8 戦争が私を強くした - 中国帰国者支援交流センター

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戦争が私を強くした
−田島サヨ子のライフヒストリー−
聞き書き:資料収集調査員 猪股 祐介
サヨ子近影
田島サヨ子(たじま さよこ)の略歴
よこはま
なか
やまもとちょう
大正 11(1922)年3月
神奈川県横浜市中区山元 町 に、7 人兄弟の長女として生まれる
昭和 18(1943)年5月
黒河省璦琿(現在の黒 竜 江省)駐屯の関東軍 602 部隊配属の佐
こっ か
あいこん
こくりゅうこう
さ
とうまさ お
藤正雄のもとに嫁ぎ渡満
昭和 18(1943)年 10 月
出産のため一時帰国[用語集→]するも翌年 12 月再び渡満
正雄との間に2男をもうける(敗戦後の逃避行で死亡)
昭和 20(1945)年8月9日
ソ連参戦後、軍関係者とともに郊外の要塞に避難
昭和 20(1945)年8月 20 日
ソ連軍への投降により、サヨ子ら日本人妻はソ連軍のトラック
そん ご
しん
ちょうしゅん
で孫呉へ。そこから鉄道でハルピン、長 春 を経て、10 月末瀋
よう
陽 に到着
昭和 20(1945)年 11 月
中国人に騙され、瀋陽周辺の農村に売られるが、再び瀋陽に戻
る
ば
し せい
その後、国民党軍[用語集→国民党]の自動車部隊に所属する馬志成と結
婚
昭和 24(1949)年 10 月
ぶ しょう
中華人民共和国の成立にともない、志成の故郷武 昌 郊
外の農村に転居。志成との間には2男3女をもうける
昭和 49(1974)年4月
一時帰国
昭和 55(1980)年
単身永住帰国[用語集→]
昭和 60(1985)年
次男を皮切りに、長男、次女、長女の順で 4 人の子どもを呼び
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寄せる
現在
東京都内に次男家族と同居
はじめに
ちょうこう
武昌は 長 江[チベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ、東シナ海へと
よう す こう
注ぐ中華人民共和国で最長の川。下流部は揚子江と呼ばれる(外国では、長江全体の名前
かんすい
として誤用されることがある)
。]とその支流漢水がぶつかる交通の要衝である。唐代の詩
り はく
おうかくろう
しんがい
人李白が詠じた黄鶴楼で知られ、辛亥革命[明治 44(1911)年に中国で起こった、清朝を倒
ぶ しょう き ぎ
して中華民国を建国した革命]の口火を切った武 昌 起義[明治 44(1911)年 10 月 10 日に
中国の武昌で起きた兵士たちの反乱]によって、中国近代史にその名を刻む。その武昌郊
外の農村で、田島サヨ子は昭和 55(1980)年の永住帰国までの 30 年余を生きた。日本の敗
戦を「満洲国」とソ連の国境の町璦琿で迎えたサヨ子であったが、逃避行の末、武昌に辿
り着いたのであった。そこは瀋陽で結婚した夫、国民党軍兵士のふるさとであった。サヨ
こっきょうないせん
子のように、国 共 内戦[昭和2(1927)年の国共合作(中国国民党と中国共産党との政治提
携)解消後における、中華民国政府の率いる中国国民党軍と中国共産党軍との間で行われ
た内戦]で転戦を重ねる軍隊とともに中国各地に散り、集団引揚げ[用語集→]に加われず、農村
に取り残された日本人は少なくない。日本人はおろか、これまでの自分を知るひとが誰ひ
とりいない武昌で過ごした 30 年余を、サヨ子は次のように振り返る。
武昌の 30 年間はねー。ほんとにつらい、夢みたい、私はいつもね、私、劇の中で、劇の中でよく
主人公がさ、つらい思いをして暮らしているじゃない?私そんなふうに、私そんなふうに、私、も
しこれが劇だったらさ、早くこの劇でも終わればいいなあと思ったの。
日本社会が高度経済成長の繁栄を謳歌するかたわらで、サヨ子はいつ終わると知れない
悲劇の渦中にいた。中国農村特有の厳しい生活環境を背景に、絶望的な孤独と激しい望郷
の想いに苛まれていた。
1.敗戦前夜
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ソ満国境の町へ
昭和 18(1943)年 4 月、21 歳のサヨ子は、婚約者佐藤正雄が待つ、満洲国の北端の黒河省
璦琿に移り住んだ。そこはアムール川を隔ててソ連と対峙する国境の町であった。正雄は
父方の叔父の養子で、璦琿駐屯の関東軍 602 部隊配属の電気技師であった。当時「内地」
と呼ばれていた日本列島は、衣食をはじめ全ての日常必需品は、配給制となっていた。サ
ヨ子はそれまで、横浜伊勢佐木町の映画館をはしごして一日を過ごすなど、青春を謳歌し
ていた。それだけに戦時統制下の内地は、ひどく息苦しく感じられた。サヨ子にとって結
婚は、窮屈な内地からの脱出と映った。満洲に「大陸」という言葉が持つ自由な雰囲気を
期待していたという。彼女の満洲観をよく表す、次のようなエピソードがある。
何にも知らないであんた、満洲に行った人間が。私ね、満洲はじめて行ったときね、水着持ってい
ったのよ、海水浴の水着。そして笑われたの。
「なんだ、あんたそんなの持ってきてどこで泳ぐの?」
って。
(中略)こっちは 5 月になんなきゃ、氷が、凍った氷溶けないんだって。だから川の水なん
て 1 年中冷たいんだって、泳ぎなんてできないよって笑われたことがあるんだよね。そんな何も
知らないで行ったんだ。まったくほんと。みんなが大陸、大陸なんて憧れちゃ、とんでもないこと
しちゃった、私。
だいれん
ほし が うら
満洲と聞いて、絵葉書にある大連の星ヶ浦海水浴場の白い砂浜を、思い浮かべたのだろ
う。盲目的な「大陸への憧れ」は、満洲の現実を知らなかったことの裏返しでもある。璦
からふと
琿が樺太の南北境界線と同じ北緯 50 度に位置し、冬は連日零下 40 度を下回る酷寒の地で
あることを知ったのは、陸軍官舎での新婚生活が始まってからのことであった。
生いたち
はん べ え
か ね
サヨ子は大正 11(1922)年 3 月 16 日、神奈川県横浜市中区山元町に、田島伴兵衛と可禰の
あいだの長女として生まれている。兄弟は弟が 5 人、妹が 1 人であり、サヨ子が一番上の
子どもである。父伴兵衛は自動車会社フォードに勤めるかたわら、副業で果物屋を開いた
きたかたちょう
が、商才に恵まれず 1 年で店をたたみ、一家は同じ横浜市中区の北方 町 に移った。眼下に
海が迫り、潮風が家々の屋根を洗う港町であった。サヨ子は北方で高等小学校[用語集→]2 年を
183
やま て
終えたのち、山手の横浜女子商業学校に進学、卒業後1、2年は家事手伝いで過ごした。
ところで、父伴兵衛は佐藤家から田島家に入った養子であった。その伴兵衛の兄弟に子
どもができず養子をとったのが、夫となる佐藤正雄である。つまりサヨ子と正雄は、血の
つながらない親戚関係にある。そこで佐藤家の血筋をつなげる意味もあって、ふたりの縁
組が進められたのである。出征する正雄を日章旗と万歳三唱で見送ったとき、サヨ子はま
だ女学生であったというから、ふたりはかなり年が離れていた。それから幾年月かが過ぎ
るうちに、正雄は 3 年間の軍隊生活を終え、日本の電気技術関連の専門学校に通い、璦琿
配属の軍隊つきの技師となっていた。こうして将来の見通しがたったところで、サヨ子を
嫁に迎えたのであった。
分岐点
歴史の浅い「満洲国」では、技術者が慢性的に不足していた。電気技師の正雄もあちこ
ちの修理に駆りだされて家をあけることが多く、新婚生活といっても、ふたりで過ごす時
間はごく短いものであった。それでも結婚から半年も経つと、サヨ子は正雄の子を宿して
いた。慣れない異国で留守が多い夫のもとで出産するのは心細い。サヨ子は昭和 18(1943)
のりよし
年 10 月横浜の実家に一時帰って、翌年1月に男の子を出産、詔義と名付けた。その後も子
育てに専念するために実家に留まったが、詔義が 1 歳半になる頃には、横浜も米軍の B29
の空襲を受けるようになった。妻子の身を案じた正雄は出張がてら大阪まで迎えにきて、
妻子ともども再び満洲に渡った。日本の敗戦も間近に迫っていた昭和 19(1944)年 12 月末
のことであった。この二度目の渡満こそ人生の別れ道であったと、次のように振り返る。
もう少し行かなきゃ、私も行かなかったの。もう(1945 年)3 月になったら、もう船が通らなか
ったもんね。だからみんな私行くときに、近所にいたおばあさんなんかがさ、
「あんたどうしてそ
んな所に行くんだ」って、
「あんた行くんだったら、あんたひとり行きな。子ども置いて行きなさ
い」ってみんなにいわれたんだ。だけどその子連れて行っちゃって、置いていきゃあね、助かった
んだけどね。
周囲が強く反対するなか、サヨ子の母は「仮に戦災にあうとしても、夫婦親子がいっし
ょのほうがよい」と言って渡満を後押しした。またサヨ子自身も、ソ連参戦をまるで想像
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していなかったこともあり、内地よりも璦琿のほうが安全だと感じていた。ただここでも
う少し渡満を躊躇していれば、敗戦後の逃避行で詔義を死なせることも、また長年にわた
る「残留」もなかったのではないだろうか。サヨ子は敗戦後の「悲劇」に向かう分岐点と
して、二度目の渡満を振り返るのである。
2.敗戦後の混乱
ソ連参戦、そして要塞へ
満洲に珍しく秋雨が降り続いていた昭和 20(1945)年 8 月 9 日の夜半、ソ連軍はアムール
河を越えて対岸の璦琿に殺到した。当時サヨ子は怪我、詔義は肺炎で陸軍病院に入院して
いたが、璦琿の町には戒厳令がひかれ、全入院患者に退去命令が下された。病身の詔義の
手を引き、痛む足をかばいながら 1 時間余を歩いて官舎に戻ったときには、要塞に避難す
る荷造りに追われる住民が右往左往していた。サヨ子も正雄が寄こした当番兵の助けを借
りて、金品だけをトランク1つにまとめ、家具等の大きな荷物は官舎に置いて出ていった。
ソ連軍の戦闘機が落とす焼夷弾の火の粉が舞う璦琿を背に、サヨ子ら軍属家族を乗せたト
ラックは郊外の要塞に向け出発した。
要塞は璦琿郊外の山に横穴を掘って築城され、奥にはコンクリートで固められた弾薬庫
を備えていた。サヨ子らはトロッコでその弾薬庫に入り、そこにふとんを敷いて寝ること
になった。弾薬庫には備蓄されているはずの弾薬がなく、十分な広さはとれたものの、山
中だけに湿気がひどくこもり、子どもたちは次々と発熱や下痢に倒れた。詔義もまた腹を
下した。正雄は軍務の合間をぬって薬を持ってきてくれたが、快方に向かう気配はなく、
日に日に痩せ衰えていく一方であった。8 月 15 日の日本の無条件降伏の知らせは、暗い穴
倉に籠るサヨ子らのもとには届かなかった。そのかわりに次のような命令が下されたとい
う。
そしてもう 20 日頃になったかしら。あの司令官の命令で、
「子どもたちは、その弾薬庫に残して、
その弾薬庫を爆破する」っていうわけよ。それで女は兵隊さんたちといっしょに出て、玉砕[名誉
や忠義を重んじて、潔く死ぬこと。
]みたいにしよっていうあれがあったらしいのね。だけど奥さ
んたちはさ、みんな反対したの。子どもをね、そんなみじめなあんた、弾薬庫に入れたまんまさ、
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爆弾であんたあれしちゃうなんていやだって。どうせ死ぬんだったら、子どもをおんぶしてってい
って、反対してさ。それで私たち子供連れてさ、そこを脱け出したんですよね、弾薬庫をね。
子どもを弾薬庫で爆死させたうえで、兵士とその妻が一丸となって出撃し、玉砕せよと
いう軍の命令である。幸い女性たちの強い反対にあい、命令は実行に移されなかった。出
口が見えない穴倉生活に、軍隊も焦燥感に押し潰されていたことがうかがえる。
避難の始まり
ソ連軍への投降を境に状況は一変した。璦琿にいた民間人を含め、45 歳以下の男子は捕
虜としてシベリアに連行されることになった。正雄は別れ際に衰弱し切った詔義を引き取
ると言ってくれたが、正雄の負担になることをおそれて断った。実はそのときサヨ子は 2
人目を妊娠し身重であったが、正雄の身が案ぜられた。サヨ子ら軍属[旧陸海軍の文官、
雇員など、軍人以外の軍隊に所属する者]家族は、ソ連軍に武器・弾薬とともに要塞を明
け渡した引き換えに、ソ連軍が手配したトラックで避難することになった。
だがソ連軍の後ろ盾を得てすんなりと避難できたわけではなかった。日ソ両軍が戦火を
交えた激戦地に差し掛かったとき、報復に燃えるソ連軍に行く手を阻まれた。これまで運
んできた金品すべてを略奪され、着のみ着のままとなった。そこで孫呉の陸軍官舎で 20 日
間ほど列車を待ち、避難してきた北満の開拓団[用語集→満蒙開拓団]とともに、ハルピンに南下するこ
とにした。ハルピンには 9 月の末頃に到着した。駅から遠く離れた収容所まで歩き、そこ
ともよし
で半月ほどを過ごした。ハルピンに向かう車中で男の子を出産し、正雄との約束通り、萌義
と名付けた。サヨ子は幼子 2 人を連れての収容所生活を、次のように振り返る。
そしたらね、そこにはもう、避難者がもういっぱいいてさ。それで運動場にね、14、5 歳かな、男
の子がぐるーと座っているのよ。それは日本から勤労奉仕に連れて来られた学生たちで。その団長
が逃げちゃったとかっていうわけ。それで自分たち食べる糧がないでしょ。だもんだから、もう痩
せちゃって、もうね。三角の(形の)ままになってさ、きょとーんとして座っているんだもん。も
うあの人たちも、私あの人たち見たら、あの人たち幾日もなく飢え死にしちゃうだろうと思ってさ。
でもさ、自分たちだって助ける力もないし、随分哀れなありさまだったわ。そして私も自分の子ど
もはもう、今日明日っていう命みたいにさ、自分では歩く力もなくさ、ただ泣くだけで。
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ここで注目すべきは、サヨ子が勤労奉仕隊に注ぐ視線である。そこからは 2 つのことが
読み取れる。
1 つは勤労奉仕の子どもから自分の子どもへと転じていく視線にこめられた、
幼い者たちへの憐れみや愛情である。もう 1 つはサヨ子が勤労奉仕隊を観察できる立場に
あったこと、すなわち彼らより安全な立場にあったことである。開拓団の手記などに、避
難民のなかでも軍属家族が優遇されていたことが記されている。このことを裏付ける証言
といえる。
長男詔義の死
ハルピンから長春へ、サヨ子らは南下を続けた。彼女らを乗せた無蓋貨車に、北満の厳
しい寒さと中国人・ソ連軍による略奪が容赦なく襲いかかる。
息絶えそうな子どもにかけられた毛布でさえも奪い取られ、
雪まじりの寒風が車内を洗う。ここまでどうにか連れて歩い
てきた詔義も、静かに息を引き取った。ちょうど長春に着き、
降車の支度をしていたときのできごとであった。サヨ子はこ
う語る。
私は子ども 2 人でしょ、生まれた子ども、それから病気のもう死
にそうな子でしょ。どうして降りようかしらなんて思っていたら、
みんな降りちゃった後、私、上のほうから詔義って子をさ、隅に
座らせて、生まれた子もいるし、どうして、リュックサックもあ
るしどうしようかなんて考えていて。そのうちにね、この子のね、
詔ちゃんの様子がおかしいの。こうして頭、下に下げたまんまで、
それで私ね、
「詔ちゃんどうした?」っていったら、何にもいわ
ないの。それで私急いで水筒を持って、水道の水を口移しに移し
たけど、もう口からたらたら垂れて、そして涙ぽろーとこぼして、
そのまま死んじゃったわけ。
瀕死のわが子に水を飲ませようと必死なサヨ子を、気に留
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めるものは誰ひとりいない。避難民は我先に汽車を降り、無言のまま収容所までの行進に
加わっていく。サヨ子にしてもわが子の死を悼む余裕などない。朝鮮人と思しき 2 人の兵
士に助けられながら、冷たくなった詔義と生まれたばかりの萌義を背負い、収容所までの
道のりを丸 1 日歩き続けた。
長春の収容所では、防寒着など身のまわりのものを売り払いながらなんとか食いつない
だ。サヨ子ら軍属家族には、敗戦時に月給の 3 ヶ月分が支払われていたが、それも相次ぐ
略奪と急激なインフレで底をつきつつあった。さらに僅かに手元にあったお金も、瀋陽行
まんてつ
きの切符を手配するという男に騙し取られてしまった。満鉄[用語集→]の官舎に物乞いに行くこ
ともしばしばであった。サヨ子らと満鉄[用語集→]職員がまるで異なる立場に置かれたように、
また軍属家族と開拓団では異なる扱いを受けたように、一口に敗戦国民といっても、その
内部にはさまざまな差異が錯綜していた。
瀋陽の収容所にて
瀋陽に向かう避難列車に乗ったのは、10 月末のことであった。瀋陽では明治製菓の倉庫
に収容されたが、ここでも 1 階は開拓団、2 階は軍属家族と扱いに差があった。ただ夜の
闇に紛れて女を物色するソ連兵にとっては、1 階と 2 階の区別はなかった。ソ連兵の懐中
電灯に、顔でもあげて照らし出されようものなら、有無を言わさず連れて行かれた。そし
て二度と帰ってくることはなかった。
収容された階の違いは、疫病の蔓延について大きな意味を持った。もちろん 2 階でも疫
病は猛威をふるい、多くの子どもが命を落とした。サヨ子も萌義を栄養失調で亡くし、自
身もまた生死の淵にあった。だが歩けるまでに回復した彼女が見た階下の光景は、より痛
ましいものであった。サヨ子は次のように振り返る。
それで私たち 2 階でしょ、下に降りたときはもう、下の人はあらかた死んでた。で、生きている
人は、それこそ、それこそ骸骨。ぽかーんとした目で真ん中座っているのね、その人たちも幾日も
なく死んじゃうんだろうけどさ。死人、死んだ人を始末する人もいないのよ、人が足りなくてね。
北緯 40 度と南満に位置する瀋陽でも、厳冬には零下 30 度まで下がる。暖房器具はおろ
か、毛布 1 枚ないコンクリート敷きの倉庫にあって、地面の寒さが直接伝わる 1 階がより
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厳しい環境であったことは明らかであった。
名も知れぬ農村へ売られて
こうした避難民の惨状に、海外の赤十字社から援助の手が差し伸べられた。だが、開拓
団の団長を騙る男に持ち逃げされ、以後一切の寄付が受けられなくなってしまった。この
まま何もしなければ犬死するしかない。サヨ子は生き延びたいという一心から、中国人に
仕事の斡旋を頼んだ。当時収容所の周りには、日本語を巧みに操り、日本人に仕事を斡旋
する中国人が集まっていた。そのなかには日本人の弱みにつけこみ、奴隷として売り飛ば
す悪徳業者が多く混じっていた。サヨ子が声をかけた中国人は、運悪く悪徳業者の1人で
あった。
サヨ子は倉庫でいっしょだった開拓団の 17、8 歳の女性とともに、まず瀋陽の郊外の葬
儀屋に連れて行かれた。翌朝これから職場に行くだけと言われ、馬車に乗せられた。馬車
にはふとんがかぶせられ、外の様子を窺うことはできない。結局朝から晩まで 1 日馬車に
揺られて降ろされたところは、瀋陽から遠く離れた、名前も分からない農村であった。そ
り
れでも最初のうちは開拓団の女性といっしょに、李夫妻の家で簡単な家事を手伝うだけだ
ったので、こんな楽な女中があるのかとうれしく感じていた。まさか自分が売られたなど
とは、思いもよらぬことであった。
だが 1 週間が経ち、サヨ子だけがほかの家に移されると状況は一変した。業者が言うに
は、病床に臥せる奥さんのかわりに子守りをしてほしいとのことであったが、その奥さん
の姿が一向に見当たらない。そのうえ男が一切の家事を片付けてしまい、女中が必要そう
にも見えない。何かおかしい。やがてその疑念は確信に変わる。ある日、自分の置かれて
いる立場を思い知らされる、次のような事件が起きる。
そうしたらもう、
そうね、幾日か経ったら相手の様子がおかしいのね。
私もおかしいとかいったら、
男のほうがほら、夜こうちょっと行動がおかしいの。で、私におかしいなあ思って。で、私、夜さ
あ、私、はさみを枕の下にいれて寝ていたのよ。そうしたらあんたさ、それが見付かっちゃってさ。
叩かれたり蹴られたりさ、もう叩かれたら往復ビンタよ。そして叩くときはコーリャンってあるで
しょ?コーリャンのあれを束にして叩くのよね。蹴られたら向こうのほうに跳ぶような大きな男で
さ。年ももうとっていたのよ、幾つくらいかねえ。
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ウエイシェヌ
まだ事情をのみこめていないサヨ子に、男は 1 枚の紙片を示した。紙片にはただ「 為 什
マ ヤン
么養?[「何の為に養っている?」という意味)
]との殴り書き、それを見てようやく妾と
して売られたことを悟ったのである。すぐに「自分は騙された、瀋陽に戻してくれ」と懇
願しても、男はブローカーに大金を支払ってあるとの一点張りでらちがあかない。ブロー
カーをつかまえて必死に訴えても、話を聞いてもらえるどころか、男の妾にならなければ、
厚い氷の覆う川に投げ込んで凍死させるか、売春宿に売り飛ばすかだ、と脅される始末で
あった。とにかく瀋陽に戻ろうと奔走している間にも、男は執拗に関係を迫り、拒むと力
任せに殴りつけられた。この生き地獄から助け出してくれたのは、近隣住民の善意であっ
た。隣人は毎晩集落中に響きわたる激しい物音に、サヨ子の身を案じ、公安局[用語集→]に通報
してくれたのである。公安局は男からサヨ子を引き離して、拘置所に保護した。
公安局には次々と、サヨ子と同じような境遇の日本人女性が集められた。その数は 20 人
ほどになっていた。途中までいっしょだった、あの開拓団の女性もいた。彼女は血が乾か
ない病を患い、唇からは血が流れ続けていて、彼女もまた過酷な体験を重ねてきたことが
窺われた。ただサヨ子らは保護されたとはいえ、あくまでも敗戦国民であり、厳しい監視
下に置かれた。たとえば日本人が集まった気安さから、うっかり日本の歌を口ずさもうも
のなら、定規のような板で手のひらを 3 回叩かれる刑罰が課された。また別の日には「中
国に対する感想文」を書くように強要された。なかなか書き手がでないなか、サヨ子は原
稿用紙 3 枚に日本語でこう書き綴った。
それでね、私、中国と日本は同じアジアのひとで、日本人はね、日本の国民は誰も戦争を望んでい
るひとは 1 人もいなかったんだって。だけどこの日本の軍国主義で侵略しちゃって、みんな大騒
ぎだけど、侵略って、私たちあの頃騙されていったから侵略なのかは知らないって。ま、満洲国が
広くて、土地が広くて人が少ないからって、それで開拓団を募集したりなんかしているんだからと
思っていたからっていったの。私たちはだから日本には中国には何の恨みもないし、日本の、日本
人としては私たちは永久の平和を望んでいるからって。これからは本当に日本とあれは中国仲良く
暮らせるようにっていう、私はだいたいそういう文を、私 3 枚書いたわ。
この感想文からは、日本軍国主義が侵略戦争を起こし、庶民は「騙されていた」という
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戦争観がうかがえる。それは中国共産党の戦争観とも重なるものであった。
馬志成との結婚
公安局に保護されてから2ヶ月ほどが経ち、サヨ子ら日本人女性は瀋陽に送り返された。
途中、瀋陽駅に日本へ引揚げる避難民の長い列ができているのに出くわした。そのなかの
1人からこれが引揚げの最後の機会であること、次の輸送はないことを教えられた。だが、
サヨ子らを乗せた馬車は収容所に向かっていて、どうすることもできなかった。収容所で
は1日1回コーリャンのおかゆが支給されたが、引揚げが終わった収容所はならず者の吹
き溜まりでしかなく、瀋陽に戻っても先行きは暗澹たるものがあった。サヨ子は当時をこ
う振り返る。
それから昔満洲ゴロっていっている、満洲でちょっとずるいこととかしていたひとがお金持ってい
て、そのお金持って帰れないで、使い果たすためにあそこにいたらしくて。そこで女漁りかなんか
していたんでしょ。
(中略)で、いっしょに日本に帰るために結婚してから、日本に帰って別れた
ら、別れてもいいからなんて、そういうひとばっかしだわね。私もう、もう折角あれで戻っても、
日本にも帰れないし。これから先どうしようかと思ったの。それでもあれだ、もう一目生きて帰れ
ばと思って。私うちの玄関1歩でもまたいで死んじゃったら、それで満足だと思っていたから。
農村に売られていた間に集団引揚げの機会を逃したことで、サヨ子の「残留」は決定的
となった。このタイミングのずれが、引揚げと「残留」を分け、その後の人生を大きく左
右した、もう一つの分岐点となった。また団ごとにまとまっていた開拓団と比べれば、サ
ヨ子ら農村に売られた女性は、日本人会等の支援や正確な引揚げ情報を受けられず、
「残留」
を余儀なくされたといえる。当分日本に引揚げられないとすれば、
「満洲ゴロ」の日本人よ
りもまじめな中国人を選ぶほうが、より堅実な選択であると考えたのだろう。サヨ子は足
繁く収容所に通う中国人のなかでも、特にまじめと評判だった、馬志成の求婚を受けるこ
とにした。当時国民党軍の自動車部隊に所属していた志成だったが、国共内戦が共産党軍
の勝利で終わると、サヨ子を連れて実家のある武昌郊外の農村に戻ることになった。
3.武昌での 30 年
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農村での社会主義労働
横浜で生まれ育ったサヨ子には、中国での農村生活は慣れないことの連続であった。田
植えや収穫など農作業自体どれもはじめての経験であった。それ以上に馴染めなかったの
は、人民公社[用語集→]のもと、集団で働き、利益はすべて政府に納めるという、社会主義式の
労働であったという。農村で働き始めた頃のことを次のように振り返る。
そう人民公社で、いっしょに出ていっしょに働いて、それで糧食は働いた分だけもらえるっていう
わけね。
で、
働かないものはぜんぜんくれないのね。
それで家のものの食べるものは全部とられて、
政府で持って行っちゃうわけ。そうするとうちに一つも残していないの。そうすると今度はあれだ
わね、厳しくてさ、食堂もみんなでいっしょの食堂。働くところはみんなといっしょ。で、私なん
かも慣れないけども、まあしょうがない、見よう見真似でしばらくはさ、やったんだけど。私はど
うしてもかつぐことができないのよ。向こうの人は平気でかついで歩くなんだけど。私水汲むにも
かつげないくらいでしょ。
農業経験のないサヨ子が、周囲の中国人農民と比べて、農業技術で数段劣っていたこと
は容易に想像できる。
「水汲み」という基本的な作業でさえ、経験や日中の文化的な違いが
あってままならない。だが、人民公社では、ほかの農民と同じ条件で働かなければ、日々
の糧を得られない。夫の志成は武昌で料理人をしていて留守であっただけに、その辛苦は
言葉では言い表せないほどのものであった。
ジィゴォンユァヌ
そのことは人民公社で人びとの労働を記録する「記 工 員 」になってからも変わらなか
った。不慣れな農作業から解放されたものの、かわりに待っていたのは、朝早くから夜中
12 時過ぎまで、人民公社に勤める 1 人ひとりの労働量を計算する重労働であった。さらに
計算ができない会計に代わり、食糧分配の計算まで任されることになった。来る日も来る
日も膨大な量の計算に追われ、月日だけが空しく過ぎていく。そんななかでも、どうにか
挫けないでいられたのは、日本に帰りたいという強い想いがあったからという。
だからそれ(会計の手伝い)が何十件、私随分忙しい思いをしたけどさ、ま、私頭使ったわよ。で
もそれ私十何年ってやったもんね、向こうで。それですごい働いたよ。でもそれでも日本に帰るこ
192
とだけは忘れないでさ。いつも東の空を見ちゃさ、東に、日本はあっちだなあと思ってさ、私鳥だ
ったら飛んで帰るのにっていつも思っていたわね。それで日本語は使えないし、誰も日本人いない
もん、私一人っきりだもん、それでもうあれしていたんだけども。随分辛い思いした農村でも。慣
れないこともやったし、2人分、3 人分くらい私一人で働いたもんね。
「鳥になって日本に帰りたい」という想いを分かち合える日本人は、中国東北地区から
遠く離れた武昌郊外の農村にはいない。日々の記工員の激務と胸にある想いを口にできな
い孤独感とが重なり合い、敗戦後の逃避行に続き、武昌の農村生活も「随分辛い思いした」
と思い出されるのである。
日本人への差別
さらに追い討ちをかけたのが、日本人ゆえに浴びせられる冷たい視線である。村の人び
とは親切にしてくれたが、たまに視察にくる党幹部はまるで違った。日本人が記工員とい
うデスクワークについてさぼっていると非難し、そのたびに野外での農作業を課した。ま
ルィベヌグォイ ズ
[用語集→]
と罵られたり、大切な文房具を隠さ
た志成とのあいだに生まれた長男は「日本 鬼 子」
れたりと随分いじめられたようである。長男が幼かった頃のことを、次のように振り返る。
それで、でも上の息子は(中略)
、おれのこといってもいいけど、お母さんのことはいうなってい
っていたのね。そういうふうにして、そんな生活がずうーと続いたのね。学校に行っても、やっぱ
りいじめられて、頭がいいんだけどさ。随分頭がいい子だったんだけど、貧乏で(上の)学校にも
行かせられなかったしね。みんなあんた、上の学校に行かなかったもんね、子どもがかわいそうに
ね。哀れなもんだ。
ここからはサヨ子が日本人であったゆえにいじめられ、貧乏であったゆえに満足な教育
を受けさせられなかった、長男への深い愛情が窺える。日本人である母親をかばってくれ
た子どもらを、サヨ子は日本への永住帰国とともに呼び寄せた。文革[用語集→文化大革命]が終わった
1970 年代後半頃から、日本人に対する風当たりも徐々に和らいだ。サヨ子は日本語教師と
して中学校の教壇に立つこともあった。いまも武昌に里帰り[用語集→]すると、そのときの生徒
に挨拶されるという。
193
4.そして祖国へ
家族との再会
横浜区役所に出した1通の手紙が、それまで想うだけだった日本への帰国を現実のもの
にした。日中国交正常化[用語集→日中国交回復]の翌年である昭和 48(1973)年、サヨ子は渡満前の実家
の住所や家族のこと等を事細かく書き綴った手紙を投函した。日本を離れて 30 年近くが流
れていても、サヨ子の記憶は色褪せることはなかった。そして手紙を書いてからさらに 30
年余が経ったいまでも、その内容は細部をともなって次のように語られる。
それから市役所に、横浜の市役所、その日本にいた当時の状況を全部書いたの。上の弟はどこどこ
にっぽんゆうせん
にいて、2番目の弟は日本郵船、日本郵船の商船学校卒業して、それで第 1 回の航海はインド洋
で爆沈されて、7 人だけ生き残った、そのなかのひとりなの、うちの2番目の弟は。だからそうい
う状況、それと私はその弟を送ったとき、まだ日本にいたの。で、私電報を打ったことがあるの、
弟が出港するときに、もう手紙間に合わないから電報を打ったんだ、その電報の文句も私ちゃんと
覚えているんだ。
「タイヘイヨウヲオヨギヌケ」って私電報を打ったのね、勢いをつけるためにね、
そういう電報打ったの、私覚えているの。
日本海軍が制海権を失っていた戦争末期、明日の命をも知れぬ遠洋航海にでる弟に送ら
れた1本の電報。それは 30 年の時間を越えて、今度はサヨ子の生存証明として、再び弟の
もとに届けられた。それにしても「タイヘイヨウヲオヨギヌケ」と電報を打ったサヨ子が、
東シナ海という内海すら渡れなかったというのは、何という皮肉だろうか。九死に一生を
得てインド洋から帰還した弟は、三重で造船業に携わっていた。横浜周辺に住む兄弟と連
絡をとりながら、サヨ子の戸籍の復活などの一連の作業を進めた。兄弟は彼女の一時帰国
ほんこん
を全面的にサポートした。サヨ子が香港で飛行機代がなく立ち往生していると聞けば、す
ぐに領事館を通じてお金が届けられたという。
こうした家族の献身的な援助もあって、昭和 49(1974)年4月サヨ子の一時帰国がついに
はね だ
実現した。羽田空港には、彼女が生きていることをひとり信じて疑わなかった母の姿があ
った。母はサヨ子と瀋陽でいっしょだった男性を探し当て、何度も港に足を運んでは、ひ
194
たすら娘の帰国を待ち続けた。そんな母のようすは、次のようなものだったと聞かされて
いる。
で、私が生きているという望みっていうのはね、私の母親が一所懸命調べて、満洲から帰った男の
人をひとり、きっとあの難民所にいっしょにいったんじゃないかなと思うんだけど。
で、私はどっかに売られちゃったっていう話なのね。で、母親は、私は必ず生きているって、どっ
かに生きているって。まぁどこ、で、あんたが売ったんじゃないの?って母親その人を随分責めた
みたいよ。だけど「ぼくそんな悪いことしない」ってね。
「だけどどっか自分で働きたい」って言
って、そういう様子を聞いたことがあるからっていうようなことも言っていた、母親はね。
だけど母親も何回も何回も引揚げのところ(港)へ迎えに行ったんだけども、まあ私が帰ってくる
姿はなくって、もうそれこそ、30 年も待ってあんた、はじめて私が手紙出したときはさ、もう何
っとも言葉が出なかったっていったもんね。
「そう?」っていったきり、もう何にも言葉出なかっ
たって。
日本の敗戦が迫っていた昭和 19(1944)年、産後も実家にとどまっていたサヨ子を、満洲
に戻るように説得したのは母であった。それは家族が一緒になったほうがいいという親心
からでた言葉ではあったが、
「もしもあのとき・・・」という後悔はいつまでも消えなかった
に違いない。夢枕にサヨ子が何度も立ち、
「お母さん私は生きているから。帰れるときにな
ったら帰るから」と必死に訴えていると、ことあるごとに話していたという。母はこの一
時帰国の翌年、静かに息を引き取った。たとえ束の間であっても、両親と帰国の喜びを分
かち合えたことは、サヨ子にとっていまも大きな慰めとなっている。
永住帰国、子どもの呼び寄せ
永住帰国は6年後の昭和 55(1980)年。神奈川県の妹の家に 1 年お世話になったあと、友
しながわ
ひがし ご たん だ
ご てんやま
人のつてを頼って品川区 東 五反田の御殿山のアパートに落ち着いた。病院の清掃のパート
で稼いだお金を、少しずつ貯金に回した。パートは時給 300 円、皆勤賞の賞金 3,000 円を
得るために休まず働いたが、月給はなかなか 10 万円に届かなかった。どうにかまとまった
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貯金ができた 5 年後の昭和 60(1985)年、かねてから来日を希望していた子どもを呼び寄せ
た。サヨ子には2男3女の5人の子どもがあったが、一番下の次男を皮切りに、次女、長
こう
男、長女と次々に呼び寄せた。三女は配偶者が共産党の幹部であり、武昌でも発展著しい江
か
夏区のマンションで暮らしている。武昌に里帰りしたときは、三女の夫の口利きで大抵の
無理は通ると冗談交じりに話してくれた。恵まれた境遇にある三女は、日本に遊びにきて
も、移住する気は全くないようである。
4人の子どもの永住帰国で一番大変だったことは、やはり言葉の壁であった。サヨ子自
身は武昌にいるときも、隠れて日本の歌を歌うなどして、日本語を忘れないようにしてい
た。このため、その気になればすぐに仕事に就くことができた。だが日本語ができないと
なれば、話は別である。最後に呼び寄せた長女は、日本語ができないため仕事がなく、日
本と中国を行き来しているような状況だという。しかも最近は不景気の煽りもあり、昔の
ように日本語ができなくとも仕事があった時代とは、すっかり様子が変わってしまった。
サヨ子はこうした事情を、来日後の長男家庭の事情に絡めて、次のように語る。
昔はさ、言葉できなくてもお掃除くらいだったらね、女の子だってみんな使ってくれたんだけども。
今はだめよ。やっぱり学校行っていなきゃ。学校行かなきゃ、日本語ちゃんと分れば使ってくれる
だろうけど。
(中略)
だから長男のほうはさ、みんな長男が自分で、自分が勉強できなかったら、子どもみんな大学上げ
ているでしょ、一所懸命働いて。女親も一所懸命働いているから、だけど。上の子もみんなあれだ。
だから自分の子どもも一所懸命学校へやろうと思って努力しているわけよ。
ここからは中国帰国者を取り巻く労働環境とともに、その適応戦略が窺える。自分が無
理して働いてでも、子どもらを大学に進学させて高学歴化させ、就職の可能性を少しでも
高める戦略である。またこうした日本の厳しい労働環境にも拘わらず、中国では来日を希
望する人が数え切れないほどいる。中国帰国者との結婚は日本移住の大きなチャンスの一
つであるため、専門のブローカーが多く存在する。サヨ子の話によれば、来日した配偶者
が態度を豹変させ、離婚に至るといったトラブルも少なくないようである。
長男、次男、次女はそれぞれ就職して生活も軌道に乗り、いまはもう心配するようなこ
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とはない。長男は中華人民共和国成立前の昭和 22(1947)年に生まれているため、日本人の
前夫の庶子扱いで日本籍を取得した。1男1女をもうけたが、2人とも大学を卒業して独
立し、それぞれの家庭をもっている。次女は中国人の夫とラーメン屋を経営している。そ
して次男も建設関連の会社に就職し、結婚後1男1女をもうけている。彼らに対して、サ
ヨ子の兄弟も自分の工場のアルバイトに雇ってくれるなど、何かと援助の手を差し伸べて
くれた。子どもの呼び寄せも大して苦にならなかったという。
生活保護について
現在サヨ子は次男の家に同居し、2人の孫に囲まれて静かな余生を送っている。永住帰
国後の苦労など、武昌での 30 年を思えばなかったようなものという。また永住帰国のとき
すでに 60 歳を超えていて年金に入れなかったものの、平成8(1996)年の年金法改正で月
22,000 円の年金が支給されるようになってだいぶ助かっている。こう語るサヨ子は、いま
の暮らしに概ね満足している。ただ一つの不満は、生活保護の受給資格が次男との同居を
理由に認められないことであった。次男の中国での起業が現実味を帯び、いまの暮らしが
いつまで続くか分からないだけに、切実であった。ただその不満も、平成 20(2008)年度よ
り新たな生活支援給付が行われるようになり、ようやく解消されることとなった。
おわりに
サヨ子は自分の子どもが通う小学校で、一度自分の経験を話したことがある。先生から
戦争の話をしてくれるように依頼を受けたとき、自分で話すのがためらわれた。それほど
に身を引き裂かれるようなつらい経験であった。先生とのやりとりをこう振り返る。
それから小学校にも一遍行ったの、その小学校ね。
「戦争のときの話してください」って。で、
「私、
先生ね、
話できないんです」
って、
「私ここに書いてきたのを読んでみんなに聞かせてくれません?」
っていったら、先生も読んで、
「自分も読み、読みきれない」って、
「お母さんが話してください」
って。私もあんた、泣きながら話したね、終戦のときの話ね。ほんと悲惨。もうほら話したってさ、
実際にその目にあった人じゃないとね、それが分からないんだけどね。でもよっぽど小説が上手な
人だったら分からんけども、ほんとよ。随分苦労したわ、でもよく生きてきたと思って。
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中国残留婦人[用語集→]から話を聞くたびに、必ず一度は「経験者でなければ分からない」と
いう趣旨の発言にあう。
「分からない」と思っていてなお、自分の経験を涙ながらに語って
くれていることを、しっかり受け止めているだろうか。あるいはその「分からない」こと
までも含めて、分かっているようなつもりになっていないだろうか。そんな私の手前勝手
な疑念を、サヨ子の力強い言葉の一つひとつが吹き飛ばす。この力強さこそが、彼女の人
生を何より雄弁に表している。
だけどほんと、戦争で私は強くなった。だからいつもね、いま末の弟がいつも、
「姉さんは強いね。
何にも負けないような、本当強い」っていうけど、
「そうよ」って。
「あんた強くなかったら、私今
まで生きてないよ」って、私いつもいうのよ。やっぱしね。努力と忍耐よね。
努力と忍耐。そう言い切るサヨ子に対して、武昌の 30 年や永住帰国後の生活の、幸や不
幸を問うのは空しいことである。敗戦後の逆境を強く生き抜いてきた、それでじゅうぶん
ではないか。
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
次男、孫2人と暮らす公団住宅のご自宅で、お話を聞かせてもらった。私がご連絡差し上げた時期が
年末年始の忙しい時期に重なってしまい、永住帰国までの 30 年を過ごした武昌への里帰りを済ませた
すぐ後に、無理にお時間を作ってもらい、ご自宅を訪ねた。それだけにお会いする前は正直不安であっ
た。しかし、いざお話が始まると、その淡々としながらも一本筋の通った口吻に引き込まれ、はじめの
不安などすぐに消えてしまった。お忙しいなか温かく迎えてくれた田島サヨ子さんに、まず深く感謝し
たい。
川を隔てた向こう岸はソ連という、中国東北地区の北の果ての璦琿から長江中流域の武昌へ、そして
日本へといくつもの語り尽くせない苦難を乗り越えられてきた 60 年。2 時間強のインタビューでは、ど
うしても後半、永住帰国後の部分は駆け足になってしまった。ただそうした瑕疵を補って余りあるほど
に、ご本人も「小説のようだ」と表現されているお話には、これまでの中国残留婦人像に収まり切らな
い、豊かな内容が含まれている。2つほど気づいた点を書かせてもらいたい。
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私たちは中国残留婦人と聞くと反射的に開拓団関係者を思い浮かべてしまう。しかし、この聞き書き
う
と
えい こ
集の第1集にも、
「満鉄警備隊の家の女中」
(宇都イネさん)や「満鉄の電話交換手」
(英子さん)として
渡満した人が含まれている。全体に占める割合は少ないかもしれないが、さまざまな経緯で渡満した人
がいたことを忘れてはならない。
今回お話をお聞きしたサヨ子さんは軍関係者だが、都市への避難についていえば、開拓団よりも恵ま
れていたことがうかがえた。特に瀋陽の倉庫で、1 階と 2 階いずれに収容されるかが生死を大きく分け
た話は、体験者ならではの細部にわたる描写が、説得力をもって迫ってくる。ただ、だからといってサ
ヨ子さんの敗戦経験がより楽であったわけではない。それは本文をお読み頂ければすぐに分かることで
あろう。開拓団が非力ゆえにまとまって行動したのとは対照的に、軍関係者は比較的恵まれていた。そ
れゆえに軍関係者に群がる人びとに騙され、サヨ子さんは名も知れぬ農村に売られてしまう。このこと
を思うたびに、一口に在満日本人の敗戦経験と言っても、そのなかにさまざまな裂け目があることを考
えさせられる。
そしてもう1つ印象深かったことは、サヨ子さんが横浜市役所に出した1通の手紙から始まった、一
時帰国までのいきさつである。彼女の語り口がこれほどまでに生き生きとしたものであるのは、自らが
日本人であることを証明するために、身が裂けるような思いに耐えながら、自らの生いたちから敗戦、
「残留」までを書き綴ってきたからである。それは「残留」の 30 年間を武昌という、周囲に同じ境遇
のひとがいない場所で生き抜いていただけに、より一層切実な作業であっただろう。
「戦争で強くなった」
サヨ子さんであっても、いやそれゆえに、永住帰国後もしばらくは戦争の話や武昌での話ができなかっ
たという。本文を通して、そうした彼女の思いが伝われば幸いである。
(いのまた ゆうすけ)
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