トゥルーズから英国に学ぶ

トゥルーズから英国に学ぶ
熱意は、やかんの水を沸かす時のように、たぎりやすいが、そのまま放っておくと冷めやすい代物で
ある。持続時間が短い故に、賞味期間内であれば、新鮮故に凄い力を発揮する。
関節の内視鏡である関節鏡は、日本で生まれた技術である。高木憲次が開発し、東京逓信病院
にいた渡辺正毅が改良し実用化した。渡辺は世界で初めて関節鏡を用いた半月切除を 1962 年に
行っている。当時の私にとっては、渡辺先生は雲の上の存在であった。
1980 年に留学したフランス(仏国)のトゥルーズの大学病院では、関節鏡は、整形外科ではなくリ
ウマチ科が行っていた。当時の関節鏡はビデオカメラもなく、光源は暗くてかなり見辛かった。日本発
祥の関節鏡なので、さぞ上手だろうと思われて、関節鏡をやって見せてくれないかと言われた。卒業
4年目の私は、自分自身ではほとんど関節鏡を行った経験がなかった。しかし真の理由を言うには、
我が国の医療制度まで言及せざるを得なく、だからと言って経験がないとも言えず、有耶無耶な態
度で返事を避けていた。
私が師事するフィカ教授の名声は、仏国外にも届いていた。向いの田園の緑がさらに濃くなろうと
する季節に、権威ある整形外科の医学雑誌の編集者8名が、英国からトゥルーズにやって来た。フィ
カら仏国医師の英語での講演に続いて、真剣な議論が行われた日の夜、英国人医師を招いてのフ
ィカ宅での晩餐会に、私も招待された。靴を改めて見ると、底が破れて余りにもみすぼらしい。急遽、
新しい靴を買いに大型店に車で走った。
郊外に広大な敷地を持つフィカ邸では、整形外科のスッタフ医師やインターンも招待されていた。
総勢 35 人が集まり、玄関近くの部屋で食前酒を片手に雑談が始まった。そうするうちに夕食の用意
が整って、続く大広間で指示された席に各自着いた。有名レストランのコックやボーイが呼ばれてい
て、テーブルの間を縫うように給仕していた。1テーブルに英国医師1人と仏国医師数人を配したテ
ーブルが幾つかできた。ゲストの英国人に気を使って英語で会話が進んでいた。このまま英語での
会話が続くと思っていた。しかしそれは最初だけであった。酒が回れば、若い仏国医師は英語ができ
るはずなのに、英語でしゃべろうとせず、フランス語(仏語)で押し通していた。片や、英語が国際的
な標準語と思っている人達、片や、優れた仏文化を語る仏語は美しく、世界の中心であると思って
いる人達である。英国人は「この国の医師が英語ができないのが不思議だ」と皮肉を込めて私に言
ってきた。それをインターンにこっそりと伝えると、「英国人が仏語を話せないのは奇妙ではないか」と
鼻で笑っていた。
青青した葉が暖色系に淡く色付き始める頃にも、英国から2人の整形外科医師が見学に訪れた。
関節造影の見学のために、放射線科医フリップが勤めている病院に連れて行った。昼間の慌ただし
い時間が過ぎて、日も暮れる頃に、彼らをフィカ邸に連れて行く。招待された夕食では、珍しいもの
が饗された。網で焙った鴨の喉で、ヒトの喉を唸らせた。とても高価なものらしい。素晴しかったワイン
の余韻を残して、客人 2 名を乗せて、市内のホテルに戻る前に、ふと思いついて、サン・セルナン聖
堂を見るため寄り道した。煉瓦色にライトアップされた大聖堂は、数多の時を建物に幽閉して、古風
然として構えていた。この場に居合わせたグラスゴー医師は、関節鏡を得意にしているため、後に英
国を訪ねることになった。
トゥルーズを去る2日前に、英国のグラスゴー医師から、関節鏡手術を予定に組んでいるので見に
来ても良いよという手紙を受け取っていた。ロンドン行きの便は雨脚が強くなったため発着できず、よ
り大型の飛行機に替えて、2時間遅れでロンドンのヒュースロー空港に向けて飛び立った。空港から
地下鉄の車両にがたごと揺られて、着いたロンドン市内は、トゥルーズと違って肌寒かった。宿を捜し
て早早にベッドに横たわった。
翌日、グラスゴー医師に会うため、列車に乗ってロンドンから北東に位置する都市ノリッチへ発つ。
ノリッジの町に降りると、顔に当たる冷気はロンドより鋭い。駅前のB & B(朝食付簡易ホテル)を見付
けて、宿を取った。宿の亭主にノリッジ病院について尋ねたら、親切にも病院へ電話して、グラスゴー
医師に連絡してくれた。ノリッジ病院は、人工股関節の開発者で有名な医師がかつていた病院であ
る。病院見学後、グラスゴー宅に、夕食の招待に預かった。奥方の手料理による持て成しが嬉しか
った。その夜は、ホテルの部屋の暖房が入らず、持ち物全てを着込んで寝たが、寒くてしょうがなか
った。
早朝、グラスゴーが迎えに来て、郊外のいくつかの病院に付いて行く。午前中に何と5例の関節鏡
手術を見せてくれた。ビデオカメラで見るという技術はまだなかった頃である。関節鏡のレンズに教育
用のレンズ(側鏡)をつけて、側鏡を介して覗くために、光量を側鏡に半分取られる。しかも余計な器
具が付くため、重くなって自由度が低下するため、術者もやりにくかったろう。それにも拘らず、手術
は驚くほど早かった。インド人の研修医がいたので、「ここは恵まれているね」と言ったら、「人種差別
があるのですよ。病院内では差別はないが、町を歩くと差別を感じることが少ないないのです。」 少
し衝撃を受けた。1950 年代のイギリスでは、貸間広告の約 1/4 に「白人のみ」とか「有色人種断りま
す」のただし書きがついていたという加藤周一の記述が、記憶の片隅に浮かんできた。夕刻迫る頃、
グラスゴーとパブでビールを飲んで、別れた。
帰国後、関節鏡の習得の必要性を痛感した。第一人者である渡辺先生に、関節鏡を見学したい
旨の手紙をしたためた。渡辺先生から、九州労災病院院長の天児先生の推薦状があればいいよと
いう手紙をもらった。早速、天児院長の手紙を携えて、東京に向かった。渡辺先生から、まだ関節
鏡が医学界に認められていない時代に、大阪の学会で、ある教授から『米国で否定された関節鏡を、
日本でまだしている馬鹿がいる。』と言われた際に、天児先生が援護する発言をしてくれて感謝して
いる。」と話してくれた。
関節鏡の経験がほぼ皆無である若い医師が、大先生に直接に教えを乞うのは無謀である。しかし、
経験が少なくても議論に加われる国に身を置き、仏文化を吸収した直後の意気軒昂たる身が、己
を動かしたのであろう。一方、グラスゴーと渡辺医師を動かし若輩の私を受け入れてくれたのは、技
術を是非とも吸収したいという私の熱意であったに違いない。
九州労災病院勤労者骨・関節疾患治療研究センター 井原秀俊