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近代日本画壇の巨匠 四歳から絵筆

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寺 崎 四 歳 か ら 絵 筆
広 業
近代 日本画 壇の 巨匠
寺崎広業は、慶応二年︵一八六六︶二月二十五日に、秋旧藩家老職にあった寺崎家の第一子として、
秋田 市千 秋明 徳 町 ︵旧 古川 堀反 ︶ で 生ま れた 。現 在 の 広小 路の カト リ ック 教会 のあ る 辺り であ る 。母
親は 妊娠 中 に離 縁に な って いる。
戸 籍名 は 広業 で あっ た が、周 囲 の者 は皆 ﹁こ う ぎょ う﹂ と呼 び、そ のま ま 通号 とし た 、後 年 は、別
に 、宗 山、天 籟山人 な どと も号 し た 。
広業 は 厳格 な祖 母 の手 で 育て ら れ た が、絵 筆 は四 歳 のこ ろか ら持 って いたと いう 。 もと 家老 の妻 で
ある祖母は、そうした方面への理解があった人らしい。
学校 教 育 の方は 、 維新 後 に父 親 が始 めた 初級 学校 な どを 経て明 治十 年に 太平 学校 変 則中 学科 に入 学
し て いる が、一年 足 ら ずで退 学し て いる 。父 親 が学校 経営 に 続き 、料 理屋 に も失 敗し て 経済 的に 困窮
し た から で あ る。
そ うし たこ と で は将 来 が立ち 行 かな いと 心配 し た乳 母 が、 夫 の長谷 川氏 に 頼 んで成 人 まで引 き取 っ
て面 倒 をみ よう と いうこ と に なり 、 広業 は十四 年 に秋 田医 学 校 に入 る が、医 学 書は 高く 、う ど ん やそ
う めん を扱 う長 谷 川家 の家 業 も手 伝 わね ばなら ずと い ったよ う なこ とで 、こ の医 学 校 も二 年ほ どで退
学 を余 儀 なく さ れる 。
当 時 、 秋田 には 小 室怡 々斎 と いう 狩 野派 の画 家 が いたの で 、もと も と絵 の好 き だっ た 広業は 長谷 川
家 と も相 談 のうえ そ こ に入 門 し 、﹁秀 斎 ﹂ の号 を も ら った 。こ れ が広業 の 画 家と し て の出 発 点 で あ っ
た。
いつ まで も 長 谷 川家 の厄 介 に な って いる わけ に い か な い 広業 が、一 本 の筆 を 頼 り に 遊歴 の画 家と
な っだ のは 十 九歳 の時 で あっ た 。ま ず、当 時 景気 の よか った 阿 仁鉱 山に 赴 いた が無名 の 青年画 家 で は
とう て い生計 を 立て るこ と がで きな い。
花輪 の方 に行 ったと こ ろ 、寺崎 家 と は縁 戚関 係に あ る鹿 角郡 長 ・戸 村義 得 に巡り 合 い、戸 村 の紹介
で 郡役 所 の庶 務受 付け 係 とし て採 用し て も ら って 、し ばら く糊 口 をし のぐ こと がで き た 。
上 京 し て 本 格 的 に 修 業
広業 に幸 運 が訪 れた の は二 十二 歳 の時 であ った 。広業 が怡 々斎 に入 門し て間 も な いこ ろに 描 いた絵
を見 た平 福 穂庵 ︵ 百 穂 の父 ︶ が、 広 業 に上 京 を 促し て き た ので あ る 。穂 庵 は当 時 すで に東 京 で名 を
成し て いた 。
広業 は勇 躍穂 庵 のも と に赴 く が、 穂庵 の精 緻 な感 覚と 広業 の 闊 達磊落 な 性格 と は相 容 れな いも の が
あり 、 広業 は四 ヵ 月ほ どで そこ を 去り 、再 び放 浪の 旅に 出 る 。
足 尾 銅山 に行 き 、日 光 の大 野屋 旅館 に 落ち 着 いた 広業 は 、旅 館 の仕事 を手 伝 いな がら揮 毫 の依 頼に
応じ る 生活 を始 め る 。最 初は 注文 も少 な か った が、 たま たま 描 い た美人 画 が人 気を 博し て 依頼 者 が増
え 、たま った 宿料 も清 算し て 一年 半 後に は再 び東 京 に返 り咲 く こと がで き た 。
東 京 に戻 った 広 業は 穂庵 の 仲介 によ って 、 出版 業 を営 む東 陽 堂に 勤 める が、 結果 的 に広 業 はここ で
お のず から にし て 徹底し た画 技 習 練 を積 むこ と にな る 。
東 陽 堂で は ﹁ 絵画 叢 誌﹂﹁風 俗 画 報﹂ の二 誌を 発 行し て お り 、前 者 の 挿絵 は 、中 国 、日 本 の各 派 古
名画 を 復元 掲 載す る のだ が、 ま ず原画 を丁 寧 に 模写し 、そ れを また 石 版画 の原 版 に縮 小 すると いう根
気 の いる作 業 であ っ た。 広業 はそ れ を三 年間 やり通し た の であ る 。
一方 の ﹁風 俗画 報﹂ と の関 わり で は 、美人 画 の手 法を 体 得し た の が大 き か ったと 言 わ れて い る。
一連 のこ うし た 修行 過 程を 通 じて 、一 宗 一派 にと ら われ な い、 八宗 打 って一 丸と な っ た広 業芸 術 の
基 礎 が築 か れて いっ たと 考え ら れ る。
東陽 堂 で生 計 の資 を得 るか た わら 、 広業 は自 身 の創作 に も精 を出 し 、明 治二 十三 年 四 月に 上野公 園
で 開催 さ れた 第三 回内 国 勧業 博 覧会 で は 、無名 画家 か ら いき なり﹁東 遊図﹂で 入選し て 褒 状を受 け た 。
翌二 十四 年 九月 に は日 本青 年 絵画 協 会 が組織 さ れ、十 一 月 に臨 時研 究会 が開催 さ れた 。広 業は そこ
に 、狩 野派 風 に 描 いた中 国人 物 ﹁藍 菜 和図 ﹂を 出品 し て最 高 の一 等賞 を獲 得し た 。他 に 邨田 丹陵 や山
田 敬中 も 一等 賞 を受 けて いる が、二 十 五年 に 広業 が結 婚し た 菅子 は 、丹 陵の 姉で あ る。
向島 に 新居 を構 え た 広業 だ が、結 婚 のあ く る年四 月 、仲 間 と市 川方 面 に写 生 に出 かけ て いる間 に 住
ま いが貰 い火 で 全焼 し 、粉 本 や デッサ ン の類を す べて 焼失 し てし まう 。し かし 広業 は、 こ れか ら いよ
いよ 広業 の絵 を 描く こと にし よ う 、と平 然 とし て いた と いう 。 広業 の負 けじ 魂 が言 わせ た のであ ろう
か。
東 京 美 術 学 校 教 授
広業 が 東京 美術 学 校 ︵東京 芸術 大 学 美術 学部 の前 身︶ の助 教 授 に抜 擢 され たの は、 明 治三 十年 三月
で あ った 。と こ ろ が、翌三 十 ﹂年 に は 岡倉天 心 校長 排斥 事 件 が発 生す る 。岡倉 校長 が辞 任 のやむ な き
に 到 った のに とも な い、橋 本雅 邦以下 、教 授 、助 教授十 七 名 が一 斉に 職を 辞 す るこ と に なり 、 校長 支
持派 の広 業も 行動 を 共に し た のであ っ た 。
美校 を 去 った一 団 は 、評 議員 長天 心 、主 幹 雅邦と いう体 制 で新 た に日本 美 術院 を創 立 、も ち ろ ん広
業 も直 ち にそ の 一員 と なり 、こ の年 に は仙 台 、盛 岡、 秋田 、大 曲 、横 手で 日 本美 術院 絵画 共 進 会を 開
いて い る。
美校では岡倉の後任に久保田鼎を任命したが久保田は間もなく辞し、正木直彦が校長に任命され
た 。正 木 と 岡倉 の 関係 はよ か った ので 、相 談 の結 果 、広 業と下 村 観 山 が美校 に戻 るこ と に なり 、二 人
は三 十四 年 九月 に 教授と し て 就任し た 。 広業 はこ の 後十 八年 間美 術 学校 の教 職 にあ っ て多 くの 優 れた
弟子 を世 に 送り 出し て いく こと に な る。
夏 目 漱 石 の 批 評
﹁ 売 れ っ子 は東 の 広業 、西 の ︵竹内 ︶ 栖鳳 ﹂と 言 わ れた一 時 期 があ ったく ら い広 業 は自 身の 創作 活
動にも打ち込み、各種展覧会の入選者の常連となって弟子も次第に増えていく。
そうし た 中 の明 治四 十年 、 第一 回文 部 省美 術 展覧 会 ︵文 展︶ が開 催 され た 。日 本画 の審 査員 に選 ば
れた広 業 がそ こに 出品 し た のは ﹁大 仏 開眼﹂ で あ る。こ れは 、縦二 三 〇セ ンチ 、横三 二三 セ ンチ で 、
場内 第 一 の大 作で あ った 。実 際 に奈 良 に取 材し 、東 大寺 の﹁大 仏 開眼 ・大 仏 殿落 慶供 養 図屏風 ﹂ を参
照し た 作品 だ ろう と言 わ れて いる 。
こ の第 一回 目を 初 め、 広業 は 、自 身 の生存 中 に 開催 さ れた十 二 回 の文展 に 一度 も出 品 を欠 かし たこ
と が なく 、彼 の代 表 作も ほと んどこ の 期間 に制 作 さ れて いる 。そ れ らを少 し みて みよ う 。
第三 回 の文 展出 品 作は ﹁渓 四 題 ︵雨 後 ・秋霧 ・雲 の 峰・夏 の月 ︶﹂﹁ 秋山 雨 後﹂ の二 点 であ る 。前 者
は 南画 的 な用 筆と 土 佐派 の画 法 によ っ てお り 、新 南画 と 激賞 さ れた 。後者 は 、写 生的 かつ 大和 絵 的で 、
後 年 の新 興大 和絵 運動 に つ な がると さ れて いる。 専門 家 は後 者を 本命 とし た が 、一 般人 気 は前者 に 集
中し た と いう 。
第四 回 の 出 品 作三 点 の うち ﹁夏 の一 日﹂ は、前 年 の ﹁渓 四 題﹂ を さ ら に写 生 南 画 的 に 醇 成 し た も
ので 、出 色 の作 であ った 。
西欧 印 象派 を 意識し な がら東 洋 的写 実を 目指 し たと 言 わ れ、夏 目漱 石 の有 名 な批評 も あ る﹁濠 湘 八
景﹂は、大正元年﹁一九二一︶、第六回の出品作である。同時に出品された横山大観の同画題の作品
を 漱石 が一 緒に観 賞 し て 、﹁八 景 よ いやと いう 洒落 か も 知 れ ぬ。 実 際両方 を見 て行 くと 、 ま るで 比 較
す るこ と がで き ぬ程 、無 関係 な絵 であ る﹂ と朝 日 新聞 に 書 いた ので あっ た。
画 題 は 同 じだ が、 図 柄と い い筆致 と い いま った く異質 の絵 であ っ たの で巧 ま ずし て両 大家 の競 作 の
形 に なり 、大 変 評判 に なっ た ので あっ た 。
な お、 こ の年 、 広業 は小石 川 関口 町 にあ る故 本 間耕 曹氏 の邸 宅 を 購入 、画 室を 増 築し 、 庭を 改 造し
て大邸 宅 を構 え た 。世 に 関口 御殿 と称 され 、一 説 に門下 生 二 〇〇 人と 言 われ た 。ま た 、翌年 七月 に は、
長 野県 下 高井 郡 上 林 温 泉 に別 荘 ﹁養 神 山 房﹂ をし つらえ 、大正 三 年 七 月 に完 成 す る が、 こ れ は後 に
﹁長 寿山 広 業寺 ﹂と 呼 ば れるこ と にな る 。
時 どき ここ に 滞 在し て いるう ち に広 業 は次 第 に山水 画 を多 く 描く よう に なり 、日 本 の山丞 画 に新 機
軸を 開 いて いく こ とに な った 。
第 七 回 の出品 作﹁千 紫万 紅﹂は明 治美 人画 の 一到 達点 を見 せ て いると 言 わ れ、第 八 回 の﹁ 高山 清 秋﹂
は 広業芸 術 の最 高 点と 評 され て いる 。こ れ は、 上林 で取 材し た も ので 、遠 く日 本 アル プス 連山 、中 景
に飯 綱 ・黒 姫 ・妙 高山 、近 景 に白 根 山を 望む 壮 観を 、南 画 と大 和絵 を ミッ クス した 手 法で 描 いた も の
で 、﹁渓 四 題﹂ の完 結 点と の評 価 が高 い。
大正 六年 七 月 、広業 は川 合玉 堂 、富岡 鉄斎 、下 村 観 山ら とと も に帝 室技 芸員 に 任じ ら れた 。こ れ は 、
当 時 の芸 術家 にと っ ては 最高 の 栄誉 で あ った が、 広業 には そ の直 後か ら咽 喉 ガン の症 状 が現 れた 。豪
胆 な広 業 はそ れに もひ るま ず、 第十二 回文 展出 品 のた め大 作﹁ 杜 甫﹂ に取 り かか った 。 広業 の意 図 は
左 右風 景 の三 連作 で あ ったら し い が、 中央 の人 物 だけ で絶 筆と な った 。
諸流 派 を総 合し た画 格 をも ち 、制 作 意欲 が旺 盛 で、画 壇 の 主導 的存 在で あ った 広業 は 、江 戸時 代 の
谷 文晃 に 擬せ ら れこ と があ る 。
し かし 、七 十 八歳 と いう長 寿 に恵 ま れた 文晃 よ り二 十年 以 上も 若 くして 広 業 は人生 に 幕を下 ろさね
ばなら な か った 。
大正八年二月二十一日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞ
れ別 れのこ と ばや訓 戒 を与え 、大 勢の 絵画 ファ ン に惜 しま れな がら 不帰 の客 と な った 。ま だ五 十三 歳
で あ った 。
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