第4回志学会リトリート 2006 年 9 月 3 日 9月5日 於母の家ベテル(神戸市) 報 告 書 2007 年 7 月発行 目 次 「アウグストゥスの名が聖書に出るまで」 有賀 寿 /2 発題講演 1 「福音,哲学,キリスト教弁証学,そして企業倫理学:わたしの信仰と 学問の遍歴そして神様の導きのあかし」 梅津 光彦 /4 発題講演2 「信徒の信仰」 大谷 順彦 /9 第4回リトリート参加学生による感想文 武藤 小枝里 /28 藤原 正澄 /30 戸塚 義英 /31 野村 みくに /33 野村 天路 /34 志学会の目的および活動事業内容 /35 志学会これまでの歩み /36 執筆者紹介 /40 編集後記 /40 「アウグストゥスの名が聖書に出るまで」 有賀 寿 志学会は発足後四年たち、昨年ようやく創立総会の開催に漕ぎつけました。また入 学したての新入生にたいする学問をこころざすようにとの薦め、その他とならんで、 今後は大学院生への研究助成をその主たる目的とすることにしました。 この目的は一二世紀フランスのリオンにいたヴァルドーがルカ福音書一八章 18 節 以下の金持ちのたとえを読み、その金持ちとちがい、財産のすべてを貧者に分けるこ とにしたときに直面した問題を孕んでいます。翌日かれは日本でいえば大判小判をか かえ町の大通りに行き、みことばを叫びながらかねをばら撒きました。それから帰宅 し、みんなが喜んだようすを妻に話すと、妻にあなたは商売はうまいが、やっぱりバ カねといわれ、ある知恵を授かりました。そこでピエール・ヴァルドーは、二人の学 僧にまず福音書を訳してもらい、つぎに知り合いの何人かに読み書きを習わせ、自分 は学僧が訳した聖書を手にリオンの家を一軒ずつ訪ねて、すこしずつ読み聞かせをは じめました。すなわち、レイマンとして聖書にもとづく運動を起こしたのです。 プア ーズ・イン・リオン この結果、ヴァルドーと 仲間の貧者たちは、聖職者に異端とされ、教皇庁からも断 罪されます。これは志学会が現代の日本でもおなじ烙印を押されかねない事態を示唆 しています。イエスごじしんも、「父から聖なるものとされて世に遣わされ・・・『わ たしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」 と宣べておられます。 この挨拶にわたしは「アウグストゥスの名が聖書に出るまで」と題をつけました。 アウグストゥスが主のことばに近いことをいった人の一人と目されるからです。それ は、一九世紀後半、いま名古屋大学出版会から訳出されつつあるテオドール・モムゼ ンのそれぞれ数百ページよりなる五巻もの『ローマの歴史』の第四巻がついに執筆さ れずにおわった、にもかかわらずモムゼンの一〇巻からなる他のローマ史関連のモノ グラフとともに評価され、かれが一九〇二年ノーベル賞を付与された点に注目すると、 いくらか推測できます。モムゼンによる紀元前七五三年以降のローマ建国期、前五〇 〇年からアウグストゥスの治世が始まる前二七年までの共和政期、ローマ初代皇帝ガ イウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス・アウグストゥスの即位以降の三世 2 紀をうわまわる元首政期に関する記述にしたがってその理由をまとめると、 そ ん け い さ る べ き も の し と パ ウ ロ アウグストゥスはそのころ「ローマ市民」をふくむ民衆をエリートとして輩出した「法 の存在」を制度化し、それが「国の統一」をギリシア人にゆるされなかった独裁制と 取り替えることなしに人びとに追求させる、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を現 実のものとしたからです。わたしたちは主イエス・キリストがその現実を指さして、 ご在世中に、「平和を実現する人々は、幸いである」とかたられたこと、も承知して います。 アウグストゥスの名は聖書には一度しか登場しません。キリスト教徒・非キリスト 教徒を問わずかれの名を注目に値すると考える人はごくわずかです。しかし、聖書の なかにアウグストゥスに関する記述が存在するということは、わたしたちに現実と信 仰の接点を重視させます。そこに志学会の存在意義もあるからです。 以上からわたしたちには、政治的、社会的、経済的、また学問的に志学会が直面し ている課題がなにかが明白になります。志学会は今後それらの一つひとつに鋭意とり くむことになるでしょう。そこでわたしはのこる紙面でいくつか項目を挙げるだけと なりますが、そうした問題解決にある方向付けをさせていただきます。 第一は、わたしたちの立場です。それは聖書にギリシア語でクティシス(被造もし くは自然)とよばれています。ふつうそれは多様に表現されるギリシア語フューシー ス(女神名もしくは自然)の実体をさします。いまご承知いただきたいのは、後者が フューシース あらゆる識者のよしとするところであっても、それが古代ギリシアで 女 神 と仰がれ たひととその思想を承け継いでいる事実です。その結果わたしは、いわゆるクティシ ス理解さえもこんにち神話的要素を多分に承け継ぎ、それゆえ聖書神言説などがその 例外となりえなくされていると信じ恐れるのです。 第二は、上述のモムゼンが当初第四巻であつかわれぬままのこした共和政期後半に 由来する課題、つまりパクス・ロマーナの妨げになる諸要素を今後わたしたちはこれ から学問研究の諸側面で課題としていくであろう、とおもわれることです。 最後は、その目的を、志学会は、今後 KGK、hi-b.a.、ナビゲーターのご理解とご支 援のもとで積極的に研究助成志願者を紹介していただきながら、研究を時代の要請に 正面から応えつつ KGK、hi-b.a、ナビゲーターのそれぞれに所属する学生および卒業 生全体の祈りの課題としていただきたく、願っているということであります。 3 発題講演 1 「福音,哲学,キリスト教弁証学,そして企業倫理学: わたしの信仰と学問の遍歴そして神様の導きのあかし」 梅津 光弘 私は高校1年の時に洗礼をうけてクリスチャンになりました.母教会は日本同盟キ リスト教団の世田谷中央教会で,当時主任牧師であった安藤仲市先生の薫陶をうけて, 高校生の頃は相当アグレッシブな伝道師のようなクリスチャンライフをおくっており ました.高校では,つねに聖書を持ち歩き,まさに「時がよくても,悪くても」伝道 するような高校生でありました.同級生に伝道する中で,「神なんて存在するのか?」 「おまえは聖書,聖書というが,そんなに聖書は信頼できるのか?」「イエスの奇跡 や復活などにわかに信じがたい.」「他宗教との関係はどうなのか?」「進化論をは じめとした科学的真理と宗教の主張は矛盾するのではないのか?」など高校生ならで はの遠慮会釈のない激しい攻撃を受け,立ち往生することも多くありました.こちら も未熟なら,相手も失礼千万なことを平気でぶつけてくるといった,ある意味では相 当野蛮で無知蒙昧な議論がそこにはあったのですが,現在のわたしの核はあのころの 論争時に形成されたように思います. そこで純粋に理性的な立場からのキリスト教弁証学の可能性を学ぶつもりで,慶應 義塾大学文学部哲学科に進学しました.大学時代は慶應福音キリスト者学生会に所属 し,この会の仲間達とも,生真面目に哲学や神学の議論ばかりしていたように思いま す.当時の慶應哲学科にはスコラ哲学の松本正夫先生と科学哲学の沢田允茂先生がお られ,学科の中でも先生同士が先ほどの高校生の議論をソフィスティケートしたよう な状況があり,私にとっては毎日がとても充実した日々ではありました.しかし,卒 業間近になると,福音的な立場からの哲学や神学の学びがしたくなってきました.当 時トリニティー神学校には宗教哲学科という専攻があり,そこに是非入学したいとい う希望からシカゴ留学を決意しました. トリニティー時代にも,さまざまなことを学びましたが,哲学科には当時ウィリア ム・クレイグ,ポール・ファインバーグ,スチュアート・ハケットなどの先生方が教 4 鞭をとっておりましたし,ジョージ・マブローデス(ミシガン大学),アルビン・プ ランティンガ(ノートルダム大学),アーサー・ホームズ(ホィートン大学),ウィ リアム・オルストン(シラキューズ大学),ロバート・マリフュー・アダムス(UCLA) らのクリスチャン哲学者達が講演会などでキャンパスを訪れたり,彼らが中心となっ て80年代初頭に立ち上がった Society for Christian Philosophers という学会で は,分析哲学の手法を用いて有神論的哲学,キリスト教の概念分析などの地道な哲学 を再構築しはじめている時期でもありました. また福音的な立場からの組織神学や聖書学,聖書神学なども学ぶ機会が与えられた ことも大変有益であったと思います.特に,ケネス・カンツァー,ハロルド O.J.ブラ ウンなど福音的な信仰と学問的な知識が見事に調和したような先生方の講義は今でも 印象に残るものばかりで,特にケネス・カンツァー先生は Christianity Today の編 集長を永くつとめられた方でしたが,その最終講義では,「神学という営みは,最終 的にはひとりひとりの神学があってよいのだ」といった考えが語られ,日本における 福音派とはまた一種異なったアメリカ福音主義のありかたを目の当たりにしたように 感じたのをいまでもはっきり覚えています.学問と信仰の関係を語るのが志学会の一 つの目的でもあると思いますが,真理の探究としての学問を真摯に徹底的に行ったと すれば,そこには危険な学問などなく,むしろ中途半端な学問をすることがよほど危 険なことなのではないかと,わたしは考えます. 博士課程への進学についても,当時はトリニティーの出身者が所謂リベラルな大学 院にどんどん進学していましたし,哲学科ではカトリックの大学院を勧められること も多くありました.わたしの場合は,シカゴが好きだったということもあり,また奨 学金をいただけたことなどからシカゴ・ロヨラ大学の大学院に進むことにしました. 1983年の秋のことでした. ところが,この大学院でわたしは運命的な出会いをすることになります.シカゴ・ ロヨラ大学では当時大学院に入学した学生にはすべてアドヴァイザーという,最近の ことばでいうメンターがつく制度がありました.これはその学生の専門分野とは無関 係に選ばれていたようで,私のアドヴァイザーになった先生も,どういうわけかビジ ネス・エシックスという聞き慣れない専門を研究する新進気鋭の若手研究者でありま した.入学直後にその先生の研究室を訪ねると,長身の先生が現れて Visa のこと, 5 カリキュラムのこと,奨学金のことなど大変丁寧に説明して下さいました.丁度 Visa の切り替えがうまく行かなくて,大学の留学生課の人からは一度アメリカ国外へ出て, 出直してくるようになどといわれていた最中だったので,そのことを相談すると,そ の場で大学当局に電話をいれて,掛け合ってくださいました.電話のやり取りの中で そ の 先 生 は さ か ん に 「 こ の 問 題 に 関 し て は , 我 々 の 側 に 道 徳 的 責 任 (Moral responsibility)があるのではないですか.」ということばを使っていたことを今で もはっきり覚えています. 日本人的な考えから,せっかくお世話になっているアドヴァイザーの先生の授業ぐ らいは顔を出しておくべきではなどと考え,次の学期からこの先生の「ビジネス倫理 学」のセミナーに参加することにしました.ところが,クラスでは経済学と倫理学の 術語が縦横に飛び交う大変に高度なクラスで,それまでこのような授業に出たことの なかった私はたちまち「おちこぼれ状態」になってしまいました.そこで,期末に提 出するレポートでは,まともにやっても勝ち目はないとふんで「日本のビジネス・エ シックス」という日本人であることが有利に作用するテーマで書くことにしました. 当時の日本経済は飛ぶ鳥を落とす勢いであり,日本企業も続々とシカゴはじめとする 米国中西部に進出してきていました.シカゴ総領事館の広報センターに資料集めにい くと「日本的経営論」の類いの本や論文が相当数集まり,わたしは出光石油の社長だ った出光佐三氏が書いた日本人の道徳心と経営といった,学問的には相当いい加減で しかも民族派の経営者の回顧録を手がかりに,日本的経営論の背景にある集団主義的 な倫理観が西欧のそれといかに異なっているかといった内容のペーパーを書いて提出 しました. にわか仕立ての論文であったのに,この先生は私の論文に高い評価を与えて下さり, この分野を研究してみないかと熱心に勧めて下さいました.日本のビジネスにはアメ リカとはちがった倫理があり,それが日本のビジネスの成功を支えているのではない か,日本のビジネス倫理には興味があるが日本語の文献が読めない自分は十分な研究 ができない,君がこの分野を研究すれば,アメリカのビジネスにとってもこの上ない 貢献になる,と言って熱心にこの分野の研究を勧めて下さったのでした.トーマス・ ドナルドソン先生というわたしのロヨラ時代の恩師とはいまだにつきあいがあります が,この先生の熱心なおすすめがなければ今のわたしは存在していないと思います. 6 ドナルドソン先生との出会いは,世俗的にいえば単なる偶然ということになるかも しれませんが,ここにわたしは神様の導きを感じるのです.そして,学問的にも大き な転換をすることになったわけですが,考えてみるとこうした師との出会いと転向は 学問の世界ではよくあることであり,研究者をめざしている大学院生にもこうした出 会いを大切にして頂きたいと思います.また,研究に行き詰まった時などに,こうし た転向のきっかけも出てくるかと思いますが,広い視野で勇気をもって様々な領域に 首をつっこんでみることも重要であるとわたしは思います. 博士課程時代のことを振り返ってみると,宗教哲学や分析的なキリスト教弁証学を 勉強していて,掘り下げがまだまだ不十分であると考えることはよくありましたが, 同時にキリスト教信仰に対するコミットメントが深まってくると,「100%ではな いが,もう答えは出ている」という感じをわたしはもっていました.それはアンセル ムスの「知解をもとめる信仰」という考え方への共感が私の中にあり,信仰は決して 「解ったから信じる」というものではない,ということがわかったこと.また,クラ ーク・ピノックという学者の本に Reason Enough というタイトルの本がありますが, キリスト教信仰にコミットすることは他方で十分に理にかなっているという確信が私 の中に芽生えてきていたのです. またシカゴ滞在中,わたしは学資や生活費を稼ぐためにさまざまなアルバイトをし ましたが,その中で夏休みごとにしていた通訳の仕事も,ビジネス倫理学に転向する 背景にあったと思います.通訳の仕事とはおもしろいもので,日本人とアメリカ人の ビジネスパーソンをつなぐ仕事をするわけです.よくその過程で日本人とアメリカ人 のビジネスに関する考え方や,仕事の仕方,決断の仕方の違いなどが見えてくること がありました.さらにそうした違いの中に,倫理観や広い意味での哲学の違いが現れ 出ているのです.ビジネスやマネージメントは決して金儲けのテクニックではなく, むしろ人と人との交流の中から,あるあたらしい価値を創造していくことではないか と考え始めたのもこのころです.さらに私を驚かせたのは,ビジネスの世界にいる方々 の謙虚さや誠実さといった側面でした.それまでの私は,信仰がないならこの世は闇 であり,全く世俗的な生き方をしていく以外に意味がないと考えていたのですが,日 本人,アメリカ人を問わず,「信仰もないのに,この人はどうしてここまで一生懸命 にしかも誠実に仕事にとりくめるのだろうか」と思うことが多々ありました.よい意 7 味でも悪い意味でも企業が人々の生活の中心となり,企業の中でもまれることによっ て練達の士になったような方々に多く出会うことがありました.「お客さまにご満足 していただくため」といって身を粉にして働く人,物言いから行為の細部に至るまで 謙虚に仕える姿を示している人,どんなにいやな事,つらい事があっても笑顔を絶や さない前向きな人,取引先をとことん尊重し,配慮し,心を砕いて,細心の気配りを してしかも自然に相手をたてることができる人などなど,ビジネスの世界にはすばら しい人格者が大勢いることを体験することができました.反対に学者の世界は偏屈で 怒りっぽく,ひとづきあいが悪いくせに甘えて他人を利用することが多い,自己顕揚 欲が強くまたその反面嫉妬深く,プライドが高いくせに劣等感も持っている,口は出 すが責任はとらない,一口で言って「変わり者」が多いのが学問の世界だと思います. このようなことを書いているわたしも含めて「変わり者」だからこそ学問の世界に身 をおいているのです.学問の世界に入りたいと考えている人に水をさすわけではあり ませんが,こうした事情は洋の東西を問わず今も昔もかわらない,しかもどの学問分 野についても同様にいえる現実であることをよくよく肝に銘じておく必要があるでし ょう. その後,わたしはイリノイ大学,シカゴ・ロヨラ大学,ノースウェスタン大学など で教鞭をとるようになり,パトリシア・ワーヘイン,アル・ジーニ,トム・カーソン といった諸先生の研究助手を勤めたりしながらビジネス倫理学の研究を進め,最後の 数年はシカゴ・ロヨラ大学でビジネス倫理のクラスを教えたり,地元企業へのコンサ ルテーションや大学内における全学倫理プログラム設立のお手伝いをする機会なども あたえられました.こうした,アメリカでの経験が現在ビジネス倫理学や CSR を大学 や企業で教えることの基礎になっています. ながながとビジネス倫理学へたどり着くまでの遍歴を書いて来たために,肝心の企 業倫理学そのものの詳細を書くことができなくなってしまいましたが,わたしは現代 社会では会社教とでも呼ぶべき見えない宗教が力をもっていて,これは日本もアメリ カも同様であり,程度の差はあれ現代人はこのことと向き合って活きていかなければ ならない状況にあると思います.企業社会を内側から変革していくことに企業倫理は 直接の影響力をもっており,日本ではこの10数年の歴史的展開の中で,会社教とい う一大偶像崇拝に対しては大きな風穴があけられたのではないかと考えています. 8 発題講演2 「信徒の信仰:自立した信仰に向けて」* 大谷 順彦 目次 1.この世と創造の秩序 1.1 「経済の営み」 1.2 多様性と協調 2.この世の秩序と堕落 3.この世の秩序と贖い:一般恩恵と特殊恩恵 3.1 詩篇 19 編 3.2 イエス・キリストの受肉 3.3 マタイの福音書 5:43− 45 3.4 レビ記 19:9− 37 4.トウーザーとブラザー・ローレンスに学ぶ日常の霊性 4.1 A・W・トウーザー『神への渇き』 4.2 ブラザー・ローレンスと『神の臨在の実践』 5.日常の霊性 5.1 神の子として:「思い起こし、待ち望みつつ」 5.2 聖書の黙想と祈り 5.3 日常生活の中での黙想 結びに代えて * 本稿は、2006 年 9 月 4 日、神戸市東灘区「母の家ベテル」で開催された志学会リトリートに おける発題講演に、コメントなどを参考にして、少し手を加えたものである。参加者より頂いたい くつかの貴重なコメントに感謝する。 9 1.この世と創造の秩序 人間の罪は、神と人間の関係を絶つ結果を生み出し、神との関係の断絶は、人間と 他の自然界の、また人間と人間の、連帯性の喪失をもたらした。こうした信仰と神学 を反映し、「この世」、あるいは「世俗性」、「世俗社会」についてのクリスチャンの評 価は通常かなり厳しい。経済社会の評価はなかでも厳しい。たとえば T・マートンと H・ナウエンは次のようにコメントしている。 トマス・マートン(Thomas Merton、1915-1968) 「世俗的な生活は新しさや変化という幻想に囚われた空しい希望の生活であ る、・・・、目新しさと多様さを通して死の恐れから脱出しようと懸命に努める 生活である。 」 (筆者訳。Thomas Merton, The Inner Experience, Harper Collins, 2003, p. 51.) 、 「世俗的世界は、抜け出さねばならない事柄、それ自体中身がなく逃げ出さなけ ればならない事柄に依存した世界である。・・・他方、聖な社会は、人間が自分 自身よりも低いものに依存することを許さない。 」 (筆者訳。同上 p. 52.) ヘンリ・ナウエン(Henri J.M. Nouwen、1932-1996) 「私たちの社会は、キリストの愛に輝く共同体ではなく、すぐに巻き込まれて魂 を失う、支配と操作のある危険なネットワークである。」(筆者訳。Henri J.M. Nouwen, The Way of the Heart: Desert Spirituality and Contemporary Ministry, Harper Collins, 1981, p. 21.) しかし信仰者でない人々にも神の愛が働いている。堕落の中にあっても、キリスト 教の神はすべてのものの創造者であり、またすべてのものの保持者であり統治者であ る。このことは自然界だけに限られるものでなく、この世の社会秩序にも当てはまる。 当り前の自然の働きや世俗社会も神の統治下にある。日常的な自然の働きの中にも神 を見ることができる。私たちの日常生活も神が支配されている。例として経済社会を 考えてみよう。 10 1.1 「経済の営み」 市場経済では、情報としての価格を媒介として、何百万人もの消費者のそれぞれが 個別の利害を追及して商品を需要し、何万という生産者も個別の利害を追求して商品 を供給している(「分権化」)。価格が必要な情報を集約し、各経済主体は価格をみ ながら、個別の判断で自らの利害を追求する。それぞれの消費者と生産者が、それぞ れの判断と評価にしたがって自らの利害を追及しているにもかかわらず、莫大な量の 物資が日々あたりまえのようにして消費されているというということは、驚くべき事 実である。「消しゴムつきの鉛筆」の例を考えよう(この例は M&R・フリードマン『選 択の自由』日本経済新聞社、2002 年、pp. 56-59 に負っている)。 「消しゴムつきの鉛筆」の例 「消しゴムつきの鉛筆」の原材料は、木部の材料の材木、鉛筆芯の材料として黒鉛、 消しゴムのゴム(菜種油と塩化硫黄を作用させたファクチス(factice)にゴムを加 えたもの)、消しゴムを入れる真ちゅう部品(亜鉛と銅の化合物)。 「消しゴムつきの鉛筆」の製造に関与している多くの人々は、それぞれが協力しよ うと意図していないにもかかわらず、誰かが命令や指示をしているわけでもないのに、 お互いに協力し合っているかのように行動している。「消しゴムつきの鉛筆」の製造 に必要な知識や技能について、私たちはまったく無知なまま、あたりまえのようにし て「消しゴムつきの鉛筆」を使っている。文明が進めば進むほど、自分が消費してい る物はどのようにすれば手に入るのか、どのように作れるのか、についての無知が拡 大していく。このような拡大した無知にもかかわらず文明の成果を享受することがで きるのは、分権化された市場という仕組みを利用できるからである。 この世の秩序の一つである市場経済にも神の摂理の働きがある。それぞれの関係者 が勝手に自らの利害と判断にもとづいて行動をしているにもかかわらず、当然のよう に日々の生活が営まれている。それぞれが自らの利害にもとづいて行動するという経 済の仕組みの中で、一千万人以上の市民の多くが毎日当たり前のように生活を営んで いること自体「奇蹟」に近い。市場経済の秩序、さまざまな社会秩序も、神の被造物 の一部であり、創造の秩序の一部である。 11 「天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたが その基を据えられました。 」 (詩篇 89 篇 11 節) さらに市場における熾烈な企業間競争は、家電製品、自動車、コンピュータなどの ように、驚くほどの品質向上と価格低下をもたらした。こうした技術進歩の成果は、 企業が社会全体のことを考え、社会に及ぼす恩恵を目標として努力してきたものでは ない。むしろ、いかにすれば競争相手に勝てるのか、またいかにすれば金が儲るのか という競争心、利害欲の結果である。それぞれの利害にもとづいて行動する分権的な 競争を原理とする市場経済は自己中心主義を奨励するという批判もある。しかし熾烈 な競争は品質重視、顧客第一、信用第一といった商倫理、経済倫理を啓発してきたこ とも事実である。 (以上については、大谷順彦『この世の富に忠実に』第 2 版、すぐ書房、2002 を参照。 ) 1.2 多様性と協調 競争の中でも協調的な行動が多く見られる。進化生物学では、アリのように協同社 会を形成する生き物の生態や、さまざまな種(生命体)の間の共生関係が研究されて きた。こうした協調的関係を支えるものは、種内の個体の多様性であり、また種の多 様性である。多様性があるので、個体間あるいは種と種の間の協調がシナジー(協働 作用)となり、自然選択で生き残れるような相互利益を生み出す。また生命体の多様 性は、環境の変化に対応できる生態系をもたらし、環境変化のリスクに対するクッシ ョンとなる。生態学者は、一地域の生態系の健全さを、しばしば生命体の多様性で測 定する。 同様の議論が人間の社会、とりわけ経済社会、についても可能である。多様な能力 をもつ個人が集まればシナジーとなり企業内組織を生み出し、多様な製品や技術を有 したいくつかの企業がシナジーを見出し、企業間組織となる。こうした協調的関係の なかで市場競争が行われる。多様性の高い国や地域は、経済環境の変化のリスクに対 しより高い順応性をもつ。多様性をもった社会での競争は、協調を伴った競争である。 12 「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それ は非常によかった。 」 (創世記 1:31) 被造物のすべてを神が「よかった」と喜ばれ、すべての被造物の創造を讃美された。 これは自然の生態系の多様性についての神の讃美であり(大谷順彦『進化をめぐる科 学と信仰』すぐ書房、2001、pp.160-165 参照)、人間と人間の生み出した文化の多様 性への神の讃美でもある。創造主である主なる神は多様性を好まれる。生態系と人間 社会の多様性は神の摂理の恩恵である。 2.この世の秩序と堕落 市場経済にも不備が多く、完全なものではない。市場社会に人間の貪欲、利害欲を 発見することができる。貧困、飢餓、格差を発見することができる。ゴミ問題や地球 規模の環境問題もある。市場社会の不完全さのなかでも、また人間の利害欲や貪欲さ のなかでも、多くの市民は当り前の事のように日々の生活を営むことができる。これ は神の摂理の恩恵であり、自然の恵みと同様に一般恩恵の一部である。しかも経済の 営みでは、人間の貪欲や利害心が実に巧みに利用され、競争を通じて、お互いの恩恵 へと変換されるような秩序となっている。カルバンはキリスト教綱要(第 2 編 3 章 3) の中で次のようにいう。 「私たちの堕落した性質にもかかわらず、神の恩恵の余地は残されていることを 認識しなければいけない。この恩恵はそうした人の性質を聖化するものではない が、しかし内部より抑制するものである。 ・・・ 神は選ばれた人々の悪を癒されるが、選ばれていない人々には、秩序を維持す ることが不可能にならないように、悪が爆発することを抑制されるのである。 そうした人々は罪の深さを隠していることになるが、恥ずかしさで行動が抑制 され、法律への恐れによって抑制される。ある人は正直に生活することが自らの 利益になると考え、またある人は地位の権威により下の者を抑えることができる として一般の人よりも優れた者になろうとする。このようにして神は、摂理によ って、性質の邪悪さを抑え、行いの中に邪悪さが爆発することを阻止される。し 13 か し そ れ は 内 面 的 に 清 く す る も の で は な い 。」( 筆 者 訳 : John Calvin, The Institute of Christian Religion, edited by T. Lane and H. Osborne, Hodder and Stoughton Christian Classic, Hodder and Stoughton, 1986, Book Two Chapter 3 (3), pp. 94-95.) このように一般恩恵は人間の内面からも、また制度を通して人間の外面からも、罪 を抑制し社会の秩序をもたらす。さらに文化・科学・芸術の促進も一般恩恵に含まれ る。 日本社会では、伝統的に、顧客へのサービス、品物の品質を非常に重視してきた。 これは江戸時代などより歴史的に培われてきた商倫理、経済倫理の延長線にある。ど のようにすればお客を失わないのか、そして利益を維持できるのかという動機、すな わち市場経済の競争原理、お互いのチェックとバランス、これが伝統的な商倫理を自 発的に産みだしてきた。これは歴史的にそれぞれの文化において培われ、経済社会を 支える伝統的な秩序である。市場経済の秩序は経済の仕組みだけではなく、商倫理・ 経済倫理のような文化的伝統、商法、会社法といった法制度のように、さまざまな社 会秩序に支えられている。 堕落の中にある人間を相手とする一般社会の仕組みは愛や公徳心を基本にすること は出来ない。愛と公徳心を基礎とするような社会の仕組みは、社会主義の失敗が示す ように、きわめて脆く弱いものである。市場経済は貪欲にも結びつく個々の利害追求 を通しての競争原理を基礎にしている。罪の中にある人間の社会が存続できる仕組み は、あくまで貪欲な人間でも存続できるような仕組みでなければいけない。旧約聖書 の時代から存続してきた市場経済、市場を通しての取引と言った社会の仕組みは実に 強靭である。それは各々の自己責任の下で自主的な利害追求を基礎にしているからで ある。このように神は、人間の貪欲をも逆手に取り、一般恩恵へと変えられる。こう した仕組みは旧約聖書の時代より、歴史的に、自生的に、人間が部分的な改善を加え ながら発展したものである。 14 3.この世の秩序と贖い:一般恩恵と特殊恩恵 キリスト教神学では、恩恵を「一般恩恵」と「特殊恩恵」に区別する。「特殊恩恵」 とは「救いにかんする恩恵」だとされる。 「一般恩恵」と「特殊恩恵」という区別は、 神学的に概念の整理として有益であるが、その相違をそれほど強調すべきではなく、 一般恩恵と特殊恩恵の連続性も重要である。 3.1 詩篇 19 編 ・ 「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、 話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 」 (1− 2) ・ 「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、 ・・・」 (7) ・ 「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。 ・・・」 (13) ・ 「・・・わが岩、わが贖い主、主よ。 」 (14) この詩篇の詩人にとって神の恵みは、自然の恵みから贖いまで連続的に結びついて おり、一体的・統一的に把握されている。 「恩恵」に「一般」と「特殊」 、 「聖」と「俗」 といった区別はされていない。このことは他の多くの詩篇にも見出すことができる。 3.2 イエス・キリストの受肉 イエス・キリストの受肉は、恩恵に、「一般」と「特殊」、「聖」と「俗」の区別は ないことを明瞭に示す。イエスの受肉について、よく指摘されるのは「イエスはこの 世で私たちと同じような苦しみを受けられた。だから神は私たちの苦しみを理解され るのだ」という点である。しかし「苦しみ」だけではなく、喜びも、楽しみも、日常 の平凡な生活も、私たちのいわゆる俗世間での生活をイエスは体験された。 ・ 「この人は大工の息子ではありませんか。 ・・・」 (マタイの福音書 13:55) ・ 「人の子が来て食べたり飲んだりしていると『あれ見よ。食いしんぼうの大 酒飲み、酒税人や罪人の仲間だ。 』と言います。 ・・・」 (マタイの福音書 11: 19) 15 イエスは馬小屋でお生まれになり、ガリラヤの片田舎で、大工という実に庶民的な 家庭で育たれた。人間の姿をとり、当り前の日常生活を経験された。神が自ら普段着 姿でこの地上で私たちと同じように日常生活を送られた。 私たちは、背広を着て、ネクタイをしめ、正装して教会に行き、ようやく神の臨在 を感じるようになっていないか。私たちは普段着の中で神を見る敏感な感受性をもっ ているか。「・・・あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え 物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ書 12:1) とあるように、私たちの生活のすべてにおいて、普段着の中で、私たちは神を礼拝す べきである。 3.3 マタイの福音書 5:43− 45 ・ 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞い ています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する 者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもにな れるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正し くない人にも雨を降らせてくださるからです。 」 (マタイの福音書 5:43− 45) 神が自然の恵みを無条件に施すように「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈り なさい。」とイエスは言う。一般恩恵とされる自然の恵みに現れている神の無条件な 愛を指し示し、イエスは「自分の敵を愛する」という無条件の愛(アガペ)を説いた。 イエスの十字架は無条件の愛を究極的に示す。ここで一般恩恵は特殊恩恵を理解する 出発点となっている。 3.4 レビ記 19:9− 37 ・ 「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前に つまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主で ある。 」 (14) 16 旧約聖書のレビ記 19 章 9− 37 節(申命記 14− 15、24− 25 章も参照)には、日常生 活の行動を規定するさまざまな律法が記されている。しかもレビ記 19 章では「わた しはあなたがたの神、主である。」、「わたしは主である。」という言葉が何度も繰り返 されている。モーセ五書の律法は、信仰的・宗教儀式的なことだけではなく、人間生 活のすべてにかかわるものである。こうした日常生活にかかわる律法をクリスチャン は「律法主義」として蔑視することが多い。「律法」と訳される「トーラー(Torah)」 という言葉は「教え(instruction or teaching)」を意味し、「神の民として生きる ための教え」である。主なる神は、イスラエル人が日常性の中で神の臨在を覚えるよ うに、こうした日常性に係わる律法を制定されたのではないか。しかし律法主義から 解放されたとして、多くのクリスチャンは日常生活の場が神と関わりがなくなったか のように、主なる神を日常生活で意識しなくなっている。「わたしはわたしの律法を 彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。 」 (エレミヤ書 31 章 33 節)とあるが、 クリスチャンにとって律法が心に書きしるされたものになっているのか、日常性の中 でどれほど「神を畏れる」生活をしているのか。私たちは障害者に配慮が必要だとい うことを社会倫理として理解していても、上記の 14 節にあるような「あなたの神を 恐れなさい。わたしは主である」という意識をどれほど抱いているだろうか。 4.トウーザーとブラザー・ローレンスに学ぶ日常の霊性 4.1 A・W・トウーザー『神への渇き』 一般信徒が日常性の中で神を見ることの重要性を説いた著書はそれほど多くない。 数少ない著書の一つは A・W・トウーザー『神への渇き』(いのちのことば社、1958 年、 [A.W. Tozer, The Pursuit of God , Christian Publications, Inc., 1982, 1993] ). である。トウーザー(1897− 1963)は小学校(Grade School)以上の教育は受けてお らず、もちろん神学校での教育も受けていない。それでもトウーザーは熱心な読書家 で、キリスト教関係の古典、とくにキリスト教神秘主義関係の書物をよく読んでいた。 彼の霊性の高さが認められ牧師となり、説教者として高い評価をうけ、また多数の書 物を著した。『神への渇き』では、トウーザーの信仰体験から生まれた高い霊性をう かがい知ることができると同時に、神学教育の枠にはめられていない「平信徒」の視 17 点に立った信仰の奨めが特徴として見受けられる。『神への渇き』の最後をトウーザ ーは次のように終えている。 「「平信徒」は自分の地味な働きが、牧師の働きよりも劣っていると決して考 えてはならない。それぞれ神に与えられた職業に従事したままでよい。彼の仕 事は牧師の仕事と同等に神聖である。人がする仕事によってその仕事が神聖だ とか世俗的だとか決まるものではない。何のために働くかによって決まるので ある。動機がすべてである。人のその心において主なる神を礼拝するなら、そ の後に彼がすることは一つとして平凡な行為ではありえない。彼のすることは みな善であり、イエス・キリストによって神に受け入れられるのである。この ような人にとっては、生きること自身が聖礼典であり、全世界が聖所である。 彼の全生活が祭司の奉仕となる。彼がこの決して簡単ではない仕事を遂行する とき、彼はセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主、その栄光は全 地に満つ」(イザヤ 6:3)と呼びかわしている声を聞くであろう。」(A・W・ト ウーザー『神への渇き』いのちのことば社、1958 年、141 頁) 。 またトウーザーは『神への渇き』の中で、静思の時の重要性を説くと同時に、「信 仰とは神を見ること、凝視(gaze)すること」(103 頁)であり、「信仰は毎日激しい 労働に携わっている多くの人々によって、大きな喜びの中に実践されている」(104 頁)とし、次のように語る。 「多くの人々が私の語っている秘訣を見出し、彼らの心の中に起こっているこ とについてはあまり考えないで、この内なる目をもって神を凝視するという幸 いな習慣を絶えず実践している。彼らは自分の心の中にある何かが神を見てい ることを知っている。この世の仕事に携わるために神への意識的集中を中止し なければならない時でも、彼らの心の中では神とのひそやかな交わりがいつも 行われている。 」 (105 頁) 18 4.2 ブラザー・ローレンスと『神の臨在の実践』 トウーザーの言う「仕事に携わりながら神を見ていた」信仰者の一人はブラザー・ ローレンス(Brother Lawrence、1614?− 1691)である。ブラザー・ローレンスは 17 世紀のフランス人である。17 世紀のヨーロッパは、物質的にも、また精神的にも、多 大な荒廃をもたらした 30 年戦争の激動の時代であった。ブラザー・ローレンスは、 もともと Nicholas Herman という名であったが、多感な幼少期、青年期を 30 年戦争 の混乱の中で過ごしている。フランス軍に入隊するが、脚に負傷し、兵士として勤ま らなくなり、故郷に戻る。その後いくつかの職を転々とし、1642 年、約 28 歳のとき、 パリの跣足カルメル会の修道院(the Discalced Carmelite Monastery)に平信徒の 働き手(すなわち平修士)として入った。その修道院で与えられた名前がブラザー・ ローレンス(正確な名称は「復活のブラザー・ローレンス(Brother Lawrence of the Resurrection)」)である。ブラザー・ローレンスは、その後の生涯を修道院の働き 手として過ごした。ブラザー・ローレンスが従事した仕事はもっぱら肉体労働である。 戦いで負傷した脚のためびっこをひきながら、15 年間ほど修道院の台所で働いた。脚 の状態が悪くなると、座ってでもできるサンダル作りとサンダル修理に従事した。修 道院に入ってから 10 年ほどは自分が霊的に未熟だという劣等感のようなもので落ち 込んでいたが、ある時を境として完全に変えられ、深い内面的な平安を覚えるように なった。台所でポテトの皮をむきながらでも神の臨在の中にある自分を覚え、神のた めに仕事をしている大きな喜びを感じるようになった。ブラザー・ローレンスの敏感 な霊性と謙虚さの噂が次第に修道院の外にも広がり、ブラザー・ローレンスと話をす るために修道院にやってくる庶民が増えていった。天に召される数年前から、修道院 のド・ボーフォール神父(Abbé De Beaufort)がブラザー・ローレンスとの会話を記 録し、その記録等をもとに没一年後に『神の臨在の実践(The Practice of the Presence of God)』と題する小冊子が出版された。(Brother Lawrence, The Practice of the Presence of God , translated with an introduction by John J. Delaney, 1977, Doubleday;Brother Lawrence, The Practice of the Presence of God, Hendrickson Christian Classics, 2004, Hendrickson Publishers;Brother Lawrence, The Practice of the Presence of God, foreword by Mother Tessa Bislecki, New Seeds Books, 2004, Shambhala Publications, Inc.) 19 ブラザー・ローレンスの信仰姿勢は、たえざる祈りと神の臨在についての敏感な感 受性を特徴としている。あまりにも神の臨在感覚に敏感なので、ブラザー・ローレン スにとってそれは、癖や習慣、あるいは生きるために呼吸をしている自律神経のよう な感覚、にまでなっていた。ド・ボーフォール神父との第四の会話の中で、ブラザー・ ローレンスは次のように語る。 「修道院に来て最初の頃は、各自の祈りの時間に、神さまのことを考えて長 時間を費やしていました。自分の心に神さまの存在を深く刻み込んで納得しよ うと、理性的な学びや念入りな瞑想ではなく、信仰深い感情や信仰の光に委ね るようにしました。この短いが確実な方法で、神さまを知り、神さまの愛を実 践してきました。そして神さまの臨在をたえず感じながら生きるように、また 神さまをできるだけ忘れないように努めました。 祈りを通して無限の存在の感情に充たされて、台所で指定された仕事につき ました。仕事に必要ないくつかの事柄や、それぞれの仕事をどのようにするか を最初に考え、仕事の前後や、仕事の合間を祈りで過ごしました。 仕事を始める時には、神の子としての信頼をもって『神さま、あなたは私と ともにおられますから、今あなたの命令に従い、これらの仕事に私の心を向け ますので、どうかあなたがずっとともにおられ恵みを与えてください。そして、 私にあなたの助けを豊かに与えてください。私の働きと私の愛をすべてお受け 取りください。』と神さまに祈ります。 仕事が終わると、どのように仕事を行ったかを検討し、もしうまく仕事がで きたなら、神さまに感謝し、そうでないなら、神さまに赦しを請い、落胆しな いでもう一度心を整え、神さまから離れることがけっしてないように、神さま の臨在を感じ続けました。 このように失敗しても起き上がり、信仰と愛をしばしば新しくすることで、 神さまのことを考え続けるという状態になっていきます。それでも最初の頃は 神さまの臨在に慣れることが必要でしたが。・・・仕事の時間は、祈りの時間 と変わりはありません。台所の騒音やごった返しの中で、人々がそれぞれ色ん 20 なことを叫んでいる中で、教会の聖礼典でひざまずき静寂の中にいる時のよう に、私は神さまを感じています。」(筆者訳:Hendrickson 版、pp. 21-22) ブラザー・ローレンスはキリストの僕として、神に仕え、神を喜ばせるために修道 院の仕事を行った。しかも彼が従事した仕事は、一般に「崇高な」と呼ばれるもので はなかった。多くの庶民がブラザー・ローレンスと話すためにやって来たのは、ブラ ザー・ローレンスが、霊性に満ちあふれて、自分たち庶民の多くが従事しているよう な仕事に、喜びをもって誠実に励んでいる姿を見るため、またそのようなブラザー・ ローレンスと話をするため、人々はやって来た。これこそ生き様を通しての信仰の証 しであり、平信徒の証し人としての模範がここにある。ジョン・R・タイソン(John R. Tyson)は『キリスト教の霊性への招待』というアンソロジーに A・W・トウーザーの 『神への渇き』の第 10 章「生活の聖礼典(The Sacrament of Living)」を収録して い る ( John R. Tyson, ed. [1999], Invitation to Christian Spirituality: An Ecumenical Anthology , Oxford University Press, pp. 402-405)。その前に簡単な トウーザーの紹介(pp. 401-402)が付記されているが、その中でトウーザーを「深 遠だが通常のクリスチャン生活の中に働かれる神を見ることに、すべての心を向けた 20 世紀のブラザー・ローレンス」(p. 402)であると評している。 5.日常の霊性 5.1 神の子として:「思い起こし、待ち望みつつ」 キリスト者はイエス・キリストを告白し、洗礼を受け、「神の子ども」とされた者 である(ヨハネ 1:12、1ヨハネ 3:1− 2、ローマ 8:14− 17)。十字架による罪の許 しと信仰義認が信仰生活の出発点となる。罪を許される神は裁き主としての神である が、「神の子ども」としての神は、「父なる神」と「神の子ども」という愛の関係に あるものである。信仰者として最大の祝福は、罪の許しではなく、罪が許されて「神 の子ども」とされることである。いわば「神の子ども」であることが、キリスト者の アイデンティティなのである。M・L・キング牧師の霊的指導者であったハワード・サ ーマン(Howard Thurman, 1900-1981)は、黒人として始めてボストン大学の正教授 となり、チャペルのディーン(学部長)をも勤めた。サーマンは著名な書『イエスと 権利を奪われた者』( Jesus and the Disinherited, Beacon Press, 1949, p. 50) 21 の中で、「あなたは神の子どもだ」と祖母に教えられたことが、自分のアイデンティ ティになったと語っている。彼の祖母が「あなたがたはニグロではない、奴隷でもな い。あなたがたは神の子どもである」とある牧師に教えられたことを、祖母は自分の 孫に伝えたのである。 神の子どもとしての特権は、天の御国と、永遠のいのちが約束されていることにあ る。日々私たちは、多くの祝福を神より与えられ、アガペの愛によって生かされてい る。神のあわれみと祝福をたえず覚え、思い起こす信仰の敏感さが「神の子ども」で ある私たちに必要である。神の祝福に気づき思い起こし、私たちは天の御国と永遠の いのちを前もって味わい、神の栄光の輝きを垣間見る。そして天の御国を待ち望む喜 びが与えられる。信仰の成長とは、こうした、神の子として「思い起こし、待ち望む」 敏感さを成長させること、言い換えれば、神の臨在を覚える敏感さを成長させること である。またそれを通して、神の子としてのアイデンティティをより確かなものへと させることが信仰の成長である。 5.2 聖書の黙想と祈り 日常生活の中で、日常性から遮断された静思の時間を設け、黙想し、神に祈ること が、私たちの信仰生活にとってきわめて重要である。静まりの中で、神の臨在を覚え、 神が私たちに与えられているさまざまな祝福に感謝することは、クリスチャンの霊性 の基本である。イエスもそうした静思の時間をもっておられた(マタイ 14:23、マル コ 1:35、ルカ 5:16、9:18) 。トウーザーも『神への渇き』の中で 「静まって神の前に侍することが大切である。できれば聖書を広げて、ひとり になるのが一番よい。そのとき、私たちにその意志さえあるなら、私たちは神 に近づき、神が私たちの心に語られるのを聞くようになるだろう。 」 (89 頁) と語っている。またキリスト教の歴史を通して、多くの聖人が黙想や祈りについて語 り、また弟子を指導してきた。例えばイエズス会の創始者ロヨラのイグナチオ (Ignatius of Loyola, 1491-1556)による『霊操』(Ignatius Loyola, Spiritual Exercises , the Cross Publishing Company, 1992)は、貴重な霊的ディシプリンを 22 教えてくれる。カルヴァンによれば「祈りは主要な信仰の修練・霊操(exercise)」 とされる。私たちの日常生活を通して神は働かれている。それゆえ「私たちは日常生 活における神の恵みについていつも内省することが必要である」とカルヴァンは『キ リスト教綱要』 (John Calvin, The Institute of Christian Religion, edited by T. Lane and H. Osborne, Hodder and Stoughton Christian Classic, Hodder and Stoughton, 1986, Book Three, Chapter 20, pp. 203-210)の中で主張している。黙想や祈りも、 日常生活を通して与えられている神の祝福と恵みを、たえず思い起こすことが出発点 となる。それぞれの生活の中で働いておられる神を私たちが見出す祈りをJ・D・ド リスキル(Joseph D. Driskill)は「自己吟味の祈り(Prayer of Examen) 」と呼び、 黙想や祈りの出発点とするように示唆している(Driskill, Joseph D. Protestant Spiritual Exercises: Theology, History and Practice, Morehouse Publishing, 1999, pp. 97-102.)。これはロヨラの聖イグナチオが『霊操』の中で示唆していることでも ある(Margaret Silf, Companion of Christ: Ignatian Spirituality for Everyday Living, Wm. B. Eerdmans, 2004, pp.20-28)。以上のような日常生活の自己吟味より 出発すれば、より生活に密着した黙想と祈りの静まりの時となるのではないだろうか。 5.3 日常生活の中での黙想 キリスト教信仰がすべての生活とすべての人格にかかわることであるなら、ブラザ ー・ローレンスや A・W・トウーザーのように、静まりの時のみならず日常生活の中で 神を覚え、「仕事に携わりながら神を見る」ことが必要とされる。このような信仰の 感性を身につけるにはどのようにすればよいのだろうか。 一つのヒントは、「自分の敵を愛する」無条件な愛は、神が無条件に施す自然の祝 福に現れていると説いているイエスのことば(マタイの福音書 5 章 44− 45 節)にあ るように思う。まず創造主・保持者としての神を覚える、すなわち自然の豊かな恵み を通して神の無条件の愛を覚えることを出発点にすることではないだろうか。たんに 独りで静思することにも危険性があることを T・マートンは次のように指摘している。 「独り静まること(solitude)は霊的自由のために必要である。しかし、いった ん自由を獲得するなら、もはや隷属状態ではないので、愛の奉仕という実践が必 23 要となる。たんなる隠遁は、動きのない死に似た霊的な惰性となり、内なる自己 は覚醒されない。」(筆者訳。Thomas Merton, The Inner Experience, Harper Collins, 2003, p. 24.) 神を見ることを、愛の奉仕の実践に結びつけるには、人間の社会生活も神の創造の 一部であることを認識することが必要である。「人がひとりでいるのは良くない」(創 世記 3:18)という主なる神のことばが示すように、人間の社会性は神が人間に備え られた性質であり、人間社会も神の統治の下にある。人間の罪による神との関係の断 絶は、人間と他の自然界との連帯性の喪失だけではなく、同世代における人間の連帯 性の喪失、現世代と将来世代の人間の連帯性の喪失、をもたらした。イエスの十字架 と復活によって神との関係を取り戻したキリスト者は、このような連帯感意識を回復 しなければならない。自然の中に神を見る、また社会の中に神を見る、といった「神 を見る」(トウーザーの「神を凝視する」)ことによって、連帯性の視点の回復が必要 である。さまざまなつながりの中で自分が生かされていること覚え、これらがすべて 創造主である神の保持の下にあるつながりであることを凝視し、日々内省していくこ とが、日常生活においてもっとも重要な黙想ではないだろうか。このような黙想の出 発点となるのが「自然を見る」生活である。信仰者であるないにかかわらず、荒野や、 砂漠や、日本人には緑の自然に神秘的な安らぎや平安を感じる。すべての人間は「神 のかたち」として創造された感触を持っている。人間の傲慢さや自分勝手な尊大さで 彩られていない自然に触れるとき創造主・保持者なる神とのつながりを感じ、それが 安らぎの感覚に導くのではないか。「神のかたち」として私たちに備えられている神 秘性への感性を磨くことによって、「神を見る」という視点が鋭敏になっていくので はないか。そのためには、自然との接点がより豊かになる生活を大事にすること、す なわち神を凝視しつつ「簡素な生活(simple life) 」を大事にすることが必要である。 そして、それぞれが置かれた立場におけるさまざまなつながりにおいて神を凝視する ことである。主婦は主婦という立場で神を凝視し、職業人はそれぞれの仕事の中で神 を凝視する。霊性が脱水症状になれば、自然の中で憩い、必要な水分を与え、またそ れぞれの生活や仕事に戻り、生活や仕事を通して神を見る、これが「愛の奉仕の実践」 に結びつく「神を畏れる生き方」ではないだろうか。このような生き方に努めていれ 24 ば、たえず神と対話しつつ仕事をしていたブラザー・ローレンスの心境に近づくこと ができるのではなかろうか。[「感触」、「感覚」といった言葉に、神秘主義やカリスマ 主義の影響を見いだし、懸念を覚える方々もおられるかもしれない。ここでは被造物 である自然に触れることによって感じる神秘性を問題にしている。理性の働きによっ て神認識に導かれる以前の、より直接的・根源的な神秘性の感覚について述べている と理解していただきたい。 ] 結びに代えて 1.「トーラー(Torah)」が「神の民として生きるための教え」であるように、キ リスト者の信仰は人間としていかに生きるか、人間の生き様の問題であり、生活のす べて、全人格に関わるものである。すなわちキリスト者が神の子としていかに生きる か、いかに成長していくかが、信仰であり、信仰生活である。日本の教会で説かれる 信仰生活は、多くの場合、教会生活についてである。また十字架の救いのメッセージ に比べて、神の子として成長することや、神の子としてのアイデンティティを育むよ うなメッセージはあまりにも少ない。自然界、人間社会、それぞれの生活のすべてに 関わる神の臨在をたえず凝視する総合的で視野の広い信仰が、この世で生きる信徒に 必要とされる。T・マートンはその著書の一つ (Thomas Merton, Life and Holiness, Image Books, Doubleday, 1963, pp. 118-119.)の結論で、次のように述べている。 「神を愛する者にとって、良いことと見えようが、悪いことと見えようが、すべ てのことは実際には良いことである。すべてのことが神の愛の憐れみを表してい る。すべてのことが愛において人々を成長させる。すべての出来事が人々を神に より近くさせる。そのような人々にとって障壁は存在しない。神は、障壁をも、 私たちの、そして神の目的への手段とする。これが霊的な完全さの意味であり、 それは超人的な力のある人が達成できるのではなく、自身が弱く欠陥をもってい るが、神の愛に完全に信頼する人によって達成される。 」 (筆者訳、下線も筆者) ここでマートンが「すべての」という言葉を 4 度も使っていることに注意したい。 すべての創造主であり、保持者である神はすべてのことに関わっておられることは、 25 信徒にとってもっとも重要な視点であり、トマス・ア・ケンピスの次の祈りに導くも のである。 「主よ、天の知恵を私に与えてください。そして、私がすべてのことについてあ なたを求めることを学び、すべてのことであなたを喜び・愛することを学び、す べてのことをそのままに、またあなたの知恵であなたが定められたように、理解 することを学ぶことができますように。 」 (筆者訳、下線も筆者、Thomas à Kempis, The Imitation of Christ, edited and translated by Joseph N. Tylenda, Vintage Spriritual Classics, Random House, 1998, p.119.) 2.イエスの宣教は社会の末端にある弱者に手を差し伸べるものであった。人々と 食事をしながら、また野外で人々と交わりながら、説教された。イエスの説教も教養 のない人でも分かるような「たとえ話」であった。またパリサイ人など、イエスに敵 対心をいだく人々の中で宣教し、イエスが捕らえられると、弟子たちはすべてイエス を捨てて逃げ去っていった。私たち一般信徒は 90%以上の時間を世俗社会のまっただ 中で生きている。そのような世俗社会における私たちの生活の場で、神の子として「思 い起こし、待ち望みつつ」神の臨在を覚え、霊性に磨きをかけ、福音を伝えていくこ とは信徒しかできない。そのような信徒の伝道でもっとも重要なのは、私たち自らを 「たとえ話」として利用することではないか。いいかえれば、私たちの生き様やライ フスタイルを通して証しするという方向である。そのようなライフスタイルによる証 しには、私たち一人ひとりが、それぞれの生活や仕事の中ですべてのことについて、 神を凝視し続けることが大事ではないか。 イギリスの神学者アリスター・マグラスは、その著書(『キリスト教の将来』教文 館、2002、216 頁)の最後で、これからの神学は学究的神学から、大衆と結びついた 「会衆の神学」にならなければならない、と結論づけている。しかし、もっとも会衆 .. が必要としているのは「会衆の神学」ではなく、信徒の視点にたった信仰、 「信徒(会 .. 衆)の信 仰 」、である。日本におけるこれからのキリスト教が論じられているが(た とえば工藤信夫『これからのキリスト教 ―― 一精神科医の視点』いのちのことば 26 .... 社、2005) 、 「信徒の自立した信仰」も日本のキリスト教が抱えている一つの課題だと、 筆者は感じている。狭く限られた視野で神の子として成長が不十分なため、一個の信 仰者として自立・独立していないクリスチャンがあまりにも多い。それぞれの信徒が、 より広い視野をもって、自立した生きた信仰を自らのものとし、それぞれのライフス タイルを通して福音を語ることが一般信徒の重要な役割ではないだろうか。 この世で生きる信仰生活の基礎として、日々の生活の中でたえず神を凝視し続ける ことによって、神の子としてのアイデンティティを育み、確かなものとしていくこと を中心に議論した。もちろん、この世で生きるキリスト者は、信仰とこの世の価値観 の狭間で苦しむことが多くある。職場での出来事について内部告発せざるを得ないよ うな困難に直面することもある。 「イエスに倣う」生活を目指すキリスト者にとって、 こうした困難を避けることはできない。それぞれのキリスト者が置かれた立場に特有 の困難がある。信徒としてのそれぞれのキリスト者が、それぞれの困難、課題、祝福 について、それぞれの立場から語り、分かち合い、祈りあう、といった機会がもっと 豊かになって欲しいものだと願っている。 27 第4回リトリート参加者による感想文 「志学会リトリートの機会を得て」 武藤 小枝里 「志学会」なるグループの活動を、友人の高井ヘラー由紀さんから紹介されたのは、 アフリカでの開発援助の仕事から離れ、数年ぶりに日本に戻って、学生生活をしてい た昨年の初夏でした。一泊二日あまりの部分参加でもあったため、個人的な感想とい った程度にしか、参加の報告ができないという心苦しさがあります。また、率直な印 象として、自分の立場や年齢が、少々「志学会」の趣旨がはずれていたのではないか と、参加した後で、少々後ろめたさも感じたりしました。しかし、短いながらも、そ のメンバーの層の厚さ、また個性的な研究や活動等をご紹介頂き、大変刺激的な時間 でありました。 この原稿を、今、私は、ルワンダで書いています。卒業式を待たず、この 2 月に慌 しくアフリカに戻ってきて、再び教育協力の専門家として働いています。自分の居場 所から、この約 2 年弱の日本での学生生活を振り返る時、ひょんなことで参加したこ の短い志学会の集いが、ある意味、とても象徴的な経験でもあったなと思い始めてい ます。 かつて 20 代に学生であった頃、私の関心は、キリスト者としてどのような生き方 が相応しいか、そして、それは率直に、どのような「仕事」に就くかという点にあっ たと思います。そうして、関わった国際協力という現場において、キリスト者として、 他者の助けにならんと献身し活動する多くの人に出会いました。他方、善良な思いや 正義感だけでは、そうした紛争や貧困の中で苦しんでいる人々の助け手として、充分 にその役割を果たすことができないという厳しい現実にも直面しました。こうした仕 事の現場で、「キリスト者としての使命をより良く果たせるようになるために、私に 必要なことは何なのだろう?」そんな事をしばらく考えていたと思います。 30 代後半、仕事を辞め、開発経済の勉強を始めようと思った動機には、自己の専門 を深め、より一層、効果的に開発援助に仕事ができるようになりたいという気持ちが ありました。しかし、そうして飛び込んだ研究生活の中で、私は、キリスト者の使命 28 を抱えながら、自己の研究に邁進することの孤独感を感じました。開発経済を学ぼう と思った理由には、この学問が、貧困に直面する人々が安全で安定した生活をするた めに、どのような方策があるのか、それを模索する手法だと思ったからです。しかし、 学問の動機がさまざまなように、そうした事への関心よりは、むしろ、自身のキャリ アアップや組織の研修の一貫という目的の方にも出会いました。私にとって、この 2 年弱の学生生活は、現実に存在している「貧困や紛争に向き合っている人々」が、単 に学問の対象という、ある種、一貫した「現実感の欠如」に包まれた、なんとも皮肉 な生活でもありました。 率直なところ、そうした「貧困な精神生活」を振り返る時、そしてまさにその最中 で出会った「志学会」の集いは、私にとっては、「キリスト者」として「研究者」や 「専門職」を追求することの重要性を改めて実感する好機、いや「救済」の機会では なかったかと思います。 かつて、仕事の現場において、仕事の責任とキリスト者としての使命をどう合致で きるか、常に葛藤していました。難しい課題に向き合いながら、自分の力量のなさに 自己嫌悪に陥ったり、キリスト教主義に基づく活動にかかわる人々の中で、時折出会 った、その独善的な視点や、それゆえに自己の技術の未熟さに対する自己正当化や自 己研鑽の意識の欠如に批判的でさえもありました。自己の未熟さをありのままに受け 入れ、祈り続けることで果たして、充分なのか?そんな風に、懐疑的になっていまし た。 しかし、再び戻った学問の場で、「キリスト者」がその役割を果たすべき場所に、 彼らがいないという現実にも気がつきました。そう言われて久しいですが、改めて、 多くの学問が形骸化し、その根本である「何のために」という最も基本的な問いかけ を忘れてしまったかのようにさえ感じました。開発援助という世界で、私は、その現 場においても、また、その学問の場においても、「何のために」という問いかけを真 剣に繰る返す事で、周囲から失笑をかっているという、なんとも居心地の悪さを感じ ました。しかし、それは、安易に他者と共感することで、自己正当化することを許さ ず、より直接的に、その模索のために、キリスト者として、神さまと向き合うという、 逃げられない機会であったとも思っています。 「隣人を愛せよ」という問いかけは、キリスト者が、その自己の学び、働き、生活 29 の中で常に考え続けなければならない、そしてその答えを実践で表していかなければ ならない問いかけだと思います。他者と連帯することに対する強い共感がない限り、 どんな研究も、どんな仕事も、キリスト者としての使命において果たされないのでし ょう。そして、それが理解できる時、人は、自己の未熟さを、謙虚に受け入れ、また、 自己が果たすべき責任は何かと、祈りを通じて導かれたいと素直に思うのだとも思い ます。 志学会の集いは、キリスト者として常に学び、成長する志、これこそが、研究者に とっても、実践者にとっても、根幹であり、全てなのだという事実を、再発見する機 会であったと思っています。 (2007 年 6 月記) 「志学会に参加して」 藤原 正澄 今回、志学会に初めて参加しました。参加した経緯も含めてその感想を少しばかり 書かせて頂きます。 私は現在、物理専攻の博士課程に在学しています。私の所属している研究室は私が 大学 4 年生になったときに初めて組織された研究室でした。つまり、私はその研究室 の一期生というわけです。そのために、当時の研究室はほとんど研究が始まっておら ず、4 回生にも 4 月から独自のテーマが与えられて、一からそれに取り組んで行くこ とになっていました(当然、スタッフに助けながらですが)。また、教授の先生も 41 歳と若く非常にエネルギッシュな研究室でした。そのため、研究が楽しかったのを覚 えています。 一方、その年度から研究室に大型の競争的外部資金も割り当てられて、先生から非 常に大きなプレッシャーをかけられたのも事実です。結果として、研究が楽しいと同 時に、過度の労働で心身ともに疲弊していきました(4 回生の 4 月から朝 7 時に家を 出て、夜 11 時に家に帰っていたくらいです!)。 このような生活を続けていると、当然ながら、疲労とストレスがたまるもので、信 仰面においても落ち込むことが多くなりました。そのような中、キリスト者学生会 30 (KGK)にいる同じ大学院生の仲間と会う機会があり、色んな悩みを共有できること を知りました。これがきっかけとなって、関西 KGK の大学院生の集いが、今も隔月く らいで持たれています。 この集まり(ネットワーク)は私にとって本当に大切なものとなっています。同僚 の大学院生の友人とでは、友人であると同時にライバルでもあるため、常に一面では 緊張している自分がいます。しかし、キリストにある仲間は、相手の幸を本当に喜び 合い、そして不幸を共に泣くことのできる仲間です。また、実利的な面でも助け合え ると思っています。 このようなネットワークがもっと広がればいいと思っていましたが、その時に、志 学会のことを知り、今回参加させていただいた次第です。残念ながら、全て出席する ことはできませんでしたが、とりあえず多くのクリスチャンの先生方とコンタクトが 取れたことが素晴らしいことだと思っています。 志学会の理念は素晴らしいものだと思います。このようなネットワークが、大学院 生や若手研究者から経験豊かな年配の研究者にまで広がって行くことを願っています。 また、この交わりが、ただの研究者の交流としてではなく、キリストにある信頼関係 の上になされていって欲しいと思います。 今回のリトリートは遅刻&早退でご迷惑をおかけしましたが、次は日程をしっかり あけて参加したいと思っています。もっともっと楽しいリトリートだといいな!っと 思って、なにやらアイデアがあればと思っています。 (2006 年 11 月 30 日) [email protected] http://www.masazumifujiwara.net/ 戸塚 義英 飛び入り参加となった 9 月 4 日のリトリート集会に関して証をしたいと思います。 このような証の機会を神様が、与えてくださったことを、心より感謝します。そもそ も私がリトリート集会に参加するきっかけとなったのは、「友達は年上をつくれ!自 分が学べる人を友達にしなあかん。年下を引き連れてるだけの奴は大きくならへん。 31 大学の先生って、先生じゃないのよ。先輩なのです。教えてもらうのではなく、多く を学ぶ相手です。相手がキリスト者ならなおさら学べるのでは?」というラボの会で 一緒の藤原兄の HP 書き込みを見たのが、きっかけでした。その書き込みはとてもパ ンチの効いた言葉でした。ぜひ同じ研究を志す先輩たちと交わりたい。そのように思 いました。 9 月 4 日のリトリート集会があった日は、いまでも思い出す青空一杯の良い日でし た。京都からの電車に乗って、慣れていない土地柄のせいか道に迷いながらも会場の 教会に到着して、教会のドアをあけたときに、迎え入れてくださった先輩方の優しい 顔がとても嬉しかったのを覚えています。 講演会での「経済学とキリスト教」の話。また昼食を挟んでの交わり。時間を忘れ て話をしました。研究の相談。そしてどのようなビジョンを持って歩んでいけばよい かなど。また教会生活での悩みを相談できたことも感謝でした。本当に祝福された一 日でした。また、すぐ書房代表の有賀寿氏との「KGK」創設期の話も大変記憶に残っ ています。その話の中で、自身も先輩クリスチャンが歩んで来たように、一緒に重荷 をしょってこれからの日本を支えていきたいとも思いました。 私がリトリートに参加して一番変化したことは、研究の在り方というか、姿勢です。 研究と神様。どうしても結びつかないでバランスをとれないでいた自身の大きな問題 です。それがリトリート集会に参加することで解消されました。 あの日から書き始めた自身の研究論文をいま同時に書き終えようとしています。あ の日がなかったら、いまのような研究テーマにはなっていないでしょうし、頑張れな かったと思います。先輩クリスチャンとの交わりがどれほどの助けになっているかわ かりません。最後にその日プレゼントしていただいた御言葉を書いて終わりにしたい と思います。 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」 (ガラテヤ6:2) 32 「志学会リトリートの感想」 野村 みくに KGK(キリスト者学生会)の矢野主事に紹介され、2006 年 9 月の志学会リトリート に参加しました。このリトリートでは、とてもいい出会いがあり、いい刺激を受けま した。リトリートでの多くの交わりを通して、私が今まで知らなかったことや気づか なかったことに気づくことができたと思います。研究者の生き残りをかけたシビアな 現実など、学生の立場からはあまりよく分からないことについても知ることができま した。私は研究者になると決めたわけではありませんが、私自身、研究職に対しても そして働くということに対しても甘い気持ちでいたことに気づかされました。正直、 ドキッとさせられることもありました。同じ学友たちの中では優等生扱いされること も多かったため、私は驕り高ぶっていましたが、自分では気づいていませんでした。 このことにも気づかされ、謙虚になって学ぶことの大切さも教えられました。 また、私は現役の KGK(キリスト者学生会)学生ですが、有賀先生を始め、KGK 活 動をかつてしておられた方々と出会うことができたことも、現役 KGK 学生としてとて も励まされました。 梅津先生と大谷先生のお話の中から、特に「思わぬところに思わぬ出会い、思わぬ 未来」ということを、学び考えました。最初から「この研究をしよう」とか「この大 学に行こう」と思っていたわけではなく、いろんな紆余曲折あって、いろんなところ を通ってここまでたどり着いた、ということが一番心に残りました。キリスト者とし て学問を志すということだけではなく、各先生方から生き方から学ぶことができまし た。今になっても、まだ進路のこと、そして卒業論文さえもまだ漠然としているとこ ろがあります。一寸先は闇で私が 1 年後にどうしているのかさえ、今からは予測がで きないような状況にあります。進路について、卒論について悩んでいます。しかし、 先生方も今まですべて計画通りにうまくいってきたわけでもなく、初めから未来が分 かって進路選択をしたわけでもない、ということを思い出し、励まされます。また、 私も振り返ってみて「あのとき、あれがなかったら、今私はこうでないだろう」「あ れはこういうことだったのか」と思うことは結構あります。多くの不思議な出会いと 出来事の中で、思いがけないところから思いがけない人生の分岐点や転換があるのだ と思わされます。進路について悩むことは多いですが、祈り求めつつ、主と共に歩む 33 道を一歩一歩歩んでいきたいと思っています。 今まで私は信仰と学問を分けて考えるような、そんな二元論の考え方を持っていま したが、最近になってそれが間違いであることに気づくようになりました。今、卒業 論文の構成を考えていますが、この論文を通して主の栄光を表したいと考えています。 学問によって神の栄光をあらわすことができるとしたら、どんなに素晴らしいだろう かと思います。 このリトリートでは、私に足りないものや必要なものを気づかせてくれました。こ の思いがけない出会いを大切にしたいと思います。 お世話になりました。ありがとうございます。 野村 天路 私は工学部に所属しています。工学部生の多くは大学院に進学するということもあ り、私も将来は研究に携わることがあるだろうなと考えていました。そんななか研究 者を目指すクリスチャン学生を励ます志学会という会があるときき今回初めて参加さ せていただきました。 梅津先生の発題では、どのようにして企業倫理という分野を研究するようになった のかの経緯と企業倫理についてお話がありました。初めは哲学を勉強されていて、そ の後アメリカの神学校に行くようになった中で経験されたさまざまなことを話してく ださいました。その話を通して先生の経験を共有することが出来て、先生に一層の親 しみを覚えることができました。先生が歩んでこられた研究者としての道をこれから 自分が歩むかもしれない道として興味深く聞かせていただきました。また倫理につい ての話では時に研究者が持つべき倫理について興味を持ちました。将来私が卒業研究 や大学院に進んで研究するときには、この問題は避けては通れないものです。聖書に もとづく基準を持って研究に取り組んで行きたいものです。 大谷先生の発題では、信徒の信仰というテーマで、神の子どもとしてどのように生 きていくかということについて改めて考えさせられました。また普段の仕事や生活を 通して神を見るということについてお話がありました。私は普段の生活や仕事と礼拝 34 や信仰生活を分けて考えがちでした。また、大学に入ってから仕事や研究の意味や意 義もうまく見出せなくなるときもあり、自分が大学で教育を受けていることにはどの ような意味があるのだろうかとか、考えてしまうことがありました。そのため大谷先 生のお話は今まであまり考えていなかった仕事の意味について深く考える手がかりと なりました。今回の講演で普段の仕事にも価値を見出すことが出来ました。そしてさ らに一人のキリスト者としてどのように生きていくかを考えることが出来ました。 また志学会では新しい出会いがたくさん与えられました。多くの人生の先輩また研 究者としても先輩である方々、さらに研究を志している他の学生との出会いがありま した。特に食事の時などにはいろいろな人と話しをしてお互いの経験を分かち合うこ とが出来ました。今回の志学会で今後の大学生活へ大きな励ましをいただきました。 このような機会を用意していただいて本当にありがとうございました。 35 志学会の目的および活動事業内容 目的 志学会の目的は、キリスト教信仰を有する若手研究者やそれに準じる専門職を目指す 大学院生(または学部生)を励まし支援することである。 具体的な活動事業内容 1.ネットワーク作りおよび情報の提供 志学会の目的に賛同するクリスチャン研究者のネットワークを作り、同じ専門分 野の中堅研究者からのアドバイスを必要とする若手研究者・学生・大学院生のた めに情報を提供することによって、両者間の仲介(パイプ役)をつとめる。 2.リトリートや講演会の開催 研究者、大学院生、学部生同士が相互に情報交換し励まし合う場を提供するため に、リトリート(年一回)や講演会(不定期)を開催する。 3.大学院生および若手研究者に対する財的支援 キリスト教信仰を有する大学生・大学院生および若手研究者の学びや研究を励ま す目的で、研究助成金の支給を行う。申請は毎年 12 月末まで受け入れ、4 月に支 給を開始する。 2001 年の発足以来、志学会の活動は、基本的に年一回のリトリート開催に限られてお り、会の活動に関与する者もごく少数であった。しかし、2006 年夏のリトリート時に 創立総会が開催され、上記の活動目的および事業内容が正式に承認されたことを受け て、現在は助成金事業などを本格的に開始しつつある。 36 志学会のこれまでの歩みについて 1、始まりの始まり 2001 年の秋頃、すぐ書房の有賀寿氏が、当時、京都大学キリスト教学科主任教授・兼 文学部長であった水垣渉先生と交わされた会話がきっかけとなり、やがて「志学会」 と命名される動きが生まれました。その志とは、 大学に入学したての若い人に、キ リスト教徒としての意識を活かしつつ、将来、大学その他の研究機関で研究・教育、 その他に当たることを志す者となるための契機を提供したい というものでした。 そのために 2002 年 1 月に東京の御茶ノ水キリスト教会館で第1回懇談会が開かれま した。出席者は、水垣渉先生、大谷順彦先生(筑波大学元教授)、新井明先生(日本 女子大学元教授)、野々山哲郎先生(弁護士)、宇都木孝一先生(公認会計士)にお 集まりいただき、合計 8 名でした。 2、上記の第1回懇談会での話し合いを踏まえて 2003 年に新入生を対象とする第1回の オリエンテーション(ガイダンス)のために、会場として東京・代々木の国立オリン ピック記念青少年総合センター、期日は 2003 年 3 月 16− 18 日が選ばれ、その準備が 始められました。出席する新入生を確保するために、KGK、Hi-BA、ナヴィゲーターの 三団体とつながりのある太田和功一氏(KGK 元総主事および IFES 元副総主事)が原始 会員となり、三団体との橋渡しを依頼され、2002 年 9 月から上記三団体との連絡、会 合のセットアップの面で協力するようになりました。 3、第1回オリエンテーションには、新入生 1 名(関東―Hi-BA 関係)と学部 1 回生 1 名 (関西―KGK 関係)の 2 名が参加しました。また、そこでの話し合いで、2004 年に第 2 回のオリエンテーションを開くこと、また、若手の教師・研究者の協力を求めてゆ くことが決められました。 4、第2回のオリエンテーションは、KGK 東海地区主事の服部滋樹氏の協力で、名古屋近 郊の犬山レークサイド入鹿が会場として決まり、2004 年 3 月 29− 30 日に開催される ことになりました。準備としては上記3団体のスタッフとの面談、諸教会への訪問な 37 どがなされました。直前まで学生の参加申込はありませんでしたが、オリエンテーシ ョンの当日新入生が 1 名(関東―Hi-BA 関係)参加しました。このとき若手の教師・ 研究者として武藤慎一氏・同百合氏と大谷順彦先生が学生のオリエンテーションと志 学会の今後についての話し合いに参加してくださいました。 5、第2回オリエンテーション後の将来についての話し合いを踏まえて、第3回のオリエ ンテーションについての準備が進められ、対象とする学生の範囲が広げられ、内容も 1部と 2 部に分け、1部は研究発表、2 部は学生のためのガイダンスとし、期間は 2 泊 3 日とすることになりました。会場としては、神戸の母の家べテルが選ばれ、期日 は学生がより参加しやすいようにと 2005 年 7 月 31 日―8 月 2 日が選ばれました。 6、上記の計画にしたがって第3回オリエンテーションが、「志学会 セミナー・ガイダ ンス」として開かれましたが、残念ながら学生の参加はありませんでした。しかし、 研究発表は、高井へラー由紀氏と水垣渉先生によってなされました。志学会のこれか らについての話し合いには、KGK 関西地区主事高木実氏も部分的に参加され、志学会 と KGK(関西地区)との協力の可能性についても積極的な意見を述べてくださいまし た。その話し合いの席上、2006 年 9 月 3 日―5 日、再び神戸で第4回のリトリートを 同じ要領で開くことが決められました。また、高井へラー由紀氏がこれから事務的な 働きの面で志学会に協力してもよいとの意向を表明してくださいました。 7、第3回セミナー・ガイダンスののち、有賀氏、太田和氏、高井ヘラー氏、ダニエル・ ヘラー氏(横浜国立大学助教授)の四名による実行委員会(仮称)が組織され、新た な体制づくりが始まりました。また原始会員・岡村哲氏の意見や提案を受けつつ、会 の正式な設立に向けて準備がなされ、第4回リトリートの二日目にあたる 2006 年 9 月 4 日、創立総会が開催されました。このリトリートでは梅津光彦氏(慶応大学准教 授)および大谷順彦先生による発題講演がなされ、参加者も大学院生および学部生を 合わせて6名が与えられました。 8、創立総会では会則および予算が承認されたほか、会長として有賀氏、実行委員として 38 太田和氏(実行委員会会長)、高井ヘラー氏、D・ヘラー氏の三名が選任され、リト リート後、会の依頼を受けて梅津氏が実行委員に加わってくださることとなりました。 さらに、2006 年度は該当者がいませんでしたが、研究助成金選考委員会が正式に組織 されたことにより、助成金事業を開始する体制が整いました。今後はリトリート開催、 助成金事業、の二本柱に加えて、クリスチャン研究者のネットワークを充実させてい く予定です。 39 執筆者紹介 有賀 寿 (ありが・ひさし) すぐ書房主宰・志学会会長 梅津 光彦 (うめづ・みつひこ) 慶應義塾大学商学部准教授 大谷 順彦 (おおたに・よしひこ) 九州産業大学経済学部教授・筑波大学名誉教授 武藤 小枝里 (むとう・さえり) ルワンダ教育省 TVET 政策アドバイザー (JICA 専門家) (参加当時 政策研究大学院大学政策研究科) 藤原 正澄 (ふじわら・まさずみ) 大阪市立大学大学院理学研究科博士課程 戸塚 義英 (とつか・よしひで) 京都大学文学部研究会中国哲学史研究修士課程 野村 みくに (のむら・みくに) 大分大学経済学部 野村 天路 (のむら・たかみち) 京都大学工学部 編集後記 今年もリトリートから一年近くたって、ようやく報告書が出来上がりました。振り返ってみます と、事務局も実行委員会もさまざまな理由であまり動けなかった一年でしたが、にもかかわらず会 の正式な設立に伴って助成金事業を始める体制が整い、実行委員会にも梅津先生が加わってくださ るなど、主の御手の中で活動範囲が少しずつ拡がっていることを感じます。第4回リトリートに院 生・学部生あわせて6名の参加者が与えられたことも心強いことでした。まだまだ規模は小さいで すが、今後も研究職や専門職を将来の選択として考えているクリスチャン学生や若手研究者などの 方々を励ますとの会の目的を念頭に、活動を軌道にのせていければと願っています。お祈りにおぼ えていただければ幸いです。 また、この報告書のために忙しい時間を割いて原稿を執筆してくださった先生方、参加者のお一 人お一人に、この場を借りて感謝申し上げます。編集の作業を通して原稿を最初に読む恵みにあず かり、私自身も大いに励まされたことでした。 (高井ヘラー由紀) 志学会第四回リトリート報告書 発行日 2007 年 7 月 20 日 編集者 志学会実行委員会 発行所 志学会事務局 〒247-0072 鎌倉市岡本 1188-4 大船植木住宅 3-104 高井ヘラー由紀気付 Tel/Fax: 0467-45-7844 E-mail: [email protected] 印刷所 (株)平河工業社 東京都新宿区新小川町 3-9 40
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