宝 雨 経 を め ぐ る 若 干 の考 察 (滋野 井) 井 悟 云何菩薩除遣悪作方便善巧、謂此菩薩見諸有情造無間罪、及起 一 宝 雨 経 を めぐ る 若 干 の考 察 滋 野 ﹁ 本経が何故に武周革命 の資助たりしかは今明文を閾く﹂ 切諸不善業、失 心憂悔菩薩往彼作如是言、善 男子、云何失 心憂悔 と し乍 らも、 同 経 巻 三 の菩 薩 の現 逆 を 説 く部 分、 す な わ ち 西 暦 六百 年 代 の末 に中 国 へ入 つた 訳経 家 達 摩 流 支 (菩提流 文 の如 き は特 に 武 后 の非 違 を弁 護 す る に頗 る切 実 の文 字 とす の文 を挙 げ、 次 い で、 懐 義 一派 のや り 口か ら推 し て ﹁右 の経 如蚊翼、是 名菩薩除 遣悪作便方善巧 洛迦退於利楽、爾時 菩薩為 彼有情演説妙法、令其悪業漸得 微、猶 彼人思惟、有智之者 尚殺 父母不失神通、況我無智而造此業、 堕捺 安楽、如是説 已、即便殺 所現父母、菩 薩於彼有情之前示現神 変、 同伴丈夫、汝莫悔過此所造 業、畢寛不堕捺洛迦中、亦不退 失利益 領受、菩薩又復於彼 人前化 作父母説如是言、汝可観之、我 即是汝 心歓喜信楽、 生信楽 已根性 成熟、菩 薩為彼広説妙法、彼 人即能順 心生信伏、為現神通広説彼 人思惟 之事、有情由是於菩薩所 生信伏 正法、令深悔過受菩薩戒、若 此有情未能悔過、是時菩薩欲令彼 人 無利益故、不安楽故、以是因縁失 心憂悔、是時菩薩為彼有情広説 而住、彼有情言、大士、我造無間諸不善業、恐於長夜受諸苦悩、 志) によ つ て、 長 寿 二年 (六九 三)に訳 出 さ れ た 経 典 の中 に宝 雨 経 十 巻 が 有 る。 仏 が止 蓋 菩 薩 に対 し て菩 薩 行 の 一々に つい て詳細 に 説 き 明 かす と いう 結 構 に な つて い る。 こ の宝 雨 経 に つ い て、 時 の政 情 と 関係 が有 る と考 え ら れ る要 素 が存 在 す る (1) こと を 矢 吹 慶 輝 博 士 が公 け に し てお られ る。 い ま、 氏 の所説 のお よ そ を 記 す に、 次 の如 く であ る。 先 ず、 則天武后時 代に ﹁金仙降旨、大雲之偶先彰、玉震披祥、宝雨之文 後及﹂﹁大雲 発其遽慶、宝雨兆其殊禎﹂ と言わ れてお り、武 后 の 革命 ( 武周革命) と宝雨経とに縁由有 ったも のと考えられ る。果 た せる かな、 大雲経を表進して革命翼賛に つとめた醇懐義 ・法明 の徒輩が宝雨経訳 出に参加している。 と いう こ とを 指 摘 し、 し こう し て、 -44- べし﹂ と述 べる な ど し て いる。 右 の次 第 によ つ て見 る に、 矢 吹 博 士 は、 こ の現 逆 が 武 后 に と つ て、 己が 非 を 弁 護 し てく れ る も のと し て喜 ば れ た も のと 逆 を詳 説 し た とも と れ な い ので あ る。 説 述 の 内 容 を も つ て も、 そ のこ とが言 え よう。 こ のよ う に見 てく る と、 ﹁現 逆 云 々﹂ と いう. こ と が、 宝 雨 の動 き を 見 る に、 非 常 手 段 と 錐 も、 見方 に よ つ ては容 認 さ れ 武 后 政 権 が 成 立 す る ま で の過 程 や、 革 命 以 後 にお け る種 々 ば、 よ り妥 当 性 が有 る と考 え ら れ る部 分 は ど こか と いう に、 の部 分 で はな か つた ろう か と推 測 さ れ る所 以 であ る。 し か ら な く な る のであ る。 革 命 に 関係 づ け ら れ る のは、 これ と は別 経 が 大 雲 経 と並 びも ては や さ れ る 理由 であ つた と は考 え ら れ る べき も の であ る と の説 を 経 文 中 に 存 す る と いう こと は、 武 そ れ は、 宝 雨 経 の初 め に在 る 所 の 月光 天 子 に 関 す る 一文 であ 解 した よ う で あ る。 后 一派 に と つ て都 合 のよ いも の であ る こ と は否 定 す べく も な る。 以 下 これ に つ いて述 べ てみ よ う。 先 に も若 干述 べた如 く、 法 雨 経 の 四訳 を 対 照 し て見 る に、 二 い。 しか し、 こう し た こ とが、 宝 雨経 が大 雲 経 と と も に 重 ん ぜら れ た 理由 と解 す る のは いさ さ か 不安 であ る。 に、 梁 ・曼 陀 羅 仙 訳 の宝 雲 経 七 巻 及 び曼 陀 羅 仙 ・僧 伽 婆 羅共 内 容 に異 同出 入 が有 る こ と は事 実 であ る。 しか し て、 そ の出 そ も そ も、 宝 雨 経 は い わ ゆ る単 訳 経 で は な く、 本 経 の 他 訳 の大 乗宝 雲 経 七巻、 宋 ・法護 の除 蓋 障 菩 薩 所 問経 二 十 巻 と と いう よう な 場合 と が有 る。 当 面 の問 題 にお い ては、 後 者 の いう よ う な場 合 と、 四本 中 三本 に無 く て 一本 に のみ存 在 す る 場 合 に留 意 せね ば なら な い。 何 故 な らば、 四本 中 一本 に欠 く 入 の場 合、 あ る要 素 が、 四本 中 三本 に有 つ て 一本 に は欠 く と が幾 ら か違 つ て い たも の ら し く、 四本 を 対 照 し て見 る と、 内 と いう こ とは有 り がち であ る が、 四本 中 一本 に のみ存 す る と いう よ う な 三通 り の訳 が 存 し て い る の で あ る。 こ れ ら 諸 本 容 に 若 干 の出 入 が 存 し て い る。 し か し、 菩 薩 の 現 逆 の こ と は、 い ち おう、 同本 異 訳 と さ れ る のであ るが、 原 本 そ れ 自体 は、 矢 吹博 士も 指 摘 さ れ る が 如 く、 宝雲 経 や大 乗 宝 雲 経 にも い う こ と は、前 の場 合 に よ り も不 自 然 さ が 大 き い か ら で あ (3) (2) 見 ら れ る要 素 で あ つ て、 な に も、 唐 訳 に お い て初 め て見 ら れ る。 他 の三本 に はそ の痕 跡 す ら 存 し な い 所 の要 素 が含 ま れ て い る さ て、 こ のよ う な こ とを 前 提 と し て見 てゆ く に、 唐 経 に は る要 素 で はな い。 た だ、 こ こに挙 げ た 二本 と唐 経 と の間 に は 文章 の長 短 が あ り、 唐 経 が最 も 長 文 で あ る。 そ う は 言 つ て も、 経 文 全 体 の分 量 から 見 る な ら ば、 唐 経 に て特 に菩 薩 の現 宝 雨 経 を めぐ る若 干 の 考察 (滋野 井) -45- こ とが 知 ら れる。 も つと も、 梁 経 よ りも 唐 経 の方 が内 容 が 増 於此伽耶山北亦有 山現、天子、汝復有無量百千異瑞、我今略説、 相、汝於是時受王位 已、彼国土中有山涌出五色雲現、当彼之時、 於五位之中当得二位、所謂阿韓践致及輪王位、天子、此為最初瑞 宝雨経 をめぐ る若干 の考察 (滋野井) し て い ても 不 思 議 は な い のであ る が、 唐 経 に お い て初 め て見 が、 か か る 一段 が在 存 す る こと は、 教 説 の進 め方 から 言 つて あ る。 他 本 に 見 ら れ ぬ要 素 であ る と いう こ とも 問 題 であ ろ う 右 に原 文 で掲 げ た部 分 は、 唐 経 にお い て の み存 す る要 素 で の法 門 が 開 示 さ れ る のであ る。 と あ つて、 以 下 止 蓋菩 薩 の問 に答 える と いう 形 でも つて 一千 界 に至り て多く の問を発す とに至 りてその故を問 い、釈迦牟尼仏 のことを教 えられて索迦世 や、大衆 の歓喜倍 増す。この国 に止蓋菩薩あ り、蓮花眼如来 のも 師仏薄伽 梵と号す。釈迦牟尼如来 の放たれし 光 明 そ の国 に至 る 仏、蓮花眼如来応正等覚 明行円満善逝 世間解無 上丈夫調御士天人 そ の時、東 方殖伽沙世界を過 ぎて世界あ り。蓮花 と名つく。その 記已獲大善利、作是語已逡仏 三匝退坐 一面 尊、我於今者親在仏前得聞如是 本末因縁、授阿褥多羅三貌三菩提 逡仏七匝頂礼仏足、 即捨宝衣厳身之具、奉 上於 仏 作如 是 言、世 爾時 月光天子、従仏世尊聞授記已、踊躍歓喜身心泰然、従座而起 至慈氏成仏 之時、復当与汝阿褥多 羅三貌 三菩提記 汝於彼時住寿無量、後当往詣観史多天宮、供養承事慈氏菩薩、乃 而彼国土安隠豊楽 人民熾盛甚可愛楽、汝応正念施諸無畏、天子、 ら れ た 要素 が、 よ り 内容 の多 い 宋 経 に お い ては そ の痕 跡 す ら 存 し な いと いう こと に留 意す べき であ る。 以下、 こ の こと に 先 ず、 説 明 の都 合 上、 問 題 と な る部 分 を原 文 のま ま、 そ の つい て眺 め てゆく こ と とす る。 前 後 を 要 約 し て記 す に、 次 の よう であ る。 仏、伽那山頂に大芯傷衆 七万 二千 人ととも に在 しま せり。又、八 万四千 の 一生補処 の菩薩や賢護菩薩を始め とする十六善大 丈夫あ り、無量 百千 の諸竜王子 ・諸竜王采女等あり て仏 を囲続す。時 に 世尊、頂上より大光明を放 って衆会を蔽 いたまう。その光普ねく 十方 一切世界に満 ちたり。 爾時東方有 一天子名日月光、乗 五身雲来詣仏 所、右逡三匝頂礼仏 足 退坐 一面 仏告 天日、汝之光明甚為希有、天子、汝於過去無量仏所、曾 以種 香花珍宝厳身之物衣服臥具飲食湯薬、恭敬供養種諸善根、 天子、 由汝曾種無量善根因縁、今得 如是 光明照耀天子、以是 縁故、我浬 葉後時分、第四五百年中法欲滅時、 汝於此謄部洲東 北方摩詞支那 化、養育衆 生猶如赤 子、令修十善能於我 法広 大住持建 立塔寺、又 も 不 自然 であ る。 国、住居阿韓 蹟致、実是 菩薩故 現女身 為自在主、経於多歳 正法治 以衣服飲食臥具湯薬供養沙門、於 一切時常修 梵行、名 日月浄光天 と ころ で、 原文 部 分 を 見 る 忙、 次 のよ う な 文 が 見 つか る の 子、然 一切女人身有五障、何等為五、 一者不得作転輪聖王、二者 帝釈、三者大梵天王、四者阿稗蹟致菩薩、 五者如来、天子、然汝 -46- 当得 二位、 所謂 阿 韓 蹟 致 及輪 王 位 ﹂ で あ る。 第 三 に ﹁彼 国 土 天 王、 四 者 阿 韓 蹟 致菩 薩、 五者 如来、 天 子、 然 汝 於 五位 之 中 五 障、 何 等 為 五、 一者 不得 作転 輪 聖 王、 二者 帝 釈、 三者 大 梵 女 身 為 自 在 主 ﹂ と いう のであ り、 第 二 は、 ﹁然 一切 女 人 身 有 於 此 購部 洲 東 北方 摩 詞 支 那 国、 位 居 阿韓 蹟 致、 実 是 菩 薩 故 現 第 一は ﹁我 浬 葉 後 最 後時 分、 第 四 五百 年 中、 法 欲 滅 時、 汝 し て重 ん ぜら れ た こ と は、 大雲 経 寺 設 置 の いき さ つか ら明 ら の最 た る も の であ る。 大 雲 経 が 女帝 君 臨 の道 を 開 いた も の と では巻 四に存す る) ﹂ 1 を 取 り 上 げ て大 い に宣 伝 し た 如 き、 そ の如 き 大雲 経 の文ー ﹁以 女身 当 王 国 土 (曇無識 訳大方等無 想 経 た こと、 広 く 人 々の知 る 所 であ る。 女 主 君臨 を 正 当 づ け る か る。 か か る障 碍 を 乗 り越 え ん とし て いろ いろ の策 が 構 ぜ ら れ て中国 に 君 臨 す る こ と は、 有 り 得 べか ら ざ る こ と な の であ は 女 人 の身 で あ る。 中 国 の伝 統 か ら言 つて、 女 性 の身 をも つ 中 有 山涌 出 ﹂ であ り、 第 四 に ﹁後 当往 詣 観 史 多 天宮、 供 養 承 か であ る。 宝 雨 経 は女 帝 君 臨 の道 を 開 いた わけ で は な い。何 であ る。 事 慈 氏菩 薩、 乃 至 慈 氏 成仏 之 時、 復当 与 汝 阿褥 多 羅 三貌 三菩 と な れ ば、 革 命 後 の訳 出 だか ら で あ る。 し か し、 宝 雨 経 にも のこ と に 他 な ら な い。 仏 典 中 にか か る 国 名 が 登 場 す る こと 自 何 故 か と いう に、 贈 部 洲 の東 北 方 摩 詞支 那 国 と いう のは 中国 正 法 も て治 め る と いう こと は大 い に注 意 を 要 す る の であ る。 第 一の、 贈 部 洲 の東 北 方摩 詞 支 那 国 に 女 性 と し て出 現 し、 事実 の上 に 立 つて手 を加 えた の では な いだ ろう か。 或 は、 武 武后 に おも ね る人 々が、 新 規 訳 出 に際 し て、 女 帝 君 臨 と いう の人 々に と つて、 ま こ と に好都 合 な も のと せね ば な る ま い。 年、 所 は中 国 と明 言 し て いる と いう こ と は、 武 后 や そ の周囲 (4) 提 記 ﹂ であ る。 次 に、 これ ら の 一々に つ い て、 何 故問 題 と な 女 主君 臨 の こ と が説 か れ て い る。 し か も、 時 は 第 四 の 五 百 体 が問 題 に な る のみ な ら ず、 訳 出 当 時、 中 国 に ては 武 周 革 命 い ので あ る。 后 の意 を承 け て、 こ の よ う に細 工し た のであ つた か も 知 れ な (5) る か を述 べ て見 よ う。 が行 な わ れ て い て、 中 国史 上、 空 前絶 後 の女 帝 - 則 天 武 后ー 高 祖 ・太 宗 ・高 宗 と承 け継 がれ てき た 唐 室 が、 た とえ 一時 瑞 象 であ る と言 つて、 地 名 を慶 山 県 と更 め て い る が、 宝 雨 経 垂 洪 二年 (六八六)十 月、 新 豊 郡 東 南 に 山 が 涌 出 し、 武 后 は 次 に 山 の 涌 出 のこ と で あ る。 なり と は言 え 武 后 に よ つ てと つて代 ら れ た と いう こと の裏 に 訳 出 は、 こ の数年 後 の こと で あ る。 新 山 湧 出 の こ と は、 矢 吹 が 君 臨 し て いた と いう 事 実 が存 在 す る か ら であ る。 は、 政治 的 ・社 会 的 な 面 に お い て大 き な 事 情 が 存 し た こと申 博 士 が 注 目 さ れ た と ころ の、 い わ ゆ る武 后 登 極 識 疏 の中 にも (7) (6) す ま でも な い。 しか し、 当 時 の事 情 が い か にあ ろ う と、 武 后 宝 雨 経 を めぐ る若 干 の考 察 (滋 野 井) -47- 山湧 出 と いう 天 変 を 経 文 の中 に採 り 入 れ て、 或 る 種 の目 的 に 引 用 さ れ て いる。 当 時、 よ く知 ら れ てい たも の であ ろう。 新 勒 とを 結 び つけ る こ と が著 し く表 面 化 し てく る の であ る が、 り にも有 名 であ る。 ま た、 宝 雨 経 訳 出 後 にな つ て、 武 后 と弥 醇 懐 義 等 が、 武后 を 弥 勒 の化 身 と言 いふ ら し た こと は あ ま 宝雨経をめぐ る若干 の考察 (滋野井) 利 用 した の であ ろ う と考 え る こ とも、 あ な がち 無 理 では あ る こう した こと を 眺 め る時、 ﹁観 史 多 天 云 々﹂ の文 も、 軽 々し 宝 雨経 の訳 者 は 達摩 流 支 と な つ て いる が、 こ の時、 醇 懐 義 も知 れな いが、 こ のよ う に 解釈 す る に は理 由 が有 る。 上述 の 四項 は、 いさ さ か我 田引 水 的 な見 解 と考 えら れ る か 三 く扱 う こ とが 許 さ れ な いよ う に思 わ れ る の であ る。 (9) ま い。 月 光 天 子 のこ と と言 い、 山 のこと と言 い、 女 帝 登 極 が仏 の 懸 記 に か な つた こ と と し て喧 伝 す る に好 都 合 であ る こ と、 大 雲 経 と軌 を 一に す る も の であ る。宝 雨 経 が大 雲 経 と並 びも て は や さ れた の は、 こう し た所 に根 拠 が有 つた の では な いだ ろ う か。 更 に、 輪 王 位 を 得 る と いう 条 であ る。 の伝 に詳 し いが、 武 后 時 代 の偽 濫僧 の筆 頭 に挙 げ ら れ る 人物 で、武 后 の寵 愛 を 利 用 し て、 さ ま ざ ま の非 法 を 行 な つて いる が 監 訳 に当 つ て いた。 醇 懐 義 の事 跡 は旧 唐 書 巻 一八 三 の 同人 の であ る。 そ の 一端 を 示 す も の と し て、 次 の よ う な 例 が 有 武 周 時 代 にお い て、 武 后 の称号 は し ば し ば変 更 を 見 て い る 帝 ﹂ の号 を 用 いら れ ん こ とを 願 い出 た のを 聴 し、 それ と とも る。 が、 長 寿 二 年 (六九 三)九 月 乙未 に、 武 承 嗣 らが ﹁金 輪 聖 神 皇 に、 金輪 等 七宝 を 作 つ て いる。 金輪 が、 輪 王 と密 接 な 関 係 を (8) 有 す る も ので あ る こと、 こ こに多 言 を 弄 す る こ と も あ る ま も のがあ り、 そ の蹟 に ﹁法 明 訳 懐 義 校 云 々﹂ な る文 字 が 記 大谷 大 学 所藏 の敦 燈 古 写 経 の中 に 阿毘 曇 経 な る尾 題 を も つ さ れ て いる。 い。尊 号 を 進 め た 人 々 の中 心 に居 た 武 承 嗣 は 武 后 の 一族 であ る。 し こう し て、 ﹁輪 王 位 を 得 る﹂ と説 い た宝 雨 経 の訳 了 は、 見 ら れる 所 の ﹁梵 本 一百 八 十 四首 盧 秦 一千 六百 六十 四 言 ﹂ 伽 提 婆 ・竺仏 念 共 訳 の阿 毘 曇 八腱 度 論 であ り、 秦 経 の晶 末 に は そう でな い。法 明 訳 阿 毘曇 経 と 称 さ れ るも の は、 前 秦 の僧 一見、 法 明 が 訳 し て懐 義 が そ れ を校 し た か に見 え る が、 実 加 号 を 顧 い出 る数 日前 の こと であ る。 経 文 中 に ﹁輪 王 位 云 々﹂ の語 が 有 る こ とを 知 つた 武 承 嗣等 が、 一芝居 打 つた の で 最 後 に、 月 光 天 子 が 親 史 多 天 宮 に往 詣 す る と い う こ と で あ は な いか と考 え ら れ る の であ る。 る。 -48- 大周東寺都維那予章県開 国公沙門恵蝦証義 仏授記寺都維那賛 皇県開 国公沙門知静証義 経 疏 作 成 に関 係 有 り と 目 さ れ る こ と、 矢 吹 博 士 の指 摘 さ れ た こ れら の人 々のう ち、 某 県 開 国 公 と な つて いる僧 は、 大 雲 と な つ て いる の であ る。 勅捻校翻経使司賓寺 録事摂 丞孫承辟 勅槍校翻経使典 司賓寺府趙 思泰 専当使文林郎守左衛颯二府 兵曹参軍臣傅守真 専当典井写麟台 楷書令史臣 徐元処 尚方監匠臣李審恭装 婆羅門臣条利烏台写梵本 婆羅門臣迦葉烏担写梵本 鴻州慶山県人臣叱干智藏写梵 本 婆羅門臣度破具写梵本 婆羅門臣李無詔訳語 婆羅門僧般若証義 京西明寺沙門円測証義 仏授記寺主渤海県開国公沙門行感証義 仏授記寺沙門神英証義 大奉先寺 上座当陽県開国公沙門慧陵証義 長寿寺上座沙門知機証義 大周東寺 上座江陵県開 国公沙門法明証義 天宮寺 上座沙門知道証義 な る 記 述 の、梵 を 胡 と 改 ため、 ﹁秦 ﹂ 字 を抜 く と言 つ た 類 の (10) 細 工を 施 こした も のな の であ る o つま り、 已 に 漢 訳 さ れ て い た経 典 を、 あ た かも 法 明 が新 規 に訳 し、 懐 義 が 校 した か の如 (11) く に 見 せか け る と いう 恥 知 ら ず な行 為 を す ら敢 え て為 した の であ る。 右 のよ う な事 を考 え る時、 宝 雨 経 に曲 筆 が行 な わ れ た の で はな いか と いう疑 も、 け だ し自 然 なも の とな る であ ろう。 問 題 は 以 上 に 尽 き た わ け で は な い。 宝 雨 経 の訳 場 に連 な つ た人 々を 見 る と、 経 文 に 舞 文曲 筆 が行 な われ ても 不思 議 では な いよ う な感 を 強 め ら れ る の であ る。 宝 雨 経 の訳 場 列 位 (敦煙出土、 S二二七八による)は 大白馬寺大徳沙門懐義藍 訳 南印度沙門達摩流 支宣釈梵本 中印度王使沙門梵摩兼宣梵本 京済法寺沙門戦 陀訳 語 仏 授記寺沙門慧智 証訳 語 仏 授記寺沙門道昌 証梵文 天宮寺沙門達摩難陀 証梵本 大周東 寺都維 那清源 県開国公沙門処 一筆受 仏授記寺沙門思玄綴 文 仏授 記寺都維 那昌平 県開国公 沙門徳感筆受 長寿寺 主沙門知激綴文 宝雨 経 を め ぐ る若 干 の考察 (滋 野 井) -49- か が 出 てく る が、 こ の寺 々は、 武 后 若 し く は醇 懐 義 と因 縁 浅 諸 僧 の住 寺 と し て、 大 周 東 寺 とか、 仏 援 記寺 ・大 奉 先 寺 と 他 に つ いて は、 更 に次 のよ う に つけ加 え る こ と が でき よ う。 こ と で あ り、 今 更 多 言 を 要 す ま い。 し か し、 訳 場 参 加 者 そ の ら の意 志 で名 聞 を求 め て行 動 し て いた のか も 知 れ な い。 目的 の為 に利 用 さ れ る 可能 性 が 大 き いと も 言 え よ う。 或 は自 れ た人 々で はあ る。 し か し、 有 名 な 僧 であ れ ば な お更、 あ る の重 責 を 荷 つ て いる な ど、 いず れ も、 当 時、 世 間 に名 を知 ら 志( 達摩流支)の二〇 部 に 上 る経 典 訳 出 に 当 つ て、筆 受 そ の他 の名 を 宋 高 僧 伝 に載 せら れ てお り、 処 一 ・行感 等 も、 菩 提 流 宝雨経 をめぐ る若干 の考察 (滋野井) から ぬ も の であ る。 先 ず 大 周 東 寺 であ る が、 こ の寺 は洛 陽 に 他 に鴻 州 慶 山 県 の人叱 干 智 藏 が注 目 さ れ る。 こ の人 の詳細 在 つた 寺 で、 武 后 の母 楊 氏 の旧 宅 を、 武 后 の意 志 に よ つて寺 (12) と し た も のであ つた。 次 に、 仏 授 記 寺 に つ いて は、 次 の よう に述 べ た 所 の新 山涌 出 の地 に他 な ら な い の であ る。 旧唐 書地 は 不詳 であ るが、 そ の出 身 地 た る鴻 州 慶 山 県 と いう のは、 先 洛陽 において高宗武太后 のために敬愛寺が建 てられていたが、懐 に言 わ れ て いる。 理 志 の記 述 に よる と、 新 豊 県 (慶山県)は、 天授 二年 (六九 一) 文 中 に新 山湧 出 と いう こ と を盛 り 込 ん だ の は、 こ の人 の細 工 か ら約 一〇 年 間 鴻州 に属 し て いた と の こ と であ る。 宝 雨 経 の (13) 義が その内に別殿を作 り、仏授 記寺と称 した。 と。 ま た、 大 奉 先 寺 であ る が、 こ の寺 は、 竜門 の大 奉 先 寺 で 以 上、 宝 雨 経 の訳場 に連 な つた 人 々の周 辺を 眺 め て見 た わ はな い であ ろう か。 若 し 然 り と せば、 次 の如 き事 情 が存 す る け であ る が、 それ に よ つ て、本 経 に舞 文 曲 筆 が加 えら れ る 可 で あ つた かも 知 れ な い。 高 宗 皇 帝 の時、勅 し て竜門 に 大 毘盧 舎 那 像 を 造 ら し め た が、 の であ る。 皇后 武 氏 (則天武后)は、 二 万 銭 を 以 つ て そ の功 を助 け た。 調 能 性 が 小 さく な い こと が知 ら れ る であ ろう。 こう した 人 々が (14) し、 あ わ せ て武 周 時 代 の仏 教 の 一面 を 窺 つた次 第 であ る。 のと は 別 の部 分 を採 り 上 げ て、 本 経 に ま つ わ る 問 題 を 指 摘 説 述 さ れ た こ と では あ る が、 今、 こ こ に、 先 学 が着 目さ れ た 宝 雨 経 が武 周 革 命 と関係 を も つこ と は、 己 に先 学 によ つ て 考 え る の であ る。 介 在 す る と こ ろ に、宝 雨 経 の異 状 部 分 が 作 り 出 さ れた も のと 露 二年 (六八○)、大 像 の南 に 大 奉 先 寺 を 勅 建 し た 云 々。 更 に長 寿 寺 に関 し て言 え ば、 唐 会 要 巻 四 八 に ﹁長 寿 元 年、 武后 称 歯 生 髪 変、 大 赦 改 元、 伍 置 長 寿 寺 ﹂ と いう 記 載 が見 ら れ る の であ る。 こ れま た、 武 后 と因 縁 深 い寺 と せ ね ばな る ま い。 右 のよう な寺 に籍 を 置 く 僧 達 が、 武 后 や 懐 義 と 没交 渉 であ つた と は考 え ら れ な い。 仏 授 記 寺 徳 感 の如 き は 高僧 と し て そ -50- 3 2 ー 矢 吹博 士前 掲 書。 塚本 善 隆 博 士、 国 分 寺 と階 唐 の仏 教 政 策 並 同 博 士、 前 掲 書。 七 五 五ぺ ー ジ。 ﹁仏 書解 説 大 辞 典﹂、除 蓋 障 菩 薩 所問 経 の項 参 照。 コ ニ階教 の研 究L 七 四 八 ぺー ジ以 下。 と 同 じく 懐 義 と とも に 名 を 出 し て いる が、 提 雲 般 若 や 義 浄 の訳 法 明 は大 雲 経 疏 の作 成 や 宝雨 経 訳出 に 当 って、 阿 毘 曇 経 の時 あ る﹂ と 言 った 者 が居 る。 ま た、 こ の月 に明 堂 が 炎 上 し た こ と に つい て ﹁弥 勒 成 道 の瑞 で 証 聖 元 年 (六九 五) 正 月 に慈 氏 越 古 金 輪 聖 神 皇 帝 と号 した。 ﹁新 唐 書 ﹂ 巻 七 六、 則 天順 聖 皇 后 伝。 二 号 は、 同 種 であ り、 し かも、 よ り長 文 で あ る。 教 の研 究 ﹂ に収 めら れ て いる が、 敦 煙 出 土 の スタ イ ン本 六 五〇 本 疏 製 作 は天 授 元 年 (六九 〇) と推 測 さ れ る。 疏 文 は ﹁三階 巻 四 ・武 后 本 紀。 ﹁旧 唐 書﹂ 巻 三 七 ・五行 志。 同 書 巻 三八 ・地 理志。 ﹁新 唐 書 ﹂ 五 〇 〇 年 に入 った と意 識 し て いた。 当 時、 中 国 仏 教界 で は、 仏 滅 後 一五 〇 〇 年 を過 ぎ、 第 四次 の び に 官寺 (日支 仏 教 交渉 史 研 究、 所 収) 等 参 照。 4 5 6 7 8 9 m て お き、 かな り の学 匠 で あ った と思 わ れ る。 醇 懐 義 に 利 用 さ 揚 に 連 な って証 義 の責 を 果 た し た 人物 で あ る。 人 物 のほ ど は さ れ、 操 ら れ た ので は な か ろう か。 12 ﹁旧 唐 書 ﹂ 巻 一八 三 ・醇 懐義 伝。 ﹁開 元 釈 教 録 ﹂ 巻 九。 ﹁唐 会 要︹ 巻 四 八 ・寺。 野 上俊 静 博 士、 敦 煙 本 阿 毘 曇 経 巻 廿 六 の蹟 に つい て (大谷 大 学 所 藏 敦 煙 古 写経、 所 収) 参 照。 11 13 宝 雨 経 を め ぐ る若 干 の考 察 (滋野 井) 14 ﹁金 石葦 編 ﹂ 巻 七 三 ・奉先 寺 寵 記。 -51-
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