厳しかった音楽の道 なかむらかんじ 沖縄県第2回文化功労賞受賞者の中に中村完爾の名前がありました。多年にわ けいしょうしゃ たり琉球音楽を研究し、多くの著書を通じて継 承 者の育成につとめ、琉球音楽 こうけん の普及・発展に貢献した彼の功績が讃えられたのです 。琉球音楽をこよなく愛し 、 60年間まっしぐらに歩み続けてきた彼の功績は認められたのです。 中村完爾は、明治24年に那覇区字西に生まれました。市制がまだしかれてい ない昔のことです。完爾の母は 、(その父と兄が三線に通じていた影響で)歌が 上手で、完爾は、小さい頃から毎晩母の歌を聞いて育ちました。そして手製の横 笛を吹いて楽しみ、外に出ては三線のある友だちを訪ねて親しんでいました。当 時の社会は厳しく、三線を手にする者は仕事もせず、ただぶらぶらと遊び歩く者 と決めつけられていたからです。 しかし、音楽に理解のある家庭で育った完爾は、成長するにつれて音楽への愛 しはん 着はいよいよ強くなっていきました。そして、沖縄県立師範学校へ入学したので へだ す。ところが、師範学校の音楽は、期待と相当の隔たりがありました。楽器の使 用は3年生からしか許されなかったのです。そこで、完爾はこっそりと使用して はそれがばれて軍隊式の罰を受けました。そんなことを繰り返しているうちに、 しの 技術は上級生を凌ぐようになりました。理論も技術も全くの独学で、完爾の音楽 の才能は磨かれていきました。 こばしかわちょうえいおう おう 大正5年、完爾は小橋川朝英翁(琉球音楽家)の門を叩きました。小橋川翁の はげ 弟子になった完爾は、琉球音楽の研究に励み、琉球音楽への情熱を燃やしていき ました。 昭和6年、完爾が県立第二中学校に赴任したときのことです。二中の創立25 ちょうちん きょうしゅう 周年記念行事の 提灯 行列の行進曲と学芸会に備えて「 郷愁 」という曲を作曲 しました。完爾はこの曲をローカル色豊かなものに仕上げました。ここにも完爾 の郷土の音楽への情熱と発展の道を求める気持ちがあらわれています。この「郷 愁」は、二中講堂で舞踊と結びつけて発表されました。アンコールの声は鳴りや まず、予想以上の成果を収めました。しかし、残念なことに郷土芸能に対する理 解はなかなか得られませんでした。完爾は、芸能に対する厳しさを痛感し、あら ゆる困難に耐えていかなければなりませんでした。困難に耐えられたのは、琉球 音楽のすばらしさをよく知っており、琉球音楽を誰よりも大事にしていたからで す。 くんくんしー 完爾は、師範学校を卒業したばかりの頃に手に入れた工工四に誤りが多いこと を発見しました。本格的に琉球音楽に取り組んでみると、他本にも理論的に不備 こんかん な点がみられました。これらを理論の根幹に近づけようと新しく考案したものが かせんしき 「加線式工工四」です 。「加線式工工四」は完爾が創意研究したものなのです。 完爾の琉球音楽の研究は深く密かにすすめられていきました。 そかい 昭和20年、終戦を疎開先の熊本県で迎えた完爾は、間もなく家族とともに帰 郷しました。その頃、完爾が待ち望んでいた音楽団体結成の話がもち上がりまし こてん た。昭和30年2月、野村流古典音楽保存会が誕生しました。完爾たちは、創立 けんしん 以来、会の運営に私利を捨てて献身的に活動してきました。すべて琉球音楽の発 展と継承を願う気持ちからです。 しんしょく 一方完爾は、人材の育成に 寝食 を忘れるほどでした。完爾の音楽の実力と人 した 格を慕って多くの人達が弟子入りしてきました。貧しい家計をやりくりして、弟 子たちに食事の世話までもしてあげました。琉球音楽の継承者作りに私財を投げ うたんばかりの熱の入れようでした。 完爾は、あらゆる圧迫苦難にもめげず、琉球音楽の道をひたすら歩んできまし た。洋楽にも造けいが深く、その研究を積むことにより、琉球音楽の研究をます ます深めていきました。そして、琉球音楽の普及発展と継承者育成に苦労を惜し みませんでした。 中村完爾は愛情深く、いつも静かに音楽の道を論ずる人でした。晩年は病苦に 悩まされながらも多くの著作を残し、琉球音楽への情熱を燃やし続けながら、昭 和58年8月20日、92歳のその生涯を終わりました。 道 徳 学 習 指 導 案 中学校2学年 1.主題名 文化の継承(郷土愛) 2.資料名 厳しかった音楽の道 内容項目 4−(8) 3.主題設定の理由 日本人としての自覚をもって国を愛し、文化に対する理解と愛情を深め、優れた伝統の継承や 新しい文化の創造に役立とうという心を育てることは極めて重要なことである。それは自分の生 まれた郷土を愛し、郷土の文化・美術などの保護と継承・発展に力を尽くす心があってはじめて 育つと思う。 資料「中村完爾」は、郷土の音楽家中村完爾が沖縄の音楽のすばらしさ、美しさに魅せられて、 あらゆる困難をのりこえて沖縄の音楽の継承・発展に一生を捧げた話である。この資料によって、 わたしたちは沖縄の芸術、特に優れた音楽に改めて目を向け、自らの内に秘められた芸術性を再 発見することができるであろうし、そこから郷土の文化遺産尊重の態度や新しい文化の創造への 関心意欲もわき出るであろう。 4.本時のねらい 郷土の文化・芸術のよさに気づき、郷土の文化の発展と継承に尽くそうとする心情を育てる。 5.展開 区分 導入 学習活動(主な発問と予想される生徒の反応) 1 身近な生活を振り返って、沖縄に古くからある沖縄独自 の芸術にどのようなものがあるか考えさせる。 指導上の留意点 ・できるだけ沢山挙げ させる。 (1)各自に発表させる。 ・琉球舞踊、組踊、紅型、やちむん、漆器、三線等 展開 2 資料「中村完爾」を読ませて考えさせる。 (1)心打たれたところ、印象に残ったところはどこか。 ・難しい語句について は、予め説明する。 ・師範時代こっそり楽器を弾いたこと。 ・数人の生徒に発表さ ・あらゆる圧迫・苦難に負けなかったこと。 せる。 (2)音楽への理解が低い社会において独学する完爾の気持 ちはどうだったと思うか。 ・ますます音楽に傾倒 していく気持ちを捉え ・夢や期待は崩れ去っていった。 させるように気を配 ・音楽の道を歩み続けようと決心した。 る。 (3)完爾はどのようなことに情熱を燃やしたか。 ・沖縄の音楽のすばら ・琉球音楽の価値を深め、継承しようとした。 しさに目を向けさせ、 ・琉球音楽への情熱と郷土愛。 郷土愛の重要性に気づ かせる。 終末 3 一生を音楽に捧げた完爾が私たちに訴えかけるものは何 ・完爾の持っていた情 か。 熱が自分たちの心にも ・文化、芸術、郷土愛の大切(重要)さ。 潜んでいることに気づ かせる。 ※ 心のノートp.110〜113「ここが私のふるさと」(4−(8)郷土をもっと好きに なろう) <資料「厳しかった音楽の道」を活用して> 1 生徒の感想 ○ 完爾は、小さい頃から音楽が身近にあって、いつも三線や歌を聞いていたから、琉球の音楽 に誇りを持っていたと思う。僕たちもまず、自分たちのふるさとの音楽を身近に感じられるよ うに普段から聞いたりすることが必要だと思った。 ○ どんなに苦しくても、周りの人々に何を言われても、最後までやり遂げることと、弟子など を大事にする完爾は、すごいなあと思いました。 ○ 完爾が三線のある友だちを密かに訪ねたり、当時の人々が、三線を手にする者は仕事もせず にただぶらぶら遊び歩く者と決めつけたりしたのか疑問に思った。 ○ 三線を手にする者は仕事もせずにただぶらぶら遊び歩く者と決めつけられたりするような世 の中で、軍隊式の罰を受けても琉球の音楽を愛した完爾はすごいと思うけど、私には完爾のま ねはできないと思った。 2 授業へ向けての留意事項 (1)資料について 郷土の文化、生活、福祉の向上のために働いた先人を取り上げた資料である。 郷土の文化や慣習など、郷土のへの愛着や誇りを育てるための資料である。 原版資料のわかりにくい表現等を加除修正した。 (2)発問の工夫 完爾の生まれ育った当時の沖縄における芸能への理解の低さについて生徒からなぜそうだ ったのかという質問が多かったので、補足説明が必要である。 島唄への関心が高まる現在、それらの基礎を築くために貢献した一人が完爾であることを 確認したい。 沖縄出身の芸能人の活躍がみられる現在、地球規模で考えると小さな沖縄からも日本・世 界で活躍する郷土出身者が大勢いることを確認し、郷土への誇りを持たせたい。 (3)その他 心のノートp.110〜113「ここが私のふるさと」(4−(8)郷土をもっと好きに なろう)の活用をしたい。 心のせんせいや地域人材を活用し、ティームティーチングを行うことで更に深めることが できる。
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