歴史への思い ベトナムは10世紀末までは中国の支配下にありましたが、1010年李王朝成立により独立国として の形ができました。しかしながらその後も同国の歴代の王朝と隣の大国、中国の王朝との間で数々 の紛争、紆余曲折がありました。 16世紀には中部ベトナムのホイアンを中心として日本との交易も盛んに行われ、現在も日本人 町の痕跡が残されています。 19世紀に入り1858年のフランスの侵入、1887年のフランス植民地としてのインドシナ連邦(ベト ナム、ラオス、カンボジア)の成立を経て、長年にわたる抗仏運動の歴史が始まりました。 1904年には、抗仏運動の中心人物の一人であった、ファン・ボイ・チャウによる維新会が設立さ れ日本の援助を期待して独立を図るドンズ―(東遊)運動(結果的には日本がフランスと友好条約 を結んだことにより頓挫)の歴史も残されています。 その後第二次世界大戦において、一時日本軍の支配下に入り、同戦争の終結により独立宣言に 至ったものの、再び復帰したフランスとの第一次インドシナ戦争(ベトナムでは抗仏救国戦争)に突 入しました。 1954年有名なディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍を撃破し、真の統一独立国家なるかと 思われましたが、米国の後押しによる南ベトナム政権(ベトナム共和国)が誕生したことにより、米国 を巻き込んだベトナム戦争(ベトナムでは抗米救国戦争)へと繋がっていきます。1975年のサイゴ ン政権の崩壊後南北が統一され、ようやく統一された独立国家(ベトナム社会主義共和国)が成立 し現在に至っています。 このように見てくると同国の歴史は、まさにその時の国際情勢に翻弄され続けてきた歴史そのもの であり、その中にあっても一般の人々の生活は営々と営み続けてこられました。 ベトナム人の粘り強さ、不屈の精神、知恵もその中から生まれてきたのではないかと思われます。 私はベトナム戦争の最後の約3年間、1971年から1974年末まで当時のサイゴン(現ホー・チ・ミ ン市)に滞在する機会がありました。まだ私自身若かったこともあり、片言のベトナム語を駆使して 一般庶民の人々との交流を図ってきました。 戦争というある意味極限状態の中で、人間の最も美しいもの、醜いものの一端に触れられたこと は、その後の私の考え方にも大きく影響を与えてきたと感じています。 幸いにも2002年から2006年までの約4年間、わが国とベトナムとの新しい交流を図るために設 立された、ベトナム日本センターに勤務する機会に恵まれ、学生を中心とした戦争を知らない世代 の人々との密接な交流をとおして、新生ベトナムの息吹を感じることができました。 ベトナム戦争とは ベトナム戦争は、1954年フランスとの第一次インドシナ戦争後に、南北に分割されたベトナムで 発生した戦争です。 アメリカを盟主とする資本主義陣営とソ連を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とし た「代理戦争」、南ベトナムの「内戦」、南北ベトナム間の「南北戦争」などの複雑な様相を示しまし た。ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、共産主義イデオロギー、民族主 義を背景にベトナム人によるベトナム統一国家を目指しました。第一次インドシナ戦争終結後も、 北ベトナムが支援する南ベトナム民族解放戦線(米軍はベトコン=越共と呼んだ)が南ベトナムで 武力を用いた反政府活動を続けたため、アメリカのアイゼンハワー政権が少数の米軍人からなる 「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣したのに続き、ケネディ大統領は軍事顧問団を増大させ、さらに ジョンソン大統領は大規模な米軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入しました。 米軍のほかにSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、 アメリカと相互安全保障条約(ANZUS)を結んでいたオーストラリア、ニュージーランドが南ベトナ ムに派兵し、一方ソ連や中国は北ベトナムに対して軍事物資支援を行うと共に多数の軍事顧問団 を派遣しました。 宣戦布告なき奇妙な戦争ともいわれ、長年にわたり民間人を含め多くの犠牲者を出したベトナム 戦争をめぐっては、アメリカをはじめ世界各国で反戦運動が発生しました。1973年のパリ協定を経 てニクソン大統領は米軍を撤退させました。その後も北ベトナムおよび南ベトナム民族解放戦線と 南ベトナム政権側との戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によりベトナム戦争は終結し ました。 日本でも反戦運動はさかんでした。小田 実が主導する「ベトナムに平和を、市民連合」(通称ベ 平連)は有名です。 日本は勿論派兵はしませんでしたが(沖縄は米軍の中継地となった)、南ベトナムに対して人道 的支援、民政支援は続けました。 今日のベトナム 戦後のベトナムは南部を含めた経済・社会の急激な社会主義化を図りましたが、国民の生産意 欲の低下、特権化した党、官僚等の腐敗、難民問題等に加え、また新たに中国、カンボジアとの紛 争も発生したことから、一時期経済危機、国際的孤立を招きました。 この局面を打開すべく1986年の第6回党大会において、画期的なドイモイ(刷新)政策が採択さ れ経済・社会の自由化に大きく舵を取りました。 今日ではアメリカや欧州、日本等との関係改善、ASEAN,WTO等への加盟により国際社会の一 員としての確固たる地位を確立しています。また経済成長も順調に推移しており(年率7-10%)、 既に中所得国(一人当たりGDP1000ドル超)の仲間入りを果たしています。 わが国は同国の最大の援助国となっており、道路や空港などの経済インフラのみでなく、市場経 済へのスムーズな移行を促すための企業家の育成や企業法、投資法、知的財産法整備などの同 国の努力に対し法整備協力を行うなどソフト面での協力も実施しています。 ホー・チ・ミン市はじめハノイ等の大都市では高層ビルがますます増え、日本人を含む外国人観光 客で賑わっており、外国投資による工業団地も次々にオ―プンしています。 私の戦時中の様々な思い出の地も様相を全く一変してしまい、個人的な感傷が打ち砕かれてしま うのも、平和になった証拠とも言え、良いことなのだろうと思います。 現在では人口約9千万の過半数を29歳以下の戦争を知らない世代が占めており、ベトナム戦争の 記憶は中高年齢者を除き、戦争記念館やソチの地下トンネル、米軍の枯葉剤散布による犠牲者 (先天性障害児)の福祉施設、中部の世界遺産ミーソンのチャム王国の遺跡群の壁に残る銃弾の 跡などに残るのみとの感じがします。 職場においては高齢の上司が若い部下に対して、彼らの興味を引くよう冗談も交えて戦争中の体 験を話したりしていますが、それはその場の話であり、若者の関心は経済的豊かさ、最新のIT技術、 ファッション、欧米、日本への留学など個人的なものへと大きく移りつつあると感じられます。 それはそれである意味、健全且つ自然な方向と思われますが、益々高まる自由化、民主化の圧力 に対して、現在の一党体制がどのように折り合いを付けて行くのか、または新たな画期的な政策の 変更があるのか、今後のベトナムに注目していきたいと思います。
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