第2章 運動学的回折理論 Kinematical theory of diffraction

第2章 運動学的回折理論
Kinematical theory of diffraction
回折理論 theory of diffraction には,運動学的な理論 kinematical theory と動力学的
な理論 dynamical theory の2種類があります。この2種類の理論の違いは,運動学的理
論では多重散乱 multiple scattering を考慮しないのに対して,動力学的理論では多重散
乱を考慮するという点にあります。多重散乱とは,ある散乱体で一回散乱されたX線(あ
るいは粒子ビーム)が,さらに別の位置にある散乱体でもう一度,あるいは複数回散乱さ
れるということを意味します。
動力学的な理論は運動学的理論よりも本質的には正確なのですが,厳密に扱うのはかな
り難しいという面があります。
X線回折や中性子線回折では典型的な散乱体による散乱の確率があまり高くないので,
運動学的な理論でも大体だいじょうぶですが,電子線回折の場合には散乱の確率が高いの
で,動力学的な理論を使う必要があります。また,X線でも完全性の高い結晶での回折を
扱う場合には,動力学的な回折理論を用いた方が良い場合もあるようです。
ブラッグの法則は,基本的には運動学的な回折理論に基づいていると言えます。この章
以降でも,X線を使った場合に話を限り,運動学的な回折理論についてのみ取り扱うこと
にします。
運動学的回折理論の結果として導かれる重要なポイントは,
(1) 「回折強度は構造因子の絶対値の2乗に比例する」,
(2) 「X線回折の場合,構造因子は電子密度(の空間分布)の
フーリエ Fourier 変換である」
ということです。
このことさえわかっていれば,他にはほとんど何も知っている必要はないと言えます。
さて,ここでクイズです。上のことに関係ないことを一つ選んで下さい。
A. X線は電磁波の一種である
B. 原子は原子核と電子からできている
C. 結晶中で原子は周期的に配列している
D. 波のエネルギーは振幅の2乗に比例する
物質中の電子密度 electron density を r (x,y,z ) と表すことにします。電子密度が3次元
空間での位置を表す座標 (x,y,z ) の関数として表されることに注意して下さい。
構造因子は
†
• • •
2 pi (kx x + ky y + kz z )
F(k ,k ,k ) =† Ú Ú Ú r (x,y,z )e
dxdydz
x
y
z
-• -• -•
†
あるいは
• • •
F(kx ,ky ,kz ) =
Ú Ú Ú r(x,y,z )e -2 pi (k x+ k y+ k z )dxdydz
x
y
z
-• -• -•
という式で表されます。
†
2−1 電磁波としてのX線 X-ray as electromagnetic wave
X線は電磁波の一種です。電磁波は波長の長い(振動数の低い)順に,ラジオ波,マイク
ロ波,遠赤外線,赤外線,可視光,紫外線,極端紫外光(真空紫外光),軟X線,X線な
どと名前がついています。
電磁波は電場と磁場が同時に波のように進行するものですが,物質と磁場との相互作用
はそれほど大きくないので,おおまかには振動する電場と考えてしまってもかまいませ
ん。電磁波を物質にあてると,物質の中の荷電粒子が電場から力を受けます。電場が振動
するので,それに合わせて荷電粒子も振動します。
物質は原子からできていて,原子は原子核と電子とからできています。原子核はプラス
の電荷を持っていて,電子はマイナスの電荷を持っていますから,電場中で原子核は電場
の方向に力を受け,電子は電場と反対向きの力を受けるので,全体として電荷が偏ること
になります。このことを「電場により分極する」と言います。
本来ならば電子の動きと原子核の動きを両方とも考えに入れるべきなのでしょうが,実
際には原子核の動きは無視することが普通です。これは電子に比べて原子核の方がずっと
重いからです。水素原子の原子核は陽子ひとつとみなして良いのですが,電子の質量
9.10938188(72)¥10-31 kg に対して,陽子の質量は 1.67262158(13)¥10-27 kg であり,およ
†
そ 1800 倍くらいです。ですから,水素原子の場合,電場による電子の動きにくらべて原
子核の動きは 1/1800 くらいの小さいものだと考えても良いでしょう。水素原子以外の場
†
合には原子核が陽子と中性子とからできていますから,受ける力が陽子の個数に比例して
大きくなることを考えに入れても,相対的な動きはもっと小さいものになると考えられま
す。結局,原子核の位置はほとんど変化せず,もっぱら電子が振動運動すると考えて良い
のです。
2−2 X線の散乱と構造因子 Scattering of X-ray and structure factor
X線を照射することにより物質の中の電子が強制的に振動運動をさせられるのですが,振
動運動する電荷からは電磁波が輻射されるので,これがX線の散乱の原因になります。も
し振動する電荷が点電荷の場合には,その振動運動により輻射される電磁波は双極子輻射
と呼ばれるものになります。双極子輻射では,双極子の軸の回りにはまったく方向性を持
たない電磁波が放射されます。ところが,一般的に散乱体,あるいは電子の確率分布が有
限な広がりを持っているので,干渉の効果によって散乱される電磁波の強さが方向によっ
て変化します。
とりあえず,物質中のすべての電子は,X線によってどれも同じように振動をすると考
えます。本来ならば,電子ごとに動きやすさには違いがあるはずなのですが,それを無視
してしまうわけです。X線の振動は電子の運動の速さに比べて速いので,原子に束縛され
た電子でも自由電子と同じように見えてしまうと考えても良いでしょう。より厳密には電
子ごとの動きやすさの違いが,(異常)分散効果として現れるのですが,このことについ
ては後で述べます。
任意の密度分布を持つ散乱体から,どの方向にどのような強さのX線が散乱されるかと
いう関係を求めるためには,すべての位置にある散乱体からの散乱を,散乱される方向に
ついてすべて重ね合わせてやれば良いのです(図 2.1)。
図 2.1 任意の散乱体からの散乱強度を求めるためには,
散乱体上からのすべての散乱を重ね合わせてやれば良い。
具体的には,どのような行路差あるいは位相を持つかと言うことを求めてやって,さら
に,その位相差を持った無数の散乱波を重ね合わせた波の振幅を求めれば良いわけです。
r
k
r
k0
2Q
†
†
r
r
図 2.2 X線の散乱。 k0 と k は入射波と散乱波の波数ベクトル
図 2.2 のように,
†
r
†
k0 :入射波の波数ベクトル
r
k :散乱波の波数ベクトル
†
とします。波数ベクトルとは,方向が波が進行する方向を向いていて,大きさが波長の逆
数,つまり,波長を l として,
†
†
†
r
r
1
k0 = k = k =
l
†
という関係にあるベクトルのことです。また,散乱角を 2Q とします。さらに,左下図の
r r r
ように散乱ベクトル K ≡ k - k0 を定義します。
†
†
r
k
Q k
r
K
2Q
r
k0
K
k
†
† †
†
†
r
†
図 2.3 散乱ベクトル K の定義(左図)。
†
†
散乱ベクトルの長さ K は二等辺三角形の底辺の長さに等しい(右図)。
右上図から,
†
† 2 sinQ
r
K = K = 2k sinQ =
l
という関係があることがわかります。
D'
†
X'
O'
r
r
P
D
P'
X
O
†
図 2.4 散乱体中の任意の位置 P での散乱と,
原点 O での散乱との行路差は?
r
図 2.4 のように,原点 O から r 離れた位置 P での散乱の行路差を考えます。原点 O
r r r
での散乱を基準にすると,行路差は O'P - OP' で表されます。この長さを, r , k0 , k を
使って表すというのが問題です。
†
r
r
†
†
O'
† †
P
r
k0
図 2.5 O'P の長さを求める
†
図 2.5 から,
r r r r
k 0 ⋅ r k0 ⋅ r
O'P = r =
,
k
k0
また同じように,
†
†
r r r r
k⋅r k⋅r
OP' = r =
,
k
k
†
となります。したがって行路差は,
(
O'P - OP' =
r r r
k0 - k ⋅ r
)
k
r r
r r
K⋅r
== - lK ⋅ r
k
となり,位相差は
†
r r
r r
2p
- lK ⋅ r = -2pK ⋅ r
l
(
)
と書けます。
回折理論の根本にある考え方が重ねあわせの原理です。これは,ある場所での変位(振
†
動子の位置のずれ,分極など)が,異なる位置からやってくる2種類の波の影響を受ける
場合に,それぞれの波の影響による変位を足し合わせたものに等しくなるとういうことで
す。この関係は必ずしも自明ではないかもしれません。この関係が成り立つのは,変位が
波の強さに比例する(線形 linear である)場合に限られます。一般的に変位が極端に大
きい時には非線形性が現れるのですが,X線回折で線形からずれる挙動が現れる場合は実
際にはほとんどありえないようです。
さて,振動数 n ,波長 l ,振幅 A の波動の,時刻 t ,位置 x での変位 y を表す式
は,三角関数を使って例えば
È Ê
x ˆ˘
y =†AcosÍ2p Á†nt - ˜˙ †
l ¯˚
Î Ë
†
†
†
と書けますが,オイラー Euler の公式
†
eiq = cosq + isin q
を使えば,その代わりに
†
Ï È Ê
x ˆ˘¸
y = A ReÌexpÍ2piÁnt - ˜˙˝
l ¯˚˛
Ó Î Ë
とも書けます。ここで Re{L} は複素数の実数部を取ることを意味します。
†
cos(2pj ) = Re[exp(2pij )]
†
の関係は常に成り立つことを注意して下さい。回折理論に限らず,一般的に波動を表現す
†
†
るためには, e 2pij の形を使うのが便利です。
振動数が等しく振幅と位相が異なる波を重ね合わせることを考えてみて下さい。例え
ば,
†
y = A1 cos[2p (nt + j1)] + A2 cos[2p (nt + j 2 )] + L
のように表される波の振幅はどうなるでしょうか?三角関数のままだと厄介ですが,オイ
ラーの公式を使えば,
y = A1 Re{exp[2pi(nt + j1 )]} + A2 Re{exp[2pi(nt + j 2 )]} + L
= Re{exp(2pint )[ A1 exp(2pij1) + A2 exp(2pij 2 ) + L]}
と書け,2番目の式の右辺の
†
[]
の中身を A exp(2pij ) と書くことにすれば,
A = A1 exp(2pij1) + A2 exp(2pij 2 ) + L
y = ARe{exp[2p†
i(nt + j )]}
†
† ということになって, A は合成された波の振幅そのものです。
r
r
散乱されるX線の振幅が,点 r での散乱体の密度 r (r ) に比例すると考えます。原点
r r
†
r
r
で散乱される波が Ar (0) の振幅を持つとき,点 r で散乱される波は Ar ( r )e-2 piK ⋅r の振
†
幅を持つと考えられます。散乱体全体からの散乱波を重ね合わせれば,散乱波の振幅は
†
†
r r
r
r -2 piK ⋅r
†
F(K )†= Ú r (r )e
dv
†
V
に比例するということになります。ここで
Ú L dv
は散乱体全体の体積にわたって積分を
V
† 取ることを意味します。散乱体が有限の大きさを持つとしても,散乱体外部の領域での密
r
度が0である( r (r ) = 0 )とすれば,積分を無限区間で定義できます。この場合,
†
r
Ú r( r )L dv
V
†
のかわりに
†
• • •
Ú Ú Ú r( x, y,z)Ldxdydz
-• -• -•
と書いても同じことです。散乱波の振幅はもっと具体的に,
†
• • •
F(K x ,K y ,K z ) =
Ú Ú Ú
r (x, y,z)e
-2 pi (K x x +K y y +K z z)
dxdydz
-• -• -•
r
に比例すると書くことができます。 F(K ) = F(K x ,K y ,K z ) のことを構造因子 structure
r
factor と呼びます。X線の場合には散乱体が電子ですから, r (r ) = r (x, y,z) は電子密度
†
electron density です。上の式を言葉で表現すれば「構造因子は電子密度のフーリエ
†
変換である」ということです。波の強さは振幅の絶対値の二乗に比例しますから,散乱さ
r 2 †
れるX線強度は,構造因子の絶対値の二乗 F(K ) に比例します。
2−3 構造因子 Structure factor
†
実際に結晶構造解析の経験がある人は,構造因子としては3つの整数 h,k,l を添字として
Fhkl と書かれるような「結晶構造因子」を思い浮かべることが多いのではないかと思い
ます。そのような人に特に注意して欲しいのは,前節の議論で散乱体が結晶であることを
†
前提としていないことです。つまり原子1個でも,分子1個,アモルファスの場合でも前
†
r
節の議論はそのままあてはまり,任意の散乱ベクトル K に対して構造因子を定義するこ
とができます。
原子1個であっても電子密度には空間的な広がりがあるので,散乱されるX線は方向に
†
よって強度が変化します。この効果は原子散乱因子
atomic scattering factor と呼ばれる
のが普通ですが,原子形状因子 atomic form factor,原子構造因子 atomic structure
factor とも呼ばれます。要するに原子の中の電子密度のフーリエ変換のことだと考えれ
ば良いのです。
結晶によって散乱されるX線は,結果としては離散的な添字 hkl で表されるような特
定の方向にしか現れないのですが,このことは結晶中での電子密度の周期性を仮定して
フーリエ変換したものとして自然に導かれます。結晶によって散乱されるX線の構造因子
†
は結晶構造因子 crystal structure factor と呼ばれます。
原子散乱因子については第3章で,結晶構造因子については第4章であらためて説明し
ます。