8 父の形見のメダル こ じか あき こ まつ むら まさ こ 語り手:小鹿 秋子/聞き書き:資料収集調査員 松村 雅子 小鹿秋子の略歴 しんきょう 昭和 16(1941)年9月4日 出生地不詳(本人の推測では旧満洲新 京 生まれ) 昭和 21(1946)年 10 月 王義和の養女となる 昭和 34(1959)年―40(1965)年 瀋陽紡績 廠 の模範労働者 昭和 54(1979)年―62(1987)年 瀋陽市模範工作者 昭和 61(1986)年 12 月 第 14 回[用語集→]訪日調査[用語集→]参加 昭和 63(1988)年 10 月 家族 5 人日本に永住帰国[用語集→] 現在 大阪市内在住 おう ぎ わ しんようぼうせきしょう はじめに どこで生まれたのか、自分は誰なのか、父と母がどんな人なのか、どれも分からな いままに生きてきた小鹿秋子が今も大切に持っているのが1枚のメダル。それだけが 秋子にとって確かなものだ。 両親と生き別れの際に残された唯一の肉親との繋がり。 ‑ 181 ‑ 1.実の両親の記憶 私が生まれたのは昭和 16 年9月4日、これは確かなこと。昔、伯母が私を預けた時に紙切れ に私の生年月日を書いたそうでね、うん、私は確かこの日に生まれた。だけど、私が日本で 生まれたのか、中国で生まれたのか、誰も聞いてない、私の養父母も知らないと言うんで、 未だに分からないんよ。でも、私の記憶の中で、北からやってきた、そう・・確か北の方か ら汽車に乗って瀋陽にやってきた。日本で生まれて、東北に連れて行かれたのか、元々東北 で生まれたのかもはっきり分からないなー。 秋子が遠く見つめながら、明快な中国語で語り始めた。今から 60 年も前のこと、極 めて印象深いものしか記憶にないが、3〜4歳の幼少時のことを思い出し、話してく れた。 私が北の町に住んでいた。同じ向き、同じ造りの家が沢山きれいに並んでいて、軍人家族が 住んでいた。そう・・周りに軍人も沢山いて、商売する人も皆日本人だった。中国人と出会 ったことがなくて、 (中国人は)出入り禁止だったと思う・・あの頃は。大きくてきれいな町 だった。ハルピンじゃなかったら、きっと新京(現在の長春)だ・・・よく分からないけど・・。 和室2間の純和風の家に秋子の父親は、たまにしか家に戻らない軍人だった。大柄 で軍服姿に軍刀を腰に掛けていた。これが秋子の父親像である。60 数年が経った今も、 この父親像が鮮明に記憶に残っている。当時、持っていたバッグやそれ以外の物にも 赤十字のマークが付いていた。秋子が風邪を引いた時にお父さんが聴診器で胸を当て ‑ 182 ‑ てくれた。軍医ではなかったかと秋子が思う。 母は看護婦をしてたかな・・・、ある時、母に連れられて、診療所に種痘に行った。母がそ この先生たちと親しそうに喋って、裏にも行って、そこの道具を触ったりもした。だから母 は多分、看護婦だった。その帰りに街にある映画館で一緒に映画を見た。あれは白黒の映画 でね、映画の中の人が喋らなくて、解説がついていたような映画だった。初めて映画を見た よ〜その後も何回か一緒に見に行ったんだけど、途中、私が寝てしまって、母に抱っこされ、 家に帰った。 親たちは厳しい人だった。しつけも厳しかった。母が仕事に出かける前に、私をあるおばあ ちゃんに預けた。その人は私の祖母なのか、親戚なのか、雇った人なのかよく知らない。い つもバスに乗って、そう、人力車にも乗った。山の麓にあるおばあちゃんの家に連れて行か れた。今の2DKぐらいの和風の家で、掘りこたつがあったのを覚えている。そこにはおじ いちゃんと若いお姉さんも居て、私より2〜3歳年上の男の子もいたな〜普段ずっとその家 族と一緒に過ごした。 母が休む日に私を迎えに来た。 母と自分の家に帰るのが楽しみだった。 2.終戦の夏 1945 年の夏に秋子たちの住む町に爆弾が頻繁に落とされた。秋子の平穏な生活が変 わった。ロシアが満洲へ侵攻し、日本は終戦を迎えた。そして秋子たちの命がけの避 難の日々が始まった。 ‑ 183 ‑ ある夏頃に爆弾がよく落ちて来た。それはソ連の爆弾なのか、誰か落としたのかも分からな くて、大人たちと防空壕に逃げていた。退屈になって、ちょっと外を覗いたら、えらく叱ら れ、防空壕に引き戻された。暫くして、皆と貨物車に乗った。父はもうずっと前からいなく なっていた。母が私を両手で持ち上げ、列車に乗せた。列車の上にいた伯母さんが私を受け 取った。それが母の最後の記憶で、それきり父と母に会うことはなかった。汚くて窓もドア もない車内は避難する人がいっぱいで、列車はガタゴトン、ガタゴトンと南に向かって走っ た。 3.難民収容所 だいれん こ ろ とう 我が故郷―日本に帰る一心で南を目指し、港(大連・葫芦島)を目指した。満洲に 残った日本人たちはソ連軍の襲撃を受けながら、壮絶な逃避行が始まった。いつ、ど のように祖国に帰れるのか何の保証もないまま、4歳の秋子も、他に選ぶ道もなく難 民収容所[用語集→]で、生と死の戦いの日々を送った。 どれだけ走ったか分からないが、ある駅に皆と降りた。その足で難民収容所へと流れていっ た。大きくなって分かったが、瀋陽駅に降りて、三十八中学校の難民所に辿りついていた。 伯母さん家族5人と一緒だった。伯母さんたちには私より少し大きい3人の子供(二女一男 だったような)が居た。自分たちのことで精一杯だったのだろうか、私のことを全然構って くれなかった。2つのドアがある教室には元気の良い人たちが一番良い場所を取り、伯母さ ん家族も草で編んだシートを敷いて5人で固まっていた。私は出入り口近くで何とか寝泊り の場所をとった。御飯は1日2回の炊き出しだった。お粥や汁気の多いものばかりで、お腹 ‑ 184 ‑ いっぱいになれるようなものがなかった。餓え死にならない程度に与えてくれた。大人たち はボールや大きなお椀を持って家族分を貰いに行ったが、私はいつも自分で貰いに行った。 遅れるとあっと言う間になくなってね、鍋に残されたものをかき集めてもらった。赤い高梁 のおかゆが多かった。鍋も環境も汚くて私はよくお腹を壊した。 お風呂もない、シャンプーもできない収容所は不衛生だった。皆の頭にも体にも虱 だらけで、秋子の頭もいつの間にか虱の卵で「白髪少女」と化していた。皮膚が爛れ て、全身へと蔓延していった。やがて収容所の中でコレラが流行しはじめ、慢性的な 栄養失調も拍車を掛けて、亡くなる人たちがたちまち増え、次々と運びだされていっ た。 寒い季節がやってきた。秋子が ツァオダイ ズ 草 袋子 (草で編んだ袋)を1枚下に引き、上に 1枚掛けて寝ていたが、夜中に上の草袋子が誰かに取られ、寒くて目が覚めた。翌朝、 寒さから自分を守る為4歳の秋子は学校の壁の外にあった死体の山にいき、怖さなど 気にする余裕もなく、死体を覆っていた少しきれいな草袋子1枚を引っ張った。その 途端ブーンと無数の蝿が飛び出した。そこは死体の山だった。 私ね、取って来た草袋子を日向に干して、もう取られるのが怖いから、壁の日陰でずっと見 張っていた。それから手元のもう1枚と縫い合わせて、草の寝袋を作った。器用にできなく て、隣に居たおばあちゃんが親切に手伝ってくれた。また寒くなって、毛布のようなものも 配られたかなーそれでも寒かった。両足が凍傷になり、感覚が殆どなかった。今もここに痕 がのこってるよ、ほら、みてー。 ‑ 185 ‑ 秋子が自分の脚をさすりながら、当時のことを振り返ると、 「髒(汚い) ・冷(寒い) ・ 餓(お腹が空く) 」の三文字に尽きるという。ずっと傍で私たちの会話を聞いていたご 主人がこの辺で沈黙を破り、少し興奮ぎみに話しはじめた。 真的是吃了很多苦、真可憐(彼女は本当に沢山苦労して、気の毒だ) 。 4歳の女の子が経験したことは、尋常なことではない。遠くを見つめて淡々と語る 秋子と悲惨な難民所生活の話はあまりにも対照的だった。 4.養父母に助けられた 栄養失調、空腹、伝染病、腹痛、皮膚病、悪環境の中で秋子が必死に生き延びてい た。親もいない、希望も持てない、ただ1日1日を頑張って生きている秋子に運命の 出会いがやってきた。 ある日、私1人で階段で遊んでいた。知らないおじさん2人がやってきて、私に声を掛けた。 私が伯母さんの所に逃げて行った。1人が日本人で竹下次四郎という人、もう1人の中国人 は後に私の養父になった人。伯母さんに女の子を養女に貰いたいと話した。大人たちがいろ いろ喋って、すぐに話が纏まってね、翌日、馬車2台を難民収容所に寄越して、私を迎えに 来たんだ。 それは 1946 年9月(若しくは 10 月)のことだった。計算すれば、敗戦からもう1 ‑ 186 ‑ 年が経っており、秋子は難民収容所で1年もさまざまな苦難に耐えて過ごしていたこ とになる。当時 33 歳の王義和が日本憲兵隊で馬夫(馬の世話係)をしていた。31 歳の 妻、孫煥弟との間にずっと子供がいなかった。一緒に馬夫をしていた竹下次四郎から 難民収容所に沢山子供が居ると聞き、通訳として同行してもらった。 伯母さんたちも馬車に乗り、秋子と一緒に王家に行った。玄関先で秋子の服は全部 ぬがされ、部屋の中にもうお風呂の用意が出来ていた。余りにも汚れていたので、2 度も3度もお湯を変え、洗った。秋子にとって、この日から新しい人生が始まった。 その頃ね、養母が毎日お風呂に入れてくれた。洗って、洗って、薬を塗って、その時、もう 10 月で寒くなっててね、ストープをつけてた。その前で体を乾かしてから、爛れたところに 薬を丁寧に塗ってくれた。それから虱取り、くしで時間を掛けてね、養母は忙しかったよ。 私がお腹が痛い、痛いというんもんで、病院に連れいってくれた。私が大きくなって、養母 が当時の私のことを「没有個孩子様児」 (人間の子に見えないほどひどいものだ)とよく口に したわ。 メダル 王家の玄関で白いブラウス(実際は地色が分からないぐらい汚れていた)と紺色の 肩紐付きのズボンを脱ぎ捨てた時に、カランという音がした。手で服を探ったところ、 縫い付けられたメダルを見つけた。 「萬里長城征破記念」と「昭和十四年十一月五日」 ばんりのちょうじょう と裏に 万 里 長 城 の地図が刻んであった。これが秋子のお父さんの形見だと分かった 養父母は、大事に保管した。 ‑ 187 ‑ 中国人―王秀雲となる 養父母が伯母さんから1枚の紙切れをもらった。秋子の両親の名前と日本の住所そ おうしゅううん して秋子の本名と生年月日が記されていた。養父がその生年月日で王 秀 雲と名づけて 警察に届けた。秋子は日本で生まれたのか満洲で生まれたのか今もはっきりしないが、 養父母の家に行くまではずっと日本人の中で生活していたので、中国語は全然話せな かった。当初、養父母との間に言葉が通じない故に忘れられない出来事があった。 数ヶ月掛かったよなー、養母が懸命に世話をしてくれたお陰で、私が漸く病気が治って、子 供らしくなった、普通の健康な子供ぐらいにね。ある日、私が養母と街に出かけて、店で1 足の靴を見つけた。可愛くて気に入った。 「靴がほしい、靴・・靴・・」と言った。養母がそ れを聞いて、早速ズボンを買ってくれた。えー、どうしてーと私が思った。私が大きくなっ て、ズボンの中国語は「褲子」と書いて、クズと発音するのが分ったの。また、あるお正月 前かなー、養母が大掃除をしていたところ、 「掃除するの?掃除・・?」と私が聞いたら、 「焼 鶏」 (鶏の丸焼き)を買ってくれた。 「焼鶏」はシャウジと言うんだって、ははは・・ 言葉が通じなくて誤解は数々あったが、何でも応えようとする養母のことを、秋子 は心から信頼するようになり、大事な存在となっていった。自分の本当の親ではない 事は承知していた。地獄のような難民収容所から助け出してくれたこの養父母に、秋 子はいつも感謝の気持ちで接し、日頃から養父母たちを困らせまいと幼心に秋子は決 めていた。 2004 年、秋子が里帰り[用語集→]で瀋陽に戻った際に、当時のご近所のおじいちゃんを尋 ねて行った時、 「君が王家に来たばかりのころはな、よくお腹が痛い、お腹が痛いと日 ‑ 188 ‑ 本語で喋っていたなー」とおじいちゃんが懐かしく昔のことを話してくれたという。 秋子は養父母の元で暫く言葉の通じない日々を過ごした。 「絶対、外で日本語を話さ シアオルィベヌ ないで」と養母に言われ、そして、中国語を秋子に教えた。近所の子供たちに「小日本」 と言われた時も意味が分からずに、困って逃げた。近所で子供同士がどうしても上手 くいかなくなったら、養父母は引っ越しをすることにした。この為、秋子は小さい頃 合計8回も引っ越しをした。 秋子が新しい環境、新しい家に慣れる頃に、秋子の伯母さんが王家を突然訪ねて来 た。伯母さんたちが日本に帰ることになって、発つ前に挨拶に来たのだった。 ある日、家に帰ろうとしたら、近所の人に止められて、私の伯母さんが来てるというんで、 何をしに来たんだろう・・?私は伯母さんとは一緒に帰る気がない、絶対行かないと思った。 見つからないように近所の家に隠れた。日が暮れるまで隠れたなー。 その日、心の優しい養母がすぐに火を起こし、沢山のナンのようなものを焼いて持 たせた上、手元にある衣類やお金も伯母さんに渡した。伯母さんが背負えるように上 手に荷造りをし、背中に結んで、伯母さんを送り出した。伯母さん一家は葫芦島から 船で日本へ帰ると聞いた。秋子を残して、皆日本に帰った。いいえ、むしろ秋子が養 父母を選んだと言えよう。もう王家は秋子にとっては大事な住処となっていた。 勉強をしたい そんかんてい か ほく ちんかんとう 養父の王義和と養母の孫煥弟は河北省からの移民で、闖関東[用語集→]時代(20 歳頃)に、 養父は兄と一緒に瀋陽にやってきた。人力車を引いたり、タバコの葉を売ったりして、 ‑ 189 ‑ 生活基盤を築いた。4〜5年後に養母も河北省からやってきた時に、養父兄弟は鉄工 所を営んでいた。台所用包丁や農業用鎌も、大工用工具も作っていた。トラックでコ ークスの塊が毎日家に運ばれ、炉で燃やせる程度に小さく砕くのが秋子の仕事だった。 10 歳前後の女の子にとってはあまりにも大きなコークスの山だったが、養父母の為に、 家族の為に、さぼることもなく、コークスを砕いた。そして、密かに、自分の願い「学 校で勉強をしたい」ということを聞いて貰えたらと思っていた。 養父の兄は養父と違って、日本人に好感を持てないため、秋子を家族として認めよ うとしなかった。その上男尊女卑の考えの持ち主なので、自分の郷にいる 5 人の娘た ちも学校に行かせなかった。秋子を学校に行かせることなど考えたこともなかった。 兄に逆らえない養父母が秋子の気持ちを察しながらも、兄に話を切り出す機会を待っ ていた。養父母も秋子もいろいろ悩んでいるうちに、兄が仕事で昼間、家を空けるこ とが多くなった。秋子が養父母の了解を得て、こっそり学校に通い始めた。水を得た 魚の如く、秋子は学校ではとても優秀で、先生たちにも可愛がられ、生徒会長にも選 ばれた。伯父さんに見つからないように、費用の掛かる遠足、映画鑑賞会などはすべ て参加しないようにした。その事情を知った先生たちがポケットマネーを出して、参 加させてもらったこともあった。学校から帰っては、コークスを砕く仕事にさらに精 を出し、ずっと大人たちの1日の仕事を終えるまでした。皆と夕食後には、こっそり 家を抜け出し、近くの街灯の下で勉強をした。 「今日は○○さんの家の前の街灯で・・・」 といつも母に伝えてから出て行った。試験の前なかなか家に帰らず、養母がよく迎え に来た。 ‑ 190 ‑ 平凡で偉大なおかあさん トンヤンシィ (親同 養母は学校に行ったこともなく、字も読めない人であった。幼少時「童養媳」 士で結婚の約束をし、小さい時から相手の家で共に生活をする娘のこと)として王家 で暮らし、利口で器用な養母は家事など何でもこなせた。刺繍も編み物も上手で近所 の間で評判だった。何より心の優しさや人への思いやり、誠実なところが秋子に大き な影響を与えた。 うちの養母の話をすれば、本当に沢山あるわ。食料不足の年、近所に子供(が)6 人もいる 家族が住んでいた。食料不足で夫婦喧嘩し、兄弟もてんやわんや。養母がうちの配給分から 毎月 10 キロのお米を譲って上げた。明日食べられるかどうか分からない時勢、誰でもできる ものではない。私も納得しなくて、どうしてと聞いたの。その家族と比べて、うちはましだ からって。それにね、毎年、養母が大きな釜でお味噌を作っていた。どうして家族が食べき れない程作るのかと聞くと、近所の人が味噌がなく困っている時に備えるって言うよ。確か に養母が釜の蓋を開ければ、通りかかるご近所がお椀を持ってもらいに来た。一時期、黒砂 糖や玉子が不足してね、私たちが食べるの我慢して、お隣さんが病気の時に差し入れたりし てたの。困っている人を助ける事を最優先に考える人だったの・・私の養母は。昔、不作の 年や時期によく物乞いが家にやってきた。そういう時に、養母はいつも家に入れ、ご飯を温 め食べさせた。服が欲しいというならば、すぐに不要になった衣類を探した。自分の面子も 構うことができない、人に頭を下げる者に、精一杯できることをするべきだと養母はよく言 った。養母はそういう人だったの。字が読めないけど、本当に優しくて偉い人よ。 ‑ 191 ‑ 王家の葛藤 おうしゅうえい 秋子が8歳の時に養父母の間に赤ちゃんができた。王 秀 英という妹だった。実の子 も大変可愛かったが、秋子への愛情も何も変わらなかった。秋子は長女として養母の 子育てや家事の手伝いでさらに忙しくなった。養母の気持ちを気遣い、妹のことも心 配する、しっかりもののお姉さんであった。 養母は優しい人だったもんで、子供に手を上げることが出来なかった。小学校に通う妹の悪 い癖で悩んだ時期があった。朝、だらだらと妹が起きない、朝ごはんも食べない、学校の準 備もできない。私もとても気になった。ある日、お母さんが近所に出かける用事をわざと作 って、その間に私が、妹を怒鳴り、叩いた。何回かやったうちに妹が反省し、悪い癖が直っ た。もちろん、毎回私がお母さんにちゃんと訳を話した。分かってもらえた。 一方、伯父さんの方は相変わらず秋子に好感を持たなかった。ある日、晩酌する伯父 さんたちが残したご馳走を、養母が家の裏で秋子に食べさせた。そのことを知った伯 父さんが怒り、酒の勢いで椅子を振り回し、養母を殴った。養母の顔が切れて血が流 れた。 血まみれになったお母さんを見て、私がどうすることもできなくて、気が狂ったように家を 飛び出してね、怖くて、夜遅くまで街を走って、走って・・・力が尽きるまで、結局、養母 は数針縫った。あの時、怖かった・・・。 普段から秋子のことをかばう養母がしばしば怒られた。秋子のことは、よく大人た ‑ 192 ‑ ちの喧嘩の種になった。養父は以前日本人と付き合いがあったので、少し理解は有っ た。 皆日本人が悪いというんが、それは違う、悪いのは上にいる人たちだー。 戦争で多くの中国人、多くの日本人も犠牲になった。戦争で生まれた愛憎は複雑な もので、肉親と離れ、中国に残された子供たち自身もその周りの人たちも様々な愛憎 の中で生きていた。 市労働模範 家庭の事情で小学校に入学できたのは秋子が 12 歳の時でした。18 歳で小学校を卒業 した。勉強が大好きな秋子は養父母に養育の恩返しをしようと考え、就職することに した。当時人気の国営紡績工場に優秀な成績で採用された。 試験の3日目に合格発表があった。私が3番目で合格した。嬉しかった。公司入って、見習 いの時から「優秀徒工」に選ばれ、 「優秀○○」 「優秀○○」とか何かあったな・・ (笑) 。皆 も優しかった。私の給料の全額を養母に渡した。でも、私はやっぱり勉強したかった。仕事 が落ち着いたので、夜間中学校に通って、3年(間)で中学校(を)卒業した。 順風満帆でいるようだったが、裏で秋子を悪く言う同僚女性も居た。噂を聞き、秋 子が事情を確認するため、その女性の家を訪ねた。寝床に病気で倒れたご主人とがら くたのような生活用品が散乱して、極貧生活を強いられていたことが分かった。秋子 ‑ 193 ‑ はすぐにそのことを上司に報告し、なかなか同感してくれない上司たちを連れて彼女 の家を再度訪ねた。その年、秋子は昇給資格を彼女に譲った。悪く言った女性が感動 で涙が止まらなかった。1959 年―1965 年の6年間「模範労働者」に、1979 年―1987 年の8年間「模範工作者」に表彰された。 5.文化大革命 小さい時から「日本人の子」と言われていた秋子は、会社でも人の目を引く存在だ [用語集→] の時代になると、 ったので、身近なところから敵を見出そうとする「文化大革命」 秋子は疑われ始めた。特に秋子の出生について噂があったので、なら出身が怪しい、 だが何の根拠もないので、それなら秋子のお父さんが元国民党員[用語集→]ではないかとで っち上げた内容が「大字報」 (張り紙)で大々的に張り出された。 ある日、会社に出勤したら、私の名前が大きく書かれた大字報が目に入った。 「国民党的女児 為何如此囂張」 (国民党の娘がどうしてこんなに偉そうだ)次の日も次の日も張られた。私は 納得できない。私は「造反派」本部に直接聞きに行こうとした。先輩たちが「聞いても無駄 よ、下手したら、殴られる羽目になる」と言って私を止めた。大字報のことを聞いた養父母 が怖がった。私の居ない時に私が読んでいた本を全部燃やした。字の読めない人だからね、 本の内容に関係なく燃やした。私はやましいことは何もしていないからと、それほど深刻に 考えなかった。 大字報の影響で、秋子の養父は元国民党員だと、事実無根で連行された。生きるた ‑ 194 ‑ めに養父が関内から東北に移り住み、小さな鉄工所を営んで生計を立ててきたのに、 どうして国民党員なのかさっぱり分からない養父に対して・・・。 「就是一個打」動けないほど、立ち上がれないほど養父は殴られた。この時、養父は私のた め本当に苦労したわ。 監禁されている間に、秋子は何度も面会に行ったが、もともと疑われていた秋子の ことだから、1度も会わせてくれなかった。1年後、養父を絞っても何も無さそうな ので、養父は釈放された。一回り小さくなったような、病気だらけの養父が帰ってき た。 その頃は、私の工場も休業し、3つの革命派閥「遼連・遼革・八三一」に分かれていた。そ のうち綿倉庫が大きな火事になり、もうめちゃくちゃ。半年か1年くらいかな、遼革派は別 の工場に撤退して、混乱が少し落ち着いた。それで、私が所属していた八三一から、 「回厰閙 革命」 、工場に戻って革命しょうと言われて、久々に仕事に戻った。 この時から秋子が1つの工場を任されて、管理職についた。 6.結婚・家庭 でんぎょくせい 秋子は 26 歳の時に、友人の紹介で瀋陽地質局に勤める田 玉 生と結婚した。1968 年 に長女、1970 年に次女、1973 年に長男と1男2女をもうけた。ご主人の田さんは地質 ‑ 195 ‑ 学院を卒業した鉱石発掘の専門で、郊外や山での現場作業が多いため、秋子の子育て には養母が多いに助けてくれた。秋子が留守の時には、同僚や友人も来てくれた。 長男が1人で家に居た時、友人が尋ねてきてね、お腹が減った長男に簡単な料理を作って出 してくれた。彼女が片付けをしている時に、長男が用事で出かけようとし、困った顔で「あ の、僕が鍵・・鍵を(閉める) ・・」と言ってきたらしい。彼女は大笑いし、 「心配せんで行 き、だれも泥棒しないから・・」 (と答えた) 。あの頃、皆、豊かではないが、友人や同僚が 皆家族同然に付き合い、助け合ったな・・・。 夫の田さんは、偶に帰ってきた時には、布団の洗濯や暖を取るための柴の準備など 力仕事をよくやってくれた。 当時は布団にカバーがなかった。一度洗ってから綿に縫い付けないとだめなもんで、老田が 粗針大線(粗く)で最後まで仕上げてくれた。彼の若い頃は、本当に働きものだったーはは はー。 7.共産党員 人民や祖国、組織に忠実で無条件で力を尽くせる人には共産党から声が掛かる。本 人も入党の意思を表明すれば、一定審査期間を終え、共産党党員になれる。当時は、 党員が出世の切符のようなものだった。皆に認めてもらった秋子は、出生の疑いがあ った為、文化大革命が終了するまで、共産党の予備軍である「共青団」という組織の ‑ 196 ‑ 審査も通らなかった。革命が終わった 1979 年から秋子は8年間連続模範労働者に選ば れ、1980 年に無事審査を通過して共産党員となった。自分が日本人であることを正直 に老党員たちに話したが、それを特に問題にされる事はなかった。もう時代が変わっ ていた。政治によって、人を評価する基準もこんなに違うのだった。しかし、1988 年 日本に帰国する直前、秋子は共産党を退会した。 「不能交党費、不能過組織生活(中国から離れると党費を納めることもできない、組織活動 も参加できない) 」という2つの理由だった。入党したくても党の壁が厚かった時代に、こん な理由で自分から辞めるなんて・・・と周囲がとても残念がっていた。 8.肉親捜し ぺ きん しゃんはい 1986 年 12 月に、秋子が第 14 回訪日調査団の一員として、瀋陽を出発、北京、 上 海 なり た 経由で祖国日本にやってきた。成田空港で多くの人たちに迎えられた。秋子は、大事 に保管している黄色く変色した当時の新聞の切り取りを見せてくれた。そこには以下 のような記事があった。 メダルの模写 ‑ 197 ‑ 王秀雲さんは、王家に預けられた時にズボンのポケットに入っていたという「萬里長城征破 記念」と記されたメダルを持ってきた。直径3センチほどの銀メッキ製らしく、 「昭和十四年 十一月五日」 「葛目部隊 田賀部隊」と刻まれており、日章旗と万里の長城の地図が描かれて あおもり ひろさき いる。厚生省[用語集→]で調べたところ、葛目部隊は昭和 14 年に青森県弘前で編成され旧満洲(現 中国東北部)へ派遣された部隊。 王さんは終戦後奉天駅近くの難民収容所から王家に預けられたが、その時、養父の友人で日 本人の「竹下次四郎」さんが一緒だったという。王さんは「父は軍人で、もし生きていれば メダルのことを必ず知っているはず」と訴える。 唯一の手掛かりのメダルと僅かの幼少時の記憶を頼りに、秋子は肉親との再会を期 こくりつ よ よ ぎ せいしょう 待と不安をもって、日本での日々を過ごしていた。ある日、宿泊先の国立代々木青 少 ねん 年センターに 50 歳前後の男性が面会に現れた。 丁度その時通訳さんが居なくて、彼は片言の中国語で話しかけてきた。 「我家在鹿児島、我媽 媽的哥哥是你的爸爸」 (鹿児島在住で母の兄が貴方のお父さんです) 。私も通じるかどうか分 からないけれど、中国語で「貴方のお母さんのお名前は?私の父は・・母は・・・名前は・・ どこにいる?」と聞いた。彼は意味が分かってないのか、いいえ、それぐらいの言葉は分か ったはず、けれど、口を開かなかった。用意してきた大きな包みを出して・・お母さんから の贈り物、と言って私にくれた。中は着物の生地だった。会話が続かないうち、彼が立ち上 がり、トイレに行くと言って部屋を出た。それからいくら待っても彼は戻ってこない。私が 慌てて総合受付、世話係の1人1人に彼のことを聞いたが彼の名前は・・彼の住所は・・・ 誰も知らないと言う、いくら探しても、いくら人に尋ねても・・・本当に妙な話。 ‑ 198 ‑ 静かな水に石を投げられたようで・・・秋子のあっという間の肉親との再会だった。 「他順着尿道跑了」 (彼はトイレの道で消えた) 。ははは・・。 秋子の笑いの中に切なさが漂っていた。 その数日後、テレビの放送を見て、秋子のところに「満州第八〇四会」の会長前田 茂さんら5人が面会に来た。かつて満州の独立守備歩兵第 18 大隊(後歩兵第 242 連隊 に編成された)に所属し、秋子と同じメダルを持っている方々だった。 「満州第八〇四 会」は同じ部隊に所属した方々の戦友会だった。当時3千人も居た部隊は、戦死した り俘虜に取られたり、シベリアに連行されたり、バラバラとなったそうで、帰国でき た者が 100 人余りで戦友会を立ち上げた。メダルに刻まれた葛目と田賀は当時の部隊 長の名前だった。テレビで秋子とメダルのことを知り、全国の戦友会のメンバーたち からお見舞い金と手紙が寄せられた。 「メダルに番号を彫っていたら持ち主の名前が分 かったかもしれないな・・・」と前田さんたちは残念がっていた。名前などの手がか りが少ない為、結局特定できなかった。 肉親に会うことは出来なかったけれど、父の仲間だった人達にお会いできて嬉しい、このこ とだけでも来日した甲斐があった。これからはメダルを父だと思って大事にして参ります。 と秋子は涙ながらに話し、前田会長たちと別れ、中国に戻った。 肉親捜しの訪日は私にとって初めての遠出で、初めての北京空港は素晴らしかった、初めて ‑ 199 ‑ の上海空港はもっと立派で、そして初めての成田国際空港はまるで夢の世界。日本は整然と して、どこもきれいだった。空港でたくさんの人々に暖かく迎えられて、感動した。世話係 の人たちが丁寧で親切で仕事に一所懸命。最初は、きっと私達が特別だと思った。有る日、 都内の百貨店に連れて行ってもらった。百貨店で見た光景も同じく礼儀正しい、普通の日本 人同士もお互い丁寧だーと思った。小走りでよく働く日本人だと印象的 と秋子が当時のことを振り返った。 9.帰国への決意 短い2週間ばかりの滞在を終え、秋子は、肉親とも再会できず寂しく帰国した。家 族に会えた孤児たちが早々と日本への帰国の意を固め、準備も始めた。秋子は、その 頃は瀋陽紡績公司直営幼稚園の責任者であり、共産党の新人党員の育成にも力を注い でいた。家庭では、養母が 1979 年に病気でなくなり、1987 年 3 月に養父もなくなった。 夫の田玉生は長年の現場での実績から 40 歳を前にして管理職の処長の席に就いていた。 ゆったりとした執務室で毎日3種類の新聞にお茶を用意され、現場からの報告を読ん で指示を出すような仕事だった。長女は大学受験で猛勉強中、次女が看護学校在学中 で長男は中学校2年生だった。 帰国に対して、家族の中で意見が分かれた。日本でもっと勉強したい長女と長男が 積極的だった。やっと自分の経験を生かせる管理職に就いた夫、看護学校を卒業して 病院で働きたい次女が中国に残りたいと考えていた。家族3人、2人で別れて暮らす のか、このまま中国にとどまるのか何度も家族会議を開いた。その間、周りの残留孤 ‑ 200 ‑ 児家族は、どんどん帰国していった。文化大革命が終わってから、中国は「鎖国状態」 から解放され、海外への憧れが強まっていた。夫の田玉生も同僚友人から説教を受け た。日本は田さんにとっては異国だが、滅多にない海外行きのチャンスでもあった。 子供たちの求学の気持ちも大事に考え、田は決意をした。 「どこでも家族は絶対一緒だ」 。 小鹿秋子になる 肉親捜しから瀋陽に戻った秋子は、まず日本の国籍申請手続きを取った。秋子はそ の申請書類を今も大事に持っている。国籍申請動機について、下記のように書いてあ った。 「因為我是日本人、我愛自己的祖国。我申請入籍之事是我参加第十四次尋親時、看到日本人 民和日本政府、四十多年没有把我們留在異国他郷的孤児問們忘記、対我們還是如此情熱、因 此我下定決心做一個堂堂正正的日本人。」 訳:私は日本人であり、私の祖国を愛しています。第 14 回肉親捜しの際に 40 年あまり異国 に残された私たちのことを忘れることなく、日本の人々と日本政府がこんなに暖かいと感銘 し、正々堂々の日本人になる決意をし、日本籍を申請する次第です。 生前養父母に秋子が何度も聞いたが、自分の名前がどうしても分からず、鹿児島出 身ということと秋に生まれたことが確かなので、 「小鹿秋子」と自分で名前を決めて、 日本籍を申請した。 ‑ 201 ‑ 秋子一家帰国 1988 年 10 月、秋子が仕事を辞め、共産党も辞めて、家族5人で日本に帰ってきた。 ところざわ ちゅうごく き こく こ じ ていちゃくそくしん 全員、中国のパスポートで国費帰国し、埼玉県 所 沢にある 中 国帰国孤児定 着 促進セ ンター[用語集→]へ入所した。3ヶ月間の生活や日本語の指導を受けて、身元保証人[用語集→] りょうねい の居る大阪に移った。身元保証人は以前 遼 寧大学で日本語の先生をしていた知人で、 彼女の母は残留夫人で、家族と早々に帰国できた方だった。 じ きょうかん 大阪にあるNGO団体が「自 疆 館」というハイツを貸してくれたので一時入居した。 府営団地への入居の際には、交通の便が悪い2DKに2回ほど当たったが、どんどん 大きくなっていく子供たちのことを考えて入居を見送った。でも、あっと言う間に 1989 にしなかじま 年の新学期が迫ってきたので、やはり手狭部屋だったが、西中島南方団地に入居した。 この間に、もっとも日本で勉強したいと言っていた長女が、優秀な日本語の成績で留 学生として大阪府立大学に合格した。次女が日本語学校に通っていた。長男が公立中 学校の2年に編入した。秋子一家は暫く生活保護を受けて、秋子夫婦も日本語学校で 勉強する毎日だった。 中国から来た時は家族の数着の着替えと、すぐ食事の支度できるようにまな板や包丁などの 台所用品を持ってきただけで、荷物の半分が文房四宝(書籍や文房具など)だった。後は全 て捨てた。日本でゼロから新しい生活をスタートした。保証人さんも同じ瀋陽出身で、仕事 で忙しくて(も)よく訪ねてきてくれた。大阪日中友好協会の方、ボランティアの方たちも よく面倒を見てくれた。困った時に相談に乗ってくれた。 ‑ 202 ‑ 10.自立への道 ひがし 昔、生活保護は現金支給で、毎月、区役所まで1ヶ月の生活費を貰いに行った。 東 よどがわ 淀川区役所にはどういう訳か車椅子の人が多かった。田さんもその列に加わっていた。 体が健康な自分が何故ここで並んでいるだろうか、自分は話すことができる、不自由 なのは日本語だけなのに・・・と毎回悔しい思いをしていた。早く仕事をしたい、早 く自立をしたいと秋子も田さんも同じ思いだった。その気持ちを察してくれた友好協 会の方が、自分が引退した会社を田さんに紹介した。鉄工場の現場で働くことになっ た。夏は工場の温度が高くて厚手のマスク2〜3枚を重ねて、耐熱服の毎日だった。 熱くても辛くても田さんは弱音を吐かずに定年退職まで十数年勤めた。秋子もすぐ中 華レストランでパートの仕事を見つけた。5〜6時間の仕事を終えて、すぐにホテル で部屋清掃のパートも始めた。進学する3人の子供たちのことを思って、秋子は一生 懸命だった。大阪に定着して 10 ヶ月で生活保護から離れ自力で生活できるようになっ た。 生活保護で暮らすのが悔しかったな。いい気ではなかった。だからとにかく早く自立したか った。どんな仕事でもいいから・・・私は覚悟をしていたが、1日2つの仕事を終え、床に 就いた時に、疲れがどっとでて来て、呼吸をする度に胸が痛かった。でも、子供たちが頑張 っているので、私も頑張らないと・・・子供たちが「そんなに無理しないで、自分たちもバ イトをするから」 と言ってくれた。 長年仕事して言葉で困ることもあったが、 「語言不能交流、 用心交流」で過ごした。職場で中国人も一緒に働いたが、どこの人であろうか、心で接する ようにした。あまり困ることはなかったな・・。 「我們算是幸運的、在日本偶到了貴人」 (私 ‑ 203 ‑ たちは幸運で日本でいい人たちに出会った) 。 子供たちの成長 20 歳の長女は来日後、日本語学校に通い、中国に居た頃から留学の準備をしていた 成果が実り、半年後に大阪府立大学の留学生試験に合格した。卒業後に貿易会社に就 職し、通訳として中国に出張することもたびたびあった。台湾人と結婚し、現在台北 でキャリアウーマンとして、2児の母として台湾の家族と一緒に暮らしている。 次女も同じ関西学友会に通い、姉が大阪府立大学に進学した翌年に富山大学に入学 した。在学中にアメリカ出身の台湾人男性と出会い、卒業後に結婚した。現在、医者 しゅくがわ こう べ のご主人と 夙 川に自宅を構え、娘2人を育てながら、神戸の短大の中国語講師として 働いている。 長男は音楽もスポーツも好きな子で、中国の学校でダンスを習って舞台で踊ったこともあっ た。私が忙しい時に料理もしてくれたの。誰も教えていないのに・・味は意外と良かったの よハハハ・・。日本に帰って、1年留年して中学校2年から通った。確かそうだった。体が 大きくて、スポーツもできるからいじめられたこともなかったわ。でも、国立大学の受験の 日、彼は岡山でローラースケートの舞台に出演するアルバイトをしたから、試験を受けれな かった。それがね、ローラースケート場でアルバイトをしている時にスカウトされたの・・ 長男の滑りを見て。私立大学の合格通知を貰ったけど、お父さんが許さなかった。2人の姉 は、国立大学に行っているのに・・・お父さんがカンカン(に)怒った。怒った勢いで長男 を追い出した。長男は裸足で家を飛び出して、東京に出た。その後貿易会社に就職して、ア みつ い ぶっさん メリカと商売をしてたの。26 歳の時に、三井物産で英語と中国語を話せる人の募集があって ‑ 204 ‑ ね、応募したら、採用された。それからは忙しい。でも、この間、私とお父さんを日光に連 れて行ってくれた。見て、あの時の写真・・・。 帰国後の親探し 秋子が肉親捜しの際に突然現れた親族から、自分には伯母さんが鹿児島にいること が確認できたが、一瞬にしてその希望が消えた。秋子は自分が誰なのか、自分の両親 がどんな人か、どこかで生きているのかどうか、肉親へ思いが深まるばっかりだった。 訪日の際に、幸いなことに「満州 804 会」と繋がった。毎年、東京都内で親睦集会が 行われていた。その度に秋子夫婦も誘われ、父の情報が少しでも分かればと、出席し た。終戦からもう 40 年の歳月が流れていたので、有力な情報を得ることはできなかっ た。最近 10 年は、メンバーの高齢化で集まることもなくなったそうだ。 メダルの表には「昭和十四年十一月五日 萬里長城征破記念 忠君愛国」裏には萬 つう か ば らんきょう ぎゅうへきざん しょうとく そ けん こうりゅう せきこうちん こ ほくこう 里長城周辺の地図に 通化・馬蘭 峡 ・ 牛 壁山・ 承 徳・蘇県・興 隆 ・石匣鎮・古北口 葛目部隊・田賀部隊と鮮明に刻まれているが、60 年も前にどんな戦いが繰り広げられ たでしょうか。秋子の父はどのように任務を果たしたのでしょうか。当時の経験者が 殆ど居なくなった今では全て解明できないまま、両親への思いだけが秋子の心に残っ ている。 11.秋子の現在 子供たちが皆巣立ち、秋子夫婦は大阪市内で暮らしている。年金を受給しているが、 勤務年数が少ない為、年金では生活が困るので生活保護を一部受けている。秋子は、 ‑ 205 ‑ 短大で中国語の教師をする次女の育児支援に日々忙しい。泊まり掛けで次女の家事、 子守りをしながら 4 歳になる孫に中国語を教えている。今では親子三代で不自由なく 中国語会話をしている。子供、孫たちの成長が秋子にとって何よりの楽しみだ。夫の きん き ちゅうごく き こくしゃ し えん こうりゅう 田さんは散歩、水泳と、運動を心掛けている。近くの「近畿 中 国帰国者支援・交 流 セ ンター」の常連客でもある。今でも熱心に日本語を学び、もっとも興味があるのがパ ソコンだ。毎日ネットで故郷瀋陽のニュースを見ている。 「瀋陽の地価どんどん上がっ て、人口も増え、地下鉄を早く開通しないと大変だ・・」田さんが心配そうに・・。 デジカメ・プリンターなどIT機器が揃っているが、日本語の仕様書が読めないのが 悩みの種と嘆いている。 秋子は 40 年近く過ごした中国での生活を次のように振り返っている。 「窮日子、窮朋友、窮快楽」 (貧しい暮らし、貧しい友達、それなりに楽しい日々) 。日本に 帰国して、何でもあるが、言葉が不自由なもんで少し不安もあるが、子供たちがそれぞれの 願いを叶えて、しっかり暮らしてるので、私たちも幸せだ・・・そうよ、私たちは幸せ・・・。 ◇◆◇◆◇◆◇ 聞き書きを終えて 残留孤児の小鹿秋子さんとは同じ瀋陽出身で、以前からお互いのことを少し知っていました。聞 き取り調査を機にじっくりお話を伺うことができ、嬉しく思っています。毎回、最寄駅まで私を送 迎し、また、お昼には故郷の料理もご馳走になりました。私は小鹿さんの長女と同い年ということ ‑ 206 ‑ で、 「里帰りする娘」のように暖かく迎えてくれました。ご主人の田さんも時々会話に加わり、いつ もリラックスし、あっという間の訪問でした。インタビューの順番や質問も用意をしたものの、会 った瞬間から話しが止まることがありませんでした。初回のインタビューは、自然の流れに任せ、 小鹿さんの語りたいままにしました。特に養母のことや子供.・孫たちのこと自然に滔々と話してく ださいました。2回目の訪問までに電話で詳細を聞いたりしたあと、2回目のインタビューを持ち ました。 3人の子供たちの写真を私に見せ、大学時代や現在の家庭生活などを話す時は、母親の幸せな表 情でした。小鹿さんは中国で仕事をしながら子育て。子供に飴を分ける時に割り算の問題を作った り、遠出の時に見える看板の文字を覚えさせたり、子供たちの勉強にも注意を払いました。 そんな堅実で努力する両親の元で3人の子供たちは立派に育ち、皆、現在、仕事も家庭も順風満 帆のようです。 小鹿さんがお母さん(養母)のことを詳しく語ってくれました。小鹿さんの運命の人とも言える お母さん、当時の中国の母親像の代表として、私の心が惹かれ、ここに多く紹介することにしまし た。養母、そして小鹿さん、逆境にめげず、他人を責めず、前向きに堅実に生きる2人のお母さん から、多くを教わることができました。 会話の中、小鹿秋子さんが「私は一体誰なの・・?」その淡々としたような、どうしようもない ような表情を見る度、私の胸はキュッとなりました。小鹿さんの切ない疑問に誰か答えてあげたら と切に思い、私がメダルを大きく模写をしてここで公開します。 最後になりますが、暖かく迎えてくれて、快く話してくださった小鹿さんに深く感謝します。諦 めずに出生の謎を解明するまで、健やかに過ごされることをお祈り致します。 (まつむら まさこ) ‑ 207 ‑ 基本データ 聞き取り日:平成 17(2005)年7月 30 日、8月 10 日 聞き取り場所:小鹿秋子宅 初稿執筆日:平成 18(2006)年8月 19 日 ‑ 208 ‑
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