豹変する公共施設と公共サービス 不況で伸びるサービス

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豹変する公共施設と公共サービス
不況で伸びるサービス
不況になると強い商品、業種、業界がある。ディスカウンターはその典型である。もう
ひとつ典型的なものを挙げるとすると「公共サービス」である。
市場原理以外の原則にもとづいて提供される財のことである。住民票、戸籍謄本、パス
ポート等の交付業務から、身近なところでは、ゴミ収集。日常不可欠なものとしては、水
道、ガス、電気、郵便サービス等の提供。テレビでお世話になっていると言えば公共放送
(NHK)までの幅がある。警察が提供してくれている治安サービスも忘れてはいけない。
これらのサービスは、多くは地方公共団体やさまざまな法人によって提供されている。
民間サービスと異なるのは、市場原理や営利のみの原則では運営されていないということ
である。
つまり、空気、水、安全などのもっとも「基底的なサービス」を、公的セクターによっ
て提供されているのが公共サービスである。
毎日、忙しく暮らしている人にとってこれらのサービスは、「面倒なもの、嫌いなもの、
サービスがよくないもの」の代名詞のようなものであった。極端に言えば、「お金を払って
不愉快な思い」をするのが公共サービスであった。
この公共サービスが大きく変わっている。私的な経験の範囲に限定されるかもしれない
が、区役所や市役所の窓口業務も、近頃は大変好感がもてるようになってきているように
思う。しかしここでとりあげようとしているのは、「愛想がよくなった」といった類のこと
ではない。公共サービスが益々重要になることは言うまでもない。米の配給、猛暑の水不
足、水によって生まれる電気、外国人居住者の増加による治安への不安、これまで当たり
前であった「安全で安心なサービス」が、そうではなくなってきている。米不足、水不足
のことを思えばすぐ気づく。
ひとつひとつの重要性が増しているだけではない、公共サービスの範囲である「基底」
が大きく変わろうとしている、そして何よりも「基底」の範囲にあったものが社会にとっ
てたいへん重要なものに変質していることである。見逃せない変化となっているのである。
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驚く高品質の施設サービス
公共サービスが高品質化している。
その代表例が、宿泊施設、スポーツ施設である。国民宿舎に代表される宿泊施設は現在、
改修時期にあたっている。その施設がただ安く宿泊できればいいというものから、現在の
満足水準に適合した施設として生まれ変わろうとしている。
その代表施設が「浜名湖かんざんじ荘」である。客室利用率は、東京都内の高級ホテル
が驚く 99%である。ロビーは吹き抜けでリゾートホテル風。すべての部屋は海向きである。
海外のホテルなら「シーサイドビュー料金」を余分にとられる程のものだ。1泊2食付き
で 9,000 円からの料金。99%の利用率は納得できる。
こうした従来の国民宿舎の概念を打ち破る施設が次々に生まれている。関東周辺なら、
千葉の「館山国民休暇村」
(93 年8月新装オープン)、茨城の「いこいの村涸沼」、群馬の「サ
ンレイク草木」などがある。
公共のスポーツ施設でも驚くべきものがある。会社で社内研修会の機会があった。知力
も大切だが体力も重要との意見でバスケットボールの発案があった。
「県立館山運動公園」
の体育館を借りることになった。誰も期待していなかったことは言うまでもない。ところ
が、バスが山道を登りながら目的地に近づき始めると、そこに見えてきたのは、緑のなか
の煉瓦色の立派な巨大な施設であった。あっけにとられながら、施設のなかに入ると、ま
た、びっくり。バスケットコートは3面とれる。観客席まである。立派な更衣室、シャワ
ールームまである。ジムトレーニングもできるのである。この充実した施設の利用料金は
半日で約 5,000 円であった。
こうした公共スポーツ施設は、もちろん、この千葉の館山だけではない。「あらかわ遊園
スポーツハウス」、「東綾瀬公園プール・アイススケート場」、「若洲ゴルフリンクス」など
の新しい施設がある。
これらの施設に共通するのはその設備の素晴らしさと内容の充実と「超」としか形容の
しようがない利用料金の「安さ」である。都内のスポーツクラブやホテルの付帯サービス
等、そのコストパフォーマンスを比較すればどうしようもない程の競争力である。
「嫌な思いをするところ」のイメージは完全に払拭されつつある。それどころか、いわ
ゆる民間のサービス品質を上回るものとして再登場している。これらの施設の登場はサー
ビス品質が新しい時代に入ったことを直観させるものである。
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公共サービス消費の時代
高品質の施設やサービスを提供するものとして、公共サービスは変わろうとしている。
サービスの1番の基底、底辺、下限の水準が大幅に上昇しているのである。
こうした背景には大きくふたつのことがあるように分析できる。
ひとつは公共セクターの提供するサービスの考え方が大きく変わってきていることであ
る。社会福祉の延長の上で考えられていたサービス概念の破綻は 70 年代の財政破綻によっ
て、国、地方公共団体レベルで明らかになった。他方、民間では、第二次オイルショック
を乗り切った自信が漲(みなぎ)っていた。公共の破綻と民間の成功が、
「自由主義経済」の
考え方を広範に広めた。公共セクターのもっていた社会福祉主義の考え方が敗れたのであ
る。NTT、国鉄の民営化はそれを象徴するものであった。公共セクターの提供するサー
ビスの転換は、こうした公共セクターの危機意識にある。
不況下、この危機と自信は逆転している。公共セクターが安定した安心できる高品質の
サービスに自信をもち、民間セクターの自信は逆に揺らいでいる。
もうひとつは、生活者の豊かさの平均水準が変わったことである。豊かさという価値は
相対的なものである。貧しさがあって成り立つものである。その日、その日の食物に困る
人は、日本では仕組み上、どこにもいないはずである。旧来のサービス水準の下限はここ
にあった。ところが、日本の所得水準は、為替平価ではアメリカの平均年収の2倍、中国
の 100 倍というのが数字の実態である。ゴルフサービスを公共サービスとして提供すると
いうアイデアは、1960 年代には考えられなかった事態である。サービスの下限が上昇して
きていること、生活水準が上昇してきていることが、公共サービスを高品質なものにして
きているもうひとつの背景である。
公共セクターは、従来の社会福祉主義の最低サービスではなく、「競争意識と新しい豊か
さ水準のもとでの公共サービス」を提示し始めたのである。消費のなかに公共サービスが
大きな比重を占める時代がやってきたのである。
マルチメディア館なる図書館
「情報ハイウェイ構想」が注目を浴びている。別の言い方をすれば、
「マルチメディア時
代」である。楽観論、悲観論を含めて、注目されている。台湾、韓国でも大型投資が始ま
った。日本は、アメリカに比べて 10 年遅れているという危機意識が蔓延している。光ファ
イバー等の大容量ケーブルを敷設し、文字・映像・音声などの情報を一手に家庭に提供しよ
うという構想である。アメリカのクリントン政権のゴア副大統領を中心に進められている。
この分野でも、公共サービスは命運を握っている。通信や放送といった事業だけではな
い。私たちの近所の図書館である。
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マルチメディアによって開かれるサービスや事業には巨大なものがある。「ディマンド・
オン・ビデオ」(好きな時にレンタルショップに行かなくても映画が家庭で楽しめる)、「遠
隔地診療」などの新しいサービスである。さらに、ゴア副大統領の構想によれば、全国の
図書館と家庭が結ばれる。双方向で異なった情報を好きな時に取り出せる仕組みができる
時代がマルチメディアの時代である。これが現在の一方向のマスメディア社会の在り方を
根本的に変革し、まったく異なったビジネス社会が登場することになる。
その鍵のひとつを握っているのは、公共サービスとしての図書館である。図書館が変わ
り始めている。
図書館数 2,118(館)
購入冊数 17,347(干冊)
貸出冊数 330,099(干冊)
3億3千冊が貸し出されている。単純に人口で割ると、ひとり平均3冊程度を借りてい
ることになる。膨大な情報量をやりとりしていることになる。量だけではなく、その伸び
率は2桁成長である。本だけではない。あまり知られていないが、最近では図書館でもC
Dやビデオを貸し出している。「町田市立図書館」では、ビデオの編集が可能な設備ももっ
ている。私たちが気がつかぬまに、図書館は「マルチメディア館」へと変貌をとげようと
している。図書館は、見方を変えれば、もっとも生活に密着した「地域情報データベース」
の拠点なのである。
日本ではパソコンの普及が、アメリカに比べ遅れている。アメリカが2人に1台の時代
に入ろうとしているのに、日本では 10 人に1人である。ケーブルテレビに至っては比較も
できない。映画等のソフト供給でも同様である。
こうした状況をもとにマルチメディア時代への乗り遅れ説が危機的に叫ばれている。そ
のネックになっているのが日本語の壁である。中高年を悩ませるキーボードの壁である。
パソコンと映画を通してみる限り日本のマルチメディアの時代は暗い。ところが、音声入
力と音を考えるとまったく対照的な見方ができる。
音声入力の技術がもっとも進んでいるのは日本である。要素技術の優位だけではない、
日本語は音韻(人が認識する音の一単位)が少ないからである。母音は5つ、子音は約 50
しかない。専門的な区別をしてもせいぜい 100 のオーダーである。ところが、英語になる
と、その数は「万」の桁に跳ね上がる。音声入力はその分だけ難しくなる。日本語は、音
声入力技術の開発では、その特質上圧倒的な優位にたっているのである。
図書館の本がデータベース化される時代、音声入力とキーボード入力ではどちらに利が
あるかは明らかである。
公共サービスは、現在重要であるというだけではない、将来のマルチメディア時代の鍵
も担っているのである。
[初出 1994.10「NOVA」 日立キャピタル(株)]
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