さて、結末は、総領事から迫り来る連合軍に抵抗することの無意味さを説

第二次世界大戦の序盤戦において、フランスはナチス・ドイツの侵攻を許してパリ
を占領されてしまう。このときジャン・ギャバンを初めフランスの多くの映画人が国
外に逃れている。パリを奪われたフランスはド・ゴール将軍が凱旋を胸に秘めて英
国に亡命し、ロンドンで「自由フランス政府」を樹立する。いっぽう、ナチに懐柔され
たペタン元帥はフランス中部のヴィシーに遷都し、フランスの正統政府を名乗って
ド・ゴールに対抗した。しかし、英米の連合軍はド・ゴールの要請に応えてノルマン
ジー上陸作戦を敢行し、ドイツ軍を蹴散らしてフランスの北海岸に上陸したあと、パ
リを、そうしてベルリンを目指して進撃するのである。
そのパリ進撃を迎え撃とうとするドイツ軍司令官コルティッツ大将と、中立国ス
ウェーデンの外交官ノルドリンク総領事の鬼気迫る「駆け引き」(原題)を描いたの
が「パリよ、永遠に」(14年、独仏合作。写真上)である。ヒットラーは連合軍によるド
イツ本土爆撃の激化とノルマンジー上陸に業を煮やしており、おまけにパリを奪回
されることはかれのプライドを著しく傷つけるものだった。そこで、恐るべき命令を発する。パリを奪還される前にノートルダム大聖堂、凱
旋門、ルーブル美術館、オペラ座、エッフェル塔etcをことごとく爆破して街を跡形もなく破壊せよというものだった。
情報を聞きつけたスウェーデン総領事がコルティッツを訪れて思いとどまらせようとするのだ。スウェーデンは二度の大戦において中
立を堅持した。それで、スウェーデンの外交官はナチ占領下のパリに居座ることができたのである。そうして、総領事は人類史の類い希
な文化遺産であるパリを何としても守らなければならないし、それをナチの司令官に進言できるのは自分しかいないという使命感に突き
動かされて必死の説得を試みるのだ。総領事いわく「いずれ戦争は終わる。ドイツとフランスは隣国同士だ。パリを破壊すればドイツとフ
ランスの関係は未来永劫修復されないことになる。それでもいいのか」と。何だか身につまされる話である。いってみれば、パリとはヨー
ロッパの人びとにとって、わが国の京都のような位置づけといえばよいか。因みに、日本がポツダム宣言を受諾することを決断したとき、
やはり中立国として連合国との間を仲介したのがスウェーデンとスイスであった。
これは実話をもとにした戯曲の映画化で、映画の大半はナチの司令官(ニエル・アレストリュプ)とスウェーデン総領事(アンドレ・デュ
ソリエ)の丁々発止の息もつかせぬやりとりで占められているのが如何にも舞台を感じさせる。しかも、これがいっこうに飽きさせない。と
いうのも、ふたりの名優による火花を散らすような演技が功を奏しているからにほかならない。このパリ解放をドキュメンタリ・タッチで描
いた名作がルネ・クレマン監督の「パリは燃えているか」(66年)で、コルティッツをドイツの名優ゲルト・フレーベが、ノルドリンクをオーソ
ン・ウェルズが演じた。
映画と舞台の違いは何か。それはカメラの有無である。映画のカメラは絵画と同じく
作者(監督)が観客に見てもらいたい部分だけを抽出して見せる。しかし、舞台はそう
はいかない。舞台は全景を見せるが、観客は見たい部分を自分で選んで見る。といっ
ても、それには限界があって、人物AとBのどちらに注目するかは観客の自由である
が、人物の顔の表情をうかがおうと思っても恐らくそこまでは見えないだろう。ところ
が、映画にはクローズアップという手法があって、顔の微妙な動きを適確に捉えて見
せる。つまり、映画と演劇は似ているようで全く違う表現形式を有した芸術であり、それ
ぞれ強み、弱みがあって、どちらが優れているというものではなく、その特質に合った
表現方法があるのだ。フォルカー・シュレンドルフ監督(写真下)はクローズアップを巧
みに使って、二人の駆け引き(神経戦)を微妙な頬の痙攣などであらわした。まことにう
まい。シュレンドルフはノーベル賞文学の映画化「ブリキの太鼓」(79年、ギュンター・
グラス原作)でカンヌ国際映画祭の金賞、アカデミー賞の最優秀外国語映画賞の二冠を勝ち取って国際的に名を知られることとなったド
イツ映画の名匠である。
コルティッツは苦悩しながらも、ノルドリンクの説得に一向に耳を貸さない。余りの頑なさに詰め寄る総領事に対して、将軍は驚くべき
ことを告白する。将軍の妻子が本国で人質になっていて命令に背いた場合は処刑されるというのだ。君ならどうする、と反問された総領
事は絶句して「わからない」と答えるのが精一杯だった。だが、ノルドリンクはなおも食い下がって妻子を秘かにスイスへ逃すルートをもっ
ていると、最後の切り札を出してコルティッツを説き伏せようとするのだ。「それがうまく行く根拠は?」と迫られたノルドリンクは自分の妻
をそのルートを使って逃した、という。「どうしてそんなルートを使って逃す必要があったのか」と聞くコルティッツにノルドリンクが答える、
「私の妻はユダヤ人だ」と。
さて、結末は、総領事から迫り来る連合軍に抵抗することの無意味さを説かれたコルティッツが、これ以上双方の犠牲を
出しても得るものは何もないと判断して部下にパリの破壊を中止する命令を出し、自らも潔く投降する。字幕によると、コル
ティッツは戦後しばらくして釈放され、その妻子はといえばドイツ敗北の混乱に紛れて助かったそうだ。となると、総領事が妻
子をスイスへ逃すといった約束はどうなったのか。あるいは「妻がユダヤ人」だという話は?・・・如何にも誠実そうに振る舞っ
ていたノルドリンクが実はしたたかで狡猾な外交官としての才能を発揮してコルティッツをまんまと騙して翻意させたというこ
とだろうか。戦争が終わって10年後にふたりは再会したという。ノルドリンクはパリを救ったことでフランス政府から勲章を授
けられたが、再会したそのとき、コルティッツに譲ったらしい。ちょっといい話である。
この映画を見て、隣国関係の難しさと、その正しいあり方を学んだ気がする。いまドイツは先ごろ来日した保守系のメルケ
ル首相が政権を担っているが、隣国フランスをかけがえのない友邦として大切にし、過去の過ちを謝罪して新たな未来を築
こうと誓っている。これは以前の左派政権のときから変わらないスタンスである。極東の国にそういう謙虚さが芽生えるのは
いつの日だろうか。 (2015年4月1日)