「鉄道と文学」(PDF524KB)

今回は、鉄道を題材とした文学作品などを執筆した、内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三・種
村直樹の 4 人についてご紹介いたします。
明治の文豪夏目漱石の弟子である内田百閒は『阿房列車』を執筆しました。志賀直哉の弟
子で戦記文学・記録文学で高名な阿川弘之は、内田百閒に敬意をはらい舞台を外国に移した
『南蛮阿房列車』を執筆しました。中央公論社の編集者であった宮脇俊三は、優れた鉄道紀
行の作品を数多く執筆しています。元毎日新聞記者の種村直樹は、ジャーナリスティックな
視点を取り入れて鉄道を精力的に記しました。
資料リスト
内
田
百
閒
明治 22 年(1889)5 月岡山市に生まれました。生家は造り酒屋でした。
明治 43 年(1910)東京帝国大学に入学し、ドイツ文学を専攻します。夏
目漱石の弟子となり、漱石について「私なんかには絶対的のものですね」
(雑誌『新潮』昭和 26 年 6 月号)と発言しています。大正 5 年(1916)
陸軍士官学校独逸語学教授に任官し、大正 9 年(1920)法政大学教授を兼任しました。鉄道
については、
「私こそ汽車を目の中に入れて走らせても痛くない程汽車が好きだから」
(「時は
変改す」昭和 28 年)と記す位好きで、昭和 25 年(1950)から昭和 30 年(1955)にかけて、
鉄道(日本国有鉄道)に乗って日本各地を巡った鉄道旅行記を 15 編執筆しています。15 編は、
『阿房列車』昭和 27 年・三笠書房刊、『第二阿房列車』昭和 29 年・三笠書房刊、『第三阿房
列車』昭和 31 年・講談社刊として刊行されました。阿房列車の特徴は、連結されている限り
一等車と一等(個室)寝台車に乗車すること、幹線の乗車が多いこと、及びヒマラヤ山系(国
鉄職員の故平山三郎氏)と呼ばれるお供がいることです。
『阿房列車』のほかに『百鬼園随筆』『冥途』『ノラや』など、主要な著作だけでも 70 冊以
上あります。昭和 46 年(1971)4 月、東京で老衰により 81 歳で没しました。
『阿房列車』の作品
作
品
1
特別阿房列車
2
区間阿房列車
名
鹿児島阿房列車
前章
3
鹿児島阿房列車
後章
行
程
旅行期間
東京⇒大阪(泊)⇒東京
東京⇒ 国府津⇒沼津⇒興津
(泊) ⇒由比(泊)⇒静岡
⇒東京
東京⇒ 尾道⇒(呉線経由)
⇒広島 (泊)⇒上大河、広
島⇒博多(泊)⇒鹿児島(2
泊)
鹿児島⇒ (肥薩線経由)⇒
八代 (泊)⇒(急行きりし
ま一等寝台車)⇒東京
1
「小説新潮」掲載号
昭和 25 年
10 月 22 日~23 日
昭和 26 年
3 月 10 日~12 日
昭和 26 年 1 月号
昭和 26 年
6 月 30 日~7 月 7 日
昭和 26 年 11 月号
昭和 26 年 6 月号
昭和 26 年 12 月号
4
東北本線阿房列車
5
奥羽本線阿房列車
前章
奥羽本線阿房列車
後章
上野⇒福島(泊)⇒盛岡(2
泊)⇒浅虫(泊)
浅虫⇒ 青森⇒秋田(泊)⇒
横手(泊)
横手⇒ 大荒沢⇒横手⇒山形
(泊)⇒ 仙台⇒松島(泊)
⇒上野
昭和 26 年
10 月 21 日~24 日
昭和 26 年
10 月 25 日~29 日
昭和 27 年 2 月号
昭和 27 年 3 月号
昭和 27 年 6 月号
『第二阿房列車』の作品
作
1
2
3
品
名
雪中新潟阿房列車
雪解横手阿房列車
春光 山陽 特別 阿房列
車
雷九州阿房列車
前章
4
雷九州阿房列車
後章
行
程
旅行期間
上野⇒新潟(2 泊)⇒上野
上野⇒(急行鳥海寝台車)
⇒横手(2 泊)⇒大荒沢⇒横
手⇒(急行鳥海寝台車) ⇒
上野
東京 ⇒(急行銀河寝台車)
⇒京都⇒博多(泊)⇒八代
(泊)⇒(急行きりしま寝
台車)⇒東京
東京⇒(急行きりしま寝台
車)⇒八代(泊)
八代⇒熊本(泊)⇒大分⇒
別府(2 泊)⇒小倉⇒門司⇒
(急行きりしま寝台車) ⇒
東京
「小説新潮」掲載号
昭和 28 年
2 月 22 日~24 日
昭和 28 年
2 月 28 日~3 月 4 日
別冊昭和 28 年 5 月
号
昭和 28 年 6 月号
昭和 28 年
3 月 14 日~18 日
昭和 28 年 8 月号
昭和 28 年
6 月 22 日~28 日
昭和 28 年 10 月号
昭和 28 年 11 月号
『第三阿房列車』の作品
作
品
名
1 長崎の鴉
長崎阿房列車
2 房総鼻眼鏡
房総阿房列車
隧道の白百合
3 四国阿房列車
菅田庵の狐
4 松江阿房列車
5 時雨の清見潟
興津阿房列車
6 列車寝台の猿
不知火阿房列車
行
程
旅行期間
東京⇒(急行雲仙寝台車) 昭和 28 年
⇒長崎(2 泊)⇒鳥栖⇒八 10 月 18 日~23 日
代(泊)⇒(急行きりしま
寝台車)⇒ 東京
両 国 ⇒ 千 葉 ⇒ 成 東 ⇒ 銚 子 昭和 28 年
(泊) ⇒成田⇒千葉(泊) 12 月 20 日~24 日
初出誌
文芸春秋 昭和 29
年 1 月号
文芸春秋 昭和 29
年 4 月号
⇒木更津⇒安房鴨川 (泊)
⇒大原⇒千葉⇒稲毛⇒東京
東京⇒大阪(2 泊)⇒(須
磨丸船中泊)⇒高知(泊)
⇒高松⇒ 鳴門(泊) ⇒小
松島港⇒(太平丸船中伯)
⇒大阪⇒東京
東京⇒京都⇒大津(2 泊)
⇒松江(2 泊)⇒大阪(2
泊)⇒東京
東京⇒清水⇒ 興津(泊)
⇒東京
東京⇒(急行筑紫寝台車)
小倉(2 泊)⇒宮崎(2 泊)
⇒鹿児島⇒八代(2 泊)⇒
2
昭和 29 年
4 月 11 日~17 日
書下ろし
昭和 29 年
11 月 3 日~9 日
週刊読売 昭和 30 年
1 月 1 日号~2 月 5
日号
昭和 29 年
11 月 26 日~27 日
昭和 30 年
4 月 9 日~17 日
国鉄 昭和 30 年 8
月
週刊読売 昭和 30 年
10 月 23 日号~12 月
11 日号
6
(急行きりしま寝台車)
⇒東京
阿
川
弘
之
大正 9 年(1920)12 月広島市に生まれました。昭和 17 年(1942)9
月東京帝国大学文学部国文学科を半年繰り上げて卒業し、海軍予備学生
として海軍に入隊しました。太平洋戦争後は志賀直哉に師事し、戦記文
学などを中心に執筆を行いました。また、乗り物にも造詣が深く、『南
蛮阿房列車』
(昭和 52 年・新潮社刊)、
『南蛮阿房第二列車』
(昭和 56 年・
新潮社刊)のほか、『きかんしゃやえもん』(昭和 34 年・岩波書店刊)、『贋車掌の記』(昭和
57 年・六興出版刊)、
『女王陛下の阿房船』
(平成 2 年・講談社刊)などの作品もあります。ほ
かに翻訳では『鉄道大バザール』(ポール・セルー著、昭和 52 年・講談社刊)などがありま
す。
阿川弘之の南蛮阿房列車は、昭和 50 年(1975)~昭和 57 年(1982)にかけて 20 編が執筆
されました。題名に阿房を付けたのは内田百閒の『阿房列車』敬意を表したものと思われま
す。また、乗車したのは南蛮とあるとおり、日本以外の各国の列車です。
『南蛮阿房列車』
作 品 名
1 欧州畸人特急
2 マダガスカル阿房
列車
3 キリマンジャロの
獅子
4 アガワ峡谷紅葉列
車
5 カナダ横断とろと
ろ特急
6 特快莒光號
7 元祖スコットラン
ド阿房列車
8 地中海飛び石特急
9 降誕祭フロリダ阿
房列車
国・行程
フランス 、パリ⇒トゥールー
ズ、ブラッセル(ベルギー)
⇒パリ
マダガスカル 、タナナリブ⇒
タマタヴ
タンザニヤ、 ダル・エス・サ
ラーム⇒モシ
カナダ、スー・セン・マリー
⇒アガワ⇒スー・セン・マリ
ー
カナダ、トロント⇒ジャスパ
ー、バンフ⇒バンクーバー
台湾、台北⇒ 高雄⇒嘉義⇒ 阿
里山⇒嘉義⇒台北
イギリス 、ニューキャッスル
⇒ロンドン
スペイン、マドリッド ⇒マラ
ガ。モロッコ、タンジール⇒
カサブランカ。チュニジア、
スース⇒チュニス。ギリシャ、
アテネ⇒ レヴァディア⇒アテ
ネ。イタリア、パレルモ⇒ロ
ーマ。
アメリカ、ニューヨーク⇒ ワ
シントン⇒ウエスト・パー
3
同乗者
初出誌
北杜夫、遠藤周作 「小説新潮」
昭和 50 年 6 月号
北杜夫
「小説新潮」
昭和 50 年 11 月号
「小説新潮」
昭和 51 年 7 月号
阿川尚之(長男) 「小説新潮」
昭和 51 年 2 月号
北杜夫夫妻
「小説新潮」
昭和 51 年 5 月号
「小説新潮」
昭和 51 年 9 月号
「小説新潮」
昭和 51 年 12 月号
「小説新潮」
昭和 52 年 2 月号
阿川尚之(長男) 「小説新潮」
昭和 52 年 5 月号
ム・ビーチ(フロリダ州) ⇒
マイアミ
『南蛮阿房第二列車』
作 品 名
最終オリエント急
行
カンガルー阿房列
車
ニュージーランド
幽霊列車
東方紅阿房快車
国・行程
同乗者
1
スイス他、チューリッヒ⇒イ
スタンブール
2
オーストラリア、シドニー⇒
パース
3
ニュージーランド 、ウェリン
トン⇒ハミルトン
4
中華人民共和国、大連⇒瓦房 遠藤周作
店⇒大連
5 マ ッ キ ン レ ー 阿 房 アメリカ 、アラスカ州、アン 開高健
列車
カレッジ ⇒カントウエル⇒ア
ンカレッジ
6 ニ ュ ー ヨ ー ク 国 際 カナダ、 アメリカ、オタワ⇒
阿房急行
トロント⇒モントリオール⇒
ニューヨーク
7 夕暮特急
アメリカ、ロサンゼルス⇒ サ
ン・アントニオ
8 アステカの鷲
メキシコ、ヌエボ・ラレド⇒
メキシコ・シティ
9 チ ワ ー ワ 太 平 洋 鉄 メキシコ、チワーワ ⇒ロス・
道
モチス
10 欧州モザイク特急
イタリア他、ローマ ⇒ボロー
ニャ⇒ヴェニス⇒ミラノ⇒パ
リ⇒ブラッセル、リスボン⇒
ポルト⇒ リスボン⇒ マドリッ
ド
初出誌
「週刊ポスト」昭和
52 年 7/1・7/8 号
「小説新潮」
昭和 54 年 4 月号
「小説新潮」
昭和 54 年 6 月号
「小説新潮」
昭和 54 年 10 月号
「小説新潮」
昭和 55 年 1 月号
「小説新潮」
昭和 55 年 5 月号
「小説新潮」
昭和 55 年 10 月号
「小説新潮」
昭和 56 年 1 月号
「小説新潮」
昭和 56 年 4 月号
「小説新潮」
昭和 56 年 8 月号、
同年 9 月号
『自選南蛮阿房列車』(12 編中 11 編は既出の作品)
作 品 名
国・行程
同乗者
初出誌
1 ピ ラ ミ ッ ド 阿 房 列 エジプト、カイロ⇒ルクソー 阿 川 佐 和 子 ( 長 「小説新潮」
車
ル
女)
昭和 57 年 9 月号
宮
脇
俊
三
大正 15 年(1926)年 12 月埼玉県川越市に生まれました。昭和 26 年(1951)
東京大学西洋史学科を卒業後、中央公論社に 入社し「婦人公論」に配属さ
れました。その後「中央公論」編集長、編集局長、常務取締役を経て昭和
53 年(1978)6 月 30 日に退社しました。在職中に『日本の歴史』26 巻、
『世
界の歴史』16 巻、中公新書などを刊行し、また、北杜夫の『どくとるマン
ボウ航海記』などを刊行しています。
宮脇俊三も子供の頃から大の鉄道好きでした。昭和 40 年代中頃から仕事の合間に国鉄に乗
4
車し、乗車路線が多くなってくると、自然と全線完乗を目指すようになりました。最初の著
作である『時刻表 2 万キロ』(昭和 53 年)は、国鉄全線を完乗した記録です。会社勤めをの
傍ら寸暇を惜しんで執筆しました。執筆について「勤め先の本業を忘れるくらい熱中した。
書き上げたときは、自分の墓石を彫り上げたような感慨さえあった」とあとがきに記してい
ます。
全線完乗の最後の 1 線は足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)でした。足尾線について は、
「足尾
線にはわるいが、最後の一線はもうすこし情緒のある線区、たとえば、一日二往復しかない
中湧別-湧別間(旧名寄本線の支線、廃止)あたりで乗り終えて夕方のオホーツク海岸をひ
とり感慨にふけりながら、といったところへ自然に落着するのではないかと思っていた。に
もかかわらず」と記しています。なお、阿川弘之はこの作品について「内田百閒の『阿房列
車』の衣鉢を継ぐ」と評しています。
第 2 作である『最長片道切符の旅』(昭和 54 年)は、北海道広尾線広尾駅(廃止)から鹿
児島県指宿枕崎線の枕崎駅までの一筆書きの旅の記録です。その他に『汽車旅 12 カ月』
(昭和
54 年)、『時刻表昭和史』(昭和 55 年)、『時刻表おくのほそ道』(昭和 57 年)、『シベリア鉄道
9400 キロ』
(昭和 58 年)、
『終着駅へ行ってきます』
(昭和 59 年)、
『殺意の風景』
(昭和 60 年)、
『汽車旅は地球の果てへ』
(昭和 61 年)、
『失われた鉄道を求めて』
(平成元年)などがありま
す。平成 11 年(1999)年頃休筆を宣言し、平成 15 年(2003)2 月東京で亡くなりました。
種
村
直
樹
昭和 11 年(1936)3 月滋賀県大津市に生まれ、平成 26 年(2014)
11 月に亡くなりました。京都大学法学部を卒業後、毎日新聞社記者と
して活躍しました。昭和 48 年(1973)4 月に毎日新聞社を退社し、
レイルウェイライターとして鉄道に関するルポ・紀行・エッセイなど
を精力的に発表しました。著作は 80 冊を超えます。また、雑誌『鉄
道ジャーナル』にライターの 1 人として、鉄道に係わる記事(紀行・ルポルタージュなど)
を執筆しました。
代表的な著作として、
『気まぐれ列車で出発進行』をはじめとする「気まぐれ列車」シリー
ズが 10 冊以上発行されています。筆者によれば「「気まぐれ列車」は、あまり細かな予定を
たてずに出発、行く先々の風物や、その日の気分で行動を決める僕好みの汽車旅紀行の造語
である」としています。
なお、昭和 54 年(1979)8 月に盛線盛駅(現三陸鉄道)で国鉄全線完乗を達成し、同 58
年(1983)3 月には加悦鉄道(廃線)加悦駅で、日本の鉄道全線完乗を達成しています。
【参考文献】
『青葉の翳り
阿川弘之自選短篇集』
講談社
平成元年 4 月
『内田百閒
新潮日本文学アルバム』
新潮社
平成 5 年 12 月
『日本縦断
ローカル列車を乗りこなす』種村直樹
『KAWADE 夢ムック文芸別冊
宮脇俊三』河出書房新社
『「阿房列車」の時代と鉄道』
和田洋
交通新聞社
5
青春出版社
平成 18 年 6 月
平成 21 年 6 月
平成 26 年 5 月
6