5 あなたの娘です つ だ あや こ まつ むら まさ こ 語り手:津田 絢子/聞き書き:資料収集調査員 松村 雅子 津田絢子の略歴 昭和 16(1941)年 4 月 まんてつ 中国大連で満鉄[南満洲鉄道株式会社の略称。日露戦争後、ポーツ マス条約によりロシアから獲得した長春以南の鉄道事業等を経営 する目的で、明治 39(1906)年に設立された半官半民の国策会社] 職員の次女として生まれる さんとう ぶ 日本の敗戦とその後の中国の動乱の中、4 歳の時に山東省出身の武 こうしん そうてい き 洪深に預けられ、後、宋庭岐によって育てられる 昭和 42(1967)年 養母死亡 昭和 43(1968)年 養父死亡 昭和 54(1979)年 姉と再会 昭和 56(1981)年 訪日調査に参加。30 数年ぶりに実の母と再会 昭和 58(1983)年 族 5 人で日本に永住帰国[用語集→] 現在 夫と2人で大阪府吹田市内に在住 すい た はじめに だいれん ぶ じゅん しんよう 大連、撫 順 、瀋陽、山東と広大な中国の大地で多くの人の愛情により、育てられた絢子 は、実の姉や母になかなか認めてもらえず、苦悩の日々を過ごしてきた。 「お母さん、あなた にどんな事情があろうが、絢子はあなたの娘です。祖国よ、どうして絢子が大連で生まれ、 半生を中国で過ごしたのか。どんな事情であろうが、絢子はあなたの国の一国民です」 。 ‑ 99 ‑ 1. 生い立ち 大連での生活 昭和 14 年(1939)年、絢子の父の津田正治と母の恵美子が大連にやってきた。当時、正治が 28 歳、恵美子が 19 歳で、結婚したばかりの時であった。大連市内の播磨町に家を構え、正 治は大連満鉄で大工の仕事をしていた。その年に姉の朝子が生まれ、2年後の昭和 16 年 (1941)年4月に、絢子はこの世に生まれた。その後、家が初音町に移り、そこは畳のある広 い家で、近所に多くの日本人が住んでいたことを微かに覚えている。 物心がついた時から、父は仕事でほとんど家に居らず、まだ若くておしゃれな母はロシア 系の百貨店でエレベーターガールの仕事に出掛け、絢子は、昼間はいつも姉と遊んでいた。 毎日気ままに2人でいろんなことをして遊んだ。今思うと、母と一緒に歌を歌ったり遊んだ ホアヌ ポ ラ りした記憶がない。ある日、換 破拉[ガラクタ交換のおじさん]が近所にやってきて、もの バオ ミ ホア 珍しさに姉と駆け寄って、おじさんと話をしたり、遊んだり、最後に、姉妹に爆米花[ポッ プコーン]を買ってくれたことを記憶している。父は当初、母の姉と婚約し、結婚直前にそ の姉が病死したため、妹の恵美子が代わりに津田家に嫁いだ。9歳年齢差のある父と母の間 は、次第にギクシャクし始め、家族団欒の思いがあまり無く、むしろガラクタ交換のおじさ んのことをよく記憶している。昭和 19 年(1944)年、弟の正太郎が生まれた。正太郎が1歳の 時に日本が敗戦となり、大連の町は騒然となった。 ある息が凍るような寒い日に、母が弟を背負って、絢子が靴を履く間もなく、母に手を引 かれて、町を出た。4歳の絢子にも非常事態とわかり、足が刃を踏むような痛さをぐっと堪 え、必死で母について行った。何の為かは今でもはっきり分からないが、足の感覚がなくな るまで歩いた。その時の凍傷の痕は、今も右足に残っている。 その数日後、父は、母の居ない隙に朝子、絢子姉妹と弟の正太郎3人を、同僚の中国人に 預けたと聞く。6歳の姉朝子は王に、4歳の絢子は山東省出身の武洪深に、弟の正太郎も同 僚に預けられた。それから以後、父と母の消息は絶え、4 歳の絢子にとってそれは父と最後 の別れでもあった。 ‑ 100 ‑ はじめの養父 武洪深 最初の養父、武洪深は、絢子の父が責任者だった満鉄の工事現場で土木作業員として働い ていた。武洪深は、当時 24、5 歳の結婚したばかりで、まだ子どもがいない夫婦だった。あ まり裕福な家庭ではなく、昼間は夫婦共働きに出掛け、絢子は小さな1室に閉じ込められて いた。 カン その部屋には炕[蒔を焚いた熱で温める寝台]と炕を暖める暖炉があった。二重のドアが 有り、二重の鍵が掛けられていた。食べ物も飲み物もなく、1人で過ごす長い毎日だった。 昼間に喉が渇き、手桶水を飲んだこともあった。部屋の中には厠がなかったので、小便も部 屋の隅でし、怒られるのが怖かったので、その後、暖炉の薪の燃え滓をかけて隠していた。 絢子は、 「鍵をかけなくても逃げることはないのに、どこに逃げる場所があるでしょうか」と 当時思った。 夕方、漸く養父母が帰宅し、一緒に食卓を囲むのが絢子のほっとする一時だった。 絢子が、気に掛けていたのが、近所に住むお姉さんの事で、お姉さんの住む家を見ている と、年取ったお婆さんと若い娘が出入りしていた。いま思うと、若い娘が姉の養母で、年老 いたお婆さんは養母の母親だったのだろう。何度も近づき、見上げ、たった一度だけ、2階 のベランタで箒を持って掃除する姉の姿を見た。いつものように「お姉ちゃん」とも呼べず、 「一緒に遊ぼう」とも声をかけられなかった。でも、姉の存在を確認できたことで、絢子は、 大きな安堵感と満足感を得ることができた。 一方、両親は既に遠い日本に帰ったと聞いていたので、なぜ近くにいる姉の朝子が自分の 事を心配して会いにきてくれないのか、という気持ちもあった。 大連から撫順へ 養父母は、食べるのに精一杯の生活を打開するため、炭鉱のある撫順に引っ越すことにし た。その時養母も妊娠し、お腹も大きかったので、養母の母とその弟2人も一緒に撫順に移 った。小さな家を借りて、皆で狭いながらも暮らしていた。養父たちが炭坑で働き始めた。 満州の冬はマイナス 30 度から 40 度で、厳しい寒さから逃れるために、家々は炕があった。 山東省出身の養父母がこの東北式の炕を上手に使いこなせず、狭い部屋にいつも煙が籠もる ばかりだった。その煙で幼い絢子もよく目を患っていた。年とった今も目の調子は悪く、乾 燥しやすい。暫くして、養父母に赤ん坊が生まれた。順調とは言えない新地での生活にさら ‑ 101 ‑ ラオシアン ア ル に大きな負担が重なった。絢子まで一緒に苦労するなら、「老 郷 児」[同郷人]に預けたら どうか、山東省出身の「老郷児」を多く知っているからと、養母の弟が、養父の武洪深に話 を切り出した。そして、瀋陽と撫順の間で落花生売りの商売をしていた1人の「老郷児」が、 3人の子供を病気で亡くしていた瀋陽に居る彼の叔母を紹介した。既に年をとっていた叔母 ちん し しゅんこう は喜んで絢子を貰った。その結果、絢子は宋庭岐と宋陳氏の娘となり、宋 春 巧と名づけら れた。絢子が6歳の時で、45 歳の養父と 48 歳の養母との新しい生活が始まった。 宋春巧として愛された一人娘時代 こうして、絢子は大連から撫順へ、さらに瀋陽に辿りつき、宋家の一人娘「宋春巧」とし て暮らし始めた。何度も変わる環境、何度も変わる家庭、絢子は誰にも口にすることはなか ったが、大連からは段々遠くなったと絢子なりに認識していた。 チョアン 新しい養父母とも字の読めない人だった。18 歳の時に養父(宋庭岐)は、山東省から「 闖 グアヌドォン 関 東 」[注]で瀋陽の一経街にやってきた。勤勉で優しく、さわやかで爽快な養父は野菜の小 売の商売を始め、忙しい時には4、5人を雇い、40 キロ離れた撫順まで商売を広げた。家で マ ヌ トウ ホアジュ リ バオ ツ 、包子[肉まん] は養母手作りの饅頭[蒸しパン]や花巻児[ひねった形をした蒸しパン] のようなものを中心として純山東料理だった。養母(宋陳氏)は少し短気な人で時々絢子の わがままに対し、箒でたたいたりもした。絢子も頑固なところがあり、逃げたりわめいたり せず、じっと養母の怒りが収まるのを待っていた。でも普通のよくある親子のようだった。 絢子は、すぐに新しい養父母の出身地である山東訛りを覚えて家で話し、外では瀋陽の街 の言葉である東北弁を使い分けていた。親子の会話を聞いた近所の子供たちに山東訛りをか らかわれたこともあった。 絢子は、 年老いた養父母に可愛がってもらった。 養父母は本当の一人娘のように心配して、 遠くに遊びにいかせてもらえなかったりしたが、一方、絢子が寂しくならないように、彼女 の友達をよく家に招いてくれ経街あたりの 200 所帯の家々には、絢子(宋春巧)が日本人の さんとうびょう 子どもであると、たちまち知れ渡った。その後、山東 廟 小学校に通った。時々「お前は日 本人だ」とクラスメートに言われたこともあったが、 「どうしてそんなことを知ってるの?そ れなら、証拠を見せてちょうだい」というような言い合いで終わり、それ以上の展開はなか った。自分が日本人であることを絢子も十分承知していたし、養父母との間では絶対触れて はいけない話題であることもよく理解していた。絢子は、いつも親の言うことに反抗せず、 ‑ 102 ‑ 門限をしっかり守り、年配の養父母に心配を掛けまいと努めた。養父が特に優しくて、一度 も絢子に手を上げることはなかった。近所の子に泣かされた絢子の手を引いて、相手の家に 怒鳴りに行ったこともあった。 養母は 50 歳を過ぎると耳が遠くなり、普通に話しかけると余り聞こえず、大きな声で喋る と何でどなるのと言われ、絢子からは進んで話をしなくなると、今度は気になり、その理由 をまた聞いてきた。本当の親子のように労りあっての日々だったが、お互いの本心を確かめ ずにはいられなかったのだと絢子は当時も今も思っている。絢子は自分が日本人であり、姉 と弟を大連に残し、両親が日本に帰ったことを心にしっかりと封じ込めて、誰にも話すこと もなく、1人の時にぼんやりと実の家族の事を考え、夢にも時々現れた。 さんかいかん [注]山東省の人たちが山海関の東門を潜り、関外の大地で新天地を開拓する、中国では婦乳皆知の有名 な話である。清朝の時代から土地荒涼、自然災害が多く、人口旺盛の山東省から、多くの人々が生きるた め、夢を求めて、郷を離れ、冒険の闖関東を敢行した。闖関東ができない若者が村人に情けないものと見 られようになったぐらいであった。中華民国の 38 年の間に、闖関東人数は 1830 万人、東北に留まる人は 792 万人にも及んだ。近代史上においても最大規模の人口移動と言えるであろう。当時、東北各地には 10 人に7、8人が山東人とも言われた。身の回り品を一つに纏め、もう一つの籠に子供を座らせて、天秤棒 を担いでる山東人の姿が街かどでよく見られた。体一つで出てきた彼らは、小作農するものや森林伐採、 陶金することで生計を立てていた。忍耐力、団結力の強い山東人は次第に商売もするようになり、互助互 恵をモットーに強力の「山東邦」もでき、少しずつ山東人の生活基盤を築いていった。 初めての旅 てんしん 養父が経済的に余裕ができた時に、友人と天津郊外に投資して、研磨工場を立ち上げた。 養父は瀋陽の生活があるので、山東の甥子を投資先の工場に行かせた。1年後、工場が順調 に軌道に乗り、配当も貰えるようになった。甥子が養父の代わりに配当を受け取り、家財を 増やして、家も建てた。この工場のお陰で、山東の実家の暮らしは日に日に楽になった。養 父の配当金まで受け取った甥子から定期的に瀋陽に布団やカバーなどの日用品が届くように なった。瀋陽と遠く離れた故郷山東は密につながっていた。 12 歳の時、山東の実家で家族行事があり、絢子は養父に連れられて初めて帰省することに さいなん なった。瀋陽からお土産をいっぱい抱えて、汽車に乗り、済南駅で乗り換え、それから人力 ‑ 103 ‑ 車に乗る、2日間も掛かる長い旅だったことを覚えている。絢子にとって初めての遠出、町 チンダオ から町へ、どこまでも続く平原、中国の広大さを実感した。帰りに青島の親戚のところにも 立ち寄った。どこの親戚も温かく迎えてくれ、手厚くもてなしてくれたことが今でも心に残 っている。 振り返って、当時一番悲しかったことは、養母が山東の実家の不幸で暫く家を空けた時で あった。日頃養母に頼りきっていた絢子が料理もできず、自分の服や日常品の置き場所も分 からず、困り果て、養母の居ない寂しさも押し寄せ、泣いてばかりであった。養母の大きな 存在を強く感じた1週間であった。 社会人になる 絢子は、山東廟小学校を卒業し、瀋陽第七中学校に進学した。あまり勉強に熱心ではなか った絢子は、年老いた養父母を早く支えたいのと、自立したいとの想いも有り、中学2年の 時に学校を中退した。最初は町内の勉強会の先生の仕事を1年くらいした。当時、特に中高 年女性は、子供の時に学校に行けず、字の読めない人が多かったので、教育普及の為、各町 内で勉強会が開かれていた。 その後、絢子は、工場で働き始めた。親孝行するどころか絢子の収入は、殆ど自分の小遣 いになり、気に入った 23 元のハイヒールを買うのに、丸1ヶ月の 22 元の月収では足りず、 養母が足してくれたこともあった。お洒落をしたい青春真っ只中の絢子であった。養母は纏 足[注]で、絢子は外の用事や買い物などをよく手伝っていたが、もう少し、この頃に金銭的な 支援もできたのではと、後にかなり悔やんだ。 サ ヌ ツゥヌ ジ ヌ リエヌ [注]三 寸 金 連 という言い方もするが、中国では千年以上の歴史があると言われている。足の小さい女性 がゆらゆらした歩き方や振る舞いが可愛く思われ、品のあることと讃えられ、小さい時から布で足を硬く 縛り、大きくならないようにした。纏足をしない人が笑いものにされ、お嫁にも行けない時代が長く続い た。明朝、清朝もこの風習が盛んであった。 新婚時代 しゅうとくしょう 工場で3、4年働いた時に、いとこの紹介で 周 徳 勝 と知り合った。当時、発電所で技術 者をしていた彼はハンサムで、理想的な相手であった。両家の親が顔を合わせて、知り合っ ‑ 104 ‑ もうたくとう て半年後に周徳勝と結婚した。その頃の結婚式というと、毛沢東の大きなポスターの前で親 シィタン 戚や同僚に囲まれ、毛沢東のバッチを新婚さん2人が交換して、皆で食事をし、帰りに喜糖 [お祝いの飴]をお土産に持たすというスタイルが主流であった。でも、絢子たちは近所の レストランで親戚や友人を招く宴会を開いた。宴会後にお義母さんに勧められて、写真館で ウェディングドレスの記念撮影もした。祖父母に見られてもおかしくない歳の養父母は、自 分たちの年齢を気にしたのか、それとも別に複雑な心境があったのかわからないが、絢子の 結婚披露宴には出席しなかった。でも、立派な結婚式を挙げられたことは、両方の家族の深 い愛情の賜物であると感じている。 4人兄弟の1番上だった夫、周徳勝は、周家の住宅事情もあり、絢子家族と同居すること になった。宋家の2階建ての家に、1階に養父母が、2階に絢子夫婦が暮らしていた。結婚 後すぐに周の会社で家族社員の募集があり、絢子は応募し、同じ会社で共働きを始めた。間 もなく長女、冬冬が生まれた。纏足の養母が家事に子育てによく助けてくれた。すくすくと 育った長女が3歳ぐらいになると、 「もうすぐおばあちゃんの靴が履けるね」と赤ちゃんの成 長を楽しみにしていた。この時、養母の存在がさらに有り難いものと感じたものであった。 養父母の死 良いことは長続きしなかった。絢子が 27 歳の時に、64 歳の養母が病気で亡くなった。瀋 陽に居る同郷人や親戚たちの力で養母を故郷の山東まで運んで埋葬した。汽車や人力車など で小さい子供を連れての大移動であった。絢子は心身ともに疲れたが、本当に山東省出身の 同郷人たちの支えと力があったから、大変な大移動ができたと当時を振り返って思う。遠く 離れた故郷への思いや同郷人の団結力を絢子が身に沁みて感じた出来事であった。 てんかん 養母が亡くなり、養父は癲癇という病気を患い、通院治療を受けていた。翌年、1人にな った養父が生まれ故郷が恋しくなり、どうしても山東に帰りたいと言って聞かなかった。絢 子は、61 歳の養父を心配ながら見送ったが、山東で発作を起こし、適切な治療が受けられず、 そのまま帰らぬ人となった。絢子は訃報を受け、子供を周家に預け、直ちに山東に向かった。 18 歳で「闖関東」した養父は、死後漸く故郷の地で1年前になくなった妻と共に眠ることが できた。6歳から共に暮らしてきた養父母を1年の間に相次いで失い、絢子は大きな衝撃を せいしんかんのうしょう 受け、心に大きな穴が空いたような気持ちであった。突然の死別で、絢子は暫く精神官能 症 ゆううつしょう [漢方・中国医学における病名で、神経衰弱やヒステリーの一種。「憂鬱 症 」ともいう。 ] ‑ 105 ‑ になった。もっと心尽くしの親孝行をしたかったのにと悔やんでやまなかった。 遺産騒動 養父母が共に亡くなり、親戚や山東の実家との間に微妙な変化が起こった。親戚は、絢子 が養父母と血が繋がっていないことから、遺産を分けて欲しいといった。血縁関係はなかっ たが、本当の親子のように暮らしてきた絢子はこれに傷ついた。もっとも、亡くなる 10 年前 さんはん ご はんうんどう 頃から、中国で中小商売人の仕事を廃止する三反・五反運動[注]が始まり、養父は商売をやめ ざるを得なくなり、しかも字が読めなかったため会社勤めもできず、昼間は家で家事と子守 を、夜は用務員の仕事をするようになっていた。その為、収入は当時の平均的な月収 30 元程 度しかなく、これといった遺産も既になかった。宋家にとって、唯一財産らしいものといえ ば、古くなった2階建ての家だけであった。どう遺産を分けようか、絢子は大変困った。 [注] 「反貪汚、反浪費、反官僚主義」1951 年 12 月 1 日に共産党幹部に対して収賄、浪費と官僚主義を制 する運動が全国的に展開され、翌年の 1952 年 1 月 26 日に全国の中小都市で「反対行賄、反対偸税漏税、 反対偸工減料、反対盗騙国家財産、反対盗窃国家経済情報」の「五反」運動が行われた。五反は都会の中 小経営者に対する贈賄、脱税や申告漏れ、国の財産私有化、国家経済情報の窃盗など行為を制するような 内容であった。この2つの運動によって、中小資本家による資本主義現象の蔓延を阻止と共産党幹部層の 思想浄化を図ることができ、中国共産党史上に有名な運動の一つである。 引越し その後絢子の夫周徳勝に社宅が割り当てられた。1967 年、一家は周徳勝の勤め先に近い瀋 陽市鉄西区に移った。それまで住んでいた2階建ての家は 200 元でしか売れなかった(瀋陽 の平均月収 30 元の時代) 。 暫くして、 以前住んでいた一経街あたりから、 宋家の屋根から 1,000 元の大金が見つかったと噂が流れた。絢子それを聞いて、昔の家を訪ねて行った時には、も う古い家は取り壊されて、誰も住んでいなかった。養母が、絢子がいつか本当の親を見つけ て離れて行くのではないかと老後の心配から、長年掛けてこつこつとへそくりを貯めていた のだろうと絢子は思った。養父にも、絢子にも内緒で。結局、このことを誰にも告げずに養 母は亡くなった。 愛してくれた養父母を亡くし、遺産分配をめぐる親戚とのごたごたなど厳しい現実を経験 ‑ 106 ‑ した絢子は、少しだけ強くなった。その時から、絢子は自分の力で姉や弟を見つけ、そして、 一緒に本当の両親を探そうと心に決めた。養父母の養育の恩に十分恩返しできなかったと悔 やんでいる絢子は、自分の肉親を見つけたら大切にしたいと思った。 文化大革命の頃 瀋陽市鉄西区に移った絢子一家に、間もなく長男剛が生まれ、1970 年次女芳芳が生まれた。 その頃、文化大革命の嵐が渦巻いていた。絢子夫婦の勤める会社では、幾つかの革命派閥に 分かれ、夫周徳勝は、そのうちの一つに所属していた。毎日、革命学習会や反省会などで殆 ど仕事をしなかった。 日本人である絢子はいつ糾弾の的になるかビクビクする日々であった。 しかし、心の優しい絢子は、同僚たちとうまくつきあっていた為、日本のスパイなどと矢を 向けられることはなかったが、リストラされた。実際、会社も半営業停止状態で、小さい子 供持ちの「小日本」の絢子はリストラリストのトップであった。子育てに忙しい絢子は、生 活さえできるなら、家に居ても仕方がないと諦めたが、やはり夫の収入では一家 5 人の生活 は段々苦しくなった。絢子は困った挙句、瀋陽市政府に懇願に行った。その時の役人たちの 傲慢かつ冷淡な対応に腹が立ったことは今でも忘れない。 文化大革命の動乱が 10 年も続く中、 実際の中国社会は無政府、無秩序状態に陥り、 「是非顛倒」 [良いこと悪いことを逆さまにす ること]で人為的な災難を蒙った 10 年間であった。多くのインテリたち、各業界のエリート シアファン たち、優秀な国家幹部たちまでが迫害をうけ、監獄や下 放 [用語集→上山下郷]先の労働現場で亡くな った。そういう情勢の中、役人が一庶民の懇願などに動く訳がなかった。 2.肉親捜し 肉親捜しの第一歩 1974 年頃、夫周徳勝の会社が社員募集をしたことを機に、絢子は再就職した。帰国するま でずっと下請の工場内で雑務的な仕事をした。1978 年頃に文化大革命も漸く終わり、残留日 本人が日本の家族を見つけたという話を聞くようになり、絢子も早く自分の家族を見つけた シアオルィ ベ ヌ らと回りから言われた。小さい時に「 小 日本」と言われ、絢子が悔しくても、ずっと1人 で堪え、養父母にも日本の家族の事について一度も話したことはなかった。 絢子が長年、心 の奥にしまっていた夢が漸く叶う時期がやってきた。絢子は、早速若い頃宋家でお手伝いを ‑ 107 ‑ していた郭おじさんに手紙を書いた。もう山東に戻っていた郭おじさんは昔瀋陽と撫順の間 でよく商売で行き来をしていた。おじさんが最初の養父である武洪深の奥さんの兄弟の居場 所を教えてくれた。そこを尋ねて、既に撫順から瀋陽に移った初めの養父、武洪深の情報を 入手し、絢子は希望を胸に訪ねていった。年老いた初めの養父は脳出血の後遺症で、体の半 分が自由に動けず、絢子のことを思い出すのも精一杯だった。自分の両親のことについて詳 しい情報を得ることができなかった絢子だが、自分の家族に一歩近付いたような気持ちがし た。 突然の来客 1979 年の初夏のある日、絢子は家で子供の服を縫っていたところ、 「お母さん、お客さん だよ」と子供たちが男の人を連れて帰ってきた。全然知らない人の突然の来訪に絢子は戸惑 おうけつ い、慌てた。話によると彼は大連工砿の人事課の人で、王傑という女性に頼まれて、妹捜し に来たとのことであった。武洪深から絢子の居場所を聞いて、尋ねてきたようであった。話 をしているうちに王傑という女性は、自分の姉朝子とわかった。 離別した両親のその後 絢子の実の両親は、敗戦の混乱の中ではぐれて、と言うより、もう2人はお互いを心配し 合うような間柄ではなかったようであった。母の恵美子はどれぐらい待っていたかは、はっ きり分からないが、引揚船に乗ることができた。着の身着のままの母親は、ぼろぼろの軍服 を羽織っていた惨状だったと絢子は後に聞いている。大勢の引揚者たちに、乗船前に 1,000 円ずつ配られた。大連から出航して1週間後に漸く祖国日本に戻った。山口県出身の母の実 家に戻るはずの両親と 10 人ぐらいの子供たちも満洲に渡ったきり、 未だ日本に戻っていな かったので、母は帰る家もなく、下船したその足で夫の故郷である福井県に向かった。夫の 津田正治が既に大阪に出て行ったことを聞いた母は、追いかけるように大阪へ向かった。西 成区でついに両親は再会し、再び一緒に暮らすようになった。 父、からの手紙 ― 朝子を見つける 昭和 23(1948)年 3 月に津田家の三女静子が生まれ、 その2年後の昭和 25(1950)年 6 月に四 女壽子が生まれた。日々2人の娘を育てて、父は度々大連で同僚に預けた子供たちのことを ‑ 108 ‑ 思い出したに違いない。同じぐらい可愛いわが子は中国で元気にしているのか・・・。父は 大連の公安局に娘たちを探してほしいと手紙を送った。預けた人の勤め先も名前もはっきり していたので、1962 年に姉の朝子が見つかり、連絡を取り始めた。 姉の朝子は王夫婦に預けられ、王傑と名づけられ、大事に育てられていた。朝子の家族は、 後に2人の弟と2人の妹も生まれて、夫婦と兄弟姉妹合わせて 7 人の大家族であった。朝子 こうでんしゅう は順調に成人し、大連の会社に勤めていた。同じ会社の同僚である公伝 洲 と結婚し、1男 1女をもうけていた。22 歳の時に遠く離れた実の父の消息が分かり、朝子は、父からの情報 で、大連で妹絢子と弟正太郎を捜し続けた。 そして、ついに、年齢と離散当時の状況から、 「絢子」と思われるような女性と会い、本当 の姉妹と信じて、本当に親しく付き合い始めた。ところが、本当の「絢子」ではなかった。 「絢子」は、自分の家族を見つけて、突然朝子の前から何も言わずに去ってしまったそうで ある。姉は大変ショックを受けたようである。 両親の離婚、母の再婚 父は無口で真面目だったそうだが、若くて明るい母との間に再び溝が深まり、1970 年につ いに2人は離婚した。その 4 年後、1974 年に父は、ついに生き別れた娘たちと再会すること もなく病気で亡くなった。 離婚した 54 歳の母は生活の為、居酒屋で働き始めました。そこで知り合った中岡と再婚す ることになった。姉の朝子とは、手紙のやりとりが続いていた。人違いして傷心する朝子、 一方、母の方は、年頃の娘を連れての再婚に神経を使い、絢子と正太郎のことを考える余裕 がなかった。絢子は、今ではそう思っている。むしろ、再婚の相手に、子供を棄てた女とい うように思われるのを怖れていたのではないだろうか。大連と大阪のそれぞれの現実に向き 合う中でいろいろな出来事が起こり、離れ離れの親子、それぞれに心の葛藤が有ったことで あろう。 1972 年の日中国交の正常化、1978 年文化大革命の終了と多くの人の努力と想いで、残留日 本人、残留孤児の肉親捜しが活発になった。 ‑ 109 ‑ 姉との 34 年振りの再会 絢子もこの時期、大連からの突然の来客で、姉朝子と繋がった。 1979 年の夏に絢子が山東の親戚に尋ねていく機会が有り、末娘の芳芳と2人で大連に立ち 寄った。絢子にとって一番思いを寄せていた姉との再会に、胸をふくらませていたが、一度 人違いの失敗を経験したせいか、朝子はかなり冷静な対応であった。絢子に両親のことを熱 心に話すこともなく、大連を案内することもなく、通常通り仕事に出掛けた。 訳が分からず、予想外の反応に戸惑う絢子親子が姉の家で1泊して、すぐに山東に向かっ た。どうして仲良しだった姉妹なのにこんなに冷たいのか、失意した絢子は、大阪西成区に いる母恵美子宛に手紙を送った。 実の両親のこと、家族のこと、沢山知りたくて、母からの返信を待つ日々が切なくて仕方 がなかった。でも、いくら待っても返信がこなかった。もう一度手紙を送り、そして、再び 期待と不安の日々であった。4回目の手紙の発信後に、漸く大阪からの航空便が届いた。手 紙を書いていたのは、なんと日本に滞在中の姉朝子であった。 1980 年始めに朝子が子供2人を連れて、大阪に住む母を訪ね、継父の中岡と 5 人で1年間 暮らしはじめていた。妹の静子と壽子はもう結婚して別に生活をしていたようである。手紙 は以下のような内容だった。 「年老いた母達は生活が厳しい上、母は心臓病を患っている。絢 子たちのことを話すと顔が曇り、あまり話をしたがらない」と。 朝子たちの子供たちは、日本滞在中、地元の小学校に通った。朝子は日本の生活に慣れず、 よく頭痛を訴えていたようだが、鶴橋(大阪)にある日本語学校に通い続けていた。朝子が 滞在を終えて、大連に戻ったと聞いて、絢子は、すぐ姉のところに会いに行った。朝子は相 変わらず絢子と距離をおくような素振りで、淡々と母たちのことを話し、最後に母が着てい たジャケットを絢子に1枚くれた。 訪日調査 昭和 56(1981)年、残留孤児の肉親捜し、訪日調査が始まった。幸運なことに絢子は第1 回の調査団に選ばれた。39 年間ずっと自分のことを日本人だと認識しながら生きてきた絢子 が漸く祖国に行って、母に会える日が来た。 絢子は嬉しくて嬉しくて、新しいスーツを仕立て、心臓病を持つ母の為に漢方薬を購入し りょうねい きちりん こくりゅうこう た。初春の 3 月 2 日に中国東北三省( 遼 寧省、吉林省、黒 龍 江省)から集まった 47 名の ‑ 110 ‑ 残留孤児たちとともに、北京国際空港から祖国日本に向かって飛び立った。初めて、降り立 った成田空港には多くの人たちが出迎えに来てくれていた。厚生省の方々、日中友好協会の 方々、民間ボランティアの方々、たくさんの笑顔、たくさんの花束、孤児たちは夢にまで見 た祖国の地をついに踏み、温かい歓迎を受けて、感無量であった。 寒さの残る 3 月上旬だが、春がすぐそこに来ていた。残留孤児たちの本格的な肉親捜しが 始まり、NHKの特別番組に孤児1人1人が登場し、 「生みの親に会いたい」と涙ながら切に 訴えた。絢子も2回ほど番組に出演した。テレビ出演の合間に東京見物に出掛け、東京タワ ー、皇居、浅草寺などを廻った。靖国神社に参拝した時に、父親が軍人だった孤児の1人が 泣き崩れて、その場に倒れた出来事もあった。出先で1本早咲きした桜の木を見つけて、皆 大喜びで桜の下に集まり、記念撮影をした。日本滞在をもう少し延ばしてもらえれば、桜花 爛漫の春を楽しめたのにと皆が残念がっていた。 一方、宿泊先の代々木には、毎日、多くの人がいろいろなお土産を持って、孤児たちを訪 ねてきた。もちろん、わが子を探しに来る人も、わが子の情報を求める人もいた。でも、絢 子の春はなかなか訪れなかった。母は現れない。涙の対面を果たした人たちとご家族の喜び の渦巻きの隅っこに、絢子が薬包を抱え、涙ながら1人で沈んでいた。堺市に住む母の家に 職員の方が何回も電話を掛けてくれたが、電話が鳴るだけで誰も出ない。 「本当の母ならこん な冷たいはずがない」と諦めたりもした。その間、医学鑑定が行われ、母と2人の妹の血液 検査などで親子関係に間違いが無い事が確認された。 日が経つにつれ、47 名の孤児の半数が肉親と対面ができたが、一方、絢子は段々不安と焦 りが募った。このままでは母にも会えずに中国に帰ることになってしまう。厚生省の職員た ちも沈んでいる絢子のことが気になっていた。ある日、議員の山口淑子さん(中国でも有名 り こうらん な歌手の李香蘭さん)がやってきた。絢子の事情を聞いて、大変心を動かされたようであっ た。絢子を励まして、なんとか努力をしてみると話してくれた。 日本滞在の最後の3日間、孤児たちは新幹線に乗って関西に行った。皆は疲れも見せず、 きよみずでら あらしやま とうえいうずまさ 初春の京都清水寺、 嵐 山、東映太秦映画村、大阪城などを訪れた。NHKの全国放送で孤 児たちの涙が日本全国に大きな衝撃と感動を与えた。孤児たちへの関心も高まり、孤児たち は到る所で暖かい歓迎を受けた。 ‑ 111 ‑ 親子の対面 ここまで話し続けてきた絢子は、ちょっと疲れたのであろうか。あるいは、もう何回も話 したことだからであろうか。それとも今となっては感情が深く沈んで引き出すのが億劫なの であろうか。突然立って、押入れに大切にしまっていた古くて黄ばんだ新聞記事をとりだし てきて、私に見せた。そこには当時の様子がおよそ書かれていた。 16 日の帰国を控え、厚生省の職員を始め多くの方の説得で、15 日に漸く厚生省係官ら数人 に付き添われ、絢子は堺市公団住宅の4階に住む母の所に向かった。 当時継父は不在であっ た。母は一行を家に迎え入れて、絢子を目の前にして、口を硬く結んでいた。張り詰めた空 気の中で、親と子はいろいろな思いを巡らせたことであろう。 最後に絢子は薬包みを差し出して、 「私のこと娘と認めなくていい、一度媽媽(ママ)と呼 ばせてください。そして、この薬を受け取って、元気で長生きをしてください」と。 この言葉を聞いた瞬間、涙を堪えていた母は号泣とともに「ごめんなさい、何もしてやれ なかった母を許して」と声を詰まらせながら口を開いた。 「マーマー、マーマー」 、 「許して、許して」 、生き別れた親子が三十数年振りに抱き合った。 絢子は自分の結婚指輪を母に渡すと、母も自分のパールの指輪を外し、 「これを母さんと思っ てね」と絢子の指に嵌めた。母が頑なに絢子との面会を拒否した理由については何も語らな かった。でも、絢子はそれ以上何も望まなかった。中国に帰る前日の夜、絢子は、母が娘と して認めてくれたことで興奮して眠れなかった。 弟を探す 3月 16 日、調査団 47 名は、病気治療のため帰国を延期した1人を除いて、46 名が大阪空 港から中国北京に戻った。調査団の中に大連からの孤児が数名いた。2週間ばかりの共同生 活の中、絢子は行方不明の弟のことを思い、大連の人たちと特に親しくなり、正太郎の年齢 や当時の事情を話し、情報提供を求めたところ、そのうちの1人が言うに、大変正太郎に似 ている残留孤児、林永発がいるとのことであった。瀋陽に戻った絢子は早速大連の林さんと 連絡を取ってみた。そして文通をしたが、姉の朝子の人違いという苦い経験を絢子が知って いた為に、弟であるとは個人的に断定できなかった。 ‑ 112 ‑ 3. 帰国 帰国の決意 祖国に温かく迎えられ、実母にも認められ、長年自分の本当の身分を隠しつつ、ビクビク 暮らしてきた絢子は、もう何も恐れることなく胸を張って、堂々と日本人だと言えるように なった。文明国の日本、先進国の日本、豊かな日本を絢子は自分の目で確かめてきて、日本 人である自分は、国民として日本で暮らすのが当然のように思えてきた。 文盲の養父の「闖山東」の精神が絢子に浸透し、影響していたのであろうか。絢子は、自 分の出生が日本人であるが為に、自分たちの家族の将来が見えないうえ、わが子まで「小日 本鬼子」といわれたり、文化大革命のような運動が再び起ったら、自分たちがどうなるかの 不安も抱えていたので、夢と希望を抱いて、ついに帰国を決意した。 当時、長女の冬冬は中学校を卒業して、仕事を始めていた。長男の剛が中学校2年生、次 女の芳芳が小学校6年生であった。日本への移住について、家族は特に反対しなかった。 ルェヌワンガオチュゾォウ ショイワンディチュリィウ 「人は高きを目指し、水は低きに流れる」という意 諺で「 人 往高処 走 、 水 往低処 流 [ 味] 」という言葉があるが、中国の社会では、前半の「人はよりよい所を目指す」ことが昔か ら讃えられ、拍手を贈られる。たとえ、茨の道でも、たとえ、転んで怪我しても、忍耐強く 目標に向かう。同じ諺ですが、日本では「水は低きに流れる」 、無理せず自然のままが一番良 いというのが広く受けいれられているようである。そういう文化の違いや思想の違いから、 しばしば、残留孤児たちとその親族の間の溝が深まったり、日本で育った人々との間の不一 致が生じる原因になっているのではないかと思う。当時、残留孤児の肉親たちの多くが、孤 児の帰国に対して反対であった。もちろん、病弱な絢子の母親もその1人である。でも、絢 子の決意も堅いものであった。 中国帰国前日に果たした「涙の対面」は、当時関西地方で大きく取り上げられ、多くの国 民の心を動かしたようであった。多くの関係者が絢子のことに関心を持ち、絢子家族の帰国 たけがわ を待ち望んでいた。大阪府日中友好協会の竹川会長が絢子の家庭事情と肉親捜しの苦労をよ く知り、 絢子の帰国希望を聞き入れて、身元保証人になることを約束した。絢子は、姉朝子 のことも竹川さんに依頼した。 ‑ 113 ‑ 帰国への道 孤児の肉親捜しへの関心が全国的に高まり、すでに 40 歳前後の孤児たちは、一部を除き、 永住帰国を希望する者が殆どであった。しかし、当時、日本政府の立場は、孤児家族の帰国 の際には、親族の同意が必要であった。絢子の帰国については、妹壽子が積極的であった。 竹川会長と一緒に母恵美子の説得にあたった。母も、説得を受け入れ、ついに同意書に捺印 し、 妹壽子と竹川会長が必要な帰国手続を全部完了した時には、 既に2年の時が立っていた。 1983 年 3 月、絢子一家は日本に行く準備の真っ只中でした。絢子も夫の周徳勝も会社を退 職、絢子は 19 年勤めた会社から退職金 1,700 人民元、夫は 2,700 元をもらい、銀行で日本円 32 万円に交換した。これが絢子一家の全財産であった。中国はその頃は長い動乱の「文革」 に終止符を打ち、自由、改革、開放の道を模索し始めた頃であった。人々は先進国を見習い、 先進国に追いつくをスローガンにしていた。外国に憧れても簡単に出国できない状況の中、 日本に永住帰国できる人たちは羨ましがられる存在であった。絢子一家は夫の周徳勝以外は、 全員旅費を日本政府より支給され、瀋陽の親戚、友人の祝福の中、北京に向かって出発した。 この頃は北京・大阪間の航空便は週1便しかなかった。大阪行きを待っている間、家族は 北京観光をした。3 月 18 日の日本行きの飛行機に偶然にも朝子家族4人も同乗していた。姉 妹お互い瀋陽と大連で別々に帰国手続きが進んでいて、お互い連絡もしていないにもかかわ らず、あまりの偶然に驚き、姉妹の縁だと感じずにはいられなかった。 再び訪れた大阪空港では、母、妹たち、竹川会長、関係者、報道陣が待っていた。 姉朝子たち家族は、先の1年間の滞在で日本語もある程度話せるようになり、母たち家族 と再会を喜んでいた。母は、用意した車で姉家族4人だけを乗せて帰った。空港で、別れる 際に、母は絢子に「これからいろいろ大変ですが、頑張って」と 3 万円を握らせた。絢子は ただただ涙を堪えながら、絢子一家 5 人は竹川会長について行った。 帰国後の生活 絢子一家は大阪府吹田市市営団地の3DK の一室で新しい生活を始めた。幼い時から絢子は、 自分が日本人だと認識しながら心の奥に硬くしまって生きてきた。41 歳になり、漸く祖国で 堂々と日本人として暮らせるというのに、言葉という大きな壁にぶつかってしまった。どこ へ行っても、何をしても言葉が不自由がゆえに中国人扱いをされた。 ‑ 114 ‑ 長女の芳芳と長男の剛が中学校の3年と2年に編入され、当時の学校では珍しい「外国人」 としてよく苛められた。気の強い剛が頭を怪我して帰ってきた時は、絢子は本当に心痛み、 「私たちは中国では日本人、日本では中国人」がいつの間にか口癖になっていた。 心の優しい絢子は、瀋陽の職場では人望ある存在でしたが、祖国では近所との簡単な会話 もままならない状況が続く中、同じ団地に入居した姉朝子家族も、こちらをなかなか振り向 いてくれなかった。姉朝子家族は、子供たちも日本語ができるので、仕事と勉強でいつも忙 しく、きっと時間が取れないのだと絢子なりに解釈して、季節ごとにお姉さんを訪ねていっ た。同じ団地に住み、しかも絢子はベランダから姉家族の家の窓が見える処にいるのに、ど うしてこんな遠くに感じるのであろうか?小さい時にベランダ越しに見たお姉さんはどこへ 消えたのであろうか?絢子には到底理解のできないものであった。でも、どんな対応であろ うが、朝子は、自分の姉であることは間違いのない事実だと確信していた。絢子の寂しい気 持ちを察した日中友好協会の方々が、一度姉妹で向き合う場を設けようと提案もしたが、実 現には至らなかった。 さかい 一方、 堺 市に住む母美恵子は、その頃体調が悪く、家で寝込みがちであった。絢子は、 吹田市から2時間掛けてよく母を訪ねていった。つたない日本語でできるだけ母と話をした り、身の回りの世話をしたりして、自分にできる精一杯の親孝行を悔いのないように心掛け た。もう少し近かったら、毎日行きたい気持ちであった。生活基盤のない絢子のことを気遣 って、母がそっと絢子に 2 千円ぐらいの交通費を渡したこともあった。普段は一番下の妹壽 子がよく母の世話をし、心の優しい妹壽子は姉の絢子にも親切であった。 弟の認定と帰国 昭和 60(1985)年、絢子の時と同じ春の季節に、弟正太郎だと思われる大連在住の残留孤児 の林永発が、第7回訪日調査団の一員として日本へやってきた。病弱な母は、積極的に認め ようとはしなかった。もう考える余裕がなかったのかもしれない。しかし、絢子の物語に心 を引きつけられた日中友好協会の方たちが、戦争で離散した家族を一つに寄り戻そうと一生 懸命であった。肉親捜しで苦労を味わった絢子も積極的に協力した。そして、林永発が医学 鑑定により、弟正太郎であることが判明した。その2年後に正太郎、妻、一人息子の3人が 永住帰国を果たした。 ‑ 115 ‑ 家族が日本に慣れて 絢子は 50 歳を目前に自分の親兄弟を確認でき、 揃って祖国の地で暮らすことができるよう になった。その間に家族は徐々に日本の生活に慣れて、夫の周徳勝も正社員で勤めに、長女 は中学校卒業後に理容学校に進学、美容師の道を選んだ。そして同じ帰国者二世の男性と結 婚し、2児の母となった。長男の剛は、中学卒業後職業訓練を受けて、溶接の仕事をし、瀋 陽から妻を迎え、1女の父になった。末っ子の芳芳は小学校、中学校、高等学校、洋裁の短 大を卒業し、日本人の男性と結婚、2児の母となった。絢子は日本語を勉強しながら、パー ト勤めをし、子供たちの進学、就職、結婚、子育てにできるだけの支援をしてきた。絢子が 母としての 40 代、50 代は多忙な日々だったようであるが、充実した時期であった。 中国と日本への思い 5年前(2000 年)に母美恵子が長い闘病生活に終止符を打った。亡くなる前日に絢子が病 床でキャンディを母に食べさせたのが、親子最後の思い出となった。姉朝子も2年前(2003 年)に他界した。 64 歳の絢子は、現在夫と2人で静かに暮らしている。夫も定年退職して、年金を受給して いるが、生活保護で半分補っている病を患っている絢子は、精神的にも体力的にも外出でき る余裕がなく、また行く所もなく、人と会話をすることもそう多くない。 生活保護を受けているためであろうか、少し家を空けると「どこへお出かけしたの?」と 詮索されるように尋ねられる。勘違いであろうか?監視されているような気持ちを持ってい る。祖国日本にこんな冷たくされるとは思いもしなかった。 絢子は自分の人生を振り返り、中国は「地大物博」 、土地が広く、物が豊かなので、人々も 寛大な心を持ち、他人の子供をわが子同様に育ててくれた。その逆に、日本は、戦争で残さ れた中国の子供たちを育てることができたのであろうか?日本は小さな島国なので、皆用心 深く生きているように感じている。帰国から 20 数年が経つが、何故いまだに日本語が上手く 話せないかというと、人との会話が少ないし、人との関わりが少ないからである。日本人は、 隣近所でもできるだけ玄関で会話をし、用事を済ませる。これは日本の風習なのかもしれな いが、中国で育った絢子には冷たく感じる。今日まで、妹の家でさえ 10 分しか上がったこと がないと言う。数年前、同じ団地の別の部屋に移る際に、間取りを事前に知りたくて、同じ タイプの家をノックしてみた。きちんと意図が通じるように娘を通訳に連れていったが、何 ‑ 116 ‑ 度頼んでも部屋を見せてくれなかった。これは日本人にとっては当たり前なのかもしれない が、絢子は、日本社会の冷たさと感じ、驚き、ショックを受けた。 今度、絢子が中国に行くときは、日本人と同じ入国手続き、同じビザがなくては行けない。 宿泊すると場合によっては外国人特別料金を要求される。日本へ戻れば、中国人になる。 「私 たちは一体何人でしょうかね?」と絢子はちょっと興奮気味に話した。日本人との間では、 言葉の壁があるから仕方がないけどね・・・・と。 「落葉帰根」―他郷にさすらう人が、老いて自分の故郷へ帰るという言葉がある。絢子は 迷わず帰国を決意し、日本人として選んだ祖国の生活に後悔はない。現在の生活が維持でき る以外は、何も望んでいないそうである。 ◇◆◇◆◇◆◇ 聞き書きを終えて 私の父も津田絢子さんと同じ残留孤児であり、 似たような経験をし、 似たような人生を歩んできました。 その尋常ではない道のりや、日本人でありながら、日本の教育も受けられず、祖国で「中国人」扱いされ る苦しい心のうちを誰よりも知り、そしてより多くの日本人にも知って欲しいと思い、今回の聞き取り調 査プロジェクトに参加しました。 津田絢子さんと初めてお会いしたのは、今から十数年前、私が学生の頃に吹田市 YMCA が主催した野外交 流カレーパーティーでした。温かい眼差しと優しい話し方が印象的でした。若かった津田さんが当時帰国 者先輩として、困った孤児たちの相談役をつとめたり、励ましたりして、帰国者たちに対して、親戚、家 族のように接していました。 今回のインタビューで再会できた津田さんの温かさは昔のままですが、いくらか憔悴していました。静 かな日々の思わぬ来客に津田さんが喜び、 そして、 糖尿病で衰弱している津田さんが休憩を取りながらも、 毎回熱心の語り、あっと言う間に時間をオーバーしてしまいました。インタビューが終わった後、一緒に 散歩しながら、ゆっくりと駅まで私を送ってくれました。私にとって、今回は初めての聞き取りなので要 領も得ず、力が及ばないもどかしさを感じました。津田さんの物語に応えるようなものには、程遠いもの になってしまったことを申し訳なく思いながらも、インタビューを通じて沢山勉強できた事を幸いに思い ます。 「人往高処走」を志す中国社会、 「水往低処流」を受け入れる日本社会、いずれも残留孤児たちにとって、 ‑ 117 ‑ 大切な世界であり、いずれもなくてはならない空間です。 (まつむら まさこ) 基本データ 聞き取り日:2004 年 10 月 1 日、2005 年 1 月 23 日 聞き取り場所:津田さん宅 初稿執筆:2005 年 3 月 31 日 ‑ 118 ‑
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