「国」を生きた「これだけのこと」

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日本・満洲・中国という三つの「国」を生きた「これだけのこと」
わた なべ
ふ
み
語り手:渡辺 フミ/聞き書き:資料収集調査員
渡辺フミの略歴
かめおか
大正 10(1921)年
京都府亀岡市生まれ
昭和 12(1937)年
京都市にて女 中 奉公
昭和 15(1940)年
母を亡くす
じょちゅうぼうこう
う かい
せいこう し
鵜飼氏と結婚して渡満(青溝子開拓団[用語集→満蒙開拓団]に入植[用語集→])
たき こ
昭和 16(1941)年
長女(滝子)が生まれる
昭和 19(1944)年
夫が召集される
昭和 20(1945)年
敗戦の知らせを受けて逃避行
収容所で長女を亡くす
ろ でんざい
中国人の呂殿財と再婚
同じ開拓団の人から子どもを預かる
昭和 32(1957)年
中国籍を取得
昭和 47(1972)年
日本に永住帰国[用語集→]
昭和 48(1973)年
帰化により日本国籍を取得
平成 13(2001)年
恩給法に基づく遺族が受給対象の扶助料を申請する
平成 15(2003)年
扶助料の申請が日本国籍喪失を理由に不許可となる
日本国籍確認の訴訟を京都地裁に提訴
平成 17(2005)年
日本国籍確認訴訟に勝訴
‑ 111 ‑
みなみ
南
まこと
誠
はじめに
皆様には、本当にありがとうございました。これが私の歩んできた、
「これだけのことです。
」すみ
ません、ながながと。
2005 年2月初旬、新聞各社はある中国残留婦人[用語集→]が国籍確認訴訟に勝訴したという記
事を報道した。その中国残留婦人とは、この聞き書きの主人公渡辺フミである。私がフミを
初めて訪ねたのは偶然にも、地裁判決が下される前日であった。聞き取りの途中、フミは裁
判のために書いた自分史を取り出して読んでくれた。上の言葉はその最後の締めくくりに、
述べられたものである。
「これだけのこと」とは、いかなることか。その自分史からフミが生きてきた生活世界を
見ていくこととしよう。
なお、必ずしも文面通りではなかったので、原稿を書きおこし対照しながらまとめた。小
見出しは南が付けたものであり、段落を改めたり、また必要に応じて仮名にした。文章を改
編したりもしたことを断っておきたい。
自分史を穏やかな声で読み始めたフミであったが、満洲での生活、奥さん同士で懐かしい
故郷の話やお国自慢に花を咲かすというあたりから声がこもり始めた。亡くなった彼女らの
ことを思い出したからであろう。
夫が召集された後、
1人になってからの生活あたりからは、
涙声になり、所々詰まったりする。また途中に、
「これでいいですか、こんなもん読んで。大
丈夫ですか。あははは・・・」と、私を気遣って、声をかけてくれたりもした。そして最後
は、
「これが私の歩んできた、これだけのことです。すみません、ながながと」と語って締め
くくったのであった。
もちろん、言うまでもないことだが、フミが歩んできた道は「これだけのこと」ではない。
‑ 112 ‑
1.
「これだけのこと」
:渡辺フミの自分史
0歳から 16 歳まで
―赤貧生活と女中奉公―
ほ
づ がわ
私は、大正 10 年(1921 年)京都府亀岡市(保津川下りで有名な)保津村に生まれました。父は、是れ
と言う定職も無く、その日その日の雇い、保津川下りの船頭をして暮らして居りました。赤貧洗う
が如しとか、それはそれは貧しい生活でしたが、子どもは多く、私の上に3人の姉と1人の兄と妹
1人が居て、6人兄弟姉妹でした。姉たちは、15〜16 歳になると口減らしのため、次々と京都の町
へ奉公に出されます。
私は、何とか小学校の高等科まで出してもらい、16 歳の早春、京都へ女中奉公に出されました。気
の利かぬ間に合ぬ娘で、毎日叱れてばかりいました。それに、冬になると霜焼けができて、それが
化膿して、汚いからと嫌がられるし、冷たい水仕事に痛いやら、寒いやら、本当につらい思いをし
ました。
19 歳
―「美しい満洲」へ−
19 歳の春に、頼りの母が癌で亡くなり、寂しい思いでした。これからどうして生きていったらよい
のか、この京都で奉公を続けるなか、何とかならぬものかと思ったりしていました。そんなある日、
こくりゅうこう
さんこう
いやさか
ふと町の本屋さんで立ち読みした本に、黒 龍 江省(当時の三江省)の弥栄開拓団のことがありました。
あ〜こんなこともあるのか、
これなら私にも出来る、
何とか私も行きたいと思うようになりました。
その頃、国は満洲移民を国策とし、町には、行け大陸へとか、行け満洲へとか、美しい言葉で開拓
‑ 113 ‑
団の寫(写)真が張り出されるようになり、大陸の花嫁という言葉もよく聴かれるようになり、募集
もありましたので、応募しました。府庁の援護課がお世話してくださり、そのごろ、家族招致で帰
っていた滋賀出身の鵜飼さんを紹介してくださいました。4月にお見合いをして、6月には現地へ
帰らねばならぬので、6月1日結婚式ということになり、6月 20 日に渡満いたし、青溝子へ入植
しました。
19 歳から 24 歳まで
−「裏切り」の満洲での生活−
おうどうらく ど
ご ぞくきょう わ
実際、満洲に行って見ると、日本で宣伝されていたような王道楽土とか五族 協 和とか美しい大陸と
は、
ほど遠い何一つない荒涼とした開拓地でした。
でも若かった故でしょうか。別に苦労とも思わず、
昼夜を問わず、一生懸命働きました。主人は先遣隊で、私も行くのが早かったので、女の人は少な
ながさわ
く、永沢はるこさん(仮名)だけでしたが、そのうちに本隊の人たちも入ってこられ、若い奥さん連
中も多くなり、新婚ばかりの 15 世帯あまりがまるで姉妹のように、仲良く肩寄せ合って暮らして
いました。
冬ともなれば、暖かいオンドル[用語集→]の間でペチカを囲んで、懐かしい故郷お話やお国自慢に花を
咲かせます。故郷と遠く離れた寂しさも、肉親以上の友情で忘れることができ、何とか自給自足で
暮らしていけるようになり、子供も生まれて明るい笑い声も聞かれるようになりました。
23 歳
−赤紙がやってくる−
戦争の余波はこの平和な開拓村まで押し寄せて、(昭和)19 年(1944 年)の1月には、最初の召集令が
ふじ た
同じ開拓団の藤田さんに来ました。そして、次々と働き手の人たちが召し出されて行きました。
‑ 114 ‑
私の主人に赤紙が来たのは、やはり(昭和)19 年(1944 年)の5月でした。そのとき、主人は 28 歳、私
は 24 歳(ママ、数え年/23 歳)でした。重い銃を肩に食い込ませて、若葉の丘を地平線の彼方に消
えるまで見送っていました。生木を裂くような別れでした。
きたそん ご
ハルビン気付、北孫呉とかいうところから1回便りがあり、2回目の便りには玉の何とか部隊とあ
りましたが、はっきり分かりませんでした。その当時、みな同じだったのでしたけれど、子供と家
畜を残され、働き手を取られてしまった。私たちは、これから何とか生きていかねばなりません。
わずか3歳になったばかりの子どももかまってやる暇もなく、唯1人、部屋に閉じ込めておいて、
畑仕事やら家畜の餌の草刈やと無我夢中で働いていました。それも夏の中、満洲の秋は短く、満洲
の長い寒い冬の訪れは早く、満洲で冬を越すには、何と言っても、燃料です。燃料の薪がなければ、
凍死してしまいます。男手を取られた私たちには、誰が薪を取ってくれるでしょう。思案に余り、
私たちは4人一組となり、交代で1人は子守し、3人が早朝に橇を引かせ、深い山に入り、膝まで
雪に埋まりながら木を刈り、いまも思い出すと、かわいい子供ばかりでしたが、今1人としてこの
世におりません。きっと天国で仲良く遊んでいることでしょう。
紅蓮の太陽が地平線に傾くまで、木を刈り、さばけぬ手綱で戻ります。夜は、2人がかりで大鋸を
引き、月光で木を割り、子供の無心の寝顔に胸が痛みます。そっと頭を撫でやる手も重く、そして
綿のように疲れた体は、深い眠りに入ってしまうのでした。
24 歳夏
−敗戦と逃避行−
山奥で暮らす私たちは何にも分からず、敗戦の知らせが入ったのは(1945 年)8月 18 日でした。午
‑ 115 ‑
後3時ごろだったでしょうか。最小限の荷物をまとめて、すぐ本部へ集結するように言われ、何が何
だかわからぬまま衣類と食料をまとめ、
4〜5台の牛車で女子供ばかりの道を本部へと急ぎました。
しゅう り こう
本部で団長代理の方から、全員にこれから鉄道沿線の 秋 梨溝へでること、日本人であることをわす
れず、絶対に捕虜にならぬ事、いざというときは舌を噛んで自決するように、と訓示がありました。
私は舌を噛んで死ぬ、そんなことができるのかなぁと思っていました。その日は宵月だったので、
月が沈まぬうちに急ぎました。
遅れぬよう一心に歩きました。夜中、暴徒に襲われ、荷物は牛車もろとも取られてしまいました。
また、川を渡るとき、橋が切り落とされ、丸太が1本渡してありましたが、身につけていた荷物を
全部捨てて、その丸太棒につかまりながら、渡しました。流されてしまいそうで、本当に命がけで
した。わずか4年余りの生活が、走馬灯のようにちらつき、懐かしく追想しながら再び秋梨溝へと、
急ぎました。
途中、ムータンガンという大きな峠があり、治安が悪いから、十分気をつけるように言われました。
その頃から出征された団員の方が2〜3人ずつ帰ってこられ、10 日ほどのうちに 30 人ほど増え、
心強くなりましたが、私の主人は帰ってきませんでした。
24 歳初秋
−再び「青溝子」開拓団−
あの年は雨が多く、ムータンガン峠に近づいた頃は、大雨となり山の中で、豪雨となり満洲特有の
赤土のぬかるみで泥は膝まで浸かり、靴はぬかるみに取られ、裸の足に赤土はぬるくすべって倒れ
そうになるし、全身ずぶぬれで、やっとの思いで、秋梨溝に着いて水とおにぎりをいただきました。
‑ 116 ‑
秋梨溝についたとたん、はるこさんがお産され、身重の体でここまで本当にと胸迫る思いでした。
きつりん
9月の末には、団の残りの食料も底を突き、いよいよ団は解散となりました。吉林へ向かって一歩
でも内地へ近づくか、元の部落へ引き返して冬を越し、春を待ってもう1度みんなで出てくるかで
した。大半の人は、夫が帰ってくるかもしれないと、一抹の望みを託して、来た道を戻りました。
ふじはら
ここで仲良しの藤原さん(仮名)と別れ、私も青溝子へと戻りました。
懐かしい青溝子へ帰り着いたとき、家はそのまま残っていましたが、なかのものはすっかり取られ
ていました。でも水田には稲穂が実り、植えておいたカボチャや馬鈴薯は実りの秋に色付いて、何
とか冬越しができるかと思いました。それも束の間、保安隊[用語集→]と言って腕に赤布を巻いた、つ
まり土匪が毎日毎日出てきて、私たちを狩り出して、稲刈りや脱穀をさせ、できた籾はさっさと麻
袋につめて持って帰ってしまいました。私たち働いたものには、労賃として、籾を2升ほどくれま
した。私たちは、またそれを石でついて、玄米にしてお粥にして食べました。それが私たちの大切
な食料でした。
24 歳秋
−敗戦の惨めさ−
敗戦の惨めさは、私たち女ばかりではなく、解散になった見知らぬ兵隊さんたちが山から下りて、
部落の中に入り込まれ、
現地の人に見つかり、
彼らは武器をもっていた兵隊が怖かったのでしょう、
男と見ればお前は兵隊か、武器を隠しているだろうと責め立てます。蹴るは殴るは、逆さにつるし
上げたり、そのときばかりは主人がいなくてよかったと思いました。
そのとき共同炊事で、食事といえば、玄米をおかゆに炊いたり、拾ってきた白菜の葉や大根葉を塩
‑ 117 ‑
もみにして食べました。大人も子どもも栄養失調で、食べたい盛りの子供達にも何一つ食べさすこ
ともできず、3歳になる私の子は、拾ってきた岩塩を飴玉のようにおいしそうになめました。疲労
と空腹で涙も出ませんでした。
満洲の秋は早く、それに食料は日に日に少なくなり、それに赤い腕章の土匪が出てきて何から何ま
でとっていきました。金を出せ、時計を出せ、子どものおむつのなかまで調べて取り上げていきま
した。そんな時、私は只一つ子どもにおかゆを炊くのに飯ごうを大切に持っていました。その日も
また出てきた赤い腕章の人が、私が草むらに隠しておいた飯ごうまでもっていこうとしたので、私
もつい、あなた方はそれでも保安隊か、匪賊[用語集→]じゃないかと言ってしまいました。若いその人
は黙って出て行きましたが、しばらくして隊長らしき人が来て、大きなベルトのようなもので私を
しばき上げました。そして、国軍にむかって匪賊とは何だ、殺してやるといいました。そうなると、
私も怖いとも思わず、子どもを抱いて、一緒に殺してくださいと座り込みました。それを見ていた
朝鮮の人が私に、奥さん謝りなさいと言って、その人も謝ってくれました。それで私も、
「すみませ
んでした」と深々と頭を下げて謝りました。そしてその場は、何とか助かりました。
24 歳晩秋から冬
−難民収容所−
そして 10 月となり、11 月となって、どうしても越冬はできぬということで、秋の深まった道をま
こくせきとん
た秋梨溝に向かって出て行きました。途中、黒石屯で別れた藤原さんに会いました。懐かしさで涙
が止まりませんでした。可愛い2人の子どもは、もう居ませんでした。私の背中の滝子に、私の子
どもに、たきちゃん、元気で大きくなれよと言ってくださいました。晩秋の悲しい黒石屯の別れで
した。
‑ 118 ‑
雁が列を組んで鳴きながら、北のほうへ飛んでいきました。あの雁たちも目的があって飛んでいく
のに、いったい私たちはどこへ、今夜のねぐらはどこなのか、当てもなく流されていく自分を本当
に惨めだと思いました。
やっとの思いで、吉林についたのは年も押し迫った 12 月 28 日でした。防寒靴はなく、ぼろのズッ
ク靴でしたので、
立ってはいられませんでした。
吉林の女学校の難民所へ入れていただきましたが、
そこはもう先着の人でいっぱいで、
筵を敷いて各自に小さいコンロで空き缶でお茶や何かを煮たり、
また呆然と空を見ている人たちでいっぱいでした。私たちは行くのが遅かったので、部屋には入れ
てもらえずしばらく廊下にいましたが、その寒いこと、外と同じで横になることもできず、子ども
を抱いて座ったまま寝ていました。
24 歳冬
−収容所での友人の死と長女の死−
そして、幾日か過ぎ、部屋に少し場所ができ、やっと、部屋に入れてもらいましたが、大勢の人で
酸欠状態でした。病気で、みんなパタンと死んでいきました。一緒に出てきた青溝子の人たちも大
部分の人たちがそこで亡くなりました。
よしおか
向かい合わせで寝ていました。
ある寒い夜、
私は親しかった吉岡さんと子ども2人を真ん中にして、
吉岡さんはトイレにいくと言って、子どもを連れて出て行ったまま、待っても待っても帰ってきま
せんでした。同じ部落の男の方が「オーイ、吉岡が死んどるぞう」といわれ、喫驚して教えられた
方へ行くと、吉岡さんは上半身が裸となり、自分の着物を子どもの上にかけて凍死しておられまし
た。口数の少ないしっかりとした方でした。覚悟の上のことだったのでしょう。
‑ 119 ‑
私は、
寒さと余りの惨めさにブルブルと震えていました。
いまもそのときの光景が心の奥深く残り、
消えることはありません。
そして、私の子もひどい栄養失調で、どうしてやることもできぬまま死なせてしまいました。思え
ば、親らしいことも何一つしてやれず、こんなことならあんなに仕事をせず、一緒にいてやればよ
かったものを悔いても悔いても、詫びきれぬ思いでした。入れてやる箱もなく、せめてこの着物だ
けでもと思い、
あるだけの着物を着せて固く凍りついた穴の中に、
「母ちゃんもすぐいくからねえ」
、
と言いながらそっと寝かせてきました。
大勢の友をなくし、子どもにも先立たれた私は生きる希望もなく、うつろな心で死ぬことばかり考
えていました。いざというときは、舌を噛んで死ね、といわれたことを思い出しましたが、わたし
にはそれがどうしてもできませんでした。
24 歳冬
−死を乗り越えて−
そんなある日、突然、ひどい眩暈がして、目先が真っ暗になって倒れてしまいました。そのまま、
いったい、どこで、どうなったのか、何もわかりません。どこかで、誰かが呼んでるような喋って
いるような。ふと気がつくと、裸電燈がぽつんと見えました。高い熱でうわごとを言っていたよう
です。発疹チブスでした。
自分のうわごとで気がつき、いまだ死んでないのやなぁ、まあそのうちに死ぬわぁと思ううち、ス
ーッと奈落の底へ落ちるように、誰かに引っ張られるように、意識が朦朧となってしまうのです。
何回かこのようなことを繰り返し、気がつくと、また何かぐしゃぐしゃうわごとで目が覚め、目の
‑ 120 ‑
前が明るいので、あーまだこの世だなぁ、いまは・・・。それがいったい何日続いたのか、どれだ
けの時間が経ったのか、ふーっと目が醒めました。
今度は、うわごとは言っていません。熱が下がったのか、ひどくのどが渇いて、焼けつくようでし
た。ああ水がほしいなぁと思い、あたりを見回しても、誰もいません。あっち、こっちに死体が丸
太棒のように転がっているだけでした。起きてみましたが、頭がつらく、足がぐにゃぐにゃで、立
つことができませんでした。それで、そこにあった飯ごうをもって、水を探しに行きました。
よつばいの赤ちゃんのように、ハイハイしながら、死体で通れぬところはその死体につかまって、
山登りのようにその死体を乗り越えながら、水を捜しました。と、ちょうど、水道管が故障して水
がもれて、
その水が凍って山のようになり、
その中に水が少しずつもれているところがありました。
私は、その氷の山にべったりと座り、飯ごうにうけては夢中で飲みました。
いったい、何杯、どれだけの水を飲んだのでしょう。恐ろしいほど飲みました。水のおかげで、少
しは楽になったように思いました。あの恐ろしい病気にもかかわらず、一服の薬も飲まず、一本の
注射もしてもらわなかったが、なんとか治ったようです。その後にはもっと恐ろしい飢えが待って
いました。
病気が治ると、今度はおなかが空いてきます。ご飯が食べたい。白いご飯が見えます。寝ても醒め
ても白いご飯が見えます。まるで餓鬼のようです。余りの情けなさに、あぁ、なんでどうして死ね
なかったのか、死に切れず、生ききれず、病気が治ったのさえ、腹立たしく思っていました。
そんなある日、1人の男が私のそばに来て、
「你快走(早くいこう)」と言って、私の手を引っ張って
‑ 121 ‑
行かれました。私は、何が何のことやらわからぬまま、よろよろと引っ張って行かれました。その
人の家に着いてからは、
「もう難民所へ帰っては駄目だ、難民所にいては死んでしまうから、ここに
いなさい」
、と言われました。冷え切った私の心に、何かふーと暖かいものに触れたような気持ちに
なりました。その人は呂殿財といって、小さいとき両親に死別して家族のない独り者でした。複雑
な気持ちでこの家に住みつきました。根が丈夫だった私は、見る見るうちに元気を取り戻してきま
した。
24 歳
−子どもを引き取る−
そんなある日、突然、難民所で別れたはるこさんが、何処で誰に聞いたのか、訪ねてこられました。
じ ろう
ひどく弱り果てて、4歳になる子どもの次郎(仮名))の肩にすがるようにして、よろよろとしておら
れました。いろんな話を聞きますと、子連れで、住み込みで働いていた家で病気となり、働けぬよ
うになり、暇を出されたとか、とぎれとぎれに話しておられました。
「鵜飼さん、堪忍なぁ、頼むわ
なぁ」
、と言って、私の返事も待たず、次郎の遊んでる隙に出て行ってしまわれました。
子を捨てる親の悲しみを感じたのか、母が黙って帰った後も、次郎は泣きませんでした。子ども心
にもわかっていたでしょう。しばらくして、私は難民所へ行ってみましたが、顔見知りの人はほと
んどなく、1人の男が、
「あ〜あの永沢さんね、死にましたよ」
、と当然のことのように教えてくれ
ました。
私は、これをどのようにあの子に伝えようかと思案しましたが、仕方なく「あのなぁ、あんたのお
かあちゃん死んだんやてえ」と言いました。さすがにそのときは大きな声で、(次郎は)わぁわぁと
泣きました。
‑ 122 ‑
身重の身体で秋梨溝まで出て、難民所でお産して、赤ちゃんも亡くし、1人残ったわが子を他人に
託して死んでいったはるこさん、
どんなに心残りであったでしょう。
そんな母の気持ちを知ってか、
知らずか、次郎は元気でいました。私もそんな子どもを見て、これはきっと神様が死んでいったわ
が子の代わりに、私に授けてくださったのだと思い、夫に、
「この子、ここにいてもいいか」と聞き
ましたら、家族のない彼は快くいいよと頷いてくれました。その後、夫を父と呼び、私を母と呼ん
で暮らしました。
25 歳から 52 歳まで
−中国での「残留」−
シアオ ル ィ ベ ヌ グォイズ
次郎も小さいときから、小 日本鬼子と呼ばれ、外ではいやな思いをしながらも、よく耐えて成長し
てくれました。貧しい中でも、平和で仲良く暮らしたあの頃が今にして思えば、私の一番幸せな時
代だったかもしれません。
次郎も 22 歳になり、養父の強い要望で、知り合いの中国の娘さんと結婚しました。孫の生まれたと
きの喜びようは大変で、それこそ目の中へいれてもといった感じでした。
が、そうした平和な暮らしも長くは続きませんでした。その孫が生まれて、3歳のとき、あの恐ろ
もうたくとう
しい文化大革命[用語集→]が起こりました。そして、日本人は敵視され、毎日毎日、毛沢東思想の学習
会があり、資産階級者や知識人や地主は、ひどい目に合わされ、私たちも事毎にお前は日本人だ、
鬼子だと罵られ、終戦のとき以上に恐ろしいと思いました。
一番いやだったことは、訴苦会でした。満洲時代に日本軍国主義が中国をいじめたことを根掘り葉
掘り発言されるのです。わたしは、
「日本の兵隊に親を殺された」とか、
「自分は日本人に土地を取
‑ 123 ‑
られた」とか、そういった周囲の中国人の発言を、白い視線を浴びながら、じっと針の筵に座らせ
られるような思いで、罪人のように聞いていなければなりませんでした。それが毎日、毎日、何年
続いたでしょう。他国に住む惨めさをいやというほどに味わわされました。
そして、私は日本人だ、日本人はやっぱり日本に帰るべきだったと思い、あぁ、私にも祖国がある
のだ、日本という立派な祖国がある、なんで他国でこんな肩身の狭い思いをしなければならないの
か、今度、日本へ帰る機会があれば、日本へ帰ろう。年の故でもあったのでしょうか。無性に日本
が恋しくなり、いままでどの面下げて帰れようと思っていたことも、恥も外聞もなく、日本に帰る
決心をしました。
53 歳
−日本へ永住帰国−
た なか
そして、時は移り、時代は変わって、(19)72 年に田中首相が訪中され、日中国交が回復され、文通
もできるようになり、内地の姉とも連絡が取れ、主人が戦死したことを知りました。姉からも早く
帰ってくるようにと、便りがありました。すぐ帰国申請に行きましたが、当時、在中の人が国外へ
出るのは、それこそ夢のまた夢で、宇宙旅行へいくより難しいことでした。私は根気よくお願いに
上がり、2年経ってやっと里帰り[用語集→]の許可が下りました。
私は何が何でも帰ってみよう、日本へさえ帰ったら、何とかなるに違いないと思いました。後のこ
てんしん
とは次郎に頼んで、当時、次郎は3人の子どもがありましたが、何にも言わず、天津まで送ってく
れました。天津の港に着いたとき、日本の船に、日章旗が上がっているのをみました。あの感激は
一生涯忘れることはありません。
‑ 124 ‑
天津の港で4〜5日待って、私たちの乗せてもらったのは塩の貨物船でした。船員さんの船室を一
つ空けてくださり、あっちこっち、寄港されるので、10 日ほど船の中でお世話になり、11 月の初め
みやざき
ひゅう が
に宮崎の 日 向に着いたとき、京都府庁の援護課の方や姉妹、甥姪がみんなで迎えに来てくれました。
自分にもこんな大勢の身内があったのか、と心強くうれしく思いました。京都駅に着いたとき、あ
まりの美しさ、華やかさで、これからこの世界で生きていけるだろうかと心配でした。
54 歳
−日本での自立を目指して−
姉の家に落ち着いて1ヶ月ほどお世話になり、何とか自分も働かねばと思い、幸い双ケ丘病院が募
集しておられたので、働かせていただくことになり、以後、双ケ丘病院で 18 年、72 歳まで働かせ
ていただきました。
しばらく姉の家で世話になっていましたが、
いつまでもというわけにはいかず、
姉の三男のお嫁さんがお産に帰ってこられ、
私の居場所がなくなりました。
なんとか住宅をと思い、
援護課へ相談に上がりましたが、その当時、
「独り者は住宅を申請する権利がない、貴女は家族がな
いから駄目だ」と言われました。私は本当に情けなく思いました。
家族がない私は、初めから家族がなかったのでしょうか。主人があり、子どももあり、私にも家族
がおりました。その家族を私から奪い取ったのは、誰でしょう。あの戦争さえなかったら、私も人
並みの家族もちの人間でした。
「主人を返してください、子どもを返してください」
、と泣きながら言いましたが、世代の違う若い
係員の方は、わからぬでもないが規則は規則だからと言って、相手にしてもらえませんでした。私
の祖国への憧れ、期待と信頼は一遍に崩れ落ちて、なんと冷たい国だろう、もうお願いするまい、
2度とここへは来るまい、と思い、仕方なく、私営の6畳1間の安いアパートを借りて、只、黙々
と働いていました。
‑ 125 ‑
54 歳から 60 歳まで
−ボランティア原さんとの出会い−
はら
そんなある日、原さん(仮名)が尋ねてくださいました。中国からの引揚者のお世話をしてくださる
ボランティアの方で、そのとき、私はボランティアという言葉の意味を始めて知りました。へえー
無償で人の世話をしてまわっていることと知り、
「世の中、偉い人もあるものだ、やっぱり日本の国
は立派だなぁ」と思い、自分の怯みや世間にすねたりする気持ちが、気恥ずかしくなり、何事にも
感謝して前向きに生きていこうと思うようになりました。
以後、何かあれば、相談に乗っていただき、お世話になっております。そして、公営住宅申請も教
えてくださいました。私はやっぱり怯みの気持ちで、
「私に当るはずがない」とか言いましたが、
「申
請もせんで。宝くじでも買わなかったら当たらへん」と、いろいろと教えてくださり、申請の仕方
とき わ だん ち
も教えていただいて、何回も何回も申請しました。やっとのことで補充として常盤団地が当選しま
した。日本へ帰ってきて、丸8年、9年目の夏でした。暗い小さなアパートから引越してきたとき
は、まるで御殿のように思えて、本当に嬉しゅうございました。
61 歳
−一家(再)団欒−
その頃から残留孤児の引揚げが始まり、その翌年(1982 年頃)に次郎一家が5人で帰ってきました。
2度と会えぬと思っていただけに、本当にうれしく思いました。幼くして分かれた孫たちも大きく
なり、いまは立派に成長して、それぞれに結婚して子どもも生まれ、私は、今、義理ではあります
が、5人の曾孫に恵まれて、幸せに思っております。
毎年、お正月には、一族全員集合します。1人の子を育てたおかげで家族が 14 人となり、今年のお
正月には次郎の嫁が、
「みんな日本へこれたのはおばあちゃんのおかげや」
、と言ってくれました。
‑ 126 ‑
本当に皆様のおかげでありがたいことだと思い、私は心の中で、
「はるこさん、見てやって、みんな
貴女の子孫よ、これからも守ってやってねぇ」とつぶやいておりました。あれからもう 56 年の歳月
が流れ、私も 80 歳の高齢になりました。
この長い命を頂いたのも、若くして逝った大勢の友や主人、今は亡き愛しい子ども達が守ってくれ
たのでしょう。貧しいながらも他人様に迷惑をかけぬよう神に念じながら、感謝の日々を送ってお
ります。
2.日本・満洲・中国、そして嵐山:渡辺フミへのインタビュー
フミへの聞き取りは、2回にわたって行われた。ボランティアしてフミを支え、また親交
を深めてきた原氏にも同席して頂いた。以下の文中には、原氏の言葉も登場する。その際は
(原)と表記する。
嵐山 ―今を生きる場所―
日本・満洲・中国という三つの国や大正・昭和・平成という三つの時代を生きてきたフミ
あらしやま
は、今、京都の 嵐 山に落ち着いて、幸せな老後を送っている。
小倉山峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ
百人一首の話になると、「ここ、嵐山に一番近い縁のある一首は?」という原氏の問いか
けに対して、フミはすかさず「おぐらやま〜」と答えた。大正生まれのフミは、百人一首が
得意であった。今でもカルタで時々遊ぶという。
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この間、あけみちゃんが(百人一首を)覚えといてな。ちゃんとおぼえとるわ。かしこいわ、あんた(あ
けみちゃん)。6年生にもなった。
ひ孫のあけみちゃんは「お描きが上手な小学6年生」。学校で百人一首を覚えてから、フ
ミを訪れては時々一緒にカルタで遊ぶ。このような何気ない日常生活の一コマは、フミの幸
せを物語っている。しかし、フミが噛み締める幸せとは、何か格別な生活を送っているとい
うことではなく、翻弄され続けてきた歴史からやっと解放されたという感覚から生じたもの
である。今1度、その歩みを簡単に振り返ってみよう。
フミの家は、貧しかった。16 歳で女中奉公に出され、19 歳で母親をガンで亡くし、当時大々
的に宣伝されていた満洲に憧れて、行くことを決心した。開拓団員と結婚して、宣伝された
満洲と全く違う環境で暮らした。夫と2人で懸命に働き、長女も生まれ、幸せな時間を過ご
していたが、23 歳のときに赤紙によって夫が召集されてしまった。そのときから、落ち着か
ない生活が始まった。
働き手である男が召集されてしまい、開拓団には女性と子どもしか残っていなかった。生
活のために、子どもを構う時間も惜しんで懸命に働いた。そんな生活も束の間、敗戦になっ
てしまった。24 歳のフミは、子どもを連れて逃避行を始める。逃避行の中で大勢の死を目の
当たりにし、4歳になった長女を栄養失調で亡くした。その後、自分も発疹チフスにかかる
が奇跡的に助けられ、中国人の家に入り再婚し生活するようになった。
再婚してからは、子どもに恵まれなかったが、同じ開拓団の人の子ども、次郎を預かった。
貧しい生活であったけれども、一家仲良く暮らした。そんな時代を「一番幸せな時代だった
かもしれない」と、フミは懐かしそうに語った。しかし文化大革命の時代になり、「小日本
鬼子」[用語集→日本鬼子]と呼ばれた経験などから、祖国日本に対して思いを寄せるようになった。そ
して日中国交が締結されたのを契機に、日本への永住帰国の手続きを済ませて、やっとの思
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いで、日本に帰ってきたのは 53 歳のときであった。満洲に渡ってから既に 24 年の歳月が過
ぎていた。
戦後中国に長く「残留」したが、日本に帰ってきてからも「難しい言葉は分からないけど、
普通の会話は大丈夫だった」という。ただ戦後になってから使われるようになった外来語に
は苦労したという。日本語で書く時には、旧字や旧仮名も遣っている。前出の自分史も、旧
漢字と旧仮名で綴られていた。
日本に永住帰国したからと言って、すぐに安心できたわけではなかった。自立のために、
フミはまた頑張り続けた。運良く病院に働き口がみつかったが、住居が問題であった。今の
住処に辿り着くのに、さらに八年の年月を要した。また国籍をめぐっては、国を相手に裁判
をも起こさねばならなかった。
桜と紅葉で名が知られる嵐山で、84 歳(平成 17(2005)年の聞き取り時)になったフミは、自
分が生きてきた日本・満洲・中国のことを思い出し、時には涙、時には沈黙、時には笑い、
時にはため息をつきながら、私たちに語ってくれた。
日本 ―生まれ育った場所―
聞き取りの中では、フミは戦前の日本についてあまり語らなかった。
16 歳から 19 歳で満州に渡るまでの3年間は、京都で女中奉公をしていた。そのときの給
料は「10 円」だった。当時の社会状況では、口減らしのために、女の子が女中奉公に出され
るのは決して珍しいことではなかった。フミの姉2人も女中奉公にだされた。
普通の貧乏家族でした。口減らしみたいなもんで。15〜16歳になったら、みな京都に出される。当
時はね。
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それを説明するのに、ドラマ「おしん」の例を出してくれたりもした。そのときの女中奉
公の生活については「つらいもの」だったと語る。
どういうのかな。よいおうちでしたけど。奥さんも優しい人でしたけども。やっぱり厳しいし。そ
りゃはつらいものでしたわ。
中国から永住帰国してから、一番困ったのは既に語られたように、住宅の問題であった。
援護課に行っても、「独り者は住宅を申請する権利がない、あなたは家族がないからだめだ」
と言われ、取り合ってもらえなかった。「情けなく」なったフミは憤りを覚え、祖国への期
待が一気に崩れ落ち、期待の祖国は冷たい祖国へと変わってしまったのだ。そのときのこと
は自分史にも書かれていた。
家族がない私は初めから家族がなかったのでしょうか。主人があり、子どももあり、私にも家族が
おりました。その家族を私から奪い取ったのは誰でしょう。あの戦争さえなかったら、私も人並み
の家族もちの人間でした。
・・・・・・
その後、フミは、仕方なく自分でアパートを借りることにした。節約のために、同じく中
さ とう
国で残留していた佐藤さん(仮名)と共同で部屋を借りて、一緒に8年間暮らした。ボランテ
イアの原氏から公営住宅を申請することができることを知らされたが、「自分に当たるはず
がない」と言って、申請しようとしなかった。そのとき、原には厳しく言われた。
(原)あの時は、本当に大きな声で怒鳴りましたよ。ははは・・・、宝くじでも買わなかったら当た
らないだろう、と。
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本当にそうでしたね。原さんの言葉を信じて、申請してみたら、当たりましたね。
補充として常磐団地に当選したが、修繕工事で嵐山近くの公営住宅に移ってきた。嵐山周
辺の環境が自分にあったせいか、修繕工事が終わってからも、今の公営住宅を希望したのだ
という。
「(原に)まず住宅を確保した方がいいよ」とアドバイスされたフミは、やっとの思いで
住宅を確保した。しかしほっとしたのも束の間、すぐに次の問題に向き合わなければならな
かった。次郎の帰国問題だ。次郎は戸籍上、フミと親子の関係ではなかったため、呼び寄せ
ではなく、中国残留日本人孤児として手続きを取って永住帰国した。しかし、それは決して
順調には運ばなかった。
(原)渡辺さんが府庁のロビーに座り込んでましたし、そのとき、怒って。ほっといて帰ったし。渡
辺さんが先に帰ってって言うし。ははは・・・
次郎の親族は判明していた。そのため、原は次郎の親類に何回も電話をかけて、帰国手続
きについて相談を持ちかけた。また京都府庁にも相談しに行った。しかし、当時の対応はず
さんなもので、フミは怒って府庁のロビーに座り込んでしまった。原は、「当時の国のやる
ことはむちゃくちゃだった、今はしっかりしてきたけど」、「当時は府庁などに行くのはけ
んかしにいくようなもん、今は相談しにいくけどね」と振り返って語る。
次郎の帰国問題の次は、自分の国籍問題に向き合わなければならなかった。恩給法に基づ
く扶助を申請したが、日本国籍喪失を理由に却下された。そのため、日本国を相手に日本国
籍確認の訴訟を起こした。法廷の中では、「中国国籍の取得が自分の意志によるものであっ
たかどうか」が大きな争点であった。それを立証するのに、フミは思い出したくない過去を
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語らなければならなかった。それはとても耐えがたいことであった。そのときに書いたのが
前出の自分史であり、フミは自ら証言台にも立った。そのときは「とても緊張した」という。
(原)却下という言葉を聞くのがつらくて、(フミは判決を)聞きには行かなかった。
フミは自分の主張が認められないことを怖がって、判決を傍聴しにいかなかった。代わり
に原氏が傍聴した。「一行で終わったら負け、ごちゃごちゃ分からないようなことを言って
たら勝ち」と弁護士からアドバイスを受けた原氏は、「そうしたら、ほんまに何を言ってる
のか分からなかったわ」と言う。判決は、文句の付けようのない全面勝訴であった。
満洲 ―「あこがれ」と「うらぎり」の場所―
フミにとって、満洲は「あこがれ」の場所であったし、「うらぎり」の場所でもあった。
満洲へ渡ることを決めたのは、頼りにしていた母が亡くなり、途方に暮れていた時に、満洲
のことを知ったからである。その頃の記憶について、フミはあまり語りたがらない。
もう、いまさら、今そんなことをいうのは、いやですな。もう。思い出したくないような。その頃、
国策で。それいけ、やれゆけって。
町の本屋で立ち読みした本に、満洲の開拓団のことが美しい言葉で綴られていた。それに
「あこがれ」という気持ちを抱かなかったかという私の質問に対して、フミは次のように答
えた。
そうですね。若い頃の夢ですね。若かったですね。雑誌にいろんなこと書いてたもんで。弥栄村書
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いたけど。週刊誌、そればかり。それを見て。
何の能力もないけど、このぐらいの仕事ならできると思ってな。若い頃の夢ですわ。
しかし、実際行った満洲は、美しい言葉とほど遠い環境であった。
王道楽土とか、五族協和とか〜、もうきれいな言葉でね、言わはったもんやで。わしらもまだ若か
って、それがまた本当だと思って、美しい言葉に乗せられていったんですけども、いってみりゃ、
まぁまる反対ですわ。ガス、水道、電気なんでぜんぜんないもんなぁ。原始生活でした。
開拓団は「鉄道沿線から3日ほど歩いて山の奥に入った」ところにあった。そこでの生活
は苦労の連続だった。
それは生活していかあかんやんか。何もないところから村を建てていく(んだから)。
開拓団の周りには、
中国人と朝鮮人も住んでいた。
彼らとの関わりはどうだっただろうか。
まぁまぁ。その頃はなにも。あの時は日本が統治権を握っていたから。その悪いことをする人もな
かったけれども、よう盗まれましたな、やっぱり。なにも、こっちも。普通にしていたけど。
日本人がばかじゃ、死心眼(頑固者、融通のきかない様子を表す言葉としてよく使われる)って笑わ
れたけどな。子供のおもちゃとか、車とか、家の中にもっていかん。ほっておくだろう。それをあ
んた取られましたね。
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ちょっと油断しとったら、取られてしまった。
中国人は、
日本人から土地を借りて小作していた。
それに対してフミは次のように語った。
それで、あんな(ことを)しはってもしょうがなかったんやわ。よその国にいって、よその国の土地
を耕して、そこの人を小作に使うというんやからな。そりゃ、ほんまに侵略者で、泥棒やて言われ
たって、そりゃ今から考えたら(仕方がない)。そりゃ知らなかったからな。
ほんまに悪いことをした。
だが悪の根源は国策にあって、
開拓団周辺では、
個人と個人の付き合いは日常的にあった。
日本人もその、国策としていっとる、その政策は悪いのであったけど、個人対個人の付き合いとし
て、悪いことしたり、そんなことはせえへんだね。
あの、あの、子供の着物あったら、小さくなったら、あげたり。こ馳走作ったら、持ってきてくれ
たり。こっちも(持って行ったり)。
日本人は豚の頭を食べる習慣がなく、それを捨てに行ったら、中国人が喜んでもらって行
った。
はじめは(豚の頭を食べることが)しらんさかいな。
満洲いったごろさ、
豚の頭をきってしもうてな。
豚の頭なんてたべられへんと思って。ほかしに(捨てに)いったやんか。そうしたら、中国の人が
もう、「あんた、そんなおかずやったら、私のところにおくなはれ」って喜んでもっていって、料
理して。上手にたべてな。
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わしらはまあ、しらんかってな。日本人ってあほやからな、ほんまに。あほっていうか。死心眼っ
てちゅうのか。
フミにとって、満洲は複雑な場所であった。それについては、次のように述べている
今から考えたら、怖いもの知らず。幼稚な考えでいったんですけど。そりゃはもう政府がなにして
はった(かは知らない)、うそばかりのことやさかいな。(だから)そこで苦労しました。
負けるのがわかっとるのに。わかってるのに。また勝つ勝つってね。
騙されたって言うか。ほんまに、あのごろは、みなね。もうほんまに負けるっていうのがわかって
たのに、まけへん、まけへんで。若かっただろうね。
決して何かはっきりした答えが出たわけではないが、それがフミの満洲の記憶なのかもし
れない。敗戦によって、満洲を離れざるを得なくなったのである。
でも、敗戦になってしもうて、もうそこらにおらしまへんやね。もう自分もこわいさかい。それで
引き揚げ[用語集→]。
中国 ―「残留」の場所―
2度目にフミを訪ねたのは旧正月(春節)の前だった。原氏も含めて3人で、食べ物の話に
花を咲かせた。
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筆者:お正月に餃子をつくりましたか?
フミ:つくりましたよ。
筆者:あと、どんな料理を?
チョアヌバイルゥオ
フミ:なにがすきやった。 川 白 肉 。豚肉をあれして(煮込んで)、それに酸菜(白菜を発酵させた
もの、中国東北地方の冬ではよく食べられる)を(加える)。
原氏:塩豚、私が大好き・・・。中国のおいしいの。日本の豚肉はあかん。むこうのはおいしいわ。
上手に料理しはるし。
フミ:とにかく、豚肉がおいしい。油がのってな。ものすごくおいしいね。お正月にもうね。食べ
て食べても(飽きない)。もうほんまに一冬。
フミの中国人の夫は料理上手だった。
主人が料理するほうの人だったって、いろいろご馳走をこしらえてよう食べさせてもらいました。
私はなにもせんで、ぽかんとしてるだけで。
でも、豚の血でつくった血腸(血の腸詰め)と豚足は苦手で食べられなかった。
あれだけ、血・・・血腸っていうのかいな。あれだけは私はだめ。(豚)足も嫌い。食べてへん。
中国で再婚し、夫と一緒に次郎を育てることが生き甲斐であった。
「貧しい中でも平和で仲良く暮ら
していた」という。それがフミにとっての「一番幸せな時代だったかもしれない」とも言っていた。
そんな時代にはフミは日本へ帰ろうとは思わなかった。
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若いときはそんなに帰りたいと思わなんだ。またみなに世話かけんといかんしな。だから、どんな
面下げて帰ろうか(と悩んで帰国は考えない)。
中国人と結婚したことが日本人にどう見られてしまうか。そんなことはフミが誰よりも知
っていたし、恐れていたことだろう。帰りたいと思わないのは、それが一つの大きな原因で
あったと言えよう。「当時の制度では中国残留婦人が永住帰国するのは無理だったしな」と
横から原氏がその理由について補足した。
だが文化大革命という政治運動によって、祖国日本への思いが蘇り、深められ、そして日
本へ帰ることを決意した。
あの文化大革命がなかったら、私は帰らなかっただろうし。あんまりひどかったって。こう、自分
も、やっぱ祖国ってちゅう。どうちゅうかなぁ。愛国心ってちゅうか。自分にも祖国があるってち
ゅうという気持ちになってきてね。こんな肩身の狭い思いをして、こんなあほらしい思いしたら、
やっぱ帰ろうっていう気持ちになって、それで決心した。
それまでは帰らない(と思っていた)。(帰りたくて)たまらないっていう気持ちがなかった。
文化大革命のときでも、フミは同じ体験を持つ日本人と集まって、日本を懐かしんだり、
日本のことを話したりしていた。
日本を思い出さないことはないんですね。吉林市にちらばって、中国の人と一緒になってね。暮ら
してる(日本)人がいたんですわ。その人らと。お国ってどこ、私は北海道よ、私は九州よっていう
ってね。遠い遠いところでも、日本人だということで、それだけで親しくなってね。
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それで、4〜5人のグループが集まって、それでその頃、日本人が集まるなんて、公安局が目を光
らせて。監視してたんでね。それでも、内緒で集まっては、こちょこちょと話してね。それで1人
の人が歌を歌いだすね、「花摘む丘に日が落ちてゆくと〜」。それでみな、ウォウォ〜と泣き出し
てね。そんなことがあった。
互いに励む。帰りたいと思わなかったけどな。懐かしくてね。
(文化大革命のとき)日本人はちょっとでもなんかしたら、反革命分子と言われるからね。それでも、
日本人が集まって、日本を懐かしがったりした。
吉林市居住の中国残留日本人が何人いたかは定かでないが、フミのグループではいつも集
まるのは5〜6人だった。このようなグループは、ほかにもいくつかあり、日本に帰ってき
てからも互いに連絡しあっているという。
わしらのグループでは5〜6人でしたけどね。それでも、あっちこっちに、だいぶいた。
こう べ
今でも付き合いをしている。文通している。山梨に帰ったのは4人、北海道にもいはるし。神戸にも
2〜3人いはる。
みな年とって。脳梗塞になってしまって。脳梗塞になってしまうと、話が合わなくなってしまって。
みな、80歳越え。一番若い人は私より7つ下で。山梨にいる。いっぺん会いたい。
<筆者:日本に帰ってきてからは、会ったことは?>
あったことがある。2〜3回。
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おわりに
日本は、フミの生まれ育った祖国でありながら、フミに冷たくもあった祖国であった。満
洲は、あこがれの地であったが、実際はうらぎりの連続であった。中国は、定住の地だと思
ったこともあったが、それも夢のごとく消えていった。
フミにとっての祖国/国家とは、何だったのだろうか。それはおそらく常に不安定な存在
であったと言えよう。祖国が、すなわち安住の地を意味するものではない。それが次の語り
にも表れている。
祖国だけど。私たち(残留婦人)は言葉が通じるから、まだましだけど。あの子ら(残留孤児)は祖国
だけど異国だね。
不安定な状況の中で支えとなったのは、家族であった。しかしフミの家族は、「あの戦争」
に奪われてしまった。「主人を返してください、子どもを返してください」という役所での
フミの叫びは悲しく響くばかりだ。
その空しさを埋めてくれたのは次郎一家の存在であった。
現在も、
次郎一家の存在がフミの支えとなっている。
旧正月を一緒に祝ったりもするという。
フミは、
今日の幸せを噛み締めながらも、
亡くなっていった多くの人の存在をも忘れない。
自分を助け支えてきた人々への感謝をも忘れない。聞き取りの中では、そのことがくり返し
語られた。最後に、「裁判に勝ててよかった」「生きててよかった」と、さまざまな困難を
乗り越えてきたフミは、自分の歩んできた道をこのように結んだ。
ここで、フミの話に別れを告げよう。これからも続いていくその「自分史」に幸多かれと
祈る。
‑ 139 ‑
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
日本・満洲・中国という三つの国や大正・昭和・平成という三つの時代を生きた渡辺フミさんのライフ
ストーリーは、彼女自身が生きてきた生活世界を表しているのみならず、それぞれの場所と時代の歴史を
も象徴しているように思う。言い換えれば、フミさんは時代の生き証人でもあるのだ。
現在では考えられない女中奉公や国策としての「満洲農業移民」送出、戦後忘れされた中国残留日本人
の存在……。フミさんの語りからそれらを垣間みることができる。もちろん、フミさんが生きてきた空間
をさらに細分化していくと、敗戦直後の中国での混乱期や中華人民共和国なども一つの時代として数えら
たいりくはなよめ
(満蒙開拓団のもとに嫁い
れるだろう。また、フミさんから出なかった言葉だが、フミさんは「大陸花嫁」
だ日本人女性のこと。当時、配偶者として入植する女性に対して必要な指導・訓練を行うため、府県に女
子拓殖訓練所が設置され、満州にも開拓女塾が設置されていた)としての側面を持っていることも注目す
べきである。そういう意味から言えば、フミさんのライフストーリーは、今後も問われていくのであろう。
聞き取り調査から3年以上の年月が過ぎた。
まとめるのに時間がかかってしまったことをお詫びしたい。
また、2回目の聞き取り調査を終えた後、
「もっと話したいことがあるから来てほしい」とフミさんから連
絡があり、
3度目の聞き取り調査をもおこなったが、
パソコンの故障でその録音データをなくしてしまい、
今回の編集に活かせなかったことを御詫びしたい。なお、手元のメモによれば、3度目の聞き取りでは、
残留婦人と残留孤児との間の政府対応の差異について語られており、それを正してほしいとフミさんは強
く訴えていた。その訴えは、第3集に掲載された上村品子さんの「置き去りにしないで」という思いに通
じている。
自分史を朗読する時を除いて、フミさんは自分の歩みを京都弁でテンポよく語ってくれた。そのフミさ
んの語り口も含め、うまく編集できているとは言いがたい。それは、この聞き書きを編集した私の責であ
ることをお断りしておきたい。
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最後に、高齢かつ低血圧ですぐに眠くなってしまうにもかかわらず、長時間にわたって私の聞き取りに
付き合ってくださったフミさん、そして新聞記事等の資料提供やいろいろな助言を下さった原さんに感謝
を申し上げたい。
「ここを自分のおばあちゃんのうちだと思って、いつでも遊びにいらっしゃい」と何度も
優しく声をかけてくれたフミさんの笑顔を思い浮かべながら。(みなみ まこと)
基本データ
聞き取り日:平成 17(2005)年2月1日、7日、16 日
聞き取り場所:渡辺フミ宅
初稿執筆日:平成 21(2009)年2月1日
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