は、比較的短期に、場合によっては一瞬のうちに危険が現実化する。
崖から落ちたり、ライオンの檻に入ったり、犬に襲われたり、あまり危険
が現実化するまでに時間を要しない。
これに対して、対人関係の危険、即ち群れからの排除は、危険が現実化
するまでに長期間を費やすことが通常である。また、しばしば、危険が現
実化するのかしないのか不明な状態、即ち危険を感じ続ける時間が長期
化する。むしろ、実際には危険は現実化しないことも多い。その期間、危
険を感じるターゲットは、危険を感じ続けることになり、いわば危険にさ
らされ続けることになる。これを身体生命の危険に置き換えると、ライオ
ン檻の隣から脱出できない状態に置かれて、檻が老朽化して、少しずつ空
腹のライオンが自由になりつつある状態ということになろうか。
対人関係の危険に対する情動も、身体生命の危険に対する情動と大局
的には同一の反応であるから、交感神経の活性化が持続する、慢性的な活
性状態になる。
対人関係の危険が身体生命の危険と異なる特徴のもう一つは、現代の
人間が複数の群れに所属しているため、対人関係の危険も一つではない
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ということである。職場、家庭、学校、地域、趣味やボランティアのグル
ープ等それぞれの群れに複合的に所属している。複数の群れで同時多発
的に危険が生じ、それぞれが関連していたり、影響したりして、思わぬ相
乗効果が生じることがある。これに対して身体生命の危険は、よほど運が
悪くない限り、一つの危険だけが現実化することが多いのではないだろ
うか。
第3 危険を感じやすい、ないし、危機感を強める人間の状態
ⅰ
対人関係上の危険を強く感じる場合
対人関係の危険も、客観的には同じ事象であるにもかかわらず、その人
によって、反応は様々である。これは個性の問題のほかにも、危険を感じ
やすくなる状態、危険を強く感じてしまう状態がある。特定の群れに執着
しなければならない事情を検討する必要がある。
第1に、本人の客観的状態を指摘しなければならない。
例えば、赤ん坊であれば、すべてを親などに依存しているのであるから、
母親の姿が見えないだけで不安を感じて泣くことももっともな話である。
病気や老齢で、他人に依存しなければならない状態だと、その依存者から
の排除の危険は強く感じ取られるだろう。
第2に、過去の経験も危険の感じ方を強める要素になると思われる。理
不尽な形で排除された経験があると、仲間に対しての安心感を獲得しに
くくなり、その結果些細なことで危険を感じるように思われる。また、群
れの中で安心した経験がないと、一度仲間に迎え入れられているにもか
かわらず、あらゆる仲間の言動を、危険の兆候と感じるということがある。
アタッチメントの問題が典型的な例である。
第3に、他の群れの状態が依存度を強め、その結果、その群れが重大だ
と思いこむという類型がある。例えば、家族の中で、自分の居場所がない
と感じている場合、学校の友人関係に強く依存するようになり、友人の無
邪気な行動が、自分を排除する危険の表象だと感じてしまい、いじめなど
の逸脱行為が起きる場合が多い。小学校のクラスが、いくつかの排他的グ
ループに分かれていて、一つのグループから排除されることが本人にと
って深刻な孤立を感じるという例はこの例である。
第4に、その群れが、生きていくために重要である場合がある。学校を
退学すると就職がうまくゆかないという場合の学校。会社を解雇される
と同等の職場への転職ができないということになると、職場という現在
の群れへの依存度や執着度が高まる。
これらの問題の多くは主観的な問題である。危険およびその程度は客
観的に定まるものではない。本人の個性も影響するであろう。また、そも
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そも当事者が感じているような、身体生命の危険は存在していない。客観
的状態と危険の感じ方は、まさに適合しないのである。
ⅱ 対人関係以外の要素による危険の自覚
対人関係の状態と無関係に危険を感じやすくなるということがある。
ここで言う「危険」は、身体生命の危険と対人関係の危険と明確に区別し
ないで使っている。
睡眠不足がその典型である。不眠不休で歩いていると、疲労を感じやす
くなる上に、何かよからぬ出来事が起きそうな不安になることが多い。
アルコールの摂取も、人によっては不安を掻き立てられることがある。
その結果、怒り(FIGHT)の反応になることが酒乱である。
コルチゾール等、不安解消物質が、妊娠、出産後に不足状態となり、不
安を感じやすくなっているとしか説明できない心理の変化もみられる。
時間がないということも危険を感じているような焦燥感が出現し、後
に述べる大脳前頭葉前野腹内側部の機能の停止ないし低下がみられる。
裁量の余地がないほど、自分の行動が制約されている場合にも、同様に
危険を感じやすくなる。これはもう少し踏み込んで言えば、
「危険が存在
していないにもかかわらず、将来危険が起きてしまった場合に対処がで
きない状態であるという自覚」であるように思われる。視覚が奪われた暗
い場所におかれた場合、聴覚の意味がなさない騒音の場所におかれた場
合、手足を縛られた場合などは共通の息苦しさなのだろうと思われる。対
人関係上も、自分のあずかり知らないところで自分に対する評価が加わ
るような場合に不安を感じるということも、同様なのだろう。
第4 交感神経持続による反応群とそのあてはめ
ⅰ 身体的慢性反応
交感神経が持続した場合の不具合については、既にキャノンが提唱し
ている。人間は、交感神経と副交感神経を交互に入れ変わらせることによ
って、生きるリズムを形成している。血圧が上がり、血液が凝固しやすけ
れば、血管壁がもろくなりやすくなる。胃への血流が不足がちになれば、
潰瘍の危険緩和因子が不足することになるのであるから胃潰瘍が起きや
すくなる。交感神経の持続が負の減少を伴うことは、身体的側面では承認
されているところである。筆者は、過重労働と脳血管疾患、胃潰瘍の労災
事例を多く担当している。
ⅱ もう一つの「とう(F)」である凍結反応が出やすいという特徴
では、交感神経持続による精神的な反応はどのようなものか。
一つは、生きていくための活動の停止である。
危険を感じた場合の反応として二つ「(F)」のほかにもう一つあること
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が指摘されている、それは「凍結(FREEZE)」である。
(前掲バベット・
ロスチャイルド)崖から転落したり、猛獣の前に突き出されたりした場合、
気絶するという形で、あるいは足がすくんで動けないという形で凍結し
てしまうということは報告されている。
私は、これは、逃げることも、戦うことも不可能だと感じた場合の反応
だと解釈している。即ち、生き延びることが不可能だと認識した場合、生
きるための活動を停止するのである。人間は危険の程度を判断する動物
である。このような動物に特有に、逃れられないほど大きいという判断を
行い得るということになる。
問題は、この凍結反応が、対人関係の危険を認識した場合にはどのよう
な形で現れるのかということになる。
対人関係の危険の一つの特徴に、危険の持続性を指摘した。これは一方
で、危険回避が時間とともに可能になるという場合もある。多くは、時間
が危険を回避したり、馴化してしまったりすることで、危険を感じる必要
がなくなるのであろう。しかし他方で、危険の慢性化は、危険が現実化し
ていないのにもかかわらず、危険回避が不可能であると認識してしまう、
あきらめてしまうということが起きる原因にもなる。
対人関係の危険は、持続的に感じることで危険回避を不可能であると
認識してしまう結果、生きるための活動を徐々に停止していく場合があ
る。その結果、朝起きることができなくなる、食事ができなくなる、睡眠
ができなくなる、感情がなくなっていく、意欲がなくなる。うつ状態だと
指摘されることは、一言で言うと生きるための活動の停止なのであろう。
おそらくこれは、視床下部の病変にとどまらず、視床下部に指令をする脳
幹等の根本的な部分の異変が起きているのではないだろうかと思う。う
つ状態という状態は、このように生きるための諸活動を徐々に停止して
いく過程ともいえる。
ⅲ 前頭葉前野腹内側部の機能の停止ないし低下
もう一つの精神的な影響としては、複雑な思考ができなくなり、自己の
怒りなどを抑制できなくなる。短絡的な行動に走りやすくなるというも
のがある。
危険を感じると複雑な思考、推論ができにくくなる。本当に命の危険が
ある場合には、ひたすらわき目も振らずに逃げる。蛇に襲われて逃げない
で戦う人は容赦なく、反撃がされなくなるまでたたき続ける。推論に基づ
いて、危険をコントロールできない状態の場合は感情的な行動になるわ
けである。余計なことは考えない。また、逃げる途中、多少のけがをして
も、その時は痛みさえ感じない。落ち着いた時に、足を怪我してたことに
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気付く。逃げる、戦うという機能以外の脳の活動が停止する仕組みがある
ことになる。これは、必要があって、前頭葉前野腹内側部機能が停止する
と考えるべきである。
そうであれば、交感神経が活性化している限り、逃避行動や逃走行動は
自制することがむずかしくなっているということになる。ひとたび怒り
に任せた暴力行為に及ぶと、相手方の状態如何にかかわらず、容赦なく遂
行される理由である。
対人関係の危険を感じても、交感神経が活性化されると、前頭葉前野腹
側内部の機能の停止が起きる。その結果、クレーマーは容赦なく、ターゲ
ットを攻撃し、自ら自発的に怒りを収めようとはしなくなる。周囲の反応
なども気にしなくなる。自分の行動の量的妥当性も、怒りの方向もコント
ロールが効かない状態となる。危険の解消という結果だけをもとめて行
動を行うようになり、その手段の妥当性などを考慮する脳の部分は存在
しなくなってしまう。結論を短絡的に求めるようになるということも特
徴である。本来考えていた「余計なこと」を交感神経が活性化することで、
考慮できなくなる。
対人関係は、危険だという感覚が持続する。前頭葉前野腹側内部の機能
が直ちに停止するわけではないにしても、慢性的な交感神経の活性化に
加えて、別のあらたな危険が生じることがあれば、突発的に、病的に思考
が停止すると考えるとうまく説明が付くことが職務上多々ある。
ⅳ 以下、具体的な社会病理が対人関係の危険を反映して起きているとい
うことについて説明を加える
① 刑事事件
A 暴行傷害事件
暴行傷害事件のうち、路上などで見ず知らずの者を暴行するケー
スというのは、著名な事件のほかにも多く見られる。加害者は、社会
的立場が不安定な者が多い。本来自分はもっと能力があるのに、不当
に職に就けない、望む賃金を得るような、望む社会的ステータスのあ
るような職に就けないという自分自身の不満や、近親者などからの
圧力を受けていることが多い。社会の中で、自分が不要の者とされる
のではないかという潜在的不安を抱えているように思われる。では
な、なぜ、罪もない人を襲うのか。本の些細なきっかけで、それまで
抽象的に抱いていた不安が、通りすがりの人の些細な、あるいは何の
意味もない表情、しぐさというもので、「自分が馬鹿にされている」
という怒りの感情を発火させているようだ。体力差だったり、武器を
携行していたりという自分に優位な点があると、怒りから暴力に移
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行することが多い。全くのとばっちりということが多い。躁状態の場
合は、特に理由もなく、自己の優位を感じ、やはり怒りから暴力に出
るようだ。
「自分を尊重しろ」という、結論がほしいわけだが、手っ
取り早く結論を実現するため、暴力によって、相手を屈しようとする。
相手が傷ついても暴力は止まらない。怒りによる暴力は、相手が完全
に自分に対して危害を加えないと認識するまで続くのだから、多少
の抵抗があれば、怒りは加速するだけである。相手にダメージが加わ
ったことを実感すると、暴力はむしろ加速するのはこのような理由
である。
性犯罪、放火犯は、もう少し複雑な様相をもつことを体験している。
これらの行為者は、日常を、自分の意思で自分がこうどうする余地が
少ない、他人から支配されているという感覚を持っている人が多い
ようだ。暴力団のとりこのようにされていて、自分の日常を使い走り
に使われたり、自分の自宅を覚せい剤取引に使われたり、自分の自由
がないどころか、危険の管理もできない状況があった。または、早朝
から深夜まで部活動に拘束され、週末も地域のサークルでの活動を
断ることができない人間関係があった高校生、仕事帰りにパチンコ
の同行を強制され、当たりが出ると台を上司に譲らされていたサラ
リーマンなどもいた。女性という体力差の弱い立場の人間をターゲ
ットにして、支配をもくろんだり、火事が起きて人々が右往左往して
大騒ぎをして、消防自動車までが駆けつけるという様子を見て、他人
の行動を支配しているような感覚を持つ加害者もいた。
むしろ、難しいのは万引き犯である。万引き犯は、計画性がある場
合もあるが、現状多いのは、店に向かう段階では、商品はお金を出し
て購入するものだという意識がある場合である。ところが、ある時点
で、万引きをするという強固な意思を有し、自分を止めることができ
ないというより、止めなくてはいけないという発想自体がなくなる
状態になる。そして、防犯カメラや、配置された警備員、他の客等の
他人の存在を十分考慮することなく、万引きを実行する。現在、高齢
者の万引きが増えている。我に返った段階では、もちろん悪いことと
気が付くし、十分なお金を持っている場合も多い。万引きの場合、警
察が聴取する供述調書には、ストレス発散が動機だと書かれること
が多い。これは、供述者が、理路整然と「ストレス発散のためにやり
ました。」と現実に述べているのではない。警察官が話を聞いて、ま
とめたものだ。もちろんうそを書いているわけではない。
「そうする
と、今まで話を聞いてみると、ストレスの発散になるからということ
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でよいのか。」と尋ね。
「そうなるかもしれません。」というやり取り
が供述調書では先ほどの表現となる。おそらく取り調べでは、心を許
せる警察官には、自分の現在の苦境を述べているのだと思われる。警
察官は、刑事裁判の証拠という観点から供述調書を作成するのであ
って、心理学のレポートを作るためではないので、先ほどの要約の調
書を作成するということになる。
高齢者で万引きをする人は、ひとり暮らしの人、配偶者はいるが入
院していたり、施設に入所していたり、介護を要する場合が多い。一
言で言うと、慢性的に、
「この先どうなるのだろう。」という不安を抱
き続けている場合が多い。事実、万引きを繰り返して、あわや刑務所
に収監されるかという事件の際に、離れて暮らす子どもたちが、週末
交代で実家に帰ったり、カウンセリングに同行したりして、葛藤が静
まり、万引きの契機が消失した事例がある。このケースでは、この点
が裁判官から評価され、執行猶予となった。
不安による交感神経の持続が、新たに起きたわずかな刺激で、大脳
前頭葉前野腹内側部の機能を低下ないし停止させ、犯罪を行うこと
を制御できなくなる。例えば、老後の先行きの不安がある中で、夫に
借金があったことが発覚したというような場合、機能停止が急激に
起きてしまう。
万引き事件は、難しいが、興味が尽きない。こういう人だと決めつ
けてしまうと何も見えてこない。何か理由があるという視点で調べ
ていくと、人間の心理、孤独、不安が見えてくる。
刑事事件は、犯罪を行った人が、そういう人だ、生まれながらの犯
罪者だという視点取り組んでは、何も効果がない。人間が犯罪に踏み
②
切るということは何か理由があることだと考えるべきだ。こうする
ことで、犯罪の原因が見えてくる。犯罪の原因が見えてくることによ
って、原因に対する対策が初めて可能となる。その人が再犯を行わな
いことは、その人の幸福だけでなく、社会全体の幸福につながる。
買い物依存症、アルコール依存症、ギャンブル依存症
買い物依存症は、クレジットカードという、顔の見えない信用手段
が一般的に普及したと同時に、普及した。それまでは、後払いの通信
販売という形がとられていた。家族との葛藤の場合が多い。だからと
言って、例えば、妻の依存症が夫の責任というわけではない。多くは、
妻側に何らかの不安要素、自信のなさあがって、いつも夫から見放さ
れるのではないかという不安が持続している場合がある。買い物の
結果手に入る商品を実際に使うことは想定されていない。購入する
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ことに満足を覚える。依存症になると、買わないことが苦痛になって
いく。
アルコール依存症は、職場の問題だったり、家庭の問題だったり、
不安に耐えられない状態が継続していて、この不安を解消したいと
いう欲求が高じてくる人になりやすい。不安を感じなくするという
結論だけを求めて、手っ取り早く酔っぱらうということなのだ。アル
コール自体が好きなわけではない。耐え難い不安の持続が大脳前頭
葉前野腹内側部の機能を停止させ、他人の目を気にしながらも、酔っ
ぱらうことを制止することができなくなっている。この不安を第三
者に、怒りという形で向けることができない人であることも特徴的
だ。特にこのような精神的なアルコール依存者は、酒さえ飲まなけれ
ば、実は大変付き合いやすい。しかし、アルコールは、生物的にも依
存性のある物質である。人格の複雑な変貌を遂げることもある。また、
副作用が大きい。生物的な副作用も致命的になるものであるが、アル
コールに依存していること自体が、不安の種になるという出口のな
い悪循環である。私は、多くのアルコール依存対策が、依存症を持つ
人に厳しすぎると感じている。心を鍛えてアルコールから脱却する
というのは、いかにも非科学的で、パーマネントの効果は期待できな
いと思っている。その人の弱い部分を尊重し、少しずつ改善するとい
う方法が完全な脱却に資すると考えている。
ギャンブル依存症の大部分が逃避である。社会的な不遇を感じて
いることは、不特定多数人に対する犯罪行為を行った人と共通であ
る。例えば、パチンコ依存者は、あたりという快感をえるのは、景品
につながるからではない。当たらない人に対する優越感であるが、実
際に臨んでいることは、他の人と平等に扱ってほしいという切実な
願いである。競馬等の依存は、自分には能力があるということ何らか
の形で示したいという欲望が感じられる。社会の中で不遇な扱いを
受けている人、家庭の中にい場所がない人たちが、とばく場で時間を
費やしていることが多い。そして、ギャンブル依存症が、大脳前頭葉
前野区内側部の機能停止の結果どうなるかということだが、
「あたる
ことしか考えられなくなる。」のである。もし、この馬がこなければ
とか、もしあたりが出なければということは、あまり現実的に検討し
ていない。手っ取り早く、当たり馬券がほしく、あたり状態になりた
③
い、そのためにお金を費やしている。推論する力がなくなっている。
児童虐待
児童虐待も、一様ではない。ただ、気になるのは、児童虐待の防止
11
を呼びかける側が、虐待をする大人と言うのは、およそ虐待をするよ
うな欠陥者であり、自分たちの指導を強制的に受けさせる必要があ
り、警察権力の力を借りたいと考えていることだ。これでは、虐待は
なくならない。また、保護された子どもの将来、18歳を過ぎて養護
施設を対処しなくてはならなくなった後に極めて深刻な問題が解決
されないまま放置されることになる。今の虐待を止めることで、精い
っぱいという実態があると理解はできるが。
児童虐待の事件の警察発表に接すると、泣き止まないので暴力を
ふるったら死んでしまったということが多い。これこそ、理論通りで
ある。まず、例えば、自分ではどうしても安定した職につけず、他人
との折り合いも悪い、子どもを持った女性と知り合い同居を始める
が、女性が仕事に出て、自分が子守をして保育代を浮かそうとしてい
る。女性との交際も継続できるのかという不安が実は存在している。
慢性的な交感神経の活性化がすでに起きている。赤ん坊をあやすこ
ともできないのかという烙印を押されたくなくて、赤ん坊を泣き止
ませようとするのだが、方法が変わらない。泣いている理由もわから
ない。また、かわいそうという気持ちも起きない。短絡的に、泣き止
むという結果を求めて、暴力をふるって気絶させる。赤ん坊は恐れて
もなくわけだから、気絶させるしかない。その結果、赤ん坊が死ぬか
もしれないという推論をする力は、もはや彼の前頭葉前野腹内側部
には残されていない。怒りという感情が加われば、その行為を止める
要素は何も残されていないことになる。
人権擁護委員をやっていると、自分が虐待をしているといわれて
いるという相談を受けることがある。本人も、現状について、これで
良いとは思っておらず、改善したいという気持ちがある。しかし、ど
こが悪いのか、どうしたらよいのかわからない。ただ、自分を否定さ
れて、子どもを取り上げられるという、短期的な結果だけを求められ
る行為を押し付けられていると感じている。これがますます自分が
否定されているという感覚をもつようだ。電話だったが、事情を聞い
ていき、何が問題なのかがようやく見えてきた。その問題を解消する
行動として、どんなものがあり、どのような施設を利用できるのか、
一つ一つ一緒に吟味した。ようやく、
「これなら私でもできそうだ。」
と興味を持てる方法を見つけて、相談は終わった。
児童虐待の報道に接して、怒りを持つことは健全なことだ。私自身、
子どもの心理状態に思いをはせて、悲憤慷慨という状態になってい
る。しかし、それでとどまっていたのでは、児童虐待は減らないと思
12
④
う。虐待していることにも、理由があり、生まれながらの虐待者とい
う人間はいないというところから出発するべきだと思う。
離婚
離婚事件は、割合と単純で、理論が当てはまりやすい類型の事件で
ある。ただ、その人が離婚を決意した理由がわかっても、それを解決
する方法は難しい。
即ち、各家族の中で、妻と夫が孤立しており、妻なら妻が、夫から
受け入れられていないという感覚をもってしまうと、夫が天敵のよ
うに思えてくる。同じ空間に他人がいるのだから、不安、不自由感が
持続し、高まっていく。街を歩いていて似た男を見かけただけで、妻
はパニックを起こす。
相手を尊重する方法は、相手の感情に敏感になり、何を求めている
か、個別に検討するほかはない。これは、現代的特徴であって、封建
制度のイデオロギーの下では、親や教科書から教えられたことを実
行することによって、双方とも自分が尊重されているということを
実感できていた。また、実感できない場合は、実感しなければいけな
いという形で、第三者が支援をすることも可能とした。もはや時間を
戻すことはできない。いろいろなノウハウ本も有効だが、最終的には
相手の気持ちを個別に考えるしかない。
本当は、暴力などがないケースでも、しばしば妻は虐待があったと
主張することがある。訴訟上の戦略で嘘をつくという不道徳な場合
もあるが、実際に暴力を受けたことと同じような、自己否定を受けて
いると感じていることが多い。
持続する葛藤の中で、自分を支持的に受けて止めてくれるという
感覚を持てる支援者の言動は、それが正しいのか、それによってデメ
リットはないのか、相手方の気持ち、子どもの健全な成長など、本来
考えなければならないことを、すべて現実的に考えずに、手っ取り早
く、苦しい状態である夫との生活から子どもを連れて離脱するとい
う結論を求めて行動に出させている。
思慮の足りない支援者は、本人が苦しんでいることから、
「夫が悪
い」という結論を出して、離婚を勧める。それが、苦しんでいる人に
寄り添うことだと思い込んでいる。それが妥当するケースももちろ
んあるのだが、マニュアルでの行動は、子どもや相手方の事情を吟味
するという視点が欠落しており、誰かが苦しんでいれば、苦しんでい
ないものが加害者だと、あたかも怒りによる制御不能状態のような
短絡的な行動しか記載されていない。
13
⑤
自死
自死は、希死念慮の元で行われるが、希死念慮というロマンチック
とも思える言葉の響きとは裏腹に、この意味は凄惨だ。自分に価値が
ないという自己否定の極限の中で、
「自分は死ななければならない。」
という強烈な思い込みをいだいている。これは、究極の生きるための
活動の停止そのものである。これが「死にたい」などというロマンチ
ックで、身勝手な感情ではない。
自死者は、押しなべて生真面目であり、責任感が強い。不可能な他
人の要求をまじめに遂行しようとする。また、それを無理して可能と
する意思の力もある。それ自体が、交感神経を著しく活性化させてい
ることになるが、理不尽な状態は持続することが多い。交感神経を活
性化し尽くし、大脳前頭葉前野腹内側部の機能を使い果たしている
状態になっている。
いろいろな不安や、危険、自分を圧迫するものから、とにかく逃れ
たいと考えることをだれも責められない事情があることが多い。少
なくともそれほど苦しんでいたことは十分うかがえる。
苦しみから逃れるという結論だけを短絡的に求めた結果が自死で
ある。すでに大脳前頭葉前野腹内側部の機能は働かず、自己を制御で
きる力は残っていない。このような状態だから、後から調査した結果
の印象では、自死を敢行したというよりは、自死に至る行為を止める
ことができなかったという印象を持つことが多い。
犯罪から自死まで、社会病理を見てきたが、すべてが共通する脳の
状態であると考えている。実際、これらの発生件数は連動している。
これらの中から自死だけを取り上げて予防するということは、不
可能であり、意味のないことである。交感神経の高まり、不安や危険
を感じる要素、特に対人関係的な危険を感じる要素を解消していく
ことが、結局は自死予防の最も効果的な姿であり、人間社会の在り方
だと考える。そしておそらくこういうことは、今はじめて人類がたど
り着いたのではなく、少し前の世の中では当たり前だったことだと
思う。何らかの事情で、それが忘れられ、価値が見いだされなくなっ
たのだと思う。
その原因の一つとして、戦争、戦後の状況は上げなければならない
と思われる。
第5 改善アプローチとしての対人関係的アプローチ
ⅰ 対人関係的アプローチの手法
第1に、原因を分析する。その人の生物的ないし社会的に病的な状態に
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ある対人関係を探し出す。それが大きな原因であれば、対人関係の状態を
改善していく。それが大きな原因ではなく、むしろ生物学的要因がある場
合においても、対人関係の状態を改善することで、治療などの効果を上げ
ることができる。まずは、その人の生まれつきに原因を求めるのではなく、
客観的に置かれた状態に目を向けるということである。
第2は、本人が、対人関係の現状を客観的に認識することである。これ
は、うつ状態などになると自責の念、自己評価の低下などがあり、なかな
か容易ではない。しかし、自分が苦しむことに原因があり、それは、誰で
も同じ環境に陥った場合には同じような反応をする可能性があるという
ことを理解すると、徐々に落ち着いていくことが多い。
また、危険反応は不適合であり、身体生命の危険が生じているかのよう
な感覚であることが多い。不適合な感じ方をしていること、身体生命には
危険はないという当たり前のことを、自覚することによって、交感神経の
活性化を鎮める。すると自然に、大脳前頭葉前野腹内側部の機能を回復す
ることができる。
(前掲 バベット・ロスチャイルド)深呼吸で心を鎮め
るということがあるが、これは肺の空気の交換ではなく、皮膚感覚を取り
戻すことが有効なのである。
第3に、原因である環境の改善である。
改善不能の状態である場合、改善することで解決することが、時間の問
題があって非効率できあるような場合は、思い切って、特定の対人関係か
ら離脱する方法も考える。退学であり、退職であり、離婚などである。自
死が起きたり、予後が不良な精神疾患になったり、刑事事件などの社会的
な病的関係にとどまることよりも、その人の人生を有意義にする場合が
多い。
改善可能な場合も、対立的なアプローチはあまり有効ではない。その人
が元の群れに戻れなくなってしまう。対立的なアプローチではなく、対立
者に対しても、対人関係的アプローチを行い、出来事を客観的に理解して
もらうことが有効である。あるべき対人関係を築くことは、本人にも相手
方にとっても極めて有効である。
そして、従来の群れから離脱する場合も、改善を継続する場合も、本人
を、安心できる群れに帰属させる必要がある。家族の状態を改善して、家
族を再生することが基本になり、友人、知人と次善の策を講じていくのだ
が、どこにも帰属できない場合は、新たな群れを作るという方法も視野に
入れるべきだと考える。
付け加えると、以上の説明で、対人関係的アプローチと治療、施術は、
全く無関係であることは理解できると思う。むしろ、治療、施術が効果的
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なものならば、対人関係アプローチは、治療等を阻害する要因を排するこ
とになる。治療効果を高めるための条件作りになる。また、必要に応じて、
治療機会に結びつけることも期待できる。
ⅱ
対人関係的アプローチの有効性
対人関係的アプローチは、本人の生きる力をよみがえらせるだけでな
い。本人の状態を本人だけに求めないこと、本人を他者が支えようとする
ことで、家族も、自分たちが否定されないで、支持的に関与を受けている
という実感を持つことができる。
また、本人の精神的状態にかかわらず、対人関係の改善を働きかけるこ
とによって、本人が無自覚のまま病気が進行することをとめることがで
きるし、病気になる前に精神状態を整えることができる。
ⅲ
対人関係的アプローチの主体
対人関係的アプローチは、理論に基づいて、これから実践を呼びかける
というものではなく、直感的に始めている動きを説明しているというこ
とが現状である。賛同者が増えることによって、本質的な部分がどこにあ
るのかが議論され、あらゆる対人関係上に広がることが理想である。
① 対人関係の環境改善としてのみやぎの萩ネットワーク
平成27年3月に創設された。全国自死遺族連絡会の田中幸子氏の
呼びかけで、それまでも個別に連携していた人たちが、一点に結集して
ネットワークによる解決を図ったものである。
弁護士、司法書士、社会福祉士も数名ずつメンバーになっているが、
労災保険や健康保険、年金請求の専門家である社会保険労務士のグル
ープも参加している。心理士、カウンセラー、セラピスト、精神科医も
メンバーである。税理士、中小企業診断士もメンバーになっており、多
様な対応を可能としている。さらに、牧師、僧侶もメンバーになってお
り、懐が深いものとなっている。
ポスターやチラシ、ホームページでメンバーの連絡先を掲載し、悩む
前に、相談者は連絡することができる。連絡を受けたメンバーは、自分
で解決することもできるが、メーリングリストに事例を報告すること
によって、専門家から適切なアドバイスを受けることができる。大体、
書き込んでから2,3時間のうちに意見が出尽くすことが多い。また、
他の専門家との共同作業も可能となる。一人の支援者だけでは見えな
い解決方法も見えてくる。
これまでも、僧侶、カウンセラー、弁護士というチーム、牧師、カウ
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ンセラー、弁護士というチーム、社会福祉士と司法書士というチームで
それぞれ解決を得ている。また、悩みのうち、債務が大きな問題である
場合、弁護士が手続きを引き受けるという事例もある。
民間団体のボランティア活動であるが、究極のワンストップシステ
ムである。相談を聞くことではなく、問題を見つけて解決することを主
眼として活動している。
相互の情報交流と、人的つながりを深めるために、月に一度程度例会
と称して勉強会を行っている。一般にも公開されており、メンバーのつ
ながりのある知人、友人なども参加している。それ自体が自死の啓発活
動になっている。
② 新たなる対人関係、コミュニティーを作る東北希望の会
平成27年5月に結成された。過労死、過労自死遺族の会である。過
労死は、働き盛りの一家の支柱が、突然死亡する。幼子を抱えて、これ
からどうしたらよいのか途方に暮れる。もっとリアルな表現を使えば、
これから生きていけるのだろうかということをぼんやり考えているそ
うだ。母親が幼子と残されたケースでは、経済的な困難が、心の余裕を
奪って、例えばクリスマスを祝うという発想すらがなくなってしまう
ということも聞かされた。遺族が生活力を取り戻すために、最も有効な
方法が、他の遺族と接することであった。自分たちが受けた苦しみを、
新たに説明することなくわかりあえる別の遺族と接することによって、
自分たちも生きていけるかもしれないという希望が生まれるとのこと
だ。
東北希望の会は、このような遺族相互のコミュニティーの形成を第
一に活動している。月一度程度の例会を開催し、行事の企画などをする
建前ではあるが、心の交流を第一に、自由に話ができるようにしている。
話下手な人も話がしやすい環境が自然と生まれている。
子どもの健全な成長ということを第一に考えている。例えば父親を
亡くした子どもは、父親の分まで母親を支えようと懸命になっている。
せめて、年に数度は子どもが子どもに帰ることのできる企画を実施し
ている。お寺の本堂で、サンタクロースを招いてクリスマス会を開いた。
皆で海に行ってバーベキューを行うという企画もある。
このような遺族の交流という企画ともう一つの大きな柱は、過労死
防止の啓発活動である。分かち合いの会と異なることは、社会に積極的
にかかわり、社会的な活動を共に行うことにって、生活力を勝ち取って
いくという理念がある。社会のあるべき姿に向かって進んでいくとい
う実感は、対人関係的アプローチの本質かもしれない。人が人を追い込
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む社会から、人と人とが助け合う社会への転換を理念として活動して
いる。全国の活動と連動しながら、時々のシンポジウムなどの活動も積
極的に行っている。
東北希望の会は、遺族、過重労働でなんらかの症状のある人たちが会
員である。これに弁護士、社会保険労務士、カウンセラー、同僚を過労
死で失くした人、遺族の知人友人がサポートしている。
③ 全国自死遺族連絡会、藍の会 田中幸子氏
息子さんを自死で失くされた。その経験から、遺族の心情がわかる組
織が必要だという実感に基づいて、分かち合いの会を自ら結成し、全国
的な活動をされている。みやぎの萩ネットワーク、東北希望の会もそう
だし、自殺を自死と変更することなど、すべてが田中さんから始まって
いることも間違いがないところである。遺族の呼びかけから、自死の悲
劇を繰り返さないという活動が始まることは、極めて自然である。
最も象徴的なことは、遺族の一人が語ったことである。
「田中さんは一晩中話を聞いてくれて、私たち親子を抱きしめて、
『私
は、絶対あなたを見捨てない。』と言ってくれた。」
対人関係的アプローチの純粋形態はこれである。群れは、メンバーを
決して見捨てない。どこまでも守る。思うに、この遺族の一言を具体化
するために、本拙文を起こしたようなものである。
④ 今後の活動
みやぎの萩ネットワークや東北希望の会のような活動は地域に限定
的であるし、メンバーの人数に限りがある。あらゆる対人関係で、いた
わりあい助け合う関係が形成されるべきである。
特定の政治思想ではなく、あえて言えば、これが人権思想なのだとい
う意気込みで、多次元の啓発活動が必要であると考えている。
いずれにしても、これは一人の人間が生きていくということであり、
人類の絶え間ない挑戦の歴史である。息の長い活動を心掛け、くれぐれ
も大脳前頭葉前野腹内側部の機能を停止させた、結論を求めた短絡的
な活動とならないように留意しようと考えている。
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