日本とフランスに見る子どもたちのコミュニケーションと自己主張の相違

四日市の教育を考える懇談会
記録3
提案者
葛和
修治
委員
日本とフランスに見る子どもたちのコミュニケーションと自己主張の相違
1
提案
(1)
子どもたちのコミュニケーションの変化
①
日本とフランスでは、子どもたちが年を重ねるにつれてコミュニケーションのとり方に大きな
違いが見られるようになる。
・
小学校低学年ではそんな大きな相違というのは感じられない。
・
小学校高学年になると、フランスでは自己主張が見られ始めるが、日本では敬語を使い始め
たり、周りの空気を読んだりして、指導者が言ったことを淡々とこなしていく感じになる。
・
中学生になると、フランスではますます自己主張するようになるが、日本では、完全に目上
の意識というか、指導者に対して自分の意見を述べるということはまず見られない。
②
大きな違いが生じる要因は、日本にある敬語とか年功序列といった考えではないか。
・
敬語、年功序列は、礼儀作法などの点では非常に有効なことだと思うが、他人とコミュニケ
ーションをとるとか自己主張をするといった点では、一つの障害になっていると感じる。敬語
や年功序列があるがために、初対面が苦手で、待ちの姿勢になる。
◆
小学校のときから他学校との交流、他世代との交流、初対面の交流の機会を増やし、それに慣
れる環境をつくっていけば、コミュニケーションのとり方は、少しは解消されるのではないか。
(2)
子どもたちの統一的な認識
①
日本では人種や宗教的な拘束で大きな差異は見られないが、フランスでは見られる。その結果、
日本には比較的まとまりのある道徳観が感じられるが、フランスには多種多様な道徳観がある。
②
日本では学校で道徳の授業が行われているが、フランスではカリキュラムの中にはない。暴力
はいけないなど、最低限のしつけはされているが、それ以外は家庭環境による。
◆
日本では人種や宗教ではっきりとした違いが見えない中で、それでもやはり人々はそれぞれの
価値観を持つ。そういった様々な価値観をいかに許容でき、豊かな人間性の育成につなげていけ
るかが課題であると感じる。
(3)
スポーツに見る子どもたちの環境
①
日本は、中学校での部活動や小学校での少年団など、基本的に単一世代の単一種目のチーム
という活動形式が主になっている。指導者は学校の先生であることが多い。
・
指導者と合わなくても自分の所属チームを変えるのは非常に困難である。例えば3年間一つ
のクラブで頑張っても、1回も公式戦に出られないといった状況もよく見られる。
・
チームのレベルも、真剣にやりたい、もう少し楽しくやりたい、と思っても選択も困難であ
る。例えば「サッカーとバレー」といったかけ持ちは難しい。年代が違ったら交流はできない。
②
フランスでは基本的に多世代、多種目の総合型のスポーツクラブが地域に幾つかある。指導者
は大体地元の人々である。一つのクラブにサッカーで各年代で大体三つぐらいチームがある。
・
自分のレベルとか自分の希望によって比較的簡単にレベルや環境を変えることができる。
・
子どもから老人まで一つのクラブで活動しているので、子どものときから老人になるまでず
っと一緒のクラブでプレーをする環境もできている。世代間の交流もすごく盛んである。
◆
様々な選択肢があるということは、自由であるが、各個人が責任を持って選択していかないと
いけないわけで、どうしても自己責任といった意識が絶対的に必要となってくる。日本において
も、子どものころから様々な状況で自分で決断する機会を設けることができたら、それが問題解
決能力の向上や、さらには豊かな人間性の育成にもつながっていくのではないかと思う。
−1−
2
〇
討議
(
〇委員発言
□提案者発言
)
様々な価値観を許容するということが豊かな人間性とどんなふうにかかわるのかということを、
もう少し詳しく話していただけたらと思う。どういうものでも許容すればいいということではな
くて、ある程度それが、いかなる価値があるのかということを見定めることも必要である。
□
フランスなどでは、宗教的な縛りが強くなってきて、それによって絶対的な違いが生じるわけで、
そういったものを許容していかないと社会が回らないわけだが、日本はなかなかそういった違いが
目には見えにくいので、難しいが学校でいかに違いを教えていけるかと感じる。
〇
人間性を、子どもが生まれ持っている特性とか、その人の個性みたいなものを培うということと
考えるならば、フランスのチームの子どもたちが指導者に意見が言えるとか、自分の実力を自分で
判断していくとか、そのように責任を持たせることがその人間性につながるというか、その人のア
イデンティティーが保たれたままサッカーの技術が向上していくのではないか。やりたくなければ
いつでもやめられる状態であるというあたりに、その自由の中に何か自己を形成していく力が培わ
れるということが入っているんじゃないか。
□
日本の場合は与えられた環境の中で自分の意見や自己を形成していくのは、なかなか厳しいとい
うのは自分自身も感じてきた。向こうへ行って、小さいときからそういう経験があれば自分の自己
形成も大きく変わってくるんだろうなというのは、経験として感じた。
〇
低学年のころは、本当に僕は何がやりたいのか、私はどういうふうな道に行きたいのかと気づい
ていなかった子どもが、高学年になると、これはちょっと違うんじゃないかと気づく。でも日本の
場合は、気づいてもなかなか方向を変えることは、親も先生も許してくれない場合が多い。
□
フランスの社会というのは、基本的に、これはちょっと言い方が悪いが、カエルの子はカエルの
ような感じで、自分の属している社会を変えようとはしないが、その中で自分らしさを出していく
というのは感じてきた。
〇
道徳は私たちの時代には、心とか社会性を育てるという意味で培われてきたと思う。そこの中に
は自由性がないというか、個性を出せるというところが少し欠けているのかと思う。個性を大切に
するようなものではなくて、道徳観という、最初から美しい心を育てたり、社会に即応した礼儀作
法みたいな形で私たちは学習してきたけれども、今の話は、個性を大切にするというか、人間形成
の中で培われるものを大切にしているというふうに聞いた。
□
子どもたちだけではなくて、大人の方がどう考えるかというのもある。例えばサッカーの指導に
関しては、フランスで教えるより日本で教えた方がはるかに楽である。日本では、こうしようと言
ったら全部それをやってくれるから、言いっ放しでいい。フランスの場合は、子どもたちを納得さ
せないと動かないから、指導者自身も本当に考えて、自分の意見をきちんと持っていないと指導が
できない。日本の学校の先生たちの状況は、ちょっとわからないが、子どもたちが自己主張をし始
めると先生としては本当に大変だと思う。
〇
クラブも大分変わってきたが、フランスのように、全く自由に選択するという形までは行ってい
ない。クラブの運営の仕方でも、いろいろな形がある。自分は、最初はある程度システムをつくる
が、だんだんとキャプテンなどに任せていく、そんな形に持っていきたいと思っているので、練習
メニューも自分たちである程度考えさせていく。80人もいるクラブでは、プチリーダーをいっぱい
つくっていって、各学年の子でうまく練習を仕切っていくような形にしないと、なかなかみんなが
−2−
満足できる練習ができない。
〇
メンタルな面で、例えば勝つということが目的になっている場合が多い。サッカーを楽しむとい
う部分は、日本とフランスを比べてみてどんな感じか。
□
スポーツの語源はもともと楽しむといったものがあるので、フランスなどでは、そういったもの
が根底にあるいうのは、どのレベルでやっていてもすごく感じられた。日本では、どうしても体育
というイメージが強いと感じる。楽しむよりも部活動だと、まず体を鍛えるといった部分に重きが
置かれてしまうのかなと思う。
〇
うちの息子は中学校で野球部に入って1週間でやめた。ボールにさわらせてくれないし、全然お
もしろくないからやめると言って、野球部をやめた5人ぐらいで裏の空き地で野球をしていた。ク
ラブで1年生はとりあえず気合いを入れろ、声を出せとか、ずっとやってきたしきたりがあり、1
人の子どもがつまらんと言っても、それは完全にもみ消されていくことがある。
□
フランスでは、そもそもボール拾いとかそういったシステムはないし、補欠という概念も多分な
いと思う。基本的にだれもが試合に出られる環境ができているので、ボール拾いが嫌だからやめる
ことはない。ただ単にサッカーがおもしろくないからやめるといったことはある。日本の場合は、
本当はやりたいけれど、どうも肌に合わないからやめるといったことが起きていると思う。サッカ
ーの指導者の視点からすると、何とかそういう環境が変わっていけばいいと思う。
〇
結局そういう環境を学校に求めるのか、その地域で担っていこうとするのかで違う。選べるとい
うことは選べるだけの環境が地域で多種多様に準備されている。学校に全部それを求めてしまうと、
施設にも人にも限りがある。ところが、地域のクラブへ行ったら、そういう環境を選べるわけで、
ベースの部分がちょっと違う。学校に求められているものも大分違うので、そこはきちんと考えて
話をしていかないといけない。
〇
日本の場合には、スポーツ活動というのは、中学校はほとんど学校という環境の中でやっている
が、小学校の場合は、比較的地域の少年団活動などが多い。そういう小学校と中学校での違いは、
フランスでもあるのか。
〇
この四日市にも、地域総合型のスポーツクラブというのが試行的につくられているが、それは、
フランスとは、全く違うか。
□
基本的に子どもから大人まで一つのクラブみたいな感じである。日本の地域総合型のスポーツク
ラブとは全く違う。
〇
現実には、ほかの子が今年だけ野球をやらせてと言ってくることはできないし、地域型のスポー
ツクラブといっても、ちょっと違和感がある。ただ、ボール拾いも大事なことだと思う。能力を認
めて、開放した形でやっていく。あるいは、指導者も一方的にやるんじゃなくて考えながらやって、
みんなが自己主張してくるのを受けとめていくというのは非常に大事だと思うが、反面、決してそ
ればかりがいいようにも思えない。
道徳教育の問題も、フランスでは、道徳教育が学校の中に入るのではなくて、宗教観から来るも
のが道徳にすごく影響を与えていて、学校教育の外に道徳観を植えつけるようなものがあるような
気がする。
□
キリスト教だったら日曜日に教会に行くし、イスラム教でもそういった集まりはある。だから学
−3−
校に何を求めるかという部分で、確かに日本とフランスでは大きな違いがあるとは思う。
〇
日本を見ていると、地域のスポーツクラブも現状としてなかなか育たない。結局、道徳教育でも
そうだが、いろんな問題がすべて学校教育の場で全部行わなきゃいけないようなシステムになって
いることが問題ではないのかという感じを受ける。
〇
楽しむべきスポーツの中で、年功序列とか、ルールを守るとか、あいさつをきっちりするという
ことを優先して教えていると、一体何のために僕はこのボールをけっているのかということがどん
どんわからなくなっていく。
サッカーは芝生の上でするものだと理解している大人もほとんど日本ではいないし、そういう意
味では、子どもを取り巻く環境が、いまだに学校におんぶの部分が多い。
〇
世代のギャップはあるとすごく感じる。ある幼稚園の先生は、小学校低学年までは、指導者の意
見をそのままスムーズに聞き入れるわけで、道徳に関しても教えやすいが、実際にそこに保護者の
方がやってきた途端に、その道徳が崩れてしまうというふうなことを話していた。
大人の再教育や、本来は家庭、地域、学校など、すべてのところから漏れのないように育ててい
くべきところが、崩れているんだろうなあというのはすごく思う。
〇
幼稚園の園長先生から聞いたが、子ども本人はいいが、今は親御さんを教育しないといけない。
〇
やはり社会人になってからの方が再教育はしにくいというのはすごく感じている。
〇
子どものときから自己主張じゃないけど、そういう議論とか意見を交換するということになれて
いないまま親になっているということもないか。一方的に自分の意見は言うけれど、先生の言うこ
とを全く聞いてはいないみたいな状況があるとするならば、それは子ども時代からずうっとそうい
うふうに、意見の交換ということをやってこなかったのではないか。
〇
学校によって本当に顔が違う。今、ITで、子どもたちが外からの情報も容易に得ることができ
る。すごく自己主張をして、結構しっかりと話ができる学校の生徒もいる。いろんな顔を持ってい
るなあと感じるときがあるから、コミュニケーション力とか自己主張というところも、結構前より
は育まれているんではないかと感じるときもある。
3
まとめ(座長)
スポーツのクラブというのは一つの集団で、集団の中で人間は育つわけである。その集団も、き
ょうの議論はスポーツという例だったが、学校教育にも、学級活動、学年活動、学校行事などいろ
いろある。要するに、いろんな集団の中でどういう側面を育てるのか、人間性の育成のためにどう
いうところを重視していけばいいのかということを考えなくてはいけないと思う。
自己主張についての話もあったが、自己主張というのは同時に他人の意見も聞くということも含
めてのことであり、日本語で自己主張というと自分のわがままを言うというニュアンスも含まれて
しまうが、そうではなくて、自己主張というのは自分を大事にすると同時に相手も大事にする「自
尊・他尊」である。集団の中での行動様式みたいなものはどうあるべきかを、考えていかなくては
いけないのではないかと思う。
そのためには、提案にも、世代間の交流という観点があったが、これは学校の中でいうと異年齢
集団となる。日本の場合は、どちらかというと同年齢の集団行動が多い。それだけではなくて、い
ろんな行事で異年齢集団での活動をうまく組織することによって、自分の感情とか気持ちとか、そ
ういうものをお互いに交流できるようになると思う。異年齢集団のいろんな活動を、どうやって組
織していけばいいのかということも学校教育の課題になるのではないかと思う。
−4−