第 9 回 弱音を聞いてもらうことの大切さ

第 9 回 弱音を
弱音を聞いてもらうことの大切
いてもらうことの大切さ
大切さ
奈良・おかたに病院
医師
田中茂樹
これまで何回かにわたって、「親が言葉がけに気をつけることで、子どもを元気に
できる」ことを書いてきました。今回は自傷行為がみられたケースを通じて「思いを
伝えあうことの大切さ」をお話しします。
【例】女子高校生のAさん。中学までは優等生で勉強でもスポーツでも目立っていた
が、高校に入ってから数学などで思うような成績がとれなくなってきた。授業中、
「自
分の声も周りの音も遠くで聞こえてくるような感じ」「自分が自分でなくなるような
おかしな気分」になることが時々起こるようになった(「離人感」と呼ばれる症状と
考えられます)。
Aさんは養護の先生に「自分の部屋でそんな気分になると手首を少しだけ切る。血
を見ると落ち着く」と打ち明けた。
養護の先生は A さんとの信頼関係に配慮しつつ、リストカットについて母親に伝え
ました。母親は知らされる前から、娘の部屋の机にある血のついたティッシュペーパ
ーやカミソリに気づいていました。母親は面接で「娘がリストカットをしているらし
いと気がついていた」と話しました。そして「私は今のところ何も気づいていないふ
りをしています。リストカットをやめさせるために、家の中のカミソリを隠してしま
ったほうがいいでしょうか?」とたずねました。
私が「なぜ気づいていないふりをするのですか?
カミソリを隠したりするよりも、
まずAさんに『どうしてそんなことをするの?』とたずねたり、『あなたのことが心
配だからそんなことをしないでほしい』と言わないのは、なぜですか」と聞くと、母
親は「そういう言葉はまったく思いつきませんでした」と言いました。そして「どん
な気分でそういうことをするのか」「そのような行為をしていることを知り、不安に
感じている」などの「思いや考えについて話す」という会話が、親子の間でずっとな
かったと言いました。
気分で
気分で子どもを支配
どもを支配してしまう
支配してしまう
母親によると、Aさんは不思議なほど真面目な子だったそうです。
「『勉強しなさい』
とか『片付けなさい』などと言った記憶はありません。言われる前になんでも自分か
らやる子でしたので」。
面接を通してわかったことは、母親が自分では気がつかないうちに「気分」で子ど
もを強く支配していたかもしれないということでした。Aさんは「これまで自分で何
かをやりたいと思う気持ちよりも、お母さんの機嫌が悪くならないようにということ
ばかり気にかけていたように思う」と、母親に話したそうです。
母親の話によると、A さんは自分の今の状態を感じることが苦手なようでした。
「自
分は今、楽しいのか、楽しくないのか」「疲れているのか、そうでないのか」といっ
たことを感じる力が、上手く育っていない可能性がありました。
親子のやりとりを
親子のやりとりを変
のやりとりを変える
このようなケースでも、面接での方針は不登校のケースと基本的に同じです。親子
の関係を急に変えるのは難しいことですが、私は「まず思いや考えを伝える言葉を使
うことを心がけて生活していく」ことを助言します。
母親は「娘と(そして夫とも)思いや考えを伝えるような会話をほとんどしてこな
かった」と振り返りました。娘の成績が下がっていることや教室で体調が悪くなるこ
となどに、母親は不安を感じていましたが、そのような思いを言葉にして話しあうこ
とは、娘とも夫ともなかったのです。
Aさんが高校に入学してから感じていたのは、漠然とした不安だったのかもしれま
せん。しかしそれが「つらい」のか「悲しい」のか、「苦しい」のか「さみしい」の
か、Aさんにはわかっていなかったのではないでしょうか。
母親は「私は自分にも子どもにも、弱音を吐くことは許してきませんでした。娘が
私に『つらい』『不安だ』という気持ちを話してくれなかったのは、そんなことを話
すとすぐに私が『じゃあ、こうしたらどう?』と言うことをわかっていたからかもし
れません」と言いました。
すぐ動
すぐ動かず、
かず、気持ちを
気持ちを受
ちを受けとめる
つらいときや悲しいときに「つらい」「悲しい」と言葉にする、そしてそれを信頼
できる相手に受けとめてもらうことは、大きな力を持っています。
ただ聞いてもらえるだけでいいのです。すぐに状況を改善しようと動いてくれなく
ても、むしろ、すぐに動いてくれない方がいいことさえあると思います。「だったら
こうしたらいいよ」などと、すぐにアドバイスをくれたり、実際に行動で助けようと
する相手よりも、まずしっかりと受けとめてくれる相手の方が気持ちを打ち明けやす
いということは、少し考えると誰でも実感できると思います。
その後、母親との面接を続けながら、家庭で思いを伝えあう会話を心がけていくな
かで、Aさんは子どものころにつらかったことや嫌だと感じていたことを、いろいろ
と思い出していきました。そして、ときには大声で叫んだり、ものを壊したりと、か
なり激しく母親に怒りをぶつける日々が続きました。
それでも母親は、勇気を持ってAさんの気持ちに寄り添いました。「あなたのため
を思ってそうしたのよ」という言葉が頭に浮かぶこともありながら、「子どもがどう
感じていたのか」を感じようと心がけました。やがてAさんの授業中のおかしな気分
は消えました。養護の先生には「リストカットをする必要がなくなった」と言ったそ
うです。Aさんにとってリストカットは、言葉にできないつらい気持ちを母親に伝え
るための必死のメッセージだったのかもしれません。
子どもに弱音を吐かれると、親はつい励ましたり、がんばらせたりするものです。
それが大事なときもありますが、ときには、子どもの不安な気持ちをいっしょに感じ
ながら寄り添ってみましょう。それは、親にしかできない、大切な思いやりだと思い
ます。
著者紹介
田中茂樹(たなか・しげき)文学博士。医師・臨床心理士として地域医療、カウンセ
リングに従事している。近著『子どもを信じること』(2011年、大隅書店)は増
刷決定。