願 研 平成五年十 二月 究 真 実 の 教︱ の 印度學佛教學研究第 四十 二巻第 一号 本 ︱ 親 鸞 は、 ﹁選 択 本 願 は浄 土 真 宗 な り﹂ と 言 わ れ て い る よ う 小 池 秀 章 真 実 の教 で あ る ﹃大 経 ﹄ の中 に、 浄 土 真 宗 が 説 かれ て い る の であ ると いう の であ る 。 わ け で あ る か ら 、 こ の 二 つ の関 係 は、 ﹃大 経 ﹄ が 能 詮 で、 浄 に、 本 願 の宗 教 の こと を浄 土真 宗 と呼 ん で い る。 そ し て、 そ の浄 土 真 宗 と は何 かと いう こ と を 明 ら か に し て い る の が 、 と な って いる の であ るが 、 総 標 綱 紀 で は、 浄 土 真 宗 U ﹃大 土 真 宗 が 所 詮 であ る。 故 に、 標 挙 で は、 ﹃大 経﹄ U浄 土 真 宗 経 ﹄ と な って い る。 これ は、 表 面 的 に は、 矛 盾 であ るが 、 如 ﹃教 行 信証 ﹄ な のであ る 。 故 に、 ﹃教 行 信証 ﹄ に よ って、 本 願 に つい て明 ら か に し て いき た いと 思 う 。 今 は、 そ の 中 、 ﹁教 ﹃大 経﹄ は、 釈 迦 の教 で あ り、 浄 土 真 宗 は、 弥陀 の 法 であ 何 な る理 由 から であ ろう か。 巻 ﹂ に よ って 、 ﹁真 実 の教 ﹂ に ついて 考 察 し て いく 。 ﹁教 巻 ﹂ を 見 る と 、 最 初 に ﹁大 無 量 寿 経 瀬捜戴撒﹂ と い う 標 挙 が あ る。 これ に よ ると 、 ﹃大 経 ﹄ を 、 真 実 の教 と 言 い、 そ れ によ る と、 浄 土真 宗 に は往 相 と 還 相 の 二種 の廻 向 が あ り、 証 。﹂ と、 浄 土真 宗 と は何 か と いう 大 綱 を 示 さ れ て い る。 こ 向 。 一者 往 相 、 二者 還 相 。 就 往 相 廻 向 。有 真 実 教 ・行 ・信 ・ 本 文 の冒 頭 ( 総標綱紀) で は、 ﹁謹 按 浄 土 真 宗 、 有 二 種 廻 陀 ( 標挙)と いう 方 向 にな るが 、 宗 教 的 真 実 か ら言 え ば 、 釈 け ば 、 釈 迦 が 弥 陀 に つい て 説 い た わけ であ る から 、 釈 迦 ← 弥 彼 土 に おけ る所 説 の救 主 であ る。 よ って、 歴 史 的 事 実 に基 づ であ る。 釈 迦 は、 此 土 に おけ る能 説 の教 主 であ り、 弥 陀 は、 る。 故 に、 こ こ で問 題 と な ってく る の は、 釈 迦 と 弥 陀 の関係 そ の往 相 廻向 の中 に 、 真 実 の教 ・行 ・信 ・証 が あ る と いう の た のであ る か ら、 弥 陀皿v 釈迦 ( 総標綱紀) と いう方 向 に な る が 勝 手 に 説 い た の で はな く 、 弥 陀 の願 い に応 じ て釈 迦 が 説 い こ に説 かれ て いる も のを、 浄 土真 宗 と 言 って いる 。 であ る 。 つま り、 真 実 の教 は、 弥 陀 か ら 私 へと 廻 向 さ れ る も 94 り、 こ の、 弥 陀 が 、 釈 迦 に弥 陀 法 (﹃ 大 経﹄) を 説 か せ た と い 向 す る こ と を 明 か し て い る の は、 宗 教 的 真 実 を 顕 す 為 で あ のであ る 。 総 標 綱紀 に お い て、 弥 陀 が 、 釈 迦 の教 を 衆 生 に廻 本 願 名 号 な のであ る。 故 に、 如 来 の本 願 が 経 の 宗 致 ( 要)で の絶 対 性 ・普 遍 性 が 窺 わ れ 、 そ の絶 対 普 遍 の救 い の法 こそ 、 る 。 救 い の対 象 ( 機)を 、 凡 小 ・群 萌 と し て いる 所 に、 救 い の救 い の法 と し て 、 本 願 名 号 を 施 す と いう こと にあ る のであ 目 次 と いう べき 標 列 が 続 く と いう こと も 考 慮 す れ ば 、 ﹃大 経﹄ に、 ﹃大 経 ﹄ を 挙げ た のであ ろ う か。 そ れ は、 標挙 の 後 に、 た も の であ ると 言 え る 。 で は、 何 故 、 標 挙 に第 17願 を 挙 げ ず で、 そ れ を 助 顕 す るも の であ り、 ㈲ は 五 徳瑞 相 の語 の解 釈 で 経 ﹄ の引 文 が 正顕 であ り、 ② ③ は、 内 容 的 に はω と ほぼ 同 一 ﹃如 来 会 ﹄ ③ ﹃平 等 覚 経﹄ ㈲ ﹃述 文 賛 ﹄ の四 文 であ る 。 ω ﹃大 教 であ る こと を 証 明 す る の であ るが 、 そ れ は、 ω ﹃大 経 ﹄ ② 次 に、 出 世 本 懐 に関 す る 引 文 に よ って、 ﹃大 経﹄ が 真 実 の 結 び と す る の であ る 。 あ り 、 仏 の名 号 が 経 の体 ( 本質) であ る と 、 経 の宗 体 を 示 し 、 う こと が 、 ﹃大 経 ﹄ が 真 実 な る 根拠 と な る のであ る 。 こ の、 ﹃大 経 ﹄ が 本 願 に酬 報 し て説 か れ たも ので あ る と い によ って 、 ﹃教 行 信証 ﹄ 全 体 を 包 括す る と いう 意 図 が あ った あ る 。 故 に、 ω の引 文 を 中 心 に考 察 し て いく 。 う こと を 、 願 文 の上 で窺 え ば 、 第 17 願 の ﹁春 嵯 称 ﹂ に酬 報 し こと に よる と 、 考 え ら れ る 。 つま り、 こ の 標 挙 は 、 ﹁教 巻 ﹂ ﹃大 経 ﹄ の引 文 で は、 阿 難 は、 釈 尊 の姿 が 、 い つも と 違 っ の標 挙 で あ る と 同 時 に、 ﹃教 行 信証 ﹄ 全 体 の標 挙 で も あ る の である。 て、 三世 の諸 仏 が 、 説 法 をす る 時 は、 仏 と 仏 と 相 念 じ て 法 を て、 よ ろ こび に満 ちあ ふれ 、 光 輝 いて いる の に気づ き 、 釈尊 説 か れ る と いう こと です が 、 今 の世 尊 も 、 諸 仏 を 念じ て おら 次 に、 真 実 の教 と は、 ﹃大無 量 寿経 ﹄ であ る と 規 定 し、 続 ( 凡夫) を 哀 れ ん で、 選 び ぬ いた功 徳 の宝 ( 名号) を 施 し て下 れ る ので し ょう と 、 釈 尊が 瑞 相 を 示 現 し て いる 理 由 を 質 問 し ・住導師行 ・住最勝道 .行如来徳)と し て表 現 し て い る 。 続 い さ った の であ る 。 釈 迦 は、 こ の世 に現 れ て、 仏 教 を広 め られ て いる 。 そ れ に対 し て 釈尊 は、 そ の問 い は大 変 よ い問 い であ の心 を 推 し 量 って 、 そ れ を、 五徳 の瑞 相 ( 住奇徳 法 .住仏所住 た の であ る が 、 群 萌 (ようつ の衆生) を 救 う 為 に、 真 実 の 利 いて 、 ﹃大 経﹄ の大 意 を 述 べ て い る。 こ れ に よ る と 、 ﹁弥 陀 ( 本 願)を 恵 もう と 思 われ た の であ る。﹂ と 言 う 。 つ ま り、 弥 ると よ ろ こび、 ﹁如 来 以無 蓋 大 悲 衿 哀 三界 。 所 以 出 興 於 世 、 は、 誓 いを 発 し て、 広 く 法 を 開 かれ た の であ る が 、 特 に 凡小 陀 の 願 い も 釈 迦 の願 い ( 出世本懐) も 、 根 本 的 には 同 一で あ 光 闡 道 教 、 欲 趣 群 萌 恵 以真 実 之 利 。﹂ と 、 釈 尊︱ の出 世 本 懐 を 池) り、 と も に、 す べ て の凡 夫 を 救 いた いと いう 願 い であ り、 そ 本 願 の研 究 ( 小 95 本 願 の研究 ( 小 池) 明 か す ので あ る 。 つま り 、 群 萌 を 救 う 為 に、 真 実 の利 (本願) を 恵 む こと、 具体 的 に は 、 ﹃大経 ﹄ を 説 く こと こそ 、 釈 尊 の 出 世 本 懐 な のであ る。 こ こ で 注 目す べき 点 は、 第 一に 釈 迦 の五徳 瑞 現 ( 仏仏相念) ま と め る と、 次 の様 にな る 。 真 実 の教と は 、 ﹃大 無 量 寿 経 ﹄ であ る 。 そ の 理 由 は、 釈 迦 の願 い に応 じ て 説 か れ た 経 ︹出 世 本懐 の経 ︺ であ る か ら であ り、 根源 的 には、 弥陀 の願 い に応 じ た も の ︹ 本 願 酬 報 ・他 力 弥陀 三昧) に 入 って い る こ と を 明 か す も のであ り 、 そ れ は、 第 一の、 五徳 瑞 現 の教 説 は、 釈 迦 が 大 寂 定 (11普等三昧 ロ 救 い を約 束 す るも のであ る か ら真 実 の教 な の であ る。 私 の救 と にあ り (救 いの普遍性 ・絶対性)、 そ れ は、 ま さ に こ の 私 の る。 内 容 的 に言 えば 、 弥 陀 の願 いは、 す べ て の 凡夫 を 救 う こ 姿 (五徳瑞 現 ・仏仏想念) を 通 し て 、 領 解 し て いか れ た の であ 廻向 の教 ︺ であ る か ら であ る。 親 鸞 は、 そ の こと を、 釈 迦 の 釈 迦 個 人 と し て ﹃大 経﹄ を 説 い て いる の で はな く 、 弥 陀 と 一 に つい て であ り、 第 二 に阿 難 の問 いに つ いて であ る 。 体 であ る 融 本 の応身 と し て 、 ﹃大 経 ﹄ を 説 いて いる こ と を 示 い を抜 き に、 真 実 の教 は語 れ な い のであ る。 最 後 に最 も 注 目す べき 点 は、 真 実 かど う かを 判 断 す る基 準 す も の であ る と 言 え る 。 こ こに、 釈 迦 の 願 い ( 出世本懐) に 応 じ て ﹃大 経﹄ を 説 いた と いう こと の根 源 に は、 弥 陀 の願 い 釈 迦 の願 いに かな って いる こと で あ り 、 更 に 言 え ば 、 そ れ 問 いであ ると よ ろ こ ん で いる と いう こと は、 阿 難 の問 いが 、 第 二 の、 釈 迦が 、 阿 難 の問 い に対 し 、 そ の問 い は大 変 よ い も 自 分 の判 断 によ って、 真 実 な る も のを 規定 し て いる ので は よる) 以外 、 真 実 を 知 る こと は でぎ な い ので あ る。 親 鸞 と 難 ら のは た らき によ って、 真 実 に頷 いて い く こ と ( 宗教 体験 に いと いう こと であ る。 何 が 真 実 か 判 断 でき な い私 は、 真 実 か は、 仏 ( 本願) にあ る のであ り、 私 ( 衆生) にあ る の で は な は、 阿 難 の問 いが 、 釈 迦 の願 い に よ って導 か れ た も ので あ る ( 本願)が あ る ことが 明 ら か と な る 。 と も 言 え る の であ る 。 釈 迦 の願 い は、 弥 陀 の願 い応 じ て 現 れ し て 、 経 典 (仏 の言葉) のみ を 引 用 し て いる の で あ り、 最 終 な い のであ る。 故 に ﹃大経 ﹄ が 真 実 の教 であ る と いう 証 明 と ︿キ ーワード﹀本願、教、﹁教巻﹂ 裏 に は、 深 い宗 教 体験 が あ った のであ る 。 ( 龍谷大学大学院) る 。 親 鸞 が 、 ﹃大 経 ﹄ こそ 真 実 の教 であ ると 言 い切 れ た そ の 的 に は、 そ の教 を 讃嘆 す る と いう こと 以 外 な か っ た の で あ たも の であ る から 、 阿 難 の問 いも 、 結 局 は弥陀 の願 い によ っ て引 き 起 こさ れ た も の であ る と 言 え る 。 引 文 の後 は、 ﹃大 経﹄ に説 かれ る本 願 名 号 の法 を 、 讃 嘆 し て結 ば れ て いる 。 以 上 、 ﹁教 巻 ﹂ に お いて 明 ら か にさ れ た真 実 の教 に つ い て 96
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