パネルディスカッション 2 高等教育における日本語既習対策の現状と課題

第五回フランス日本語教育シンポジウム 2003 年フランス・アヌシー
5ème Symposium sur l’enseignement du japonais en France, Annecy France, 2003
パネルディスカッション 2
高等教育における日本語既習対策の現状と課題
パネリスト:
上田真木子(INALCO)
大島弘子(Université Paris7)
島森玲子(Université Lyon3)
東伴子(Université Grenoble3)
石井陽子(Ecole Polytechnique)
イナルコ日本学部の既習者受け入れ
上田真木子(UEDA Makiko)
INALCO(フランス国立東洋言語文化研究所日本学部)
フランス国立東洋言語文化研究所(Institut National des Langues et Civilisations
Orientales、略してイナルコ)日本学部では教養課程から修士までの学生を育成してい
る。本題にはいる前に日本学部を簡単に紹介しよう。学部の大部分をしめているのは教
養課程の学生なので、教養課程を中心にみていくことにする。
イナルコ日本学部の教養課程には大きな特徴がふたつある。ひとつは登録学生数がきわ
めて多いことだ。2002-03 年の一年の登録学生数は 793 名にのぼり、学年末試験まで
300 人前後が残りそうである。同二年は登録 396 名。学年末試験受験者は 250 人前後
になりそうだ。学部全体の登録数は 1597 名だった。
大所帯であるということは、文明講座などでかなり専門的な教員を迎えることができる
などの利点がある反面、語学訓練にとってはマイナスも大きい。たとえば一年生の会話
クラスは学年始めの人数が五十人をかるく越え、ラボ教室を使った授業はできない。
特徴のもうひとつはコマ数が多いこと、学生が忙しいことだ。教養課程の学位免状は
DULCO1 というイナルコ独自のもので、法律上は一般の教養課程免状 DEUG2 と互換
性があるのだが、後出の表にしめしたとおり、DEUG に比較して語学のコマ数がおお
い(週 12-14 時間)
。他の大学の DEUG の場合、一つの外国語学習に当てられる時間
数は LCE コース 3 で多くて週9時間ぐらい、 LEA コース 4 で 4-5 時間ぐらいである。
何らかの学問領域の方法論を修得したり複数の語学をマスターしたりするよりも、専攻
地域プロパーの言語文化に通じた専門家を育てる伝統がイナルコにはあり、それが語学
時間数の多さに反映している。この差があるために、他の大学の DEUG を取得した学
生の編入受け入れにさいし、後述するような微調整が必要になるのである。
1
Diplôme unilangue de langue et civilisation orientale 東洋言語文化単一言語免状。
2
Diplôme d’études universitaires générales 大学一般教養免状。
3
Langue et civilisation étrangère 外国言語文化コース。外国語を一つと別分野の学問を一つ専攻する。
4
Langues étrangères appliquées
応用外国語コース。第一、第二外国語を等分に学習しながらさらに別分
野の学問を履修する。
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また、おなじ専門家育成の伝統から、DULCO では語学以外にも日本関係の文明講座に
割かれる時間がかなりある。二年間で分明講座から八単位取得が義務つけられている。
うち、「現代日本の諸相」
(地理)と「歴史」は必修である。学生たちは語学以外に週平
均六時間は文明講座に出席しなくてはならない。単位を落として再履修になれば出席時
間数はさらに増える。
そのうえ、日本学部の免状だけでは就職が困難なことから、学生たちには他の学位を並
行して取得することが強く勧められている。イナルコには夜間学級もあり、他のコース
と同時履修している学生や働いている人が通う。かくて大部分の学生は時間に追われ、
二年間のコースを三年かけて終了するというのが実情だ。
ちなみにイナルコの日本語教育の骨格は、1970年代に日本学の学生数が爆発的に増
大したときにジャン=ジャック・オリガス 5、藤森文吉の二人組が立ち上げたもので、
オリガス氏らを育てた世代の文法学者シャルル・アゲナウアー6 の文法論に直接的な基
礎をおく「言語構造」、
「文法と分析」の二講座に今も大きな重点をおいている。
教養課程の概要をみたところで、既習者受け入れを制度的な面から紹介していこう。実
にさまざまなタイプの既習者がイナルコの門戸をたたく。
1/他の仏高等教育機関で日本語日本文化の DEUG を取得した学生の受け入れ :
LCE コースの DEUG であればそのまま学士に編入をみとめる(リヨン大、ボルドー大、
リール大など)。LEA コースの DEUG の場合には書類審査 7 をおこない、基本的には
DULCO の二年に編入させる。たとえば、二年の全語学科目と、さらに一年の「言語構
造」、「文法と分析」を履修するように指示したりする。文明講座も免除しない。必修二
課目を前の大学で履修していない場合は必ず履修させ、合計が八科目になるようにする。
ただし、(日本語日本文化にせよ他の分野にせよ)何らかの DEUG を所持する学生には二
単位まで単位同等性 8 をみとめるという規則があるので、文明講座の履修義務はおおく
ても六単位となる。毎年三十人から五十人がこの書類審査の対象になる。過去の審査記
録を取りおいていないので、同じ大学から来た学生でも年によって別の扱いをうけるこ
ともありうる。ただし、各学生の成績までふみこんで決定しているわけではなく、何を
履修してきたかという次元で判断しているので、ぶれは大きくないと思われる。
2/日本語日本文化の学士またはそれ以上の学位を取得している学生の受け入れ:
その上の課程にそのまま編入。ただし修士課程への編入がみとめられるには学士の学
位免状所持のほかに修士論文の指導教官をみつけることが必要。博士課程は日本学部
の管轄をはなれ、イナルコ共通の Ecole doctorale (パリ第3大学と提携)の管轄とな
る。Ecole doctorale は日本語日本文化の修士免状を持っている学生について、会議を
ひらいて受け入れの博士課程登録の可否を討議する。修士、博士レベルの制度はマス
ター制導入で近くおおきく変わるものと見られる。
5
Jean-Jacques Origas
6
Charles Haguenauer
7
dossier d’inscription dérogatoire
8
équivalence
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3/高等教育機関による日本語日本文化の学位はないが何らかの日本語学習・習得経験
がある者の受け入れ:
以下のようなさまざまなケースがある。
* 日本以外の場で独学した者
* 日本で生活していた者
* 在仏邦人家庭、日仏家庭の子弟
* フランスのバカロレアを取得した日本国籍の日本人
学年はじめに評価テスト 9 をおこなう。内容は「言語構造」「分析と翻訳」「文字と語彙」
(漢字)の一年の学年末レベルの作文、穴埋め、漢字で、毎年八十人あまりが受験する。
成績が非常に優秀で、しかも他の高等教育機関の DEUG を取得している学生の場合、論
理的には学士課程への編入が可能なはずだが、このようなことはまずなく、教養二年へ
の編入がせいぜいのところである。とくに一年の「言語構造」と「分析と翻訳」が免除
になることはほぼありえない。たとえ二年への編入をみとめてもこの二単位の履修を条
件として課したりする。「書記表現」(作文)と「文字と語彙」(漢字)はたまに免除に
なる。もっとも免除されやすいのは「口頭表現」(会話)と「総合演習」で、前者の免
除には既習者に会話の授業に出てほしくないという事情が介在している。
4/日本国籍の日本人で①日本の四年制大学を出ているか、②フランスで学士以上の何
らかの学位免状を取得した学生(ただしバカロレアは所持しない)の受け入れ:
いわゆる「日本人学生」であり、彼等は「特別コース」10 に編入する。これは準備期間
を一年おいたのち学士課程への編入を認めるというもので、準備期間のあいだに一年
生の「言語構造」と「分析と翻訳」、この二単位の二年生版である「現代日本語の書記
言語の構造」と「意味分析と翻訳」、「書記表現 II」(二年生の作文)、および必修二単
位を含む文明講座五単位を履修する。一年間フランス語をみっちり鍛えられることに
なるわけだが、ハードルをクリアして晴れて学士課程に編入した後、特別コース出身
の学生たちは語学実践をまなぶ単位のクラス運営、評価両面で教師の頭痛の種になる。
02-03 年度には四十五名が特別コースに在籍していた。日本で高校までしか出ておらず、
フランスのバカロレアも持っていないという学生はイナルコに入ることはできない。
制度的な話はここまでにして、教室での受け入れの報告にうつろう。端的にいって、イ
ナルコでは既習者の能力を初心者の学習に活かす試みはほとんど行われていない。パリ
には日本人がおおく、イナルコにも日本人学生が登録している関係から、学生は希望さ
えすれば比較的簡単に日本人と交換教授などもできる環境にあり、ネイティブであるか
らそれだけで会話クラスなどで価値があるということはあまり考えられていない。学生
の相互扶助はむしろ上級生の有志(既習者であるかどうかは問われない)がアルバイト
として下級生の復習を手伝うチューター制度によって行われている。
9
test d’évaluation
10
cursus spécial
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既習者を迎える利点は評価されにくいが、不都合な点はよくとりあげられる。前述の特
別コース出身者の扱いのほか、一般にイナルコの教員が既習者について注意しているこ
とはふたつある。ひとつは、一年生の授業をはじめるとき、前年度の留年者をふくむ既
習者がこれみよがしに発言するなどして、初心者を心理的に圧迫するのをできるだけ防
ぐこと。今年から、いくつかの科目では既習者にはじめの一ヵ月(ひらがな学習の時期)
の欠席を求めている。いまひとつの注意点は、既習者が高を括って勉強せず、結局落ち
こぼれになるのを防ぐことだ。とくに、留年組には自覚はないが基礎の抜けている学生
があり、毎年はじめのほうを欠席するせいで何年もずるずると落ちこぼれ続けることに
なりかねない。
また、高校で学習してきた者には、語学実践でクラスメートに対し優位に立っていると
の自覚から、欠席を求められていない文法関係の講義までついでに欠席してしまう者も
ある。イナルコの文法は日本語史から説き起こし、すぐに実践につながらないような網
羅的な考察を重ねていく部分をふくむため、こうした学生は単位を取ることができない。
年度はじめの混乱のなかで既習者に一定期間欠席を求めるときには、誰に何を何回欠席
させるのか、その指示をどう徹底させるのか、細心の注意が必要だ。
既習者の能力をのばすべく特別クラスを設けることもあまり行われていない。現在のと
ころは学士課程の通訳のクラスが能力別編成になっているくらいのものだろう。かつて
教養課程の一年生の会話で既習クラスを設けたところ、それでもクラス内のレベル格差
がありすぎて余り意味がなかったという話もきく。一般的に、よくできる学生は勉強の
仕方がわかっているので面倒を見なくてものびるという考え方がされている。ほどほど
にできる学生は、授業がいくつか免除になったところで、もともとのコマ数が多いので
退屈はしない、したがってあえて面倒は見ないというわけである。
学生が話すことを主体とする系統のクラスでは、教室運営のため各教員が既習者の対応
を迫られることになる。今年私の一年生の会話クラスであったことだが、すぐれた既習
学生がひとり出席していたことが前期末テストの面接で判明した。教室のうしろでぼん
やりしているように見えたので、面接するまではついてくるのがやっとの学生に見えて
いたのである。ぼんやりしていたのは学ぶことが少なかったせいだろう。既習者対象の
評価テストがあることを知らず単位免除を受けられなかったということだった。この学
生には後期の授業への出席を断わり、毎週三十分ほど個人レッスン(録音/添削)をし、
同時に学士課程の会話クラス(発表の練習)を聴講させた。試験は一年生の他の学生と
同様に行う。
また、私が教科責任者をつとめる修士課程の総合語学クラスでは、十人前後のクラス編
成が可能なため、来年から各学生に学習プログラムを立てさせ、個人的な到達度を評価
に加えることとした。これに合わせ、強化すべき項目別のクラス分けを年度はじめに行
う予定だ。おそらく、日常生活のなかで日本語を覚えた学生のためのクラスが設けられ
ることになるだろう。既習者のうちでも、とくに日仏家庭や在仏邦人の子弟、日本に滞
在していた学生のなかには、論理的な文が書けなかったり、あたりまえの敬語が使えな
かったりする者がおおいが、彼等は往々にして自分の語学能力を過剰評価している。知
っている漢字の数だけは客観的にわかるし、暗記に苦労した記憶を持っているので、自
分は漢字だけができないのだと思いこんでいたりする。生活をとおして学んできた日本
語の上達には、知識伝授ではなく、すでに習得した日本語を個別に修正していく型の作
業が必要なのに、人数の多い教養課程ではこのようなフォローが不可能にちかく、問題
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を抱えたまま上の段階まであがってきてしまうのである。また、真面目に勉強してきて
文法はそこそこにできるが、実践の機会がなくて聴解や発話のたどたどしい学生のクラ
スも作ることになるだろう。本来大学が対象にしてきた初心者のタイプだが、今日修士
になるまで日本に全く行ったことがない学生はほぼ皆無であり、こうした学生はむしろ
少数派だ。それだけにこのレベルに至って話せない学生の心理的なプレッシャーは強い。
特別コース出身者の扱いについては、これまでは教室で他の学生を助けることが定めら
れていたが、あまりうまくいかないので、試みに授業出席はまったく免除し、日本語の
運用面で遅れている学生のチューター(無報酬)として教室外での指導を義務付けてみ
るつもりである。評価はチューター活動のレポート、仏語で執筆中の修士論文に関係し
たミニ論文などで行う。
Institut National des langues et civilisations orientales (INALCO)
国立東洋言語文化研究所
日本学部教養課程カリキュラム
一年の語学単位(すべて通年)
100 structure de la langue 言語構造 2h30
101 Analyse et traduction 分析と翻訳 2h30
102 Expression écrite 1 書記表現(作文)2h
103 Ecriture et lexicographie 文字と語彙(漢字)3h
104 Expression orale 口頭表現 2h
105 Exercices d’application 総合演習 2h
計週14時間
二年の語学単位(すべて通年)
200 Structure de la langue écrite contemporaine 現代日本書記言語の構造 1h30
201 Analyse sémantique et traduction 意味分析と翻訳 2h
202 Expression écrite II 書記表現(作文) 2h
203 Ecriture et lexicographie II 文字と語彙(漢字)2h30
204 Expression orale : entrainement aux techniques de la discussion et de
l’exposé 口頭表現— 討論と発表の練習 2h
205 Entraînement à la lecture intensive 集中読解訓練 2h
計週12時間
一年の日本語科目のうち四課目に合格すると二年次進級がみとめられ、取り残した
一年の日本語科目と並行して二年次の日本語科目履修が可能になる。
一、二年のあいだに履修するべき文明講座は以下のリスト(02-03 年の例)から八講座を
選択。「歴史」と「現代日本の諸相」は必修。(全講座通年、週一時間半。)
歴史 現代日本の諸相 文学 経済 思想Ⅰ 音楽 制度と政治 科学と技術の歴史
思
想Ⅱ 現代芸術 古典芸術 日常生活の社会学 建築 一般言語学入門 続一般言語学入門
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