講演 - フランス日本語教師会

第二回フランス日本語教育シンポジウム 2000 年フランス・トゥール
2ème Symposium sur l’enseignement du japonais en France, Tours France, 2000
講演
漢字を教える
Catherine GARNIER
フランス国立東洋言語文化研究所(INALCO)教授
今日、フランス日本語教師会の日本語セミナーで講演することはまことに光栄です。
このセミナーのご成功を心より祈念いたします。
私は欠点があります。人間ですから、あたりまえですね。たくさんの欠点の中に、
私がとても困るのは、記憶力が余りよくないということです。何ヶ月前に、このフラン
ス日本語教師会のだれかさんから電話がありました。石井さんでしたか、レモンさんで
したか、その後お二人から何回も連絡がありましたが、最初の連絡はどちらでしたか、
すっかり忘れました。よく考えれば、石井さんかもしれません。その最初の相談のとき、
講演のテーマが問題になっていました。その時、私がどういう題を提案しましたか、や
っぱり全然覚えがありません。「漢字の教え方」という題でしたか。「漢字を教える」と
いう題でしたか。分かりません。それなのに、少し時間がたって、郵便で日本語教師セ
ミナーのプログラムが届いた時、封筒をあけて、私の講演の題を見たら、「あら、漢字
の教え方になったの」とびっくりしました。やはり私がむしろ「漢字を教える」という
題を付けるつもりでした。さらにつけるはずでした。「漢字の教え方」と「漢字を教え
る」との間に、どんな違いがあるでしょうか。言語学者のくせに、ちょっと言葉の意味
分析をしてみましょう。「漢字の教え方」と言ったら、教育学関係の意味になります。
教室で、どの教育法を使って、漢字を覚えさせるという意味。もちろん、それも研究し
なければいけません。ですが、私が取り扱おうと思っていたのは、もう少し広い意味で
の、教え方以前の問題でした。ある科目の教え方を考える前に、その科目そのものの性
質と特徴を深く研究していて、把握する必要があると、私は固く信じています。私は
「漢字を教える」という題の中にそういう意味を入れるつもりでした。ですから、今日、
皆さんと一緒に考えたいと思っているのは、まず「漢字という物はどんな物か」「漢字
を覚えるのはどんなことか」等の漢字そのものについてのいくつかの事項です。言うま
でもなく、自分が一生懸命漢字を覚えようとした外国人の立場からです。当然そういう
風に進みながら、教育学のレベルの考察もでてきますが、それは私のもとの目的ではな
いのを明らかにしたかったのです。教え方は、みな一人一人、教える状況によって考え
なければいけないことです。今日の講演はその一人一人の教え方を支える基礎を築くの
に役に立つことができれば、私はうれしく思います。これから発表する事項が単に同僚
として、また先輩として、自分の学習者としての経験から、また教師の個人の、さらに
共同の経験から習ったことだけです。
1・漢字のことを考察する前に先決問題が出てきます。外国人に漢字を教えるのは必要
か、可能か、また毎週本のわずかの時間を使って日本語を勉強する学習者に漢字を教え
るに値するかという問題です。毎年、いろんな日本の外国語学校や大学から日本語のサ
マースクールのパンフレットが家の大学に届いてきます。そのパンフレットを見れば、
上に上げた質問に「いいえ、必要ではない、可能ではない、値しない」と答える人が今
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でもいることの証拠が示されます。私は、そんな質問にどう答えるかと言われたら、迷
わずに、「どんな状態でも教えなければならない」と答えたいです。英語、フランス語、
ロシア語、中国語などを教える場合は、そんな疑問が絶対現れません。どうして日本語
についてだけはそんな質問がでてくるのでしょうか。日本語は、他の世界の言語とはそ
んなに違う言語ですか。その表記は日本人でない人が覚えられないほどそんなに特別で
すか。私はそうではないと深く確信しています。日本語は他の外国語と同じように扱う
しかないと思います。だから、日本語教育というと、当然漢字の勉強も入っています。
漢字を教えないとしたら、どういう結果になるのですか。皆さんがよくご存知のように、
書物、テキストを読解できない人が、どの言語であっても、新しい言葉、難しい言葉、
つまり大人の言葉を覚えることができません。また、文の構造の面でも、―それは今日
問題になりませんが-話し言葉の場合に簡単な構造しか使いません。それは、コミュニ
ケーションの一つのルールに当たります。もう少し複雑な文の構造に慣れてくるために、
書物を読解するしかないのではないですか。
時々、漢字を教えない理由として、自分が教える学習者は別にくまなく日本語をマ
スターするつもりで勉強してはいないという弁明が出てきます。そんな理由は私は受け
入れることができません。
ずいぶん昔の話しですけれども、私も日本語を習い始めた時、趣味として習ってい
ました。幸いにその時私が通っていた学校、スザーヌ・ロセーさんの Société francojaponaise では趣味として漢字まで教えていました。そういうことを今でもいつまでも
忘れないで、スザーヌ・ロセーさんに大いに感謝しています。
実際に日本語を勉強しはじめる学習者はどこまでそれを勉強するか、だれが知って
いるのですか。本人もわからないでしょう。私達、教師、小学校にせよ、中学校にせよ、
高校、専門学校、大学にせよ、私達の責任の視点から見れば、皆同じです。バカロレア
の準備をする高校で教える教師も、博士課程までいく大学で教える教師も、私達の間に
共通点があります。皆、ある程度入門指導者に過ぎません。私達の教えを受けた学習者
は私達を離れた後、どこまで勉強するか私達は分かりません。私達の責任は学習者に日
本語の勉強という長い旅に、必要な荷物を支給する責任です。私はその荷物の中に漢字
を入れて欲しいです。そうすると、漢字無しの日本語教育は不可能になります。漢字無
しの日本語を教えることは、人に一枚の紙の表を出してみると同じだと私は思います。
どうすればいいかと考えれば、私の親友で、パリ第七大学の助教授であった故森聡
子さんがよく強調していたところですが、漢字を教えるというのは、漢字を覚えさせる
よりは、漢字の覚えかたを教えるという結論になります。私も百パーセントその考え方
に賛成します。それに私はよく思うのは、フランス語のすごく難しい綴りをマスターで
きた人がどうして日本語の綴りもマスターできないかということです。
2・そういえば、そこで、とても危ない誤解を解く必要があります。その誤解は、アル
ファベットを使う言語といわゆる表意文字を使う言語とを対立させるという考え方にあ
ります。つまり、アルファベット対表意文字という対照です。母語をアルファベットで
書く人がアルファベットは字の数が少ないから簡単な表記体系で覚えやすい、表意文字
は字の数がとても多いから複雑な表記体系で覚えにくい、とよく信じられています。逆
に、1709 年に、日本に行ったローマ人宣教師シドッチから、イタリア語が 33 字で書
かれると聞いた新井白石は非常にびっくりしました。そんなことが有り得るとは想像も
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できなかったようです。その話しは白石が東雅の総論で語っています。
ですが、もう少し詳しくアルファベットの使い方を分析すれば、またアルファベッ
トで書いてある言葉をどういう風に読むかと観察したら、言葉を読む時に、字を一つ一
つ読まないということがわかります。ある単語を書く時、いくつもの字をつないで書く
のです。その字のつながりの発音はけっして一つ一つの字の発音とは一致しません。フ
ランス語を例にしたら、
例
les enfants jouent dans le jardin.
lesenfantsjouentdanslejardin.
その字のつながりの発音がどういう風にわかるかと言えば、それは学校で教えられたか
らです。つまり、アルファベットの一つ一つの字の発音を覚えても、ある言語の単語の
一つ一つの書き方と読み方を覚えなければなりません。ですから、フランス語の母語の
子供でも、ちゃんとしたフランス語が書ける読めるまでには、非常に長い年月がかかり
ます。読み方の練習はアルファベットが読めるようになることではなく、その言語―フ
ランス語、英語など―の何万の単語をそれを表記する字のつながりを一目で把握して、
それに正しい発音を押し付けるという過程です。つまり、自分の頭で何万の単語のアル
ファベットという書記記号によるイメージを入れることとも言えると思います。そこま
でになって、それは、どこかに漢字を覚えることに似ているとも言えるでしょう。
3・もう一つの危ない誤解があります。それは漢字にフランス語で ideogramme,日
本語で「表意文字」という名目を付けたことから生じたひどい結果です。その両方の名
前を構成する要素を見て考えさせるのは、その書記記号が直接に概念を表すということ
です。中国語か日本語を習ったことがない人でも、漢字を見ただけで、その意味がわか
ってくると信じています。ある程度、それは事実ですが、もう少し考えて見ればやっぱ
り嘘だとすぐわかります。私は、度々、今迄全然漢字を見たことがない初級の学生を、
このようなテストにかけます。「口」という時を黒板に書きます。それから、「これは、
どういう意味ですか。」と学生に聞きます。四角とか、畑とか、穴などという答えが出
て来ましたが、今までは、「これは、くちだ。」と答えた学生が一人もいません。絵文字
と言われる漢字でも、見るだけでその表す概念がわかりません。学生に、「山」「日」
「上」の漢字を見せれば、結果が同じです。どんな漢字でもどうしてその意味がわかる
かと尋ねれば、誰か―普通は母親とか学校―が教えてくれたからです。ある漢字の意味
が自然にその形から出て来ません。絵つまり字と意味との間に必然的な関係がないと言
えると思います。とても簡単に見える漢字一二三の場合でも、そうだと思います。
1915 年に弟子が出版した「一般言語学講義」―日本語訳は 1940 年―の中に、言語学
者ソシュールが「能記を所記に結び付ける紐帯(ちゅうたい)は、恣意的である。いいか
えれば、記号とは能記と所記との連合から生じた全体を意味する以上、われわれは一層
簡単に言うことができる:言語記号は恣意的である。」
Le lien unissant le signifiant au signifié est arbitraire,ou encore,puisque nous
entendons par signe le total resultant de l’association d’un signifiant à un signifié,
nous pouvons dire plus simplement:le signe linguistique est arbitraire.
もっと簡単に言えば、「はる」という音が、「春」という概念を表す理由がないと。その
証拠は、同じ概念が、言語によって、いろんな音で表されています。printemps,
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Spring, frühling など。
漢字についても、同じ事を言えると思います。言葉の語源や漢字の成立を別として、
漢字の今の形をみるだけで、その漢字が表す意味が誰かに教えてもらわないと自然に直
接に理解できないという事実を認めなければなりません。けれども、これはアルファベ
ットと漢字の違いですが、漢字の場合には、その発音が分からなくても、その意味だけ
分かることができます。もちろん、教えられたらです。
中国の回りの国―日本、韓国、ベトナム-が漢字を借りて、自分の言語をその書記記号
で書けるようになった理由がそこにあることは明らかです。自分の言語に他の言語のた
めに作られた字をおしつけることは大変なことでしたけれども。
4・さて、漢字とは、どんな物か。どういう風に働くのでしょうか。漢字の性質はどう
説明するかという問題に進みましょう。本来、中国の決まった時に決まった場所での漢
字は必然的な三次元の関係で構成されていると言われています。つまり三角形の関係で
構成されています。その三角形の関係の三つの要素は:書記記号、発音、意味です。こ
の三つの要素がまた三つの二次元関係で結ばれています。
1- 一つの発音が一つの意味を呼びます。また逆に。
2- 一つの書記記号が一つの発音を呼びます。また逆に。
3- 一つの意味が一つの書記記号を呼びます。また逆に。
1はすべての言語記号の性質です。
2はすべての表記体系の性質です。漢字もそうです。
3- いわゆる表意文字の表記体系の特別な性質です。
ですが、漢字の特徴はその三つの関係を必然的に三角形の関係で結ぶというものです。
実に、そう簡単に働きません。どの言語を見ても、その理想的な配置を乱す現象が現れ
ます。例えば、1の関係の場合、同形異義という現象。一つの発音がいくつもの意味を
呼びます。また類義語もあります。一つの意味がいくつもの発音を呼びます。そんな現
象は、例外的なことではなく、どの言語でも自然に起こる現象です。人間が使う言語の
一番普通の性質です。日本では漢字を使うようになった時に、上に示した三角形の関係
が乱れて来ました。どう乱れて来たかと考えれば、一つの書記記号がいくつもの発音を
呼ぶ場合が多くなって、一つの書記記号がいくつもの意味を呼ぶ場合も多くなったこと
が認められます。つまり1関係のレベルでよく起こる乱れが、2 関係と 3 関係のレベル
にも起こるようになりました。つまりまた一対一の関係が、一対数個になりました。そ
うでなければ、言葉というものはすごくつまらない物になります。それはすべての言語
の普通の状態です。別に驚くべき現象ではないと思います。
その三つの関係の間に、相互依存はどうでしょうか。中国の漢字の場合に、一つの
関係が成立したら他の関係も自動的に成立する。
イ・1関係 - 発音/意味 - をたてれば、2関係 - 書記記号/発音 -も、3関係 - 書記記
号/意味 -も自動的に成立します。
ロ・2関係 - 書記記号/発音 – をたてれば、1関係 - 発音/意味 -も、3関係 - 書記記
号/意味 - も自動的に成立します。
ハ・3関係 - 書記記号/意味 -をたてれば、1関係 - 発音/意味 -も、2関係 - 書記記
号/意発音 -も自動的に成立します。日本の漢字の場合は、少し変更されます。
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ロ・には、変更がない。イ・は長い間、大変な混乱でしたが、今日は、日本語における
政府のたくさんの表記体系改革が行われ、割によくなりました。ハ・だけが問題です。
文脈によることだからです。
漢字の性質と働き方をおおざっぱに説明してから、アルファベットの方へもう一回
戻っていこうと思います。アルファベット表記の働き方は本当に漢字の働き方と根本的
にそんなに違うかという問題を少し研究しましょう。先に言ったように、一見したとこ
ろでは、アルファベットの働きは発音と意味の関係だけで、漢字の働きよりは簡単だと
見えますが、必ずしもそうではありません。大勢の人が書記記号と発音は同じ物だと思
っています。いわゆる一般言語学も長い間、それを信じて、表記の問題に全然興味を持
たなかったのです。ですが、フランス語を話す大人の頭には何があるでしょうか。確か
に、各単語が三角の形で入っています。発音と書記記号の間の対応は、一つの音と一つ
の字の対応ではなく、包括的な聴覚映像と字の繋がりです。両方とも―すなわち聴覚映
像と字の繋がり-が意味を呼びます。確かにソシュールが教えたように大人がある概念
に聴覚映像を結び付けますが、その概念に書記記号も結び付けると私は言い付け加えた
いです。その証拠として、フランス人がある単語の綴りについて疑いがある時、何をし
ますか。その単語の音声学的分析をして、それから各音に対応する字を書くというやり
方でしょうか。いいえ、そうではない。何をするのかというと、まずその単語を書いて
みます。それから、自分の頭に入っているその単語のイメージと比べます。そこから、
正しいかどうか判断します。しかしながら、漢字とアルファベットとの間に一つの大き
な違いがあります。漢字の場合は、直接的な書記記号と意味との関係が成り立っていま
す。私達、外国人はしばしばする経験です。漢字を見て、その意味が分かりますが、発
音はどんなに考えても出て来ないので大変困る時があります。それは、アルファベット
の場合は不可能です。
結局、働きの立場から見れば、漢字とアルファベットとの間に共通点が違いよりは
多いです。
5・教育と言う活動はおおよそ定義したら、頭の中にデータが入るようにする、または
データを入れると言っていいでしょうか。今の世界では、言語の教育の目的は、母語で
あっても、外国であっても、それが話せる、書ける、読めるようになるということだと
私は思います。母語の場合は、1 関係から始まります。子供がだんだん音を真似して、
その音に意味を付けるようになります。けれど、その 1 関係だけでは、物足りない段
階になり、それを補って完全にしなければなりません。つまり、2 関係と 3 関係も立て
なければなりません。伝統的に、それは学校の一つの役割です。最終の段階を達成して、
言い換えれば、大人になって、どの言語の話し手もその言語の単語を覚えたと言う結果
に及びます。単語を覚えたというのは、その発音と意味と表記を覚えたという意味です。
上に説明したように各単語が発音/意味/表記の三角形のミニ体系として成り立ってい
ます。大人の立場から見ると、言葉は自然にそういうような三次元のもの―表記を含め
て-に成ってきました。ですから、外国語を習う時、表記の支えがなければ、習うこと
ができないと思う大人が少なくないです。大人の外国語教育は三次元でなければならな
いと私は強調したいと思います。
漢字の場合にはどのデータをいれるか、どの順序でいれるかという問題です。漢字
の教えの目的は学習者の頭に何千の三角形のミニ体系を建造することです。最後の目的
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はそのミニ体系をできるほど完全にすることだと思います。やり方は二つしかないと思
います。その一番目は子供の場合と同じように段階を追って教える。必要なデータを一
つ一つ頭に入れるという方法です。二番目は一度に全部のデータを入れるという方法で
す。つまり、一番目はミニ体系を完全に入れて、二番目はミニ体系をいくつもの部分に
切り分けて入れるという風になります。その基準でその二つの方法のどちらかを選ぶの
です。私は、生まれつき怠け者ですから、出来れば、努力が少ない方法を選びます。そ
れは、多分逆説に見えますが、私にとっては、一番目です。漢字を覚えようとする時そ
の完全なミニ体系を頭に付けるのに大きな努力を払います。そうすれば、永久的に、一
つのその字についてのデータが包括的に全部入っているイメージが頭の中に立てられま
す。二番目を選んだら、データを長い時間をかけて段階を追って、入れるのですね。つ
まり、まず部分的な体系を作る。それから、もう一つのデータを入れる時、その体系を
破って、また新しい体系を作ると言うことになります。各段階は、努力して作った部分
的なミニ体系を破って、新しいのをまた努力して作るとも言えると思います。頭が疲れ
てしまうますね。だから、不安になります。漢字を覚えるのは、海岸がない海を泳ぐの
と同じように、絶望的な企てになります。一番目の方法は、安全で、省エネルギーだと
私は確信しています。
完全なミニ体系を作るのは、詳しく言えば、どういう意味でしょうか。もちろん、
三角形の三つの先に立っているデータを入れることです。書記記号の先には、一つのデ
ータしかありません。その漢字の形です。学習者によって、旧漢字もそこに入れなけれ
ばなりませんが、それは特別の場合です。一番困るのは、発音の先です。発音がたくさ
んあるからです。そこに、音読み、訓読みの区別の問題が出てきます。音読み、訓読み
の区別を教えるかどうか。それも、実用主義である私は、教えた方がいいと思います。
なぜかと言うと、日本人の場合は、大体漢字を覚える前にそれで表記する単語を知って
いると言っていいと思いますが、外国人がそうではなく、よく漢字を見て新しい単語を
覚えます。テキストを読んで、新しい単語が出てくれば、もう頭に入れた漢字の発音の
中で選ばなければなりません。その時、選べる可能性が少ない方が便利です。それもま
たエネルギーの節約の問題です。部首もそうです。実用的な立場から見れば、覚えた方
がいいと思います。頭の中に漢字と漢字との間に、ミニ体系とミニ体系との間に、いろ
んな関係も立てることができるからです。もっと速く漢和辞典で漢字を調べるために私
は学生の時、部首索引の順序までも番号をつけて覚えました。そこまでは行かなくてい
いですけれど。
6・漢字を教えるという問題に触れたら、もう一つの問題が現れます。どの漢字を教え
るかと言う問題です。つまり、教えなければならない漢字のリストを作るという問題。
典型的なすべての学習者に適用し得るリストはないと私は思います。
なぜかと言うと、私の言葉の裏にある着想が隠れています。結局漢字のもっとも根
本的な性質は何か、と考えれば、日本語という言語の表記の一部です。何が首位を占め
るのかと思えば、確かに言語です。だから、漢字よりは単語が一番です。しかし、学習
者によって、覚える必要がある単語は違うのですから、まず、自分が教える学習者のた
めに必要な単語を決めて、それから、その単語を表記する必要な漢字を決めます。それ
は、私の意見ではもっとも有効なやり方です。漢字そのものを問題にするのは、私は教
育にふさわしいやり方ではないと思います。もちろん日本では漢字のリストを作りまし
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た。たとえば、いわゆる教育漢字というリスト。ですが、そのリストは、決まった学習
者をねらって作られたのではないでしょうか。日本語が母語である小学校の子供です。
普遍的な価値がありません。私達には役に立たないリストでしょう。また、教える漢字
を決める時、形が一番簡単な漢字から始めたらいいと思う人もいます。私の学習者の経
験では、一番覚えにくい漢字が画の数が少ない漢字です。みんな似ているからです。た
くさんの画で書く字の方が覚えやすいです。
私の最後の結論を一言で言えます。漢字は漢字です。漢字をその正しい位置に置くべき
です。漢字は、ある言語、日本語という言語の表記に過ぎないと私は強調したいです。
言語から離れた存在として扱うのではなく、言語記号である三角形の不可欠の一つの要
素として扱ってほしいです。だから、やっぱり私の今日の講演の題は全然ふさわしくな
かったと思います。適当な題は「日本語教育、表記の面から見て。」という題を付けた
はずです。本当に申し訳ありません。ご静聴ありがとうございました。
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