世界の経済を揺るがす石油危機

世界の経済を揺るがす石油危機
N.H.C(ベトナム)理科一類
要旨:
近代の世界経済が石油に依存しているのは、過去三十年前の石油危機と今日の石油危機から分かる。
この論文では、古今の石油危機の事情からそれらの影響までを考えた上で、今日の石油危機を理解して
いきたい。
キーワード:
石油危機
中東戦争
イラン革命
OPEC
メジャー
1. 石油使用の歴史
地下から湧く燃える水の存在は、古代から世界各地でも知られていたが、産地だけで燃料や照明に用
いたことが多い。17 世紀頃にルーマニア産の石油が灯油用に用いられており、他の油より品質が良いと
されていた。しかし、大量生産はずっと後のことであった。
1859 年、アメリカのエドウィン・ドレーク(Edwin L. Drake)がペンシルバニア州で石油の機械式発
掘を始めたのが世界最初と言われる。これが石油の生産量を一気に伸ばし、石油時代の扉を開いた。19
世紀から 20 世紀半ばにかけて、生産だけでなく、消費側にも石油普及を促す技術革新が続いていた。
内燃機関の誕生に従って、自動車が商業実用化されており、そして 20 世紀初めに飛行機が発明された。
石油は徐々に生活における役割を果たして行った。第二次世界大戦後、石油の新たな使い道として、化
学繊維やプラスチックが、あらゆる工業製品の素材として用いられるようになった。また石油は発電所
の燃料としてもよく利用されるようになった。戦車、軍用機、軍艦などの燃料でもあったことから、今
や石油は死活的な戦略資源となったのである。
実は石油自体は珍しくないが、大量生産のできる油田は割と少なく、しかも発見が困難であったため、
石油産地は地理的に偏ったのである。
19 世紀後半には、アメリカ合衆国、ルーマニア、ロシアのコーカサス地方が石油の産地であった。
第二次大戦後しばらくして、中東に大規模な油田が発見された。中東は優れた油田が多いだけでなく、
人口が少なく現地での消費量が限られているため、今日まで世界最大の石油輸出地域となっている。
石油の探査には莫大な経費と高い技術が必
要となるものの、成功時の見返りもまた莫大で
石油の確認埋蔵量(1990 年)
サウジアラビア
25.5%
ある。必然的に石油産業では企業の巨大化が進
世界の 1/4
アラブ首長国連邦
9.7%
んだ。独自に採掘する技術と資本を持たない国
クウェート
9.5%
では、巨大な資本を持った欧米の石油会社に独
イラク
10.0%
占採掘権を売り渡した。これによって石油開発
イラン
9.3%
の集中化はさらに進み、石油メジャーと言われ
カタール
0.4%
る巨大な多国籍企業が誕生したのである。石油
湾岸6カ国
64.9%
世界の 2/3
の大量産出によって安価な石油はエネルギー
OPEC(11カ国)
76.5%
世界の 3/4
源の主力となり、エネルギー革命と呼ばれるエ
世界全体
ネルギー源の変化が生まれた。
100%
1
2. 石油危機
「石油危機」
、あるいは、
「石油ショック」とも称される出来事は 1970 年代に二度あった。
これは、原油価格高騰による経済混乱のことを指す用語である。
1. 第一次オイルショック
a. 第四次中東戦争
1973 年 10 月 6 日、午後 2 時、イスラエル全土に空襲警報が発令された。ユダヤ教の最も重大な祭日
であるヨム・キプール(Yom Kippur)で休息に入ったイスラエルの隙をつき、エジプト軍がスエズ運河東
岸、シリア軍がゴラン高原に進撃した。アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発した。
第三次中東戦争(六日戦争)で、先手を打って圧勝したイスラエルに負けて、失った領域の奪回しよ
うと決意し、エジプトがシリアと協力してイスラエルを攻撃する作戦を計画し、先制攻撃をしかけるこ
とにしたのである。
イスラエルの警戒が緩む日でもあって、アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したことも
あったため、最初のうち、一時イスラエルは苦戦を強いられたのである。だが、三週間に及ぶ戦闘の後、
アメリカの巨大な軍事力を背景にしたイスラエル軍は巻き返しを図り、アラブ軍を退け、結局元の国境
線を越えて進出することとなった。
10 月 22 日に国連安保理が米ソ共同決議案を決議第 338 号として正式に採択し停戦を求めたが、イス
ラエルはこれに反し攻撃を止めようとしなかった。これに対しソ連が軍事介入も辞さない、とアメリカ
にイスラエル説得を促した。 翌日にイスラエルはアメリカの強い要請により停戦決議を受け入れた。
既に停戦決議を受け入れていたエジプトに次いでシリアも 24 日これを受け入れ、第四次中東戦争は終
結した。
b.「石油戦略」の発動
米ソ両国の妥協によって、中東における戦争が拡大する危機は回避されたが、そのような動きが成り
立つ直前に、中東の産油国では世界経済に大きな衝撃を与えることになる重要な政策の変更が行なわれ
ようとしていた。いわゆる「石油戦略」の発動である。
開戦 3 日目に当たる 10 月 8 日、OPEC(石油輸出国機構)と石油会社それぞれの代表者がオーストリア
のウィーンに集まり、原油価格についての交渉が行なわれた。OPEC とは、1960 年にイラク、イラン、
クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの 5 大産油国が合同で設立した国際協議会である。1973 年当
時は 12 カ国が加盟しており、原油価格の安定と産油国の利益の保証、産油国間の石油災策の強調など
をその活動目的としてきた。しかし、設立されてからこの第四次中東戦争までの間に、OPEC という組織
が果たした役割は、極めて小さなものであった。この時代は原油の供給過多であり、イランやサウジア
ラビアなどは原油によるお金の欲しさに、自国で採掘を行なっている外国の石油会社に対し更なる産出
量の増産を迫っているほどであった。産油国と石油会社の力関係においては圧倒的に石油会社の方が上
であったのである。
ところが、第四次中東戦争を機にこの図式は大きく転換することになった。依然として石油会社が握
っていた生産量や価格の決定権が産油国主導の形に変わったわけである。ウィーン会議の席上、OPEC の
代表は原油価格の 30 から 50%の引き上げを石油会社に要求した。出席していた石油会社の代表は、 OPEC
側の提示を断って、話し合いは物別れに終わった。しかし OPEC は諦めず、16 日にクウェートで再開さ
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れた会議も決裂に終わると、産油国は石油会社の同意を得ることと関係なく、一方的な原油価格を 7 割
引き上げようと決定した。この値上げは後に 4 倍増まで引き上げられる事になる。これに続いて、OAPEC
(アラブ石油輸出国機構、OPEC とは別組織として、1968 年に設立した。当時はクウェート・リビア・
サウジアラビア・アラブ首長国連邦・バーレーン・カタール・アルジェリア・イラク・シリア・エジプ
トの 10 カ国が加盟した)は翌 17 日、原油生産の 5%削減を決定すると共に、第三次中東戦争以前の境界
線までイスラエル軍が撤退しない限り、以後毎月 5%ずつ削減を行なうとの方針を発表した。
10 月 19 日にニクソン (R. M. Nixon) 大統領がアメリカ議会に対し、22 億ドルもの対イスラエル軍事
援助を要求したことをきっかけにして、サウジアラビアを初め、アラブ諸国の親イスラエル国に対する
反発はようやく決定的なものとなった。
なぜ突如としてアラブ世界にこのような強硬な姿勢が示されたのか?この背景には、起っていた戦争
において、同胞であるアラブ諸国を側面から支援しようというサウジアラビアの思惑が働いていたと見
ても良いし、アラブ側はそれまでの圧倒的不利な状況をこの政策によりひっくり返そうとした、と考え
て良いであろう。
10 月 20 日、サウジアラビアがアメリカに対する全面的な石油の輸出禁止を発表すると、数日の内に
イラクを除くアラブ産油国の全てがアメリカとオランダに対する石油禁輸措置を発表した。更に 11 月 4
日には OAPEC の減産規模が 25%にまで拡大され、欧米諸国に対するアラブの対決姿勢はより明確なもの
となった。
この決定を聞いて、エネルギー資源の大部分を中東各国からの原油の輸入に頼っていた西ヨーロッパ
の各国や日本などの先進工業国では、アラブ諸国の「石油戦略」の発動によって大きな経済的混乱が生
じ、自国の経済を守るために、彼らは仕方なく次々とイスラエルとの関係を見直し、親アラブの中東政
策を発表した。そして、OAPEC 加盟国はこれらの国を「友好国」と分類して、限定的な原油産出量の増
産を行なったのである。
c.「石油戦略」の結果
原油価格は一斉に高騰して、1973 年前半と比べて1バレル当たり 3 ドルから 12 ドルと約 5 倍近くに
跳ね上がって、国際石油市場は不安定化が強まり、大混乱が巻き起こった。
この原油価格の急騰は世界各国の経済を直撃し、石油需給の逼迫、モノ不足、インフレなどをもたら
した。エネルギー資源の 9 割以上を中東各国からの原油の輸入に頼っていた日本でも例外なく、エネル
ギーが不足なので、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。便乗値上げが相次
ぎ、急速にインフレが加速した。日本国内の消費者物価指数は 23%上昇した。インフレ抑制のために公
定歩合の引き上げが行われて、企業の設備投資などが抑制されることになった。結果として 1974 年は
-1.2%と戦後初めて、マイナス成長を経験し、戦後ずっと続いていた高度経済成長がここに終焉を迎え
たのである。
そのため先進諸国は、省エネルギーを推進すると共に、石油代替エネルギーの開発導入に全力をあげ
るようになった。
結果的に、アラブ諸国の発動した「石油戦略」は彼らが期待したほどの政治的効果をもたらす事は出
来なかったが、欧米諸国に対抗し得る一つの武器を持っていることは明確となった。OAPEC は翌年の 1974
年 3 月 18 日には対米禁輸措置の解除を発表し、7 月 10 日にはオランダに対する禁輸も解除された。
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2. 第二次オイルショック
1979 年 2 月 21 日にイラン王政最後の内閣が倒れ、イラン革命が成就した。これによりイランでの石
油生産が中断したため、国際需給が逼迫した。これに伴い石油価格は再び急騰した。第二次石油危機が
起きた。
a. イラン革命
第二次世界大戦後、アメリカの援助で権威を回復したパフラヴィー国王は独裁政治を行なっていた。
アメリカとイスラエルの援助で秘密警察サバックを設立し、反体制の人物の監視をした。そして、アメ
リカは、イランに対して民主化の圧力をかけた。パフラヴィー国王はしぶしぶ、民間化、土地改革を中
心とする上からの急速な近代化、いわゆる「白色革命」を促進した。その結果、経済格差が拡大し、人
口の都市集中が進むことともなった。こうした国王の政策は、地主、商人などの強い反感を買い、独裁
体制に反する知識人や学生の反発もあった。ここに宗教界が加勢したことで一気に革命機運が広まった。
1978 年 1 月、フランス・パリに亡命していたイラン宗教界の最高指導者であるルーホッラー・ホメイ
ニー師を中傷する記事を巡って聖地コムで学生デモが起った。この事件以降、反政府デモと暴動が全国
規模に段々拡大し、国民的な蜂起となった。翌年に国政をバクチアル首相に委ね、バフラヴィー国王は
国外に脱出することにした。
亡命中の宗教指導者であるホメイニ師の帰国により革命熱は更に高まり、バクチアル首相はやむを得
ず辞任した。1979 年 2 月 11 日に革命評議会が政権を掌握することとなって、イランイスラム共和国が
誕生した。
b.テヘラン在アメリカ大使館占拠・人質事件
アメリカの傘の下にあるバフラヴィー朝を倒したために、イラン革命後はアメリカとの関係が非常に
悪化した。1979 年 11 月 4 日、在テヘランの米大使館がホメイニ師の支持を受けた過激派学生らによっ
て占拠され、大使館員ら 52 人が人質となった。学生の要求は、アメリカに亡命した前国王をイスラム
革命法廷にかけるために身柄の引き渡しであった。アメリカはイランと国交を絶交した。更に 12 日に
カーター (J. E. Carter) 米大統領はイランからの原油全面禁輸を決め、経済制裁を発動し、イランの
経済に大きな打撃を与えたことに対し、イラン革命評議会も対米原油輸出全面禁止を発表した。米国内
のイラン公的資産が凍結されることになった。
80 年 4 月 24 日に派遣された米軍特殊部隊の救出作戦が失敗された後、交渉は長引きされた。米大使
館占拠事件が解決したのは、発生から1年2ヶ月あとのことであった。
シーア派による革命で、スンニー派を信仰する周辺アラブ国からも孤立した。その後、シーア派を嫌
ったスンニー派が支配したイラクとの間でようやくイラン・イラク戦争が勃発した。驚くことも無く、
アメリカがイラクを軍事支援して、8 年間に渡り激しい戦争が続いていた。
1978 年末から 79 年春にかけて、イランは情勢が混乱なので、産油量が減り、石油輸出が停滞したこ
ともあった。この状態に乗じて OPEC は原油価格を 3 ヶ月ごとに引き揚げと決定した。その上、1979 年
11 月にテヘラン在アメリカ大使館が占拠され、アメリカとイランの関係が決定的に悪化していったこと
と、その直後発生したイラン・イラク戦争のため、中東原油の供給中断予想から超過需要が生じ、需給
バランスが崩れた。OPEC は 11 月から原油価格を急上昇させ始めたのである。1979 年 6 月の原油価格は
1バレル当たり 18 ドル、11 月 24 ドル、1980 年 1 月 26 ドル、4 月 28 ドル、9 月にはついに 39 ドルを
突破した。この石油高騰は第 2 次石油危機と呼ばれる。
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アラブ諸国がこのオイルショックでかなり利益を得た一方,先進工業諸国は経常収支赤字やインフレ
などに一時的に陥った。規模としては、第二次オイルショックは第一次オイルショック並の原油高騰で
あったとも言えるが、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透、企業の合理化効果などによって
世界経済は比較的軽微な影響で済むことができたのである。
3. オイルショックの結果
上で述べたように、1970 年代に二度も起きた石油危機による世界経済への影響は非常に大きかった。
石油価格の上昇は、1973 年以前にエネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。
日本のような、第二次世界大戦後ずっと続いていた高度経済成長が終わってしまった国もある。
しかし、消極的な影響が出たばかりのではなく、積極的な作用もあった。石油危機が起こり始める前
には、原油が安価で獲得できてきたので、合理的にエネルギーを節約しなくても良いから、省エネルギ
ー政策、新エネルギーを求める開発研究などが進まなかった。しかし、石油危機後、原子力や風力、太
陽光など非石油エネルギーの模索、省エネルギー技術の研究開発が促進されていった。その上、資本主
義各国は石油消費の抑制とコスト削減が徹底され、産業合理化が進められた。
一方、社会主義諸国は低廉な域内エネルギーを用いたため、大きな影響が及ばなかったが、石油危機
後は欧米の産業との格差が段々広がっており、80 年代末に東ヨーロッパ共産政権の相次いだ倒壊に導く
伏線とも言われる。
4. オイルショックから利益を得る者
エクソン(Exxon)
モービル(Mobil)
アメリカ資本
ガルフ(GULF)
ソーカル(Standard Oil of California =
SOCAL)
テキサコ(Texaco)
イギリス+オランダ
資本
イギリス資本
ロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch
Shell)
ビーピー(BP)
*「セブン・シスターズ」と言われて、世界の石油のほとんどを握っている 7 巨大石油企業
原油輸出諸国、即ちアラブ諸国が利益を獲得した、と考えがちである。実は皮肉なことに、アメリカ
は、1973 年のアラブ諸国による「石油戦略」に大した損害を受けてはいなかった。なぜかというと、1972
年当時、アメリカのエネルギー供給に占める輸入原油の割合はわずか 5%に過ぎず、しかもアラブ諸国か
らの輸入量はそのうちの 18%に過ぎなかったからである。それどころか、原油価格の高騰はアメリカに
本拠を置く巨大な石油企業(メジャーと呼ばれる)に莫大な空前の利益をもたらし、これによって国際
為替市場における米ドルの力は急激に強化された。
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5. 考察: 新たな石油危機が攻めている今日
近年、世界経済は新たな石油危機に脅かされるといわれている。今回の石油危機は過去のものと、共
通点もあるし、相異なる点もあると考えられる。
共通点とは、同様に世界の最大な「石油産地」と言われる中東地域と密接な関係がある。終わりそう
もないイラク戦争、テロ危機に追われる石油大国であるサウジアラビアの情勢、そしてイラン各開発問
題など、色々な要素によって、中東地域が史上最も不安な状態になった。石油生産の中断への恐れから、
世界市場も不安を持ち、石油高価が続いているのも不自然なことではないのである。
一方、相異なる点がある。過去の石油危機は一時的に、ある権力者あるいは政権の独断的な行動から
起こったことに対して、今日の石油危機には新しく、しかも抵抗し得ない要素が現れた。それは中国経
済の上昇である。中国の用いている石油量は日本を上回っていて、近い将来はアメリカにも負けず、世
界一石油使用国にもなるとよくいわれている。
世界経済がますます多くの石油を要求しているが、地球の埋蔵量が段々減少している。このような情
勢に対応できるのは、省エネルギーの促進や新エネルギーの模索しかないであろう。
参考資料:
・ http://ja.wikipedia.org ウィキペディアフリー百科事典 (2005 年 6 月版)
Keyword : 石油危機 中東戦争 イラン革命
・http://www.combat.ch/html/library/history/middle_east_war/mew_008.htm
Combat Channel Website
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中東戦争