サンフランシスコの風

A Letter from the U.S.A.
サンフランシスコの風
井原
久光
サンフランシスコのフィッシャーマンズ・ウォーフは日曜日の観光客でごったがえして
いました。私たち家族も旅行中で、ショッピングセンターの駐車場にレンタカーを入れて、
ヨットハーバーの見えるレストランで昼食をしていました。近くのテラスには、カモメが
飛んで来てのんびり私たちの食事を眺めています。
アシカがヨットの合間に見えたので、私は、10メートルほど離れた出口からテラスに
出て、そのアシカをビデオに収め、家族の方にカメラを向けました。ところが、突然、赤
と白のラグビーシャツを着た大柄な男が家族の前に立ちふさがりました。
それは一瞬のできごとでした。妻の話では、「カモメの写真を撮りたい」と言って話し
かけてきたのだそうです。私は、その男が「邪魔だな」と思ってビデオの撮影をあきらめ
て席に戻りました。それからしばらくしてのことです。ポーチがないことに気づいたのは
…。
妻は、そのラグビーシャツの男が話しかけた時に、男の指差す方向に向かって少し腰を
浮かしたのだそうです。後で気づいたことですが、彼女の後ろに男がいて、ほんの僅かな
間にポーチを盗んだようです。私も、後から思うと「変だな」という瞬間でした。ラグビ
ーシャツの男は、不自然な場所に立ちふさがり、食事もせずに、すぐに立ち去ったからで
す。
ポーチには、現金、トラベラーズチェック、クレジットカード、パスポートにレンタカ
ーの鍵までが入っていました。さらに駐車券も入れていたのでレンタカーごと荷物を盗ら
れる可能性もありました。私は、店の責任者と一緒に駐車場に戻って、車があることを確
認し、駐車場のガードマンに見張ってもらうことにしましたが、その間に、妻は警察に連
絡しました。
サンフランシスコ警察は、地図上ではごく近くでした。レストランの責任者も「この先
をまっすぐ」と言うので歩き始めたのですが、サンフランシスコが「坂の街」であること
は計算に入れていませんでした。小学生の息子たちと、たまたま日本から来た妻の母を連
れて坂を登るのは予想以上に大変で「しまった」と思った時は、引き返すにもタクシーを
捜すにも遅すぎました。
特に 80 歳を越えている義母には、サンフランシスコの急な坂道はきつ過ぎました。彼
女は到着したばかりで日本時間の深夜に歩かされることになったわけで、歩みは当然遅く
なります。かといって、英語の分からない義母を一人にはできませんので、私と義母が後
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から追いかける形になりましたが、妻たちとの差はみるみる離れて坂の先に豆粒のように
見えます。
そこで、私は道端に車を止めていたインド人の家族に「警察に行きたいので坂の上まで
送ってほしい」と強引に頼み込みました。彼らは、どこかへ行く相談をしていたところだ
ったようですが、気持ち良く私と義母を乗せて坂の頂上まで送ってくれました。その車が
(通常走行用の)ドライブギアでは登りきれず、ファースト・ギアに入れたのを覚えてい
ます。それほど道が急だったわけです。
頂上でようやく妻たちに追いつたのですが、警察のある左側は階段坂になっていて、車
は入れません。しかたなく私たちは転げるように坂道を下りましたが、色鮮やかな花の咲
く階段からの眺めは、息をのむほど美しく、立ち止まって写真でも撮りたいほどでした。
その後も私たちは事件の処理に追われました。クレジットカード会社への連絡、トラベ
ラーズチェック再発行の手続き…。翌日からはパスポート申請のために日本領事館に通い
ましたが、たまたま日本が祝日で外務省からの返事が遅れ、サンフランシスコに予想以上
留まらざるを得ませんでした。そこで最後には、帰途の飛行機も変更して、スタンバイ(空
席待ち)で帰るという綱渡りもやりました。
日本領事館によると、最近、フィッシャーマンズ・ウォーフ付近では盗難事件が多発し
ているそうです。日本人旅行客を狙ったプロの集団がいるようで、私たちはまんまと網に
かかったわけです。
しかし、被害は最小限ですみましたし、今では、息を切らせて急な坂を登ったことがな
つかしく思い出されます。たしかにあの街には悪人もいましたが、善良で誠実な人々にも
たくさん出会いました。
危険を顧みず駐車場まで一緒に行ってくれたレストランの責任者、車に乗せてくれたイ
ンド人一家、警察で対応してくれた親切な巡査部長、仕事を放り出してスペアキーを作っ
てくれたレンタカー会社の作業員、何時間も私たちの車を監視していてくれた駐車場のガ
ードマン、予約変更に協力してくれた航空会社の人々など…です。
寒流の影響でしょうか。サンフランシスコは年間を通じて涼しく、夏でも毛皮の人を見
かけます。今回も、海から吹きつける冷たい風は、肌に突き刺さるようで、大都会の厳し
さを痛感させられました。でも、そのくせサンフランシスコの風は不思議に心地よく、も
う一度行ってみたい衝動に駆られます。
薄いピンクの壁に白い装飾のついたビクトリアン・ハウスの前で、年老いた中国人がケ
ーブルカーの過ぎ去った坂道を見おろしていました。少し曲がった腰を伸ばして、人生の
苦労を振り返るようにサンフランシスコ湾を眺めていましたが、風になびく白髪は、キラ
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キラと輝いて見えました。
(了)
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