文学芸術報告 5月度

 けやき倶楽部 グループ学習活動記録 (207回) 文 学 ・芸 術グループ
日 時
平成26年(2014)5月24日(土) 午後1時30分∼4時30分
参加者氏名
10名
(以下敬称略)
活 動 内 容 ・ 読書会 サマセット・モーム作 『雨』 新潮文庫
世話人:山田 恂 記録:山田 恂
場 所 千葉大薬学部百周年記念館
担 当 下川 紘子
概 要
・ 共通のテクストは中野好夫による少々古い翻訳である。担当者の用意された資料(参考:行方昭夫・朱牟田
夏雄)にもとづき会はすすめらた。いろいろと指摘された中で注目すべきは、チェーホフとはちがった優れた
ストーリーテラーの面で、けっして予定調和ではない「北極までいき氷山から落ちる」式の物語構成と人間不
可知説にもとづく人間描写である。さらに加うるに時代を反映したキリスト教への懐疑とイギリス社会特有の階
級制度への目線があったとする指摘である。
合 評
・ (A)今回の『雨』の舞台は南洋諸島だが、雨期があり、雨に降り込められるという意味では東南アジアと一緒で
ある。船に乗り合わせた乗客のうち、マクフェイル博士はモームの分身のようで、皮肉な面はあるものの普通
の人間だ。その対極にいる宣教師デヴィッドソンは、物の味方が一方的で、伝統的なキリスト教にもとづく倫
理観を未開な島民におしつけ、島民のみならず娼婦のミス・トムソンにまでおしつける態度は偏執狂としか思
われない。結局娼婦の色香に惑わされ土壇場で唯の人間にもどりり破滅するが、モームならではの皮肉な人
間観が垣間見え、真人間の転ぶさまが描かれた傑作だ。周囲の誰もが驚くが「やっぱりそうか・・・」と思わせ
る人物の態度も印象的だ。如何に紳士ぶった態度をとっても、一皮むけば狼のような人間の本性が現われる
という例は、歴史的にも現代社会でも枚挙にいとまがない。その意味で伝統的な倫理観が崩れ、多様で自由
な生き方が生まれた時代に生きたモームの考え方が痛いほど伝わってくる。とめどなく降る『雨』は、偏狂な考
えをますます深めていく舞台装置で、密室劇のような効果がうかがえる。
・ (B)作家はよく、「人間の内なる毒」を暴きたいという。これは、モームに限らずすべての作家にとって人間存
在を問う普遍的テーマである。今の時代ひとびとの毒(悪)や欲望は、宗教や道徳の縛りから自由になって、
段々とむき出しになっている。それがまた、溢れる情報によって容赦なく暴かれる。人はそれを冷ややかな目
で見つめる。100年前に善の塊である宣教師が自らの毒によって破滅する様を描き人々をアッと言わせた
モームには、まだまだよき時代の素直さみたいなものが漂う。時代を経て人間は確実に劣化している。
・ (C)小説家の意識は作品に反映されるものだと思う。イギリスが七つの海に進出し、日の沈まぬ国となった
が、他の国の台頭、植民地の運動等を実感すれば、イギリスの未来は?と考えるのは当然。デイヴィットソン
夫妻は英国、ミス・トムソンは植民地と仮定すれば(メタファーとして)面白く読める。モームは自国のことを懐
疑的に見ていたのではないか。
・ (D)「雨」でモームは、極端な原理主義者の宣教師を登場させ、狂信的とも言えるキリスト教の教義へのこだ
わりのため、娼婦のミス・トムソンの切なる願いを聞き入れず、娼婦を教化しようと容赦のない説教を繰り返す。
しかし、女の魅力に抗しきれず終には一線を超えてしまった。そして最後には罪の意識にさいなまれ、自殺し
てしまう。ショッキングな結末であるが、モームは、宣教師を自殺させることにより、キリスト教の偽善的な思想
を、物語を通して批判しているのではないかと思います。
・ (E)モームはキリスト教に恨みがあるのか。このラストは予想できなかった。(記録者注記:川崎氏は、ミス・トム
ソンが修道院に身を沈める道を選択し、罪深き来し方を深く反省して神の恩寵を受けるであろうという予定調
和の結末を予想したそうです)
・ (F)自らが正義であり、上から目線で女性を追い詰める「宣教師」。小説上ではありうるだろうが、一神教の原
理主義者の行動に実感がわいてこない。自分の宗教観からは理解が出来ない事にこの『雨』で気づく。それ
とこの小説が1921年の作品であり、「モームの人間不可知論」のベースとなりうる過激な思想が19世紀末に
出現していた事実を思い浮かべた。「マルクス、フロイト、ニーチェ」−真理や理性の揺らぎを前提とする時代
がこの作品の少し前に始まっていた。これを大衆文学と言うか通俗小説と呼ぶか、その中で展開・提示して見
せた小説で、一皮下にはその世界が広がっているようにそれこそが時代の共感として読者に感じさせている
のではないか。
・ (G)長きに読み継がれている本の強みをまた実感しました。『雨』という題名はこの短編を語るに見事です。人
間の根底に潜む本性を滲み出させるかのように降りやまぬ南海の雨。時代背景を抜きにモームは読み解け
ないとしても、清濁併せ持つ人間性の奥深さ、それゆえ時折ひょっと顔を覗かせる問題は、いつの時代にも
変わらずに存在する。モーム自身が深い洞察力で人間を観察したことが充分窺がえるこの物語は、様々な危
うさと紙一重という事象を内包して続く現代の人間社会に対しても、忠告を与える。最後の場面に驚くことはも
う無いにしても。
・ (H)『雨』は悲劇なのか、喜劇なのか。一人の娼婦の救済にのめりこんだ末に肉欲の落とし穴に落ち込んで
自裁して果てる宣教師デイヴィッドソンの絶望を思う時、そしてまた一時は説得を受け入れ改心して再生の道
にすすむかと思えた娼婦トムソンの、再び人間不信に陥っていく哀れを思う時、やはりこの小説は悲劇仕立
てなのか。しかし人間を自在にもて遊んでいる存在はいったい何者か? この小説の主人公が”雨=神”だと
したら、ほんの少し多く降らせるだけでこんなにももろく理性が壊れていく。なんと人間とは滑稽な存在なのだ
ろう。やはり喜劇なのか。皮肉屋モームのニヤリとした横顔が見えるようだ。
・ (遠藤美紀子)人間の野生的本性や欲望と、人間の理性・知性・倫理観の対立構成が登場人物によって面
白く表現されている。宣教師とはいえ、無力な人間にすぎないのに、欲望に敗れ自滅する結末は、かって
モームを苦しめた偽善的な叔父(牧師)に対する皮肉な印象だと思う。
次回例会
・ 日 時:平成26年6月28日(土) 午後1時30分より4時30分まで
・ 内 容:読書会 飯間浩明著 『辞書を編む』 光文社新書 ・場 所: 千葉大薬学部百周年記念館
・担当者: 佐藤 昌男