4 失われたものとは何か - 中国帰国者支援交流センター

4 失われたものとは何か
ます こ
しず よ
語り手:増子 静代/聞き書き:資料収集調査員
みなみ
南
まこと
誠
増子静代の略歴
ぼ たんこう
みつざん
昭和 14(1939)年
「満洲国」牡丹江省密山県で生まれる
昭和 20(1945)年
敗戦の混乱の中で中国人に救われる
昭和 27(1952)年
中国人の家を転々して王家に落ち着く
昭和 32(1957)年
結婚
昭和 33(1958)年
長男生まれる
昭和 54(1979)年
妹や父親との再会
父親の除籍取消申立により戸籍回復
昭和 55(1980)年
一時帰国[用語集→]
昭和 63(1988)年
保証人[用語集→身元保証人]捜しのために来日
平成元(1989)年
永住帰国[用語集→]
平成 15(2003)年
京都原告団に参加
はじめに
「中国残留日本人孤児」増子静代は、中国で育った「満洲国」生まれの日本人である。静
代を知ったのは、京都に住むようになった 2003 年からだった。2002 年から展開された国家
賠償訴訟運動は京都にまで広がり、2003 年9月、京都原告団が成立し、京都地裁に提訴した。
そのときから、幾度なく会っていた。もの静かで、常に笑顔を絶やさずに、人に話しかけて
‑ 75 ‑
いる姿が印象的であった。しかし、その穏やかな笑顔の裏には、これまであまり語られなか
った物語が隠されていた。
些細なことは言わなかったね。なぜなら、耐えられないからね。ほかの人は一日中話してても大丈
夫だけど、私はだめ、耐えられない。
2回目の聞き取り調査のとき、静代は、あまり長く、詳細に話すと自分でさえ耐えられな
くなると話す。その人生がいかに悲惨であったことは、想像するに難しくない。そのため、
筆者も細かいことまで聞こうとしなかった。そのような人生は、おそらく静代が語った次の
二つの言葉に凝縮されているように思う。
人生失去了太多太多了(人生の中で失ったものはあまりにも多すぎた)
没有功労也有苦労(功労がなくても苦労がある)
いったい、静代は何を失ったのか、どんな苦労があったのだろうか。その言葉の裏に隠さ
れた意味とは何か。以下は、二つの裁判資料や静代の語りを基に、静代の人生を跡づけなが
ら、考えていくこととしよう。
1.二つの裁判から見る増子静代の物語
静代に関しては、二つの裁判に関わった書類が残されている。一つは戸籍訂正審判書で、
もう一つは国家賠償訴訟における陳述録取書である。とりあえず、この二つの書類から、静
‑ 76 ‑
代の家族略史およびその訴えについて見ておこう。
戸籍訂正審判〜増子静代の家族略史〜
戦後、中国で生きていたにもかかわらず、静代は死亡したことにされていた。また戸籍か
ます こ しずはる
もりおか
ら除籍されていたため、肉親が判明してから、父親増子静治が申立人として、盛岡家庭裁判
しらいわ と き
所に戸籍訂正申立を提訴した。その際、死亡届写し、白岩登喜の増子静治宛手紙、申立書、
昭和 54 年 12 月 1 日受付の申立人提出の書面、昭和 54 年 10 月 13 日付山形新聞の切抜、事件
けいしゅうさく
本人らの写真、事件本人らの血液型証明書、桂 秀 策作成の血液型証明書、家庭裁判所調査
官作成の調査報告書、各尋問の結果などを証拠として、つぎのような事実が認定された。
み つ え
なお、下記の文章に出る美津枝とは静代の妹で、同じく戦後残留孤児となって、除籍されて
いた。
えいあん
か じょうとん
申立人は昭和 12 年満洲国牡丹江省密山県永安村霞 城 屯の開拓団[用語集→満蒙開拓団]に入植[用語集→]、同 13 年
1月とトミエと結婚し、同 14 年4月2日長女静代、同 17 年1月1日二女美津枝、同 19 年5月 29
はる の
日三女治乃を儲けた。同 20 年5月 17 日申立人は現地召集[戦時、事変などの際に、在郷軍人(平時
は民間人として内地で生業についている)
を軍隊に呼びだして集める一般的な召集に対して、
満洲、
南方地域などの現地で生業についている者を直接召集すること]を受け、
終戦によりソ連に抑留され、
同 23 年9月 13 日帰国した。一方トミエと3子はソ連の参戦とともに開拓団の婦女子と行動を共に
し、同 20 年8月 12 日婦女子は自決することになったが、トミエら霞城屯開拓団2区の者らは果さ
あ
べ ぜんさぶろう
たけ だ けん じ
ず、ソ連軍と対決するため、子供らを阿部善三郎、武田建治に託して、山中に入ったが、結局ソ連
軍の捕虜となり、トミエらは子供らの消息が判らないまま同 21 年9月帰国した。トミエは、帰国後
霞城屯開拓団1区および3区の婦女子が全員同 20 年8月 12 日および 13 日に自決したことを知り、
一緒に帰国したものらと相談のうえ、それぞれの子供らも自決したものとして、3子につき同 21
‑ 77 ‑
年 10 月 19 日山寺村宛同 20 年8月 12 日死亡の届をし、同月 22 日受理された。
申立人はその後3子のことを気にかけていたが、昭和 54 年3月盛岡市居住の中国人に依頼して、開
よう ふ
よう ご
拓団当時の使用人であった楊富と楊五という人に手紙を出し、文通を重ねているうち、楊富から写
はやしまさきち
たかし
真が送られてきて、それが申立人と同郷で同じ開拓団にいた 林 政吉の長男 隆 であることが判明し、
申立人は3子の生存の望みを強くし、申立人一家の写真を楊富に送るとともに、中国大使館にも捜
索を依頼した。たまたま申立人は同 54 年 7 月訪中団に加わり、旧満洲を訪ね、楊富、楊五、林隆に
会ったが、その折楊富から、もと満洲の開拓団にいて現在も中国に居住している白岩登喜の、静代
と美津枝の生存、消息を知らせる手紙を渡され、その結果同月 25 日ハルビンで静代、美津枝に面会
した。静代、美津枝、治乃の3子は、昭和 20 年8月トミエと分かれた後開拓団近くの畑に取り残さ
れているところを、孫という中国人に助けられ、治乃はまもなく死亡したが、静代、美津枝はその
後中国人の間を転々し、
静代は 18 歳のとき結婚し、
現在夫婦共穀物配給所に勤め、
子供4人がおり、
美津枝は 19 歳のとき結婚し、現在夫婦共炭鉱で働き、子供5人がいる。なお、静代は父である申立
人に似ており、美津枝は母トミエに似ており、静代には子供のときあごの下にあったほくろがその
ままある。
血液型は、申立人がB型、トミエはA型、静代がAB型、美津枝がB型である。
以上認定の事実によると、静代および美津枝は生存しており、同人らの死亡届は真実に反
し、同人らの戸籍中死亡による除籍事項の記載は錯誤によるといえるから、申立人の本件申
立は理由があるので、戸籍法 113 条により、主文のとおり(=身分事項欄の死亡による除籍事
項を消除して同人らの戸籍を回復することを許可する)審判する。
同申立事件は、昭和 54 年 12 月 13 日に認められ、それによって、静代と妹美津枝の戸籍が
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回復された。
1938 年の満洲国で生まれた静代は、日本を全く知らない。そのため、両親がどのような経
緯で渡満したのかもわからない。上の審判書から、静代の家族が辿ってきた道を垣間みるこ
とができるが、詳細については知ることが出来ない。
国家賠償訴訟の陳述録取書〜増子静代の訴え〜
京都原告団には、109 名の残留孤児が参加していた。静代もその1人である。陳述録取書
は、京都地裁に原告らの訴えを提出するために、弁護士が当事者から事情を聞いた上で、ま
とめられたものである。それぞれは、①中国に渡った経過と孤児になった事情、②中国での
生活など、③帰国の経過について、④帰国後の日本での生活の4項目に分けてまとめられて
いる。以下、静代の陳述録取書を通して、彼女が辿ってきた道やその訴えを見てみよう。
1)中国に渡った経過と孤児になった事情
こく
私の両親は、1935 年ごろ、私が生まれる前に、2人で開拓団として中国に渡りました。居住先は黒
りゅうこう
竜 江省(当時の牡丹江省)の永安開拓団でした。私は 1939 年にそこで生まれました。
1945 年、ソ連が満州に侵攻してきたとき、父は召集されて不在でした。母と私、妹2人の4人は永
安開拓団の人と一緒に逃げました。私たちは逃げる途中で何日間かトウモロコシ畑に野宿して、ト
ウモロコシまんじゅうなどを少しずつ食べて飢えを凌いでいたのですが、ある朝起きてみると、母
も開拓団の人も居なくなって、私と妹2人だけが取り残されていました。私が目覚めて間もなく、
下の妹は死んでしまいました。私は付近をうろうろして母を捜したのですが、誰もおらず、私は「お
母さん。お母さん」と言って泣き続けました。そのうちに、畑の持ち主の孫老人が私と妹を見つけ
よう け
じょ け
て家へ連れて帰り、食べ物や飲み物をくれました。そして、私は楊家へ、妹は徐家へもらわれて行
‑ 79 ‑
ったのです。
2)中国での生活など
楊家では貧しい生活で食べ物も着るものもなく、寝る布団も場所もありませんでした。楊家にはも
ともと養母しかいなかったのですが、その養母が私がもらわれていった1年後に亡くなったため、
私は妹が行った徐家へもらわれていきました。徐家には約5年くらい居ましたが、専ら農家の仕事
おう け
をいろいろやらされました。怒られてばかりでつらかったです。その後、私は王家へもらわれてい
きました。私が王家に行った後も妹は徐家で生活していました。その後、妹とは会わず、手紙のや
り
け
りとりなどもしていません。私は、王家の後、最後は李家にもらわれていきました。李家にもらわ
れたとき、私は 13 歳でした。敗戦後の逃避行とその後の貧しい暮らしで、私は生きるか死ぬかの経
験を何度もしました。
1945 年に孤児になったとき、私はすでに6歳になっていたので、小さいときから自分が日本人であ
ることは知っていました。私が日本人であることはみな知っていましたが、私の父母の消息等は誰
も知らなかったのか、一切聞いていません。また私は自分の名前も覚えていませんでした。
私は4つの家を転々としましたが、みな大変貧しい家庭ばかりで、そのため私はいろいろな困難に
遭遇しました。いいことは覚えて居らず、苦しかったことはよく覚えています。
けいせい
中国では小学校3年までしか行っていません。1958 年から 89 年まで、私は鶏西市滴道食糧部で統
計の仕事に 30 年間就きました。生活レベルは普通で、夫と1男3女をもうけました。
3)帰国の経過について
後に聞いたところでは、母は 1946 年にハルピンの収容所から日本へ帰国し、父は 1948 年にシベリ
アから日本へ帰国したそうです。
‑ 80 ‑
私は公安局[用語集→]や日本大使館に肉親捜し[用語集→]の申請をしていません。それは私の父親が、1979
年に訪中し、私とその妹を見つけだしてくれ、厚生省[用語集→]に申請し、私たちを 1980 年 10 月3日
に一時帰国させてくれたからです。私と妹は同年2月に一旦中国に帰国し、私は 1989 年6月に永住
帰国しました。
私は、自分が日本人であることを知っていましたし、日本に帰りたいという気持ちはいつもありま
した。でも、養家では「帰りたい」と言うと、怒られたり叩かれたりしたので、とても口に出せま
せんでした。また結婚してからも、①夫が病気であったこと、②1979 年以前は自分が日本人である
ことがわかれば、文革(1966〜75 年)が再びあったときに、自分や家族に不利益があるかもしれな
いという心配があったこと、③1972 年以前は日中の国交がなかったこと等により、私は半ばあきら
めかけていました。
1979 年に父親と再会したことで、私の中で具体的に帰国したいという気持ちが強くなっていきまし
た。1972 年に国交回復されてから、父親は何度も中国の知人や日本政府に手紙を書いたそうですが、
実際に父に再会できたのは 1979 年になりました。もっと早期に帰国していれば、日本語を覚えて仕
事もでき、年金ももらえたはずで、生活保護にも頼らなくて済んだと思います。
4)帰国後の日本での生活
ところざわ
私は、永住帰国後、 所 沢のセンター(定着促進センター[用語集→])で4ヶ月、その後京都で3ヶ月、
日本語を勉強しましたが、少ししかわかりません。日本語を覚えられなかったのは、京都で3ヶ月
勉強した後に、腸の病気のため勉強を中断せざるを得なかったこと、年を取ってから帰国したため
年齢的に言葉を覚えるのが難しかったこと、新しい環境でストレスが強かったこと等が理由です。
し えん
こうりゅう
2003 年3月からは厚労省の支援・交 流 センター[用語集→中国帰国者支援・交流センター]の遠隔学習を受けています。
‑ 81 ‑
私は、帰国後は健康上の理由から仕事はしていません。家族は夫と子供4人(息子が1人、娘が3
人)ですが、現在同居しているのは夫のみです。夫婦二人とも生活保護を受けており切りつめない
と生活できません。ぎりぎりの生活なので、10 円でも安いものを求めて遠くのスーパーへ行きます。
理由はよく分かりませんが、60 歳を過ぎてから生活保護の額が年々減っています。年金ももらえる
のかどうか分からずとても不安です。夫は肺の病気で月に何回か肺に貯まった水を抜く治療が必要
ですが、言葉の壁は大きく医師とのコミュニケーションがとても不自由です。
私は帰国後、就職していないので厚生年金はありません。65 歳になったら国民年金が月に2万円前
後あると聞いていますが、月に2万円では不安でたまりません。病気になったらどうすればいいの
か、お金がなくては老人施設に入ることもできないし、とても不安です。
同じ日本人なのに、私たち残留孤児は普通の日本人よりも冷遇されていて口惜しいです。周りの日
本人は自分たちを日本人と認めてくれません。中国では「小日本」と呼ばれ、日本では「中国人」
扱いで、自分の居場所がありません。今後、老人施設に入っても、言葉が分からないし、適切な介
護を受けられるかとても心配です。
この訴訟により、私たち残留孤児が幼少より受けた精神的苦痛、義務教育すら受けることができな
かった辛い日々、これらの人生の多大な損失を日本政府に賠償してもらいたいと切望しています。
日本政府は、日本人の全ての老人と私たちを同じように扱い、私たち残留孤児が安心して生活でき
るようにしてほしいと思います。
同陳述録取書は、静代が辿ってきた人生やその訴えを要領よくかつコンパクトにまとめて
いる。しかし、静代の人生はもっと複雑な経緯を辿っていた。本人の語りから、その人生に
‑ 82 ‑
ついて、もう少し詳細に見ていきたい。
2.増子静代が物語る「私」
「満洲国」で生まれた私
静代は、
「満洲国」のことをほとんど覚えていない。覚えているのは、父親が兵隊のような
ことをしていたということだけである。
父は中国に行ってから、兵隊に行ったみたい。開拓団だけど、若かったし、20 何歳だったのかな。
月に何回も帰ってこない。開拓団だけど、兵隊でもあったみたい。
父と母は中国に行ってから結婚した。みな若かったし。(昭和)12(戸籍訂正審判書では昭和 13(1937)
年)年の何月に結婚して、翌年の4月に私が生まれた。
開拓団についての印象や記憶もほとんどない。
当時は小さかったしね。あまり印象はない。ただ覚えているのは、父が銃を持って帰ってきてね。
背が高くてね。でも、後で会うと、父はこんな小さかったのかと思ったりもした。まぁ、当時の私
が小さかったからね。あまり家にもいなかったし。
筆者:そのほか、開拓団についての記憶は?
あまりないね。家が少なかったし、遠く離れていた。もし、たくさんあったら、一緒に遊んだりも
していただろうね。まだ学校にも行かなかったし。6歳にもなっていたしね。学校がなかったかも
‑ 83 ‑
しれないね。当時学校に通っていた人を見ると、彼らの日本語が上達するのは早い。
だが、父親と再会してからは、当時のことについて話を少し聞いた。
筆者:父から日本に帰ってきてからの話を聞きましたか?
話したよ。しかし、父は中国語が余りできなかったので、中国語を少し話しては、また日本語を話
す。結局は理解できないままに終わってしまった。
言葉が通じなかったため、父が話したことを全部理解できなかったが、次のようなことに
ついては覚えている。
父は兄弟7人だった。父は5番目。後の兄弟も外国に行ったって。父が帰ってくるのが遅かったの
で、住む場所はもうなかった。自分で努力しなければならなかった。
父は中国で、7番目のおじもどこかの国に行った。兄弟7人のうち、2人は外国にいった。6番目
のおじだけはいかなかった、学校の校長で行かなかったみたい。
筆者:満洲に行った理由は聞かなかったか?
何のためって。天皇の命令があったからね。それで誰もが拒むことできない。皆(満洲へ)行ったよ。
岩手県、90 何世帯も行った。みな開拓団から帰った人だった。みな、自分の子供の話をしあってい
た。(満洲から)連れて帰った人もいたし。みな、自分が連れて帰ってこられたので。そうじゃなか
ったら、私みたいになったかもしれないと話したりするの。
‑ 84 ‑
(ある人は私に)私はよかった、と話す。中国に残されなかった。中国にいたら、あなたと同じよう
になっていただろうね。
そういわれた静代は、やりきれない気持ちになった。
太難受了(本当にやりきれない、とても情けなく思った)。みな、いい生活しているのに。家の生活
も順調だし、牧場をやっていた。
捨てられた私
敗戦後のことについて、静代は詳しく知らない。そのため、戸籍訂正審判書を指差して、
次のように語った。
これに書いてある。中国でのことはね。何年に捨てられたとか、捨てられた場所とかこれに書いて
ある。捨てられたのは 1945 年の8月で、夜がまだ明けないごろに。私たちの開拓団、年寄りや幼い
子で、車で(逃避行していた)。
そして、自分の微かな記憶と両親から聞いた話をもとに、当時の状況を話してくれた。
母は私たち3人を連れて、開拓団と一緒に逃げていた。そのときは、楊という中国人が馬車で私た
ちを乗せていた。あまり遠いところまで行ってないが、ある山をこえようとしているときに、飛行
機がいっぱいやってきて、空も明るくなったので、それ以上進むのをやめた。
みな車の上に載っていた。緑色のカーバが覆ってあった。こっちから飛行機が見えるけど、向こう
‑ 85 ‑
からこっちが見えない。飛行機があっちに飛んだら、こっちに隠れたり、こっちに飛んできたら、
またあっちにいったりした。
夜になると、ある人は、もしいかなかったら、翌日彼が銃でみなを殺して、それから自分も自殺す
るとみなに言い付けた。そのとき、既に結婚していた人は、そこからいかなければ、殺されるに違
いないと思っただろうね。だから、そのまま去っていったみたい。そのときは、私たちは何も知ら
なかった。みな寝てしまった、姉妹3人はね。誰かが手伝ったかもしれないが、私たちを野原に捨
てたのだ。
目が覚めたときは、周りに誰もがいなかった。一番下の妹はもう泣かなくなっていた。もう息して
いないようだった。その辺で、母を探そうとしてうろうろ歩き回った、丸1日。
妹はもう死んていたね、泣きもしなかったから。もしかして、泣いていると発見されるのを恐れて、
誰かが殺したのかもしれない。具体的には知らないが。
拾われる私
(私たちが)当たりをずっとうろうろしていたから、野原の草は踏み倒されていた。その後、孫とい
う人が私たちを彼の家までに連れて行った。彼の家に着いたら。彼の家は人口が多くて。貧乏だっ
た。子供も多くて、着る服もなかった。
(当時の)政府(ママ)も言うけど。百姓が日本人を恨んでいるので、もし日本人の子を拾ったら、そ
の家が罪を犯したことになるって。でも、孫はいい人だったから。私たちを、裏庭、とうもろこし
のみきに隠してくれた。昼間はそこで、夜になってからやっと家の中に入れる。
‑ 86 ‑
静代は、小さいときに、死にそうになったことが3回ある。このときはその1回目であっ
た。
ラオゴォントウ
拾われてから、裏庭に隠されてきたが、そのときの労 工 頭、炭鉱のね。その人が、日本人の子ども
が拾われてきたのを知ってね。私がトイレに行く隙を見つけて、私を拉致したのである。川の中に
投げられるところだったが、ほかの人に救われた。しかし、争うとき、私が引っ張られ、手足がし
びれて、しばらくの間は動くことも出来なかった。その後、その労工頭を見ることがなかった。他
の人の話では、彼がみなに殴られて死んだという。
彼(労工頭)は日本人を恨んでいた。それで日本人の子だと知って、やってきたみたい。仕方がない。
戦争のせいだからね。だから、戦争は嫌いだ。失ったものがあまりにも多くてね。
庶民が苦労するからね。いつも。年寄りや子供がね。
苦労したのは、静代だけではなく、後になってから聞いた話だが、両親も苦労していた。
母は 1946 年に帰ってきたの。彼女らはハルビンの、なん、なんと言うところだったのかな。なんと
か収容所、あるいは難民収容所[用語集→]って言うところに収容された、と母が言うの。黄色の穴が開
いた食物、たぶん窝窝头(トウモロコシの粉を蒸して作った食べ物)、1日、少しだけしかくれない
と愚痴った。しかし、私が思うの、私たちは野原に捨てられて、何の食べ物もなかったのにねって。
そして、母は 46 年、父は 48 年に(日本に)帰ってきた。ソ連から。何か政策ができたみたいで。二
つの国が交換したような感じで。詳しくは私もわからない。
‑ 87 ‑
中国人の家を転々する私
静代の話によれば、当時の中国では日本人の子どもを拾ってはいけないことになっていた。
しかし、それは短期間であった。その期間を過ぎると、静代が6歳の頃で、孫の親戚楊とい
う人に預けられ、妹は徐の家に預けられた。
その後、危険期を過ぎてから、私は孫の妻の妹の家、楊なんとかいう人に預けられた。6歳だった
から、ちゃんと覚えていなかった。妹は徐という家に預けられた。
徐は楊の娘だった。その娘は結婚して長いが、子どもがいなかった。姉妹は二つの世代に
分けられてしまった。だが、楊家での生活は長続きしなかった。
その後、土地改革[用語集→]かね。たぶん、そうだと思う。土地改革の時。楊家の息子はある地主の家
で働いていた。おばあさんは独自で生活できなかったし、それを頼りに生計を立てていた。しかし、
1年後、おばあさんが死んで、働いていた地主の家財なども没収され、みなに分けられた。その後、
楊家の息子は、そこの婿入りとなったのだ。7歳の時だった。預けられてから1年過ぎたぐらい。
その後、静代は妹の後を追うように、徐家に入った。
その後、そこの娘さん(徐家)の家に入った。妹さんと一緒になった。妹がまだ小さかったし、よく
殴られていた。毎日、豚を放牧しにいった。そのときはまだ数をかぞえることもできなかった。豚
は4頭くらいだったかな。1人では間に合わないので、人の畑に入ってしまったりもされた。それ
で告げ口をされて、怒られたこともあった。そのような生活は、10 歳ぐらいまで続いた。
‑ 88 ‑
15 歳までには、布の服を着たこともない。着ていたのは、商店にきた生地を包装するもので繕った
ものだった。
静代は徐家を姉夫(義兄:姉の夫)と呼んでいた。
その後、私の姉夫は、山奥に住んでいたけど、その後、市内で仕事が見つかって、鶏西市に引っ越
した。彼は馬車で布などを卸していた。
鶏西では豚を飼ったが、その後、豚はみな病気で死んだ。疫病だったと思う。もう放牧しなくてす
むと思ってほっとしたが、その後の生活はもっと大変だった。豚が死んでから、毎日朝、石炭の燃
え殻を拾いに行った。店が捨てたものをね。ずっと山奥にいたから、市内の地理には疎かった。ほ
かの子とけんかになることもあった。
その後、姉夫が馬車で布を運んだりするので、石炭のありかを知るようになって、私は毎日それを
拾いに行った。古くなった炭鉱をね。毎日、ほぼ一馬車を拾っていた。でも、そこまで働いても、
ご飯を出してもらえなかった。帰宅したときは、もうみなが食べた後だった。近隣の人が見かねて、
ご飯をくれたりもした。
夏と冬は石炭拾いで、秋は前に住んでいたところに行って、きのこや木の実などを取りにいった。
たくさん要求されるから。麻袋一袋といわれたが、半分しか取れないときもあった。きのこはたく
さん取ったときがあった。10 何キロかなぁ。
言われた量が採れないと、家に帰ってから怒られ、殴られる。それを怖がって、静代は、
‑ 89 ‑
自分を拾った孫家に訴えた。
私を拾ってきた人はね。そのときは、叔父と呼んでいた。帰るのが怖くてね。また殴られるって、
叔父に訴えた。ほら、みて、体の傷を見せるね。それで、なら、もう帰らなくていいよ、と言って
くれた。それで叔父が直接姉夫に話を付けるから、もう帰らなくていいって。そして、姉夫が来た
とき、私は外へ逃げ出した。
しかし、叔父の家に長くいるわけにも行かなかったので、ほかの家を探した。最初は、ペ
イという人の家の話があった。しかし、その人は、静代を息子の嫁にするのが目的だったの
で、そこへ行くのを固く拒んだ。そして、預けられたのは、遠いところの王家だった。13 歳
のときだった。
りゅうもう
その後、私は、遠いところの、 柳 毛というところ。私は今(中国の名前)王という姓でしょ。彼の家
に預けられたのだ。彼の家には娘ひとりがいた。
彼は学校の先生だった。そのときから、私は始めて学校に通った。小学1年通わずに、2年生から
通った。合計3年間学校に通っていた。しかし、その後、その先生は学校で何か過ちを犯したみた
いで。右派だったのかな・・・、詳しくは知らないが、8年間牢獄に入れられた。
養母には娘がいたし、2人の娘を連れて生活するのが難しかったので、再婚した。その人は初婚の
人で、抗日戦争の幹部だった。李という人で、とてもいい人だった。彼の家で、もう少し学校を通
っていた。
‑ 90 ‑
苦しかった幼少時代
小さい時は苦労したよ。小さいとき、頭が蚊に刺されて、瘡蓋になったりする。髪が全部切らなけ
ればならないほどだった。それでも何の治療も受けずに、自然に治るのを待つだけだった。当時の
衛生環境もよくなかったし。
衛生環境が悪くて、静代が死にそうになったことは2度もある。
徐家に行ってから、一週間ほど、麻疹で寝込んでしまった。ちゃんとした治療を受けることも出来
ずに、大変だった。その後、誰かに民間療法を教えもらって、それで救われたみたい。
よくなってからは、豚の放牧をやっていた。そんなある雨の日、豚を追っているうちに、深い溝に
落ちて、意識をなくしてしまった。何日経ったのかは知れないが、そのときも誰かが救ってくれた
みたい。
その後、病院にも行かずに、何とか直ったが、しかし、小腸が落ちるくせになってしまって、大変
だった。日本に来てから、やっとその手術を済ませた。
生活も豊かではなかった。
麻袋を布団にしていたしね。御飯もろくに食べられなかった。かぼちゃや芋ばかり食べていた。そ
れがまだよいほうだったよ。自分たちが栽培したものを食べてね。今となっても、かぼちゃと芋を
食べようと思うことがほとんどない。小さいときに、食べ過ぎたからね。そのとき、トウモロコシ
でつくったものなんか食べられたら、もうすごいご馳走だった。
‑ 91 ‑
筆者:あの時は、食料がなかったのか、それとも?
農村はね。米がなかったよ。米を食べたことがなかった。高粱とか、大豆とかね。とうもろこしと
かね。稲とか、麦は見なかったね。大豆収穫のときなんか、手がさされたりもする。痛くてね。
農作業仕事もしていた。
(畑の除草作業で)大人の人は、ふたつの列を同時にやるけど。私は一列だけ、帰ってくるときにも
うひとつの列をやる。
豚、羊の放牧や、牛、馬の放牧もやっていた。冬は豚を野放しにするので、見守る必要がない。そ
れで、家でとうもろこしの粒をとって、それを加工しに行く。それで、トウモロコシが初めて食べ
れるようになるからね。冬はそういうのをやっていたね。
これが終わると、とうもろこしの葉っぱで靴を編んだりしてね。後は草とかとってきて、靴を作っ
たりね。それほど暖かくないけど、ないよりはまし。
結婚と仕事
18 歳のとき、57 年。私が結婚した。その李という人の家計は苦しかったし、私も病気を患ったので、
救われないと言われていた。病気を治すのに、養父が苦労して貯めた金を使うわけにも行かなかっ
たので、結婚を勧められた。それで結婚した。
(結婚してから)2年目かな、1958 年、大躍進[用語集→]のとき。長男がもう生まれた頃、かわいそうと
みかねた近隣の人が仕事を紹介してくれた。
‑ 92 ‑
(仕事は)食糧を扱うものであった。最初は出納をやっていた。仕事をしてしばらく経つと、61 年
か、60 年かのときに、大飢餓が始まった。
当時の職場では、横領をする人がいた。私は上司に報告する勇気もなかったので、空が暗くなると、
1人で帰るのが大変だから、ほかの仕事を回してほしい、と上司に申した。怖い、自分が巻沿いに
されるのが。上司から、局に入って統計の仕事をやってみたらといわれた。それで統計の仕事を始
めた。あまり教育を受けたことがなかったので、最初は大変だった。でも1週間ぐらいで慣れた。
静代の周りには、日本人が多くいた。職場だけでも、3人がいたという。
もうひとりがいた。彼は私が日本人であることを知っていたが、私は知らなかった。彼は 79 年に日
本へ帰国した。彼の叔父は北海道の議員だったようだ。
大飢餓時代を過ぎてからは、文化大革命[用語集→]の時代に入った。
文化大革命のときも特に何の被害も受けなかった。ただ、局レベルから下の部門に左遷されただけ
だった。そのときは、私だけではなく、何人もそうなっていた。
こうえいへい
(日本人ということで)紅衛兵[ 中国の文化大革命期に、毛沢東の直接指導の下に結成された青年学
生の運動組織]に参加させてもらえなかった。仕事の場では、特に何もなかった。
‑ 93 ‑
文化大革命が過ぎてから、社会情勢が良くなり、静代は市の人大代表(市議員に相当する)
に選ばれ、5年間勤めた。そのとき、静代が日本人である事を職場の上司は知っていた。当
時の政策では、外国との関係を持つ人をひとり人大代表に選ぶようにという通達があった。
それで、静代が選ばれたという。
鬼子と呼ばれて
グォイズ
文化大革命のとき、静代は迫害を受けることがなかったけど、小さいときから、鬼子[用語集→
と呼ばれることが度々あった。
日本鬼子]
小さいときに苦労したね。大きくなってからはそうでもなかったね。学校に通っているとき、鬼子
と言われたりね。どうしようもなかった。帰宅してから、こっそりと泣いたりもした。両親には話
せなかったし、話してもどうしようもないからね。仕事してからは、直接言われなくなったが、裏
で言う人はいたかもしれない。
小さいときからね。家に帰ってもいえなかったし。職場でもそうだった。面に向かっては何も言え
なかった。帰宅してからは隠れて1人で泣いた。こんな環境に生まれては、どうしようもないから
ね。
人に鬼子と言われても、口答えをすることができなかった。しかし、日中友好条約が結ば
れてからは、静代は自分の考えを主張するようになった。
72 年以後、日中友好してからは、(相手と)弁論するようになった。鬼子かどうかは、私には関係な
い。誰もがよい家庭に生まれたい。でも、選べることがない。鬼っ子なんかは、私と関係ない。私
‑ 94 ‑
は中国で生まれ、中国で育った。中国の教育を受けた。そういう問題を私に言われても、どうしよ
うもない。私に選択する余地がなかった。私の両親もね。天皇がいけといわれたら、誰もが拒否で
きない。それは命令だったからね。弁論してからは、何も言われなくなった。
(弁論してから、)以前は何も言わないのに、何で今はこういうふうに弁論するようになったの、と
聞かれた。私は心の中で思ったのよ。もう何年も我慢した、これ以上我慢し続けると、いつまでも
そう呼ばれるからね。
弁論したよ。罵られてもいいけど。鬼子、二鬼子とかは、私と関係ないよ。もし、力があるなら、
そのとき、(相手を)追い出せばいいじゃん。今となっては、みなそっち(日本)を憧れているじゃん。
根性ないと思った。でも口には出せなかった。当時の政策がどうなるかはわからないからね。
鬼子と呼ばれたときは、両親を恨むようになった。両親と再会してから、親たちの苦労を
知って、その憎しみが消えていった。
そのときは、両親を恨んだ。今は知っているけど、前は知らなかった。死ぬなら一緒に死ねばいい
のに。生きるなら一緒に生きていくのに。今となって考えれば、両親のやりきれないところもあっ
たと思うしね。(私たち姉妹を)連れて行くと、発見される確率が高くなるし、一行がばれるかもし
れないからね。
前は恨んだよ。今は知ったから(そうでもない)。父はシベリアで苦労したみたい。私が帰ってきた
とき、父は通訳を呼んで、私にそのときのことを話してくれた。(シベリアでは)食べ物も着るもの
も充分ではなかったみたいで。父はリーダー的な存在だったみたいで、ソ連の人が木で米を交換し
‑ 95 ‑
ているのを見て、自分も真似てやった。その人たちにだめと言われたけど、あなたたちがやってる
から私もやると答えたって。帰国してからも、自力で生きるほか方法がなかった。本当に苦労した
よ。
妹との再会
筆者:妹とはどうやって再会したの?
どうやって再会したのかというとね。私が知っていた、もっともっと近くに住んでいたからね。だ
から、仕事に就いてからは、何回もこっそりと捜しにいった。仕事関係で、統計表などの書類を鶏
西市の局内に報告する必要があった。そのたびに、妹を捜しにいった。しかし、見つからなかった。
もう引っ越したって。近隣に聞いても、どこへ引っ越したのかはわからないと言われた。その後も、
いろんなところを聞きまわった。
その後、ある人に頼んで、いろんなところに聞いてもらった。どこへ引っ越したのかはわからない
が、もっと探してみると言われた。こうやって探していたときに、妹が私を先に見つけてくれた。
私の職場までやってきてね。私の妹の旦那が、どうやら、探してくれたみたい。
妹の夫は炭坑で働いていた。彼の力で、静代姉妹は再会を果たした。
筆者:再会したときは、うれしかったの?
うれしかったのはうれしかったけど、でも互いにわからなくなっていた。しかし、話せば、声が似
ていたし、あだ名もあったので、それで呼んで、そうかって聞くと、そうよと答えてくれた。
‑ 96 ‑
13 歳のとき、妹と別れてから、27 年もの年月が経っていた。
近かったのにね。互いに知らなかった。
父親との再会
戸籍訂正審判書でも認定されたように、父は静代らのことを気にかけながら、中国へ手紙
を送り続けていた。中国からの情報が手係りとなって、訪中団に参加した父と静代が再会を
果たした。
1972 年、日中友好になってから、父は私が住んでいた地域に 10 通以上の手紙を送った。父曰く、
子どもは死んでないと思っていた、と。鶏西市とか、開拓団のところとか、友人等に手紙を送って
いたようだ。
私を探し当てたのは、私の家で働いていた楊という人からの情報だった。彼はまだ生きている。彼
は、事変(日本の敗戦)の時、だれだれの家が子どもを拾ったとかを教えた。それであっちこっち探
し当てて、孫という家でわかった、と。
近くに残留婦人が住んでいて、その息子が楊の近くに住んでいた。それで聞かれた、母親の近くに、
ある姉妹2人が再会したそうだ。あの2人かもしれない。4月に再会したばかりで、そこにいって
みたら、(とその息子が楊に教えた)。それで、その母親(残留婦人)のところにいって、それでわか
ったの。その残留婦人は、ほら見てこの写真、これはあなたの父かと私に聞いたが、私は知らない
と答えた。父は背が高いと思っていた、こんな小さくない。そのとき(開拓団)、私が小さかったか
らね。似ているといわれた。あなたの両親は、8月 20 日に、ハルビンまでやってくる。それで楊に
‑ 97 ‑
手紙を送った。もしわかったら、つれてほしいといわれた。林隆も一緒、一緒にいってといわれた
が、行くのを拒否した。
(当時は)仕事していたし、もし違っていたら、どうなるかはわからないしね。中国の政策が怖かっ
た。だから、行かないと答えた。妹と再会してから、写真を撮ったので、それを持っていて、見せ
てと頼んだ。もしそうだったら、電話か電報で教えてからまたいく。
22 日、彼(林隆)から電話があった。食料店に。そうなの?と聞いたら、団の人はみなそうだと言っ
たって。それで悩んだ。どうすればいいのかって。それで主任にまず言った。主任はわかった、行
ってみたらといわれた、まず公安局にいってみたらって。そこ(公安局)に行って、外事の人が同意
してくれたので、妹に連絡した。今すぐ来て、今晩ハルビンに出発すると伝えた。彼女の家には電
話があったので。翌日の朝に(ハルビンに)着いた。彼ら(訪中団)は午後の飛行機でハルビンを去る
ので、僅かな時間しか会えなかった。私に 240 元くれた、妹にも。切符代になった。空港まで見送
ってから、私達は帰った。
日本に戻った父親は、静代と妹2人の戸籍訂正を申し立てた。そのときの内容は、上の審
判書の通りである。戸籍を回復した2人は、翌年 10 月に一時帰国した。
一時帰国
一時帰国は3ヶ月だけだった。
妹は2人の子供、私も2人の子供をつれてきた。私は2人の娘、彼女は2人の息子。でも、妹の子
供は、日本に来てから、毎日高熱を出していた。それで怖くなってね。連れてきたのに、万が一何
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かあったら、(妹の夫に)なんとも言い訳できないからね。それで帰った。3ヶ月間だけで。
筆者:あのときの日本についての印象は?
私たちの、母たちのところはね。山の中だからね。初めて行ったしね、人気も少ないし、怖かった。
こんなところだったら、来なくてもよかったと思ったりした。でも、県の人はよくしてくれた。登
録を手伝ってくれたりね。そこも、たくさんの帰国者が帰ってきた。市内はまだましだね。みな(日
本も中国も)一緒だね、市内なら。田舎は違うね。でも、道はちゃんと舗装されていた。買い物は苦
労するけどね。だから、日本人みな運転ができる。車がないと、買い物にもいけない。自分たちで
栽培するならいいけど。互いに送ったりもらったりもするみたい。時々はね。夜とかにね。
ぺ きん
まぁ、こんな年になって、北京に行ったこともなかったし、北京に行っては、こんなにいいところ
か、と感心した。しかし、日本に来てから、また北京に戻ると、やっぱ、日本より劣っているよう
な感じがした。やっぱ、日本のほうがいいね。あの時は、みな、礼儀正しかったね。物をそこに置
いても、それを取ろうとする人はいなかったし。しかし今はそうでもないみたい。昔と違ったね。
地域にもよるかもしれないが。
父は言った。日本がいいと思ったかって。んって答えた。知らないからね。日本にも乞食がいると
いわれたが、信じられなかった。なんでいるのだろうと思ってね。でも、実際、日本に来てから、
乞食がいることがわかった。中国のこじきと違うけどね。京都駅で見かけたことがある。あるいは
大阪の駅とかでね。ダンボール箱で作った家に住んでてね。乞食みたいで。前は知らなかったね。
多分、彼らは仕事をちゃんとしないからだろうね。
一時帰国をしてから、静代は日本に永住帰国しようと考えた。
‑ 99 ‑
筆者:一時帰国のときの感想は?
感想、思ったよ。帰ってこようと。しかし、親族が反対するので、すごく悩んだ。あの時、同僚か
らよく聞かれるの。自分の家族が見つかったのに、何で帰らないのかって。私も思うよ。でも、言
えないのよ。自分の両親が反対しているなんで言えないよ。ただ、自分が帰らないと答えただけ。
それがせいいっぱいだった。人に笑われるからね、言えないよ。自分の両親さえ、帰るのに反対す
るなんで、誰もが理解できないよ。誰もが日本の事情を知らないしね。たくさんの人が帰ってきた
よ。私の同僚なんか、79 年にすでに帰ってきてるし。みな、今幸せに暮らしているよ。そこの旦那
は、日本企業の中国駐在所で働いているし、子供も大学を卒業して、自分の仕事を持っている。う
ちはだめよ。誰(子ども)もが国籍を取らなかったし。
一方、静代の妹は最初から永住帰国を考えていなかったようだ。両者の家庭状況が違って
いた。
あの時はね。妹の家族はそう(永住帰国)思わなかった。妹の旦那はね、あまりそう思わなかったみ
たいで。彼の家は生活条件よかったし。家では長男だったし。父親もいたしね。うち(夫)は3番目
の息子で、彼(妹の夫)は弟とかもいたしね。母親をなくしたしね。弟たちを育っていた。どうしよ
うもなかったからね。一時帰国のときはね、(中国へ)帰りたくなかったけど。子供がだめだった。
万が一、子供に何かあると、だめだからね。
現在、静代の妹も京都市内に定住している。
保証人探しと永住帰国
一時帰国して、中国に戻った静代は日本への永住帰国を考え始めた。しかし、親族が判明
‑ 100 ‑
しているがゆえに、親族が身元引受人[用語集→]になってもらう必要があった。そうでなければ、
第三者が保証人になってもらうほかに方法がなかった。静代は保証人を捜すために、1988 年
に自費で日本を訪れた。
(88 年は)自費で来日した。自費で保証人を探しにね。(残留婦人の)白岩さんはね、彼女の息子が保
証人を見つけてくれると言ったので、それで訪ねた。しかし、実際行ってみると、保証人がだめに
なったので、大打撃を受けた。そのときは死ぬ気さえあった。海に飛び込もうかと。でも、よく考
えたら、子供のために来たのだから、死んだら、どうしようもないって思って(止まった)。
それで、林隆さんの電話番号があるのを思い出して。ノートを取り出して、彼に電話した。彼は私
たけうち
より数ヶ月小さいが、同じ年だ。事情を知った彼は、せっかくに来たので、竹内さんに聞いてみる
よと言ってくれた。
(私も)その前に、
竹内さんにも手紙を書いたけどね。
家族の同意書がないとだめって言われた。
彼(竹
内さん)は、私が来たのを知って、せっかく、来日したので、京都まできたらと言ってくれた。
そのときは、言葉(日本語)がまったくできなかったしね。特急とかもわからずに、ただ、紙に字を
書いて、人に尋ねながら、列車に乗ってやってきたの。まぁ、人間はいざというときはもう何も怖
くないね。そのときは死ぬことも怖くなかったしね。(中国にいたとき)両親が反対していたとはい
えなかったね。
その後、竹内さんは親族の諒解を得た上で、静代の永住帰国手続きを済ませて、静代が晴
れて日本に永住帰国した。
親族に身元保証を求める制度に関して、
静代は次のように語った。
これらのこと、帰ってくるのが遅かったこと、自分で保証人を探さなければならなかったことが問
‑ 101 ‑
題。中国にいてどうやって探すの。これは明らかに政府の責任であろう。親族は生活の余裕もない
のに、保証人になる余裕があるはずもない。
保証人を親族に課すのはやっぱおかしい。そうでなければ、もう少し早く帰ってこれたのにね。早
く帰ってこれば、今のようにならなかったのであろう。今は、ほかの人の顔色をうかがって、生活
費を受給している、それはとても情けなく思っている。
ある人に、(私たちが)彼らの消費税を食べてるといわれたことがある。そんなことを言われても、
わからないからね。早く帰ってこれたら、私たちも今と違っていただろう。子供も大学を卒業して、
ちゃんとした生活をしているだろう。私たちは大学にいけなくても、それなりの仕事ができていた
はず。このような生活はもううんざり。
このような思いがあるにもかかわらず、ほかの人に理解されないこともあるという。
肉親が見つかったかどうかによって、日本に帰ってからの待遇も違うよ。ほかの孤児が受けられる
制度は、私たちになかった。また、私はセンターで勉強したとき、ある残留婦人に言われた。あな
たたちは両親がいるからいいね、ほかのはいないといわれたことがある。私は不平に思った。両親
がいても、何も与えてくれなかったし、帰ってくるのも一番遅かった。なのに、ほかの人たちと待
遇も違う。
てんあんもん じ けん
静代が永住帰国するとき、天安門事件に遭遇した。
私が来たときはね。ちょうど、北京の天安門事件が起こったときだった。ホテルにいても、食べる
‑ 102 ‑
ものがなかった、誰もがいなかったし。そのとき、人(残留孤児)はたくさん来た、39 世帯だった。
飛行機で、4日間もかかった。みなばらばらで、空港にいても、飛行機はなかなか飛ばなかった。
なぜなのかは知らなかったが。何回も繰り返してね。
(泊まっていたホテルから)ただ銃声が聞こえた。ホテルの責任者はいわく。もう外に出ないでねっ
て。鍵をかけられた。帰国のために、安全のために、と。
永住帰国して
筆者:日本に帰ってきてからは、どうだった?
にしきょう
日本に帰ってきてからね。帰ってきて、出かけるのが怖がった。帰ってきたときは西 京 区で、1人
だけだった。外で日本人が話しているのを聞くと、出かけなかった。人が去ってから、出かけるよ
うにしていた。だから、何も知らなかったし。いまだに、子供たちが入籍していないし、それが、
残念なことかな。せめて、政府に理解していただき、手続きを簡単にしてほしかった。たくさん課
せられてもね。
もし、もっと早く帰ってこられたらね。たとえば、40 歳とか。自分たちで何とかできていたし。政
府も簡単だっただろうね。私の住むところはね。工場がない、環境はいいけどね。静かだし。でも、
らくせい
私たちにとっては、別に何の意味もない。帰ってきてからは、ずっと洛西だった。でも、ここへは、
誰もが生活指導員[用語集→]になりたくなかった。交通費だけでも何千円かかるしね。今はバスが多く
なったけど、前はなかった。33 系統のバスなんか、1時間に1回だけ。
病院にいくのも苦労した。通訳がいなかったし。勉強するところもなかった。今は少しましになっ
たけど。
‑ 103 ‑
中国人がいなかったし、言葉(日本語)もできないから、寂しかった。
現在、静代の住む地域に、ほかの残留孤児も居住するようになって、時々交流したりする。
また、地域周辺の物価が高いため、よりやすいものを求めて、一緒に買い物に行ったりもす
る。
あなたは知っているか。私たちが住んでいる地域は、ほかの地域より消費基準が高いことを。
たかしま や
高島屋とかはあるけど、そこを借りるだけで高いだろう。(だから)ここの物価は高いよ。ここは、
年金暮らしならいいけど。私たちはだめ。
ひがし む こ う
だから、買い物は 東 向日まで行くの。時々、中谷さん(残留孤児)と二人で歩いていくの。行くのに
1 時間、帰ってくるのにまた 1 時間。疲れてね。荷物もあるし。1ヶ月間、1回か2回ほどいく。
最近は寒くなったので、あまり行かない。あるいは、周辺の畑に行って直接買ったりもする。物価
が高いからね。
日本に来てから。中国で、ごみを拾ったことがなかったのに、日本に来てからね。これらのもの(家
の家具を指差して)はみな拾ってきたのよ。冷蔵庫とテレビを除いてね。それらは政府から与えてく
れたの。ほかは全部拾ってきたの。友人からもらったのもあるけど。冷蔵庫は壊れて、これは新た
に買ったもの。
来た当初は、何もなかったから、拾ったりする。今はもう拾ったりしない。もらったり、拾ったり
ね。送ってもらった服とかもある。そのときは何もなかったからね。支援団体からとかね。
‑ 104 ‑
言葉と国籍
(日本に帰ってきてからの)最大の問題は、言葉である。言葉が通じなかったのは、一番難しかった。
人との交流もできないしね。言葉があって、初めて自分を表現することができる。それがないと、
何もできないからね。日本語もできないのに、日本のこと、法律も含めて、わかるはずもない。何
もわからないし、何もできない。
区役所に時々、(ほかの残留孤児と)一緒に行くけど。半分しか意味がわからなかった。でも、後か
ら来た人は、生活指導員がいるから、まだまし。
日本語は見て大体わかるけど、全部は無理。学校にも行ってなかったし。小学校3年生までしか通
ってなかった。自分の名前でさえかけないのに。手も震えるし。
(日本語の勉強は)誰もが指導してくれないし、文法とかも難しい。自分で見ても無理。(日本語は)
ところざわ
東京の 所 沢センターで4ヶ月間勉強した。京都は3ヶ月ほど勉強しただけで、病気になったので、
きたおお じ
それで行かなくなった。当時は北大路のところにあった。その後、体の調子がよくなってからは、(も
っと勉強しようと思って)市の福祉担当に聞いても、わからなかった。でも、昨年から再び日本語を
勉強し始めた。
「天天好日」を見て、もう1回勉強するのが可能になったのを知って、申請した。そ
れで勉強し始めた。まだ 70 日間にもならないけど。週に1回、1ヶ月間に1回の漢字の勉強をして
いる。
筆者:勉強しての感想は?
大体は聞いてわかるようになった。しかし、話すのが難しい。(話していると)どこかで聴いた言葉
だけど、それを考えているうちに、思い出しても、相手はもうつぎの話題を始めていた。追いつけ
‑ 105 ‑
ないのね。だめだね。
本当に残念なことだよ。これだけ、日本にいて、日本語がまだできないというのは。どうしようも
ないね。日本語が難しいからね。中国語は一文字にひとつの意味しかない。でも日本語は読み方も
異なるし、置く場所によっても意味が変わる。だから、難しい。文法は、勉強しても、覚えられな
いからね。
言葉のほかに、静代は子どもらの国籍と在留についても心配している。
一番の心配は、うちの子供らはみな入籍していないこと。たとえば、私が死んだ後、子供たちはま
だ日本で生活できるかどうかはわからない。私たちのような女性孤児にとって、3年後、そのよう
な手続き(帰化手続き)をどうやるのかはわからない。中国でも、日本でも、やっぱ、男女差別をな
くしてほしい。3年以後どうのこうのって(言われても)、わからないよ。孤児の子供らの入籍問題
をもう少し簡単にしてほしい。彼らも孤児の後世だからね。今の資格は永住。
孫は何人もいるが、みな、日本の生活に馴染んでいて、中国についてほとんど知らない。
その分だけ、彼らが今後も日本で生活できるかどうかは、静代の心配事となったのだ。
孫たちは、(中国に)帰国しようと思っていない。中国に帰ろうと思っていない。今、中国語で話か
けても、何もわからない。時々、中国に連れて行くか、と聞いても、汚いから行かないといわれた
りする。
‑ 106 ‑
おわりに
ここで、静代が語った二つの言葉についてもう少し考えてみたい。
戦後の混乱の中で捨てられた静代は、孫という中国人に救われた。しかし、その後は長い
間安住する事が出来なかった。孫家から楊家、楊家から徐家、徐家から孫家、孫家から王家、
王家から李家へと転々とした。この間、妹と一緒になったり、離れたりした。その後、妹と
再会を果たすのに 27 年、
父親と再会を果たすのに 34 年の年月を要した。
一時帰国してから、
永住帰国という夢を果たすのに、さらに 10 年の歳月を要した。このように、静代の「人生失
去了太多太多了」
(人生の中で失ったものはあまりにも多すぎた)という言葉は、単に何か物
質的な喪失ではなく、2度と取り戻せない時間の喪失を意味している。
静代は、裁判の中でも、聞き取り調査の中でも、
「日本生まれの日本国民と同じ生活と同じ
待遇を受けることや、日本に対して貢献しなかったけど、国外で受けた苦痛は多大であり、
これに対して日本政府が適切な理解と対応をしてほしい」と訴える。しかし、このような語
りは日本政府だけではなく、日本社会にも向けられている。日本社会に理解を求める訴えで
もあるのだ。
日本に対して、貢献できなかったけど、でもそれは私たちのせいではない。もう少し早く帰させて
もらえたら、私たちも何かできたはずだよ。国外にいたがゆえに、さまざまな苦難に遭遇してきた
のに、
「没有功労也有苦労」
(功労がなくても苦労があった)
。
静代の物語を通じて、今1度、私たちは、残留孤児と呼ばれる人たちの物語にもっと耳を
傾けるべきだと痛感している。
‑ 107 ‑
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
本聞き書きのスタイルは、これまでのものとかなり異なる。戸籍訂正申立審判や陳述録取書をほぼ原型
のままに転載している。このような資料は従来、参考資料として語り手の語りとを照りあわせながら、聞
き書きを編集するのが一般的である。あえてそのまま転載したのは、それぞれの場で語られる物語(差異)
や、本聞き取り調査がおこなわれた背後にある大きな文脈を呈示しようと思ったからである。
静代さんへの聞き取り調査は、全て中国語でおこなわれた。なお、本聞き書きをまとめるにあたって、
語られた言葉を直訳ではなく、意訳することにした。また、日本語で読みやすくするよう、いくつかの翻
訳の手法(加訳、減訳や変訳など)を用いた。
以上のような編集スタイルの試みは、筆者が記述方法を模索していることを表す。それが成功している
かどうかは、読者の判断に委ねたい。本文中に、わかりにくいもしくは読みにくいところがあったら、そ
れは筆者の力量不足によるものであり、御詫びするとともに断っておきたい。
静代さんは他の残留孤児と同じく、中国で苦しい幼少時代を過ごした。同じように、日本人であること
から鬼子と呼ばれた。それに対して、静代さんは、我慢するときはじっと我慢し、反論するときは真正面
から反論した。それは、静代さんの忍耐強さという精神を表しているように思う。他の残留孤児と異なり、
静代さんの語りから注目すべきなのは、日本人である事が全てマイナスではなく、市の人大代表に選ばれ
た要因でもあったという事である。戦後の中国において、日本人らはどのように扱われてきたのかは、こ
れまで明らかにされたと言えず、今後解明していく必要がある。なお、筆者は現在、2002 年からおこなっ
てきた中国での調査成果を基に、別の論考にてこれを論じようとしていることを蛇足ながら付け加えてお
こう。
現在、静代さんが参加していた国家賠償訴訟運動は、2008 年4月の新支援策の施行を契機に終結した。
新支援策の元で、残留孤児らの生活がより良いものになり、安心して老後を送れる事を祈願する。静代さ
‑ 108 ‑
んの心配事も解決されていくに違いない。
最後、長時間にわたって、私の要領悪いかつ拙い中国語でのインタビューに付き合っていただいた静代
さんに感謝を申し上げます。(みなみ まこと)
基本データ
聞き取り日:平成 17(2005)年2 月 18 日、22 日
聞き取り場所:増子静代宅
初稿執筆日:平成 21(2009)年2月3日
‑ 109 ‑